2002年12月『じゅん文学』34号

 

 

続・四行半診療録余滴シリーズ

 

すべて世のため、誰のため?

 

 

 「へっ? 無しですか?……まったく?」

 二年間の研修が終わり、いよいよ甲塚先生は関連病院へ赴任することになったのだが、事務からの明細表で研修医には退職金が出ないことを知った甲塚センセは驚いたようだ。退職時には何百万とか何千万とかの退職金が出るものと思っていたらしい。

 常識で考えてもたったの二年勤続で何百万はないだろうが、常識がないのが最近の若者の常である。世間から高給と思われている医師とはいっても、ぼくが研修医の頃なんか退職金はもちろん無かったし、月々の手当さえもメダカの涙くらいだった。つまり、スズメの涙にも及ばなかったと言うことだ。それに比べれば、今どきの研修医センセたちは恵まれている。毎週のように面倒を起こしても、毎日あれだけ迷惑をかけても、常時心配を撒き散らしていても、先輩みんなに手取り足取り教えさせても、……それでもお金がもらえるんだから。

「ああ、そうだね。研修医は日雇いだからなぁ」

 ぼくがそっけなくそう答えてしまったのがいけなかったのか、甲塚センセは憮然として口をとがらせた。

「ちょっと事務に掛け合ってきます。納得行かないし。困るし……」

 ほほぉ、往生際の悪い奴だな。学校教育も家庭の躾も弱体化したおかげで、最近の若者たちは義務感はすっかり忘れているのに権利意識だけはちゃんと身に付いているようだ。もっとも黙って根に持つよりはいいんだけれども。

「坂井先生も付き合ってくださいよ。病棟医長じゃないですか」

「なんで? 病棟医長は関係ないんじゃない?」

「でも、講師じゃないですか」

「講師も関係ないと思うんだけど?」

「う〜ん、ま、先輩じゃないですか。付き合ってくださいよ、先生」

 そう来たか。いつもの馴れ馴れしい笑顔でそう甘えられると、ぼくも悪い気はしない。確かに研修医はみんなかわいい後輩たちなのである。

 

 事務長の二味さんの旅行好きは院内でも有名だ。病院事務は月の中で超多忙な時期と比較的ひまな時期がはっきりしているので、休みが取り易いのだ。彼女は毎月のようにやれイタリアのポンテベッキォだ、赤い吊り橋だ、奥三河の富国橋だと方々の橋へ出掛けている。水彩画が趣味で橋は画題にいいのだそうだ。

「まぁまぁ、坂井先生までお越しいただいて……恐縮ですわ。わたくしの方から参りましたのに」

「先ほど電話でお話した件で、……今度、転出することになった甲塚先生です」

「まぁまぁ、こちらがコーヅカ・センセ。初めてお目にかかります。この度はご栄転でおめでとうございます。まぁまぁまぁまぁ、ご立派な先生で……」

 何がご立派なのかよくわからないが、とにかくいつものにこやかな顔で甲塚センセとぼくを事務長室に迎え入れると、二味事務長はよく冷やした備前焼の器に入れた水を出してくれた。

 ちょっと甘みがあるような滋味があるような、よくわからない味だ。ぼくは健康指向という趣味は持ち合わせないので水の由緒を聞いても有り難味はわからない。所詮は水である。水は冷たければおいしい。

「先週に行ったお寺の裏山の湧き水ですのよ。帝釈天のお堂のその脇から……」

「ほほぉ、帝釈天の湧き水ですか、なるほど」

「そうなんですの、帝釈天の……」

「あのぅ、帝釈天じゃなくて、退職金の話を……」

 甲塚センセは直ぐに本題に入って欲しいようだ。よほどお金に困っているんだろうか?

「二味さん、研修医の退職金ってありませんでしたよね、昔から?」

「病院をお辞めになる時の退職一時金や功労金、特別加算金ですね。研修医の先生につきましては職員ではありませんので、残念ながらそういったものはご用意していないんですよ。申し訳ありませんねぇ」

 やっぱりね、責任者の事務長がこう言うんだから間違いはないことがわかっただろう。さあ帰ろう、と甲塚センセにチラッと目配せすると、甲塚センセはすっかり固まっている。どうするのかな?

「事務長、そこを何とか。何とかしてくださいよ」

「は? な、何とかと言われますと?」

 二味さんもぼくも驚いた。ここは国立の大学病院である。いわばお役所だ。八百屋の店先ではあるまいに、そこを何とかと言われても……。

「せめて餞別と引越代くらいは、とか」

「はぁ。職員の異動でしたら転勤旅費規定で決められた転勤旅費というものがございますけれども、研修医の先生は……。ごめんなさい」

「あんなに働いたんですよ。2日に1回は昼飯を食べ損ねるくらいだったし、週に1回は病院に泊まり込みで術後管理をしたんですよ。朝9時から始めて深夜1時半までかかった手術をした日もあったし……」

 ほほぉ、情に訴えようという作戦か。昼飯は食べ損ねても3時のおやつはしっかり食べてたよなぁ、などと野暮なことは言わないでおこうか。

「はいはいはい。それはもう、センセ、よ〜く存じておりますわよ。若い先生方は、皆さん、とてもご熱心で、それはもう本当に感心しておりますのよ、わたくし。はい」

「命の恩人だと何人もの患者さんから感謝されて、先生は働き過ぎだ。そんなに働き詰めではいつ過労死したっておかしくない、ってよく言われたんですよ、ぼく」

 誰が甲塚センセにそんなこと言ったんだ? 急性アルコール中毒で死ぬことはあっても、甲塚センセが過労死ねぇ。それに、治したのは誰かな? 術者の腕とナースチームのケアのお陰じゃないのか?

