第7話 決別の日(3)
『迷い子』
桜の不在が判明したのは朝になってからだ。
朝食の準備を終え、俺が部屋へ呼びに行ったときにはすでに姿を消していた。
ベッドは綺麗に整えられており、電話にそなえてあったメモ紙で書き置きが残されていた。
一言だけ
『探さないでください』と――。
当然、ライダーも家には残っていない。
「士郎、どういうことなの?」
遠坂は険しい視線を俺に向ける。
「俺に言われても……」
俺自身、どうしてなのか見当もつかない。
「昨日、桜の見舞いをしてから、アンタは様子がおかしかったじゃない」
できるだけ平静を装っていたが、遠坂はちゃんと気づいていたらしい。
探るように俺の瞳を覗き込んでくる。
「桜に何を言ったの?」
「いや。なにも……、なにもしてない」
そうだ。本当に何も……、何もしていない。
それが、まずかったのかもしれないが……。
「衛宮くん。何があったのか、全部聞かせてくれない?」
遠坂は正面から俺をにらみつける。こうなった時の遠坂には、嘘やごまかしは通じない。
俺は仕方なく、昨日の桜とのやり取りを正直に説明した。
「……アンタ、バカじゃないの!?」
「な、なんだよ?」
「桜がそんなことを言い出すなんて、よっぽど考えた末での事に決まってるじゃない!」
「そんなこと、急に言われてもな……」
「急にですって!? 何処までバカなのよ、アンタは! これまで気づかない方がどうかしてるわ。好きでもない男のとこに、料理なんてしにくるわけないでしょ! どうしてそこまでしてくれるのか、考えたこともないわけ!?」
「桜はここで食事をするのが楽しいからだって……」
「楽しいのはアンタがいるからに決まってるじゃないのっ! 鈍いにも程があるわよ、朴念仁っ! アンタのせいでどれだけみんなが苦労してるか、わかってんの!?」
「あ……ああ。確かに気づいてやれなかった俺が悪い。ちゃんと桜には謝るよ。俺には……セイバーがいるからって」
「…………」
遠坂が息を飲んだ。
「どうかしたのか?」
「……なんでも、……なんでもないわよ」
さっきまでの剣幕はどこへいったのか、遠坂の声はひどく小さくなっていた。
「とにかく、桜を探して連れ戻そう」
勢い込んだ俺に、遠坂は静かに指摘する。
「連れ戻して……どうするのよ?」
「どうって……放っておけないだろ。ギルガメッシュの事がなくても、桜は身体の調子が悪いみたいだし、一人にはしておけない」
「ただ連れ戻しても、桜はまた抜け出すのがオチよ。これまで通りに士郎と付き合えないもの」
「じゃあ、どうしろって言うんだ?」
「決まってるでしょ」
「なにが?」
俺の問いかけに、遠坂は苦いものでも吐き出すように、その言葉を口にした。
「桜を抱きなさい」
「な……!? 言っただろ。俺にはセイバーがいるんだ」
「だからなによ?」
「え……?」
「言われなくても、あの子だってそれぐらいわかってるわ。それでも桜は士郎に抱かれたかったのよ。アンタは深く考えずに突っぱねたみたいだけど」
「だけど、俺は……」
「悪いけど、アンタがどう思うかなんて関係ないわ」
「おい、遠坂……」
「……衛宮くん。貴方が少しでも桜を大切に思っているなら、一度だけでも、あの子の気持ちに応えてあげて。それが……桜のためだと思う。あのコがそれなりの覚悟を持って告白したのは、アンタにだってもうわかったでしょ?」
「…………」
俺は遠坂の言葉に応えることができなかった。
桜が大切な存在なのは確かだ。だが、だからといって、セイバーを愛している俺が、桜の想いに応えていいのだろうか?
