『じゅん文学』No24(2000.6月)

 

 

 

点 滴

 

 

「先生、立安先生を止めてください! 立安先生が川北さんに……」

 新人ナースの紅子くんが涙ながらにナースステーションに駆け込んできた。聞けば研修医の立安センセが肝硬変で入院中の川北さんの点滴にてこずって27回も針を刺しまくっているらしい。

 立安センセは人間を見る目に問題があるのか、もしかすると実験動物と入院患者との見分けが未だについていないようである。彼が研修医として入局してきたばかりの頃、肺炎がなかなか治らない患者が三人いたのだが、医局会で「最新の抗生物質を3人それぞれに、通常量、その倍量、そのまた倍量の3通りで投与してみてはいかがでしょう?」といった提言をして教授初め先輩全員から唖然とされた要注意人物だ。

 ぼくが立ち上がるより早く、羽丹婦長が川北さんの病室へとナースステーションを飛び出して行った。ぼくもあわてて羽丹婦長のあとを追う。

 羽丹婦長は若い頃に大病をしたとかで華奢な体格なのだが、病気から立ち直って34歳で看護婦資格を取ったという気骨のある人だ。ま、もっとも忘年会などではやたらと若い医師にしなだれかかっては妖しい眼差しで「ねぇ、きょうは婦長なんて言わずにハニーって呼んでね」などと言うので、酒が入るとまったく別の人格に豹変するのでも有名だ。昨日だって転出する講師の送別会があったのだが、羽丹婦長は研修医諸君と最後の三次会のカラオケまで付き合ったらしい。

 と、しょうもないことはともかく、ぼくらは川北さんの病室へ急いだ。早くしないと川北さんの両手両足が針穴だらけになってしまうのだ。

 川北さんの病室を開けた時、一瞬、ぼくと羽丹婦長は固まってしまった。

 昼下がりの静寂な病室にはカーテン越しの柔らかい光が満ちている。部屋の中央には黄疸のために土色の顔をしている川北さんが意識混濁の状態で静かに横たわっており、ベッドサイドには大判の解剖学図録が広げられている。そして、その横には立安センセが獲物を狙うような目付きで点滴針を構えながら川北さんの腕と解剖学図録とを交互に見比べているのだった。

 この光景にぼくは解剖実習を思い出してしまった。皮膚を剥いで血管を露出させ、動脈・静脈・神経ごとにその走行を分厚い解剖学図録と照合したり、筋肉一本一本を順に剥離しては付いている骨まで辿ってそれぞれの起始と停止を確認したり……。

「放っといたら川北さんが解剖されてしまう!」とっさにそう思った。本当にそうしかねないくらい立安センセの目付きは血走って見えた。担当ナースの紅子くんによれば川北さんは意識混濁があるとはいえ、針の痛覚刺激には体をよじって反応するそうだから、変な言い方だが立派な生体である。

 刺した数だけあるのだろう、驚くほどたくさんの場所に点々とテープが貼ってあって痛々しい。27カ所も刺したというのは本当のようだ。針なんて奴はちょっと触わっただけでも飛び上がるくらい痛いのに、何ということをしてくれたんだ、こいつは!

「センセ、何してるんだ。入らないんなら代わるぞ。無理するな」

 頭からどやしつけたいのだが、患者の前ではそうもいかない。

「あっ、先生、なかなか入らないんです。入ってもすぐに漏れちゃうし、おかしな血管なのかなぁ?」

 なかなか入らない点滴針にかなり苛立っているようだ。相手が生き身の人間だとまだ気付いていない。かなりの重症である。自分の手技の拙劣さは棚に上げて、患者の血管のせいにするつもりだ。

 意識や視覚・聴覚・味覚・嗅覚は混濁していても皮膚の触覚・痛覚というのはかなりのところまで保たれているはずなのだ。立安センセのような奴等には血が赤いこと、体に触われば温かいこと、針が触れるだけでも痛いこと……といったレベルから教えなければならないのだろうか。医師教育ではなく人間教育からだ。患者も人間、医師も人間、まったく対等な関係なんだという医師としての出発点の話はそれからのことになるのだろうな。……といったことをぼくはぼんやり考えていた。

