『おだわら文藝』第4号(1995年1月)

 

 

 

とんとんとんとん

 

 

「宮部さん、宮部さぁん、とんとんとんとん、うるさいですぅ。いま何時やと思てはるんどす? 夜になったら、とんとんとんとんしはって、……常識というもんがありませんのんか? 眠られへんやないの、宮部さん、宮部さん! 寝さしてください。癌の老人をいじめて何がおもしろいのんです。夜にとんとんとんとんさして。迷惑ですぅ、宮部さん。宮部さん! ………」

 またか、とぼくはゆっくりと起き上がると、眠い目をこすりながらナースステーションに向かった。安定剤でも打って平岡のばあさんに寝てもらわないとこちらの身がもたない。一週間に一度の当直の度の「とんとんとんとん」の苦情である。研修医の当直室の隣で叫ばれると、いくら病室の扉が閉じられていても飛び起きてしまう。

 当の苦情を言われている向かいの病室の宮部さんは肺癌の末期で先週から意識がなくなっており、「とんとんとんとん」どころか、物音ひとつ立てる体力もなく、弱々しげな下顎呼吸を続けている。

 声だけは元気な平岡のばあさんは乳癌の転移で胸椎骨、肋骨以外に肝臓にも飛んでしまっているターミナルである。背骨に転移したせいで三ヵ月前から寝たきりとなり、ひと月前にこのホスピス棟へ移ってきた。寝たきりであってみれば、ストレスも蓄まるだろう。夜中の絶叫は彼女の精神衛生上、仕方がないと受け入れるしかない必要悪なのだ、とぼくは考えていた。あるいは、老人性痴呆か、アルツハイマーの発症、あるいは脳にも腫瘍が転移したのかも知れないな、とぼんやりと考えてもいたのである。

 そう、肺癌の宮部さんはもちろんのこと、平岡のばあさん自身にも「故意」の罪はないのである。それでも、夜中に起こされて精神安定剤を注射する時は、つい、ぐっ、と注射針を刺し込んでしまう。一番の被害者は、むしろ平岡のばあさんかもしれないのだ。

 平岡のばあさんは昼間に会えば、小綺麗にしている京女で、西陣の老舗の御寮さんだったというから、「鴬啼かせた時もある」のだろう。今では鴬ならぬ猫を飼っていて、小型動物持ち込み可のホスピス棟を自分から希望してきたのだという。彼女の愛猫「玉菊」は日中は平岡のばあさんの足元に昼寝していることがほとんどだが、夜になると非常階段からか、外へ散歩に出掛けているようだ。玉菊もばあさんの「とんとんとんとん、うるさいですぅ」に閉口しているのだろう。二人の実の娘さんや息子さんの奥さんが入れ替わり立ち替わり詰めていて、平岡のばあさんと玉菊の世話をしていくのだが、娘さんが泊まったりする夜には「とんとんとんとん」は我慢できるのか静かなものである。もっとも、脳の病変が進めばそうした歯止めもなくなって毎日になるのだろうが。

 それが先月終わりの心配だった。今月に入ってすぐに、肺癌の宮部さんは眠るように亡くなった。

 人間とはうまくしたものである。脳の病変が進んで抑制が取れたのか身内も憚らず「とんとんとんとん、うるさいですぅ」という平岡のばあさんの夜間の叫びが連夜になった頃から、背骨の腫瘍の成長の方も進んで痛みが出てきたらしく、大きな声が出なくなった。咳をすると背中に響いて痛むのだと涙を流しているし、やはり背骨の神経に響くのか大きな声も出せないようだ。夜間の絶叫がここ一週間前から、「痛いー、痛いー、とんとんとんとん、痛いですぅ」というつぶやきに変わった。力のないささやき声で、昼も夜もなく「とんとんとんとん、痛いですぅ」である。 衰弱を早めるとわかってはいても、麻薬を使うしかないとぼくは判断した。ばあさんの様子を見ながら、モルヒネの量を加減する日々が続いた。

 こうなると哀れである。「宮部さん、宮部さん! うるさいですぅ!」と絶叫したあの怒り心頭に達した顔がうそのように、憔悴しきった真っ白の顔をしてずっと静止している。窓から雲を虚ろに見たままの「とんとんとんとん、痛いですぅ」を聞くと、さすがに何とかしてあげたいという素直な気持ちにこちらもなってくる。

 元気な時にはさんざん困らされた親でも、末期になるとたいていの家族は足繁く見舞いにやってくるようになって、お互いに「いい終末」を迎えるものだが、平岡さんの所は違っていた。入院が長引くにつれて、やってくる娘さんたちにも疲れが出てきて、まるで当番でもこなすようにばあさんと猫の身の回りの世話をするとさっさと帰ってしまう。足をさすってあげるだけでも、手を握っていてあげるだけでも、いや、横に座っていてあげるだけでも病人は心が休まるものなのだが、それだけの余裕ももうないのだろう。連日の介護と家事や育児に追いまくられていれば、いつ終わるとも知れない老親の介護に疲れを感じても止むを得ないとも言えるのだが。

 たしかに肝臓の値は悪いなりに安定しているから、差し当たっての危険はなく、今のままの状態が当分続くものと思われた。いまさらCTで脳や胸椎の状態を調べても意味がないから、このままブロンプトン・カクテルのモルヒネが効いてくれればいいな、というくらいしかぼくも考えなくなった。ほかにも末期の患者は次々と送られてくるのだ。緊急性のある問題を抱えた患者から手を打っていかなければたちどころに、現場は混乱してしまう。先のめどが立ったことで、ぼくはしばらく平岡のばあさんを優先順位の下の方に回して働いていた。