セイバーは俺の視線にも気づかずに、うつむいて唇を噛んでいた。
くそっ……。
頭を振って気持ちを切り替える。
セイバーの言葉を期待するのは間違ってる。正しい答えなんてどこにも無いだろうけど、自分の意志で判断するのが、桜やセイバーに対するせめてもの誠意だろうから。
とにかく、すべては桜を探し出してからだ。それは、問題を先送りにするだけかもしれないが、桜を放っておくことなんてできない。
桜にそばにいてほしいという想いは、俺の中に確かにあるのだから……。
「それだけじゃないわ」
不意に、イリヤが口を挟む。
「それだけって……、なんのことだ?」
「サクラが出て行ったのは、シロウのことだけじゃないって言ったの」
「なんでよ? 他に理由なんてないじゃないの」
「リンは気づかなかった? サクラは聖杯なのよ」
『?』
俺と遠坂が首をひねる。
「……いや、違うだろ? 聖杯はイリヤじゃないか」
俺の言葉に遠坂がうなずいた。
「そうよね。正確にはイリヤの心臓なんでしょうけど」
「その通りよ。今回の聖杯として正式に準備されたのはね。昨日も言ったように、聖杯の器を作るのがアインツベルンの役割だもの」
「じゃあ、どうして桜が聖杯だなんて言うんだよ?」
「私にも正確なところはわからない。でも、桜が聖杯として機能していることだけは間違いないわ。その証拠にサクラはキャスターを取り込んでいるもの」
「取り込む?」
言っていることが理解できない。
「シロウ。聖杯戦争とは、聖杯を奪い合うために戦うと言われているけど、本当は順序が逆なのよ」
「逆っていうと……、戦って聖杯を手に入れるんじゃなくて、手に入れるためには戦いが必要ってことか? あまり変わりないんじゃないか?」
「聖杯という奇跡を生み出すためには、膨大な魔力が必要だわ。その材料となるのがサーヴァントの魂なの。つまり、聖杯の出現条件は、6体のサーヴァントを生け贄にして、聖杯にその魔力を吸収させた時なのよ」
「な……!?」
俺だけでなく、傍らで聞いていたセイバーも、俺と同じように驚いている。
聖杯戦争の全ては茶番にすぎない。
聖杯を得るために必要なことは、競い合うことではなく、ただ殺す――。生き残った者の価値が問われるのではなく、必要な数だけ無作為に死ねばそらだけでいいのだ。
やるべき事や得られる結果は同じものだ。だが、その真実のなんと歪なことか……。
しかし、遠坂はそれほどのショックを受けていないように見えた。
俺の視線に気づいて、遠坂が口を開く。
「まあ、なんとなく勘づいてはいたのよ。でも、どうせわたしがやることは変わらないしね」
遠坂の言葉が示すように、それは、魔術師としては当たり前の思考なのだろう。
己の目的を優先し、二次的なものを切り捨てる。それが本来の意味での魔術師なのだ。聖杯を得るという目的の前には、細かい感傷など雑事にすぎない。
「それで、どうして桜が聖杯になるわけ? イリヤの心臓でも埋め込まれたのならわかるけど」
遠坂はもの凄い例をさらっと口にする。
「似たようなものね。桜には聖杯に類するもの――たとえば、十年前の聖杯なんかが埋め込まれていると思うわ」
「そんなはずはありません。確かに私自身の手で破壊しました」
セイバーが断言する。
「聖杯そのものは破壊したかもしれないけど、器がどうなったかは確認してないんじゃない? 聖杯を失った器なんてガラクタにすぎないもの。だけど、ゾウケンはサクラの身体に埋め込んで利用することを考えたんだわ。次の――いえ、今回の聖杯戦争にそなえて」
「だけど、聖杯になることが問題なのか? イリヤの時は聖杯まで開いたけど、無事に助かったじゃないか。まあ、それ以前に倒れたりはしなかったとけど」
疑問をそのまま口にすると、遠坂は非難するように、イリヤは寂しそうに俺を見た。
「それは、私が聖杯となることを目的に造られたホムンクルスだからよ。その私でも、正しく聖杯を機能させるには、お城にある天のドレスが必要だわ」
「じゃあ、桜はどうなるわけ? 聖杯の力に呑み込まれて巨大な肉塊になったりとか……?」
遠坂が心配そうに尋ねる。
「それは、魔術回路を持たない人間の場合よ。まがりなりにも、キャスターを吸収しながらも自分を保っているんだから、サクラに聖杯としての適性があるのは確かだと思う。だけど、その精神はアンリ・マユからの浸食にさらされるんじゃないかな」
遠坂が眉をひそめる。
「アンリ・マユに? アレは聖杯に流れ込んだ力の属性に過ぎないはずでしょ?」
「違うわ。本来、聖杯の力は無色なの。あのようなモノに染め上げたのは、アベンジャー(復讐者)のせいよ」
『アベンジャー?』
俺と遠坂がハモった。またわからない話になってきた。
「まず、アンリ・マユの方から説明するわ」
拝火教で語られるアンリ・マユ(この世全ての悪)――。
小さな辺境の村でそれは起きた。
清く正しく生きようとしていた小さな村の熱心な信者達。彼等は正しいはずの自分たちにある悪意は、自分たちのものではないと考えた。つまり、全ての人間が抱く悪意が、何者かによって生み出されたのだと。
全ての悪を背負うモノが存在すれば、全ての人間は善となる。彼等はその悪を象徴する存在を、自分たちで創り上げたのだ。
そして、一人の青年が生け贄に選ばれ、人々に呪い殺された。彼こそがこの世にある全ての悪を象徴する存在、すなわち、アンリ・マユである。
「第三回の聖杯戦争で、アインツベルンはアベンジャーというクラスを準備して、アンリ・マユを召喚したわ。だけど、結果は失敗。悪であることを望まれただけの青年には、なんの力もなかった。早々に殺されたみたいだけど、問題はその後なの」
その先は想像がつく。知らずに唾を飲み込んでいた。
「聖杯はもともと願いを叶える──つまり、力の渦に方向性を与えるもの。絶対悪であれと――そういう願いを受諾してしまったわけ。つまり、聖杯に取り込まれたアベンジャーは、全人類が望むアンリ・マユ(この世全ての悪)になろうとしているのよ」
「だったら、このままだと桜は……?」
「聖杯が満たされていくほど、アンリ・マユの影響は強くなっていくわ。サクラが出て行ったのは、変わり果てる自分を見られたくないからだと思う」