「はいはいはい。さようでございましょうねぇ。先生方には重い重〜い責任がございますものねぇ。わたくしなども忙しい時は帰りが月に何度か午前様になりますけれども、ま、わたくしは要領が悪いだけで、先生方とは違いますものねぇ。ほほほほ」

 さすがは歳の功で、言葉はやさしいが忙しいのは御互い様でしょというわけだ。ぼくもそうだが二味さんも管理職だからいくら残業しても残業手当は付かない。

 甲塚センセは二味さんの言っているホンネに気付いていないのか、更に言い募る。

「そうですよ。ぼくたち医師は重い重い責任を一日中背負って仕事をしているんです。なのに退職金が1円も出ないというのは……おかしいでしょ、事務長? 坂井先生もこれはおかしいというわけでいっしょに来てくださったわけで……」

 おいおい、ぼくを一緒にするなよ。研修医に退職金を出すのならぼくにはその百倍くらいの研修医指導手当、または医療事故予防手当、危険回避手当をもらいたいくらいだ、まったく。

「本当に尊いお仕事ですものねぇ。どんなにたいへんでも患者さんから感謝されるからできるんですよね。お金じゃありませんものねぇ」

「ええ、医師はみんな世のため人のため必死なんです!」

 おいおい、調子に乗り過ぎだ、甲塚センセ。

「本当に、当院の先生方はみなさん、世のため、患者さんのため、そして病院のためによくお働きくださる良い方ばかりで。……お金じゃありませんわよねぇ、ホントに」

 そう言って、二味さんはぼくに視線を送って寄越したが、ぼくに何か言えということか。そう言われてもなぁ。お金じゃないとは言っても、ぼくもお金は必要なんだし。

「ですから、事務長、引越代くらいは、その、何で何して、あのその」

 甲塚センセもしぶとい。飲み代が溜まって引越代も出せなくなってるんだろうか?

「は?」

「ほら、外務省とかどこのお役所にもそういう時のために使う裏金があるっていうじゃないですか、ね?」

「は? ないですよ、そんなお金! わたくしが事務長をしている限り、うちの病院の経理にやましいお金は1円だって有り得ません!」

 おおおっ、二味さんのプライドを逆なでしてしまったようだ。甲塚センセも修行が足りない。これでもう勝負はついてしまったようなものだ。甲塚センセもたじたじのようで、ぼくに視線を送ってきては何とかしてという顔だ。

 と、二味さんが先ほどまでの笑顔に戻って再びやさしい声になった。歳の功である。

「甲塚センセ、病院からは退職のお餞別は出せないんですけれども、先生がお困りなのは坂井先生がよ〜く聞いておられましたから、心配要りませんよ」

 二味さんは澄ました顔でニコニコしながらぼくの顔に視線を泳がせた。

 そ、そ、それってどういう意味? こっちに振らないでくださいよ、二味さん!

「はぁ?」と、甲塚センセは彼女の言いたいことがわからないようだ。

「お困りの時に頼りになる先輩の先生方がたくさんいらっしゃるから、若い先生たちもご安心ですわよねぇ」

 お金が無いのなら先輩に借りろというわけだ。婉曲な、しかしきっぱりとした事務方としての断りである。

「え? ぼ、ぼくは住宅ローンに子どもの教育資金に……。それにこの8月初めには3人目が生れるんですから。すご〜く貧乏なんですよ。そんな、そんな……」

 思わず声が上擦ってしまった。今年の研修医といえば、前に焼肉に連れて行ってやったら平均して5人前ずつ食べた奴等である。遠慮というものを知らない甲塚センセにたかられるのは勘弁して欲しい。

「まぁまぁ、先生、お3人目が? それはそれは、お幸せですわねぇ。おほほほ」

「幸せって、そういう話じゃなくて……。甲塚センセ、とにかく退職金が出ないのはわかったからもういいだろう。あとのことは田戸教授とも相談して、ま、悪いようにはしないから」

 ぼくはぼくで話を田戸教授に振ってしまった。

 一丁あがり、とばかりに二味さんはニコニコしてぼくたちを送ってくれる。

「そういう決まりなものですから、本当に残念ですわ。たいへんなお仕事をお願いしているのに、……でも、まぁ、お金じゃございませんものねぇ。患者さんから感謝されるのが一番ですわよねぇ。そう、何と言っても先生方は聖職でございますもの。……どうもどうもご苦労さまでございます。おほほほほほ」

 二味さんはニコニコしたまま深々と頭を下げている。これでこの話はおしまい、という意思表示だ。う〜ん、甲塚センセの完敗である。

 

 田戸教授の部屋へ相談に行ってきた甲塚センセがぼくに報告にやってきた。

「どうだった? 教授、多めの餞別をくれたんじゃない?」

 研修医思いの田戸教授のことだから、「飲み過ぎちゃダメよ」とか言いながら、赴任に必要なくらいの支度金を渡してくれたはずである。

「それが先生、医局からの餞別のほかに20万円もらったんですけど……」

「おっ、それは教授も奮発してくれたなぁ。いい教授じゃないか、なぁ甲塚センセ」

「それが……、冬のボーナスでいいわよって言われたんです。それって、返せってことですか、やはり?」

 あわわわ。さすがはおばちゃん教授である。またしても甲塚センセの負けだ。う〜ん、歳の功、恐るべし。

(了)

 

 

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