『おだわら文藝』No5(1995.10月)

 

 

  

使 命

 

 

「だったらどうして止めないんだ。君が納得できなかったら、三尖弁まで替えるのはどうしてですかって言えばいいんだ。術者が金子講師であっても、主治医は君だろう。主治医の一番大事な使命はな、……それは患者を術者から守ることなんだぞ」

 先輩の麻生先生にそう言われて、正直言ってぼくはびっくりした。僧帽弁のみの人工弁置換術の予定だった手術が、手術中、金子先生の「ついでにこれも換えとこう。どうせ時間の問題だしな」というつぶやきとともに僧帽弁と三尖弁の二弁置換になったことについて、家族への説明をどうしたものかと麻生先輩に相談した時の返事がこうだったのだ。そして、とどめは医学界の裏の事情だった。

「金子先生は秋のトロントの学会に二弁置換の演題を出してるからな、症例集めに必死なんだ。でも、そりゃあ患者にすりゃあ何の関係もない話だわな。主治医が守ってやらなきゃ、片っ端から二弁とも人工弁入れられちゃうぜ」

 研修医の立場で講師に抗議するなど思いも寄らないし、ぼくの貧弱な知識と経験では百戦錬磨の金子講師に反論されたらひとたまりもないのは明らかだ。それでも麻生先生の「主治医の一番大事な使命は患者を術者から守ること」という一言はずしりと効いた。

 処方箋書きにしてもナースへの指示にしても、研修医は指導医(助手、講師、助教授などの先輩医師)の指示どおりやっているだけで、責任のない気楽な修業時代と思ってきたが、たいへんな使命があったのである。

 この一件があってから、ぼくは受け持った患者の治療の最終責任は主治医にあるという覚悟で、勉強をするようになった。「先生、先生」とナースや患者から崇め奉られていい気になっていた宿酔状態からやっと醒めて、自力でまっすぐ歩いて行こうと考え始めたのである。

 勉強を始めると、小さな異常所見でも実にいろんな基礎疾患が疑われることがわかってきた。そして、それを一つ一つきちんと調べていけば、より正確な診断が得られ、それはより良い治療に結びついていくのだということも納得されてきた。

 こつこつやっていく以外に王道はないな。正確な診断がすべての出発点だ。この道を行けばぼくだって絶対いい医師になれるだろう。そして結果として講師、助教授、教授と昇っていくことになるだろう。

 先輩や同期の中には「教授病」に取り付かれている輩も多くて、金子講師もその典型だ。教授なんて、狙ってなるものじゃないのだ。目標ではなく、努力の結果なのだ。

 ぼくは自分の高潔な精神と勤勉さに満足してもいたから、睡眠以外のすべての時間を病棟で働き勉強することに全く苦痛も不満も持たなかった。足繁く病室を訪れては心雑音のチェックや浮腫の有無、眼底検査、呼吸機能、神経反射などなど、学生時代に習った基本に戻って所見を集め、疑われる病態を詳細に把握するべく種々の血液検査や負荷心電図、耐糖能検査、超音波検査に頭部断層撮影、他科受診依頼など、万全の医療を心掛けた。

 結果として、同期の研修医仲間や若いナースたちと一緒に飲みにいくことも減り、第三内科病棟で一目置かれるようになった。いや、同期や先輩の誤りを指摘したり不備を助言したりするものだから、羨み混じりに煙たがられるようになった、と言う方が正確かもしれない。しかし、これも仕方のないことだとぼくは割り切った。結果として教授になった先輩たちは、若い頃から誰もがそうだったというのだから、これも致し方のないことだ。ぼくは主治医としての使命のみならず、他の医師たちの規範にならなければという使命をも感じ始めていたのである。

 その日、夕食を済ませてから、ぼくは吉川カズさんの急激な衰弱の原因を突き止めようと臨床診断学の本を横に置いて、検査のオーダーを出していた。吉川さんは一週間前に動悸と軽い呼吸困難を訴えて入院してきた七十八歳の弁膜症患者である。気管支喘息の既往はあるが、この呼吸困難は肺鬱血だろうな、いや、証拠を掴むまでは、……と、ぼくは慎重に検査項目をチェックしていった。調べれば調べるほど、いろんな可能性があることがわかってくる。

 肝機能や腎機能にあまり問題がないことは初日の検査でわかっていたが、二日目に出した甲状腺機能の結果はまだ届いていなくて、三日目にした呼吸機能検査で拘束性障害があることはわかっているものの、四日目の腫瘍マーカーの結果もまだで、念のために五日目に受診してもらった婦人科のコメントでは……と、気が付くと時計はすでに午前一時を回り、準夜勤務のナースはすでに帰って、深夜勤務の二人になっている。主任の岡崎さんと新人の林くんだ。 岡崎主任は言い方がきついので、新人ナースはよく泣かされている。それでも、後輩の面倒見がいいので病棟での中心的な実力派ナースである。

 岡崎主任が巡回からナースステーションに戻ってきた。

「先生、まだやってるの? 熱心ねえ。自分の身体も大事にしないと……さあ、帰った帰った」

 カルテとテキストをにらんでいたぼくの肩をポンと叩きながら、もう帰れば、という顔だ。医者がいるとリラックスできないのかもしれない。

「あ、今帰るところですよ。……じゃ、林くん、さっき渡した吉川さんの分の伝票、頼むね。あとはまた明日にでもオーダーするから」

 ぼくは採血を林くんに頼んで、そろそろ帰って休むことにした。明日も朝八時半から胸部外科との合同カンファランスがあるのだ。ぼくは分厚いテキストを抱えると医局に戻った。着替えたり、明日のスケジュールの確認や、急に気になった調べ物をしたりして医局から出たのはすでに午前二時を過ぎていた。

 エレベーターホールの前で、昇ってくるエレベーターを待っていると、ちょうど裏側にあたるナースステーションでの話し声がかすかに聞こえてくる。厳しい口調からすると、新人の林くんがミスをして岡崎主任に注意されているようだ。ぼくはちょっと覗いてみるつもりでナースステーションの方に歩いて行った。

 すると次のような岡崎主任の声がまともに聞こえてきたのだった。

「……だったらどうして先生を止めないの。毎日三十ミリも五十ミリも採血されたら貧血にもなるし、検査であっちこっち引っ張り回されたら七十八の吉川さんがまいっちゃうの当たり前じゃない。こんなにたくさんの検査がどうしても要るんですかって言えばいいのよ。看護婦の一番大切な使命は患者さんを医者から守ることなのよ。……」

 

 

 

 

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