『おだわら文藝』No5(1995.10月)

 

 

  

チップ

 

 

 

 

 

 学生時代、小児科での実習でこどもの泣き声に閉口していたぼくは、医師国家試験に合格すると静かでのんびりできそうな老年科に入局した。こどもは死なすとマズイけれども、老人は死ぬのが当然だから気が楽だなという気持ちもあった。

 ぼくの大学の老年科の医局はいくつかの病院や診療所を関連病院として持っていて、その老人ホームに併設された診療所もその一つだった。毎週水曜日は講師や助手といった先輩のドクターが担当したが、その他の日はぼくら研修医が交替で24時間ずつ当直室に詰めていた。それはぼくの期待どおりの暇で楽な仕事だった。血圧を計ってほしいとか血糖値の測定とかに訪れる常連さんを何人か診察してしまえば、あとは当直室のベッドで引っ繰り返ってテレビを見たり本を読んだりして翌朝9時の引継ぎまでの時間を潰せばいいのだ。外科に行った同期の連中から聞いている救急病院での当直とは違って、ここでは緊張することなど全くなかった。朝、ベッドの中ですでに冷たくなっていた、というのがたまにあるものの、脳卒中や心筋梗塞、喘息発作などの急患など滅多にあるものではなかった。

 大学の医局にいると、研究に追われている先輩たちのペースに合わせるしかなくてこんなはずじゃなかったと時々落ち込むのだが、このホームに来ると、老年科の医者とは本来こんなもの、あと数年我慢したらあとはずっとのんびりできるぞ、と思えてほっとするのだった。

 テレビと推理小説さえあれば一生退屈せずに暮らせる、中学時代からぼくはそう思っていた。親からもらった頭の良さを大事にして、大学に入るまでは「頑張って」勉強して医学部に入り、収入は世間一般よりちょっといい位でいいから楽な病院勤めをして、死ぬまでの毎日毎日をのんびりやり過ごして生きていくこと。高校時代から、それがぼくの理想の暮らしだった。高校の三年間必死に勉強したのも、たった三年を割り切って犠牲にして医学部に入ってしまえばあとは死ぬまでのんびりやれると思ったからにほかならない。

 医学部に入ってみると、同じようなことを考えている奴が多いのに呆れたものだ。ぼくはのんびりしようと考えて老年科を選んだけれど、夜中に起こされないという理由で皮膚科を選んだ奴もいたし、何もしなくていいというので精神科に入局した仙人みたいな男もいた。病人なんか見たくない、というので厚生省の役人になったのまでいた。互いに、自分はこうだけど君らは世のため人のために七十、八十まで医療に尽くして勲章もらって新聞に載せてもらえよ。そういう医者もいないと困るんだから、と勝手なことを思っていた訳である。今考えると、法学部を出た全員が裁判官や検察官になるわけじゃなくて、銀行員として金集めに狂奔したり、ヤクザの顧問弁護士として法律を裏から読んで儲けている輩も多いわけだから、医学部だけが聖域の訳はないのだ、と納得してしまうのだが。

 

 さて、毎朝一番に受診する患者は決まっていた。軽い高血圧のある64歳のドイチェ夫人である。いつも銀髪をすっきりまとめていて、日替わりのイヤリングが控えめに揺れる小さな顔は生き生きしていて知的に見える。純粋な京女だそうだが、ぼくら研修医の間では彼女をドイチェ夫人と呼んでいた。

「……そうなのよ、先生もご存じでしょ、精養亭。あたくしズッペはこの辺りだと京都の精養亭じゃないとのどを通りませんのよ。ここの料理人は魚の扱いはいいんだけれど、ズッペがへたなのよ。主人がいる時はいつも……」

 ああそうですか、ズッペねえ。精養亭ねえ。まったくあそこのは結構ですなあ、とでも言えばいいのか。食事は進みますか、とでも尋ねようものなら、ズッペは、ブルストは、クーヒェンは……と、いちいちドイツ語を振り回す。数年前に肺癌で死んだ彼女の亭主がぼくの大学の文学部名誉教授で、彼女もドイツでの生活を経験しているために名詞だけはドイツ語が操れるのだ。医者はドイツ語ができるはずと思い込んでいるのだろう。

 彼女には京都贔屓、ドイツ贔屓のほかに一流贔屓というのがあり、部屋の家具から寝具、カーテンまで大阪高麗橋の三越から取り寄せたものでなくては落ち着かないと言い、国産のぶつかったらぺしゃんこになってしまうようなちゃちな車には恐くてゆったりとは乗っていられない、と日本のタクシーの悪口を言う。ちなみに、ドイツのタクシーは全部ベンツだそうだ。

 そもそも彼女が亭主の死後に生活の場としてこのホームを選んだのは、近畿圏ではここが最も高額の「アルテスハイム」で、「違うクラッセ(階層)」と一緒になる危険がないためであり、食堂と喫茶室が都ホテルと提携していること、ホーム内の診療所が大学病院系列だから安心できること、という老後生活の三要素、つまり医・食・住の必要条件を満たしているからだと言う。