 ふと気付くと羽丹婦長が立安センセを押しのけて川北さんの上に屈み込み、その上半身を抱いて静かに涙を流している。ごめんなさいね、ごめんなさいね、ごめんなさいね………そう呟きながら川北さんの肩を繰り返し繰り返しさすっている。紅子くんもベッドサイドにしゃがみこんで頻りに川北さんの手の甲を撫でているようだ。その紅子くんの頬にも光るものが幾筋も幾筋も流れている。小さいはずの羽丹婦長の背中がとてもとても大きく見える。

 かなわないなぁ、と思う。病気を治すのは医者かもしれないが、本当に人を癒すのは医者なんかじゃなくてこうしたナースたちなんだとつくづく思う。医者はクズでもロボットでも勤まるかもしれないが、ナースは生き身の人間じゃないと勤まらないと思う。しかも人間として飛び抜けて優秀な人でなければ。ぼくは羽丹婦長や紅子くんの足下にも及ばない自分自身を改めて見出した。ふっと、涙が出た。長らく忘れていた涙だった。

 気のせいか川北さんの表情が緩んできたようだ。柔らかい陽射しの中で土色だった川北さんに生気が戻って来た気がする。針の痛みも心の痛みも和らいできたのだろうか?

 ナースステーションに戻ってから、ぼくは「クズ」の立安センセに訊ねてみた。

「センセ、いつまで自分でやるつもりだったんだ。2、3回で入らなかったら誰かを呼べよ。川北さんは痛みに反応してたんじゃないのか? 意識レベルが落ちて言葉で反応できなくてもちゃんと体は反応してたんだろう?」

「すいません、ヘタクソで。でも、針がはいんないと治療が進まないですからね」

「ヘタクソなのはいい。最初からうまい奴なんていないんだから。問題は刺される身にもなってみろってことだ。……センセは自宅からだったよな、帰ったらおふくろさんにでも点滴の練習台になってもらえよ。」

「いやぁ、先生、母は病気したことのない健康体なんですよ。点滴当番で練習してますからね。大丈夫ですよ、その内にうまくなりますよ。」

 ぼくは思いっきりの嫌味でそう言ったのだが、「母親にも平気で27回も針を刺せるのか」という皮肉は通じなかったようだ。研修医の輪番にしている病棟の点滴当番で「練習」をしていると言われてはさすがのぼくもカチンと来てしまった。

「おまえなぁ、婦長が泣いていたのわかんなかったか?」

「ええ、泣いてましたね。鬼の目にも、って奴ですね。研修医はみんなビビッてるんですよ。羽丹婦長にはこっちの未熟さが見透かされてるって感じがするじゃないですか。昨日みたいに飲む時はあんなにおもしろいおばさんなのに。……さっきだって悪気はないんでしょうけど、嫌味ですよねぇ。苦労したけれども自分で点滴を入れられた、っていう満足感がぼくらには大事なのに、若い医者を育てる気がないんだからなぁ。せっかちなのかな?」

「それじゃ、センセは血管に針が入るまで続けるつもりだったのか?」

「当然ですよ、必要だから点滴するんです。必要がある以上は成功するまで頑張るのが医師の勤めでしょう」

 う〜ん、「医師の勤め」と来たか。

「川北さんは痛がってたぞ。一回でも痛いのに、それをセンセは何回刺したんだ?」

「すいません、ヘタクソで。さぁ、何回かなぁ? 数えてませんから。だけど、先生、痛くても苦しくても、病気を治すためには我慢しなきゃいけないことがあるんです。本人が痛いからもういいって言ったって、ぼくは主治医ですからね。治す義務があるんです」