 ただ、そんなふうに家族にも医療スタッフにもちょっと軽んじられたような扱いとなってしまった平岡のばあさんにとっての救いといえば、今まで夜になると身をくらましていた玉菊が、この頃はずっとばあさんの手元や枕元にいて、ばあさんの孤独を慰めているふうに見えることだと言う。報告したナースによれば「とんとんとんとん」の間、ずっとばあさんの顔を舐めたり、手の甲を舐めている。そんな時だけ、ばあさんの厳しい顔がふっとゆるんで見えるのだと言う。

 声は小さいながら、「とんとんとんとん、痛いですぅ」がしだいに頻繁になり、あれをしてこれをしてという身内とのやりとりもしなくなり、やがて「とんとんとんとん、とんとんとんとん、とんとんとんとん」というつぶやきだけになった。

 「痛い」という言葉が消えたことで、痛みがほぼコントロールできているのだろうとぼくら医療スタッフは考えた。「痛みますか?」というぼくらの問いかけにも、目を閉じたまま、めんどくさそうに顔をしかめて「とんとんとんとん」を引っきりなしに呟くだけである。こりゃあ、ボケちゃったな、とぼくは思った。ぼくは平岡のばあさんのカルテの表紙の「乳癌、胸椎・肋骨転移、肝転移」の下に「同、脳転移の疑い」と「老人性痴呆の疑い」の診断名を書き加えた。

 母親の、あるいは姑の、あれをしてこれをしてがなくなると、娘さんたちの足はますます遠退いていった。洗濯物の受け渡しと、付添いさんへの差し入れを運ぶだけになってしまったようだ。そういう親子関係でしかなかった、ということなのだろうか。忙しくて転棟の時に一度顔を見せただけだった息子さんや孫たちもあれから顔を見せているのかどうか。商売や育児など、前向きでなければならない生活者と、もう折り返してしまって坂道をゆっくり転げ落ちていくしかない臨死者との、これはどうしようもない齟齬なのだろう。

 平岡のばあさんが亡くなったのはそれから三ヵ月後のことだった。さすがに亡くなる一週間前には、息子さんや娘さん、孫たち、町内の人々、親戚や女学校の同級生、などなど、いろんな人々が見舞いに訪れたという。それでも、平岡のばあさんは、モルヒネは中止されていて意識はしっかりしているはずなのに問いかけに応えるでもなく、窓から空の雲に目をやったまま「とんとんとんとん、とんとんとんとん」を口元に耳を寄せてやっと聞き取れるくらいの声で繰り返していたそうである。誰もが、ボケと取ったようだった。

 家族の同意が得られたので遺体の病理解剖をさせてもらった。以下は病理解剖の報告書であり、ぼくの懺悔録でもある。

原発の右乳腺部は再発の兆候なく、所属の腋窩リンパ節にも転移巣を有するリンパ節腫脹は同定されなかった。また、反対側も、……(中略)……大脳、小脳、延髄等、中枢神経系に転移性腫瘍巣は認めない。また、加齢相応を越える脳萎縮も認めない。なお、乳癌とは全く独立した病変として、左小脳橋角部に径4センチに及ぶ巨大腫瘍塊(神経鞘腫)を認める。生命予後には関わらなかったものの、頑迷な耳鳴り、眩暈、及び、持続する頭痛の原因となったものと思量する。……


 平岡のばあさんの「とんとんとんとん」は内耳に近い巨大な脳腫瘍による症状なのであった。脳転移もなく萎縮もない、しっかりした頭の平岡のばあさんは、頑固な耳鳴りと頭痛に苦しめられ、理解のない研修医に毎晩安定剤を注射されて眠らされ、家族からは同情されずに逝ってしまったのであった。

 転棟したばかりの頃、自分だけが死んでいくことへの苛立ちから夜中の叫びになったのだろう。それが、死を受け容れての心の平安を得たものの、背骨の痛みと頑固な耳鳴り、頭痛が、最後の最後まで平岡のばあさんを苦しめ続けたわけである。それが「とんとんとんとん」というささやきになった。あるいはあれが、平岡のばあさんの悟りの姿であったのではないだろうか?

 病理解剖の結果を、後日、家族に正直に報告した際、電話口の奥さんが、あっ、と言う声を上げた。そう言えば、愛猫の玉菊がばあさんの左耳をよく舐めていたそうである。その時だけ、ばあさんは気持ち良さそうな、実に幸せそうな顔をして、すっと眠れるようだった、と言うのだ。ザラザラした舌で舐められる音で、耳鳴りがマスクされたのだろう。耳鳴りが気にならなくて、他の者にやさしくされる快さの中で、ばあさんはひとときの安らぎを得ていたに違いないのだ。

 今でも、利口そうな顔の猫を見かけると、あの玉菊を思い出し、平岡のばあさんを思い出す。四六時中枕元にいて耳鳴りのうるさい耳を舐めてあげていた、あの玉菊ほどには、ぼくは平岡のばあさんに「癒し」をもたらせはしなかったのだった。

 その後しばらくの間、点滴の針がうまく入らなかったり、手術が思うようにいかなかったりした時、「どうせオレは猫以下だよ」という口癖が続いたものだった。ぼくの初めての誤診の思い出である。

 

 

 

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