 価値判断というか生き方からすると、まあ一言で言って小憎らしいバアサンなのだが、ぼくら若い医者の間でのドイチェ夫人の評判は良かった。毎朝一番に血圧を測ってもらいに受診して、いつも帰りぎわにチップ、心付けを渡してくれるのだ。額は五百円に過ぎないが、いつもぴかぴかの五百円玉一枚で、しかも渡すタイミング、渡し方が絶妙で、まるでマジックのようにスマートなのがこのバアサンを憎めないものにしていた。そして、まだ現実のものになってはいないものの、やがては自分たちもその中に身を置けるはずの富の生活を垣間見せてくれるという意味でも、このバアサンはぼくら若い医者から愛されてさえいたのである。

 もう一人、朝一番で受診する常連がいた。こちらは「ほんまでっせ」を連発するものだから、ホンマの殿様と呼ばれていた。本名、酒井頼紀。中堅の商事会社の専務をした後、欲の無い性格で上に上がらずに監査役を二年してリタイアしたというが、名前の通りどこかの大名の末裔で元華族、学習院卒ということだ。こうした情報は看護婦のおばちゃん達がどこかから仕入れてきては、誰かに話したくてたまらないのかその都度ぼくら無抵抗な若い医者が聞き役にされるのだった。もっとも、誰かが「……らしい」と言っただけのことが、「……だそうだ」と伝わるため、後でそれがガセネタだったことが露見することも多く、ドイチェ夫人にしてもホンマの殿様にしても、死んで遺族が現われるまで正体はわからないのではあったが。

 とにかく、臨床経験を積むというよりは、いろんな人物を見て社会の仕組みの裏表、世間の常識非常識について学ぶことの方が多い貴重なバイトだった。しかも、月に四回当たるここの当直から得られるお金だけで優雅な独身生活を送れるのだから、ぼくら老年科の研修医の言い方で言えば、ドイチェ夫人もホンマの殿様も、ここの「お年寄り様」はすべて「おじいさま様、おばあさま様」なのである。

 

 さて、事件はぼくが当直明けで顔を洗っている時に露見した。シェーバーを使いながら当直日誌に「特変なし」と記入しようとしているところへ、当直のナースから電話が入った。受話器を取ると、ぼそっと、すぐにドイチェ夫人の部屋に来てほしいという。

 ドイチェ夫人の部屋に入ってまず驚いたのは、夫人の頭がいつもの美しく結い上がった銀髪ではなく、薄汚れて見える灰色の髪が薄く乗っかっているだけだったことだ。夫人は窓の横の椅子に深くもたれて座っていて、焦点を結ばないまま視線を窓の外に向けていた。普段の生気は微塵もなく、そこには乾燥し切った老婆の彫像が置いてあるようにすら見受けられた。

 あの銀髪の鬘はどこかな、と自分の目が自然に方々を探しているのに気付いて、なぜか、不謹慎な、と思ったのは今にすれば不思議である。

 そしてベッドには見覚えのある老人が目を閉じて静かに横たわっていた。ホンマの殿様である。彼には心臓に病気はなかったはずだがと無意識に思い出したのは、未婚のぼくなりに想像をたくましくしたからだろう。大学の老年科病棟でも患者同志の「夜の交際」はしばしば話題になるのである。

 ナースがまた、ぼそりと「亡くなってます。……たぶん」とぼくに伝えた。「たぶん」というのは死の判定をしていいのは医師だけだからという遠慮からで、彼が死んでしまっているのは明らかのようだった。

「三階の酒井さんです。散歩中に立ち寄ったところ急に苦しまれたのでベッドに休ませてあげたそうです」

 全く信じていないという口調でナースがそう報告した。ぼくもその説明を全く信用していないまま「ああ、そう」と答え、すっかり冷たくなっているホンマの殿様の瞳孔と脈を確認してから「午前六時二十五分……ということにしようか」とつぶやいて、ナースに目配せした。互いにややこしいことは無しにしてあっさり処理しましょう、という意味である。

 ストレッチャーを持ってくるようにナースに指示してから、ぼくは深く考えもせずにドイチェ夫人に、あとはこっちでするから休んでもらっていい、と言ったのだが、彼女のベッドは遺体が占拠しているのであった。

 

 ホンマの殿様の遺体を彼の部屋に戻してから、彫像のようだったドイチェ夫人が心配になってぼくは彼女の部屋を訪れた。ベッドはシーツも羽毛布団も除けられていてマットレスが剥出しになっている。そして驚いたことに、美しく結いあげた銀髪のドイチェ夫人はトルコ石の鮮やかなイヤリングを付けて、ぼくを迎え入れてくれたのだった。

「まあ、先生、ちょうど、今からクリニークに、と思ってましたのよ。今日はぐっすり眠れましたから、きっと高くはないはずですわ」

 夫人はそう言いながら、ぼくの白衣のポケットに五百円玉を二枚、すっと滑り落とすと、血圧を計ってほしいというようににこやかな顔で左の腕を差し出してきた。

 

 

 

 

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