第7話 決別の日(2)

 

 

  〜interlude(柳洞寺)〜

 

 

 

「虚しいものよな……」

 長い石段の上で、山門を背に侍が月を見あげる。

 キャスターが、自分のマスターとして望ましい相手だとは思ってはいない。

 彼女にとっては、現在のマスターを守ることこそが重要で、彼はそのための駒に過ぎなかった。ていのいい番犬というわけだ。

 それでも彼は、サーヴァントとして呼び出された。彼女のために戦いもした。

 しかし、この山門を依り代に召喚されているため、キャスターを守るための戦いもできず、彼女の死後もこの地にとどまっている。

 現界する時に望んだ、彼のささやかな願い。――それは、戦いであった。普通の聖杯戦争ならば、苦もなくかなえられたはずの願いがままならない。

 今となっては存在する敵は黄金のサーヴァントのみ。あの男の戦い方には、技もなく、心もなく、あるのは力によるごり押しのみである。なんと雅さに欠けることか……。

 彼が真に望む敵とは、やはりセイバーひとりであった。

 あれこそ、心技体を兼ね備えた、有数の剣士である。望みうるならば、あのような者と戦いたかった。

 だが……、それも今となってはかなわぬ夢。すでに仲間となっている彼女に、私情で斬りかかるなど、自分の矜持が許さない。

 セイバーもそのマスターも、そのまっすぐな在りようは、眺めているだけでも気持ちのいいものだった。どうして、彼等の生き様を汚す事ができよう。

 思考を追っていたアサシンの視線が下方へと向けられる。

「この寺に、なに用かな?」

 サーヴァントのような確固たる気配ではない。

 彼が察したのは、陰湿な、蛭のように粘り着く視線であった。

「敵対するつもりがないのであれば、夜空でも見あげたらどうだ? 今宵は月も綺麗だ」

「……なるほど。アサシンらしからぬ男よ」

 潜んでいた影が立ち上がる。それは闇の濃い部分が結晶化したような、昏いモノだった。

「かもしれん。だが、私がアサシンであろうと、なかろうと、我が名は佐々木小次郎――それだけの存在に過ぎぬ」

「惜しいの。これほどのサーヴァントが偽物に過ぎぬとは。できれば、おぬしを従えてみたかったものだが……」

「それは無理であろう、ご老人。どうやら、おぬしは暗すぎる」

 彼を召喚したキャスター――彼女も悲哀に満ちた生涯でありながら、それでもなお清涼たる部分があった。眼下の老人にはそのような気配が微塵もない。人の負の感情だけが凝り固まったような、端的に表すなら、全身から腐臭が漂っているようにしか思えなかった。

「おぬしが幾度試みようとも、私がその召喚に応じることはあるまいよ」

 アサシンが口にしているのは、老人に対する絶対的な拒絶だった。

 しかし、その口調はあくまでも涼やかであり、自然体は変わらない。

「だから、惜しいと言っておる。わしがサーヴァントを手に入れるためには、おぬしに死んでもらわねばならぬでな」

「ほう……」

 老人の立ち位置は10m程下だ。

 ざっ!

 小さく、アサシンの草鞋が地面を蹴った。

 着物の裾を翻してアサシンが宙を飛ぶ。一足飛びに老人に向かって、斬りかかった。

 斬っ!