 う〜ん、今度は「治す義務」と来たか。

「センセなぁ、治すって言うけど、人はどうせ死ぬんだぜ。死ぬまでの期間は様々だけど、生きてる間の生命の質と量を掛けたものが最大になるように手助けするのが医者じゃないのか? 治すなんて言ったって、永遠の生命を与えるんならともかく、延命に過ぎないんだよ、医療は」

 治療中の生活の質だって大事じゃないか、あまり痛い思いはさせるなよ、とぼくは言いたかったのだが、立安センセはちょっと息を呑み込んでから口を開いた。

「先生、ぼくは小児喘息で何回も救急車のお世話になったんです。先生が言われた『延命』をしてもらったおかげで今のぼくがあるんです。点滴も嫌というほどされましたよ、ぼくだって。だけど……」

 立安センセはちょっと涙声になっている。彼には彼なりの医療への取り組みがあった訳だ。喘息発作の恐怖は患者自身か医療現場で喘息患者に接した者にしかわからないだろう。少年時代の立安センセがヒュゥゥゥという喘息特有の苦しげな息をしながら歯を食いしばって点滴の針に耐えている姿が思い浮かんだ。

「そうか。だけどな、喘息発作の呼吸困難でステロイドやネオフィリンを点滴するのとは訳が違うだろう。末期の肝硬変に対するたかが肝庇護剤で何も27回も刺すことはないんじゃないのか?」

「それじゃ、あの点滴は何のためなんですか? してもしなくてもいい点滴を処方された訳ですか?」

 立安センセはこう言いながらも、むきになっている自分に気付いたのか直ぐに付け加えた。

「もちろん、今後は2、3回でうまく入らなかったらどなたか先輩の先生にお願いします。ご心配をおかけしました。申し訳ありませんでした」

 う〜ん、確かに補液のためなら胃管栄養で足りている。肝庇護剤といっても効果てきめんという類の薬ではないのだから、ただ何となく点滴を漫然と続けている感がない訳ではない。必要な処方だったのかと指導医の技量あるいは現代医学の矛盾を立安センセは見抜いているし、患者の反応を評価する点で自分の足りなかったところもしっかり気付いて反省しているようだ。案外こいつはいい医者になるな、とぼくは思った。

 

 さぁて、次はどうフォローしようかと考えていると、羽丹婦長がナースステーションに戻って来た。婦長席に小さな体を沈み込ませると婦長は大きなため息をひとつついた。

「立安センセ、疲れちゃったわ、おかげで。ちょっと点滴してちょうだい、私にも」

「げっ、婦長にですか? 婦長、血管ないじゃないですか。遠慮しときますよ、ぼく」

 婦長の細い腕には見るからにすぐに漏れそうな弱々しい静脈しか見えていない。立安センセが尻込みするのも無理はなかった。それでも婦長の思いを読み取った立安センセは淡々とした表情で点滴のボトルを用意している。元来は鋭い奴なのだ。

「いいから、いいから。入るまで何回刺してもいいからね。……あ、やっぱり2回までにして。あははは。……あたし、二日酔いなのよ。水を入れて血中のアルコールを薄めないとねぇ。昨日は立安センセも結構飲んだよね?」

「婦長、それを言うならアルデハイドですよ。アルコールが壊れたアルデハイドが悪さをするんです。……婦長、痛かったら言ってくださいね?」

 立安センセは羽丹婦長の左腕を駆血帯でしばって静脈を探しながら点滴針の調整をしている。先程とはまったく違って眼差しが優しい。医師の顔になっている。羽丹婦長もにこにこして息子ほどの年齢の立安センセにすっかり左腕を預けている。立安センセも婦長もなかなかの大人のようだ。

 これで立安センセはだいじょうぶだな、ぼくは心の中でそうつぶやいた。こいつもいい医者になるだろう。……もっとも、たぶん2回とも入らないだろうけどな、とそう思ったぼくは婦長の左腕に良さそうな静脈を探しながら二人の側で控えておくことにした。何だかこちらまでが優しい顔になっていくように感じられて、ぼくはとても得をした気分になっていた。

 

 

 

 

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