 老人の左肩から、右の腰骨まで、袈裟懸けに切り捨てる。

 刀身が切り裂く肉の感触。そこに、違和感があった。

 人の身体を構成するのは、肉だけではない、筋や骨や臓腑――そういう感触が全くなかった。

 上半身を失いながらも、その両足はその場に立ち尽くしている。

 落ちた上半身は茂みを血で濡らしていた。

「さすがは佐々木小次郎。身をかわすこともできぬわ」

 かっ、かっ、かっ、と切り落とされた老人が笑う。

 苦痛など微塵も感じさせない。この老人にとって、苦痛は常に存在するものであり、己の内に存在し続けるものなのだ。いまさら、顧みるに値しない。

「物の怪の類とは」

 そうつぶやくが、アサシンの口調には毛筋ほどの怯みも感じ取れない。

「残念ながら、わしの手でおぬしを殺すわけにはいかぬ」

 老人の声もまた、先ほどとまるで変わらない。

 右腕だけで己を支え、アサシンの顔を仰ぎ見ている。

「ならば、このまま果てるがいい」

「そうもいかぬ」

 老人の言葉を無視し、アサシンの長刀が真上から突き下ろされた。

 その切っ先は、老人の額を貫き、喉を突き破り、地面を刺し穿つ。

 それでも、老人の瞳は小揺るぎもせずアサシンに向けられたままだ。

「おぬしを殺せぬ理由はただ一つ。おぬしの血肉を必要としているからよ」

 にやりと笑みを浮かべ、老人は小声で何かをつぶやく。

 小次郎は剣に生きた人間だ。魔術的な事には疎い。そうでなくとも異国の言葉で紡がれた呪を、彼が理解できるはずもなかった。

 ぞぶり!

 アサシンの腹が爆ぜた。

 その身を内側から破られたのだ。

「むう……」

 自分の腹部から、奇妙な物が生えていた。それは、己の血を絡ませた何者かの左腕であった。

 

 

  〜interlude(影)〜

 

 

 

「やれやれ、身体が痛んでしもうたわ」

 上半身だけの老人は、立ったままの下半身を這い上がる。

 もぞもぞと体表が動き、それが済んだ時には、斬られる前と変わらぬ老人の姿があった。

 不思議なことに着物すら切断面がつなぎ合わされている。

 老人の前には、アサシンの血にまみれた、新たなサーヴァントがたたずんでいる。

 いや、この場で腹を破られた小次郎は、偽りのアサシンにすぎない。今、誕生したモノこそ、真にアサシンたる存在であった。

 老人の名は、間桐臓硯。──桜や慎二の祖父として暮らしている人物であり、新たに聖杯戦争に参加することになるマスターであった。

 正面に立っている仮面のサーヴァントは、その真名をハサン・サバーハ。聖杯戦争に幾度も召喚されているものの、それらは同じ名を持つ別の個体であった。

 

 

 

 アサシンが不意に跳んだ。頭上の枝に逆さにぶら下がる。

「何を……?」

 怪訝そうに振り仰いだ臓硯に向かって、アサシンがつぶやく。

「トべ──」

「ぬ……!?」

 すでに遅かった。

 臓硯の両足がそれに取り込まれていたのだ。

 伏している小次郎の躯もまた、ずぶずぶと地面に沈んでいく。

 いや、地面に貼り付いている、黒い影が飲み込んでいるのだ。

 臓硯が延ばした手を、樹上のアサシンが左手で握り、強引に引き上げる。

 ぶちぶちと音を立てて、臓硯の二本の足が千切れた。

 足首のない両足で、臓硯は枝の上に立つ。こぼれ出す血が枝を濡らし、そこからしたたっている。

「コレハ……?」

 アサシンの眼下で、消え去る寸前だった小次郎の身体を、得体の知れない闇が補食する。

 サーヴァントを喰らう闇。正体不明の怪物が、この世に現れたようだ。

「馬鹿な……。このような物が……」

 幾人もの犠牲の元に、数百年と生き続けている臓硯が、小刻みに身体を震わせる。

 臓硯が感じ取ったのは恐怖である。

 闇に生きる臓硯が──いや、闇に生きるからこそ、さらなる闇を敏感に感じ取ってしまうのだろう。

 眼下で地面を這う影に厚みが生じた。――いや、さらに持ち上がった影は、人のような姿形を取り始める。

「──これは……?」

 

 

 

 こうして、臓硯とアサシン。さらに、謎の影が聖杯戦争に介入することとなる。

 

 

 

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