『羅』No1(1996.9月)

 

 

  

匙加減

 

 

 

「それってまずいんじゃないですか、もしかして?」

 送別会の二次会で偶然隣り合って飲んでいた精神科部長の小野塚先生からその話を聞いて、ぼくは絶句してしまった。

 小野塚先生は開業医をしている友人に頼まれて、その人の娘さんをずっと診てきたのだけれども、この春にその娘さんが二十一歳で自殺してしまったという。

 最初は、友人の娘さんを救えなくて精神科医としての信用を落としたことにぼくは同情していたのだが、酒のせいでか、畑違いの外科の新前医師であるぼくに気を許したのか、小野塚先生はとんでもない懺悔を始めてしまったのだった。

「お慰めの言葉もございませんが、って言って、生命保険会社の営業員が一億五千万円の金額が印字してある振込通知書を目の前に出してきたんだそうだ。開業医だからなあ、そいつのところは税務対策で家族全員の名義でけっこう高額の生命保険に入ってたんだな」

 二十代の女の人にそんな高額の生命保険を掛ける事にも驚いたけれども、生命保険に入ることが税金対策になるなどということにも世間知らずのぼくはすっかり感心してしまった。世の中をうまく渡って行くには、いろんな知恵が要るもののようだ。

「こんなものを貰うわけにはいかない、って、その時、思わず口に出てしまったとあいつは言ってたけどなあ」

「そりゃそうですよ。自殺じゃ保険金は貰えないんじゃないんですか?」

「自殺でもね、加入してから時間がたってると出るんだよ。でもね、あの娘の場合は加入から一年もたってないから、本当は出ないはずなんだ」

 確かに自殺も一種の病気と言えなくはない。なるほどなあ、生命保険会社は懐が深いな。この間の対物事故の時の損害保険会社のケチさとは大きな違いだ。

「出たんですか? どうして?」

「うーん。出たんだよなあ、それが。娘は薬物で死んだんだ。おやじの医院から血圧降下剤を持ち出して一気飲みしたって訳だよ。死ねないことも多いはずなんだが、たまたま死んじゃったんだ」

「りっぱな自殺じゃないですか。どうして保険金が出るんです?」

「うーん。出ちゃったんだ、それが。あーあ」

 小野塚先生はずいぶん「うーん」だとか「あーあ」だとか、ため息ばかりついていたが、やがて、ぽろっと真実を小さな声で呟いたのだった。

「俺が書いたんだ、死亡診断書。……昼前に病院にそいつから電話があって、すぐに娘を診てくれないかって言うんだ。ただ事じゃない様子に飛んで行ったらね、ベッドですっかり冷たくなっていたんだよ。降圧剤の包装が残ってて、状況から言っても死因は明らかだったんだがね」

「デプレ(鬱病)だったんですか?」

「ああ、良くなりかけの時期だったから、危ない時期ではあったんだがね……」

 二十一歳って、その娘、美人だったんですか? と馬鹿な質問をしそうになって、ぼくは内心で反省した。だって、美人薄命って言うじゃないか。

「耳年増じゃないが、医者の家族ってのは、医学知識の断片をいろんな機会に身に付けてるからな。ヤバイ薬だってのを知ってたんだろうな、あの娘も」

 自殺にもかかわらず保険金が下りた謎になかなか話が進まない。小野塚先生は水割りをぐいぐい空けながら、髪の毛を掻き上げたり、眼鏡を拭ったりばかりしている。

 ぼくは、はっと気付いた。友人のその開業医と共謀して死因を伏せて、保険金を不正に受け取ろうとしたのではないだろうか!?

 思わずぼくは厳しい顔になって、小野塚先生の方に体を向けていた。酔っていたのか、ちょっと舌がもつれているのが自分でもわかった。

「先生、どうしてなんです? ぼくはこう見えても口は堅い男です。本当のことを話してくれませんか。話してしまった方が先生の良心も気が楽になると思いますよ」

 すっかりパターナリズム(父性主義)が身についている。自分の父親ほどの年配の先輩医師に向かって、懺悔聴聞僧きどりの何という思い上りだろうとも思うが、日頃の患者に対する時の癖が酒の勢いで出てしまった訳だ。

「以心伝心でね、あいつは何も言わなかったけれどな、わかるんだよ。先生はまだ若いからわからんかも知れんが、子どもに自殺されるなんてたまらんよ、親ってのは。……だから、あいつは一言も頼まなかったけれど、『これは飲んでもらっていた安定剤などの副作用です。残念なことでした』って。何も言うなと振り切るように、そう言ったんだ、俺の方が先にね。あいつも奥さんも、何も言わずに涙をぽろぽろ流してな……」

「ふーん。そんなんありですか? それって、うーん、それって、やはりまずいんじゃないんですか?」

 ぼくは診断書偽造とか虚偽の記載というような医師法に触れるんじゃないかと思ったのだけれど、小野塚先生の言うのは全然違っていた。

「そんなことはない。死亡診断書なんていい加減なもんだ。高齢の著名人なんか癌なんていう病名を嫌がるんで、遺族に頼まれて老衰にしたり、心不全にしたり、あんなもん信じてはいかん」

 なるほど確かに、ぼくも一度だけ、母校の文学部名誉教授の主治医だった時、診断名は癌だったけれども死亡診断書には肺炎と書いてほしいと夫人に頼まれたことがある。肺にも転移していて、癌性胸膜炎で胸水も貯まって肺炎症状も併発していたけれども、やはり事実を曲げる訳にはいきません、とぼくは断ったのだった。結局、しばらくして部長がその死亡診断書を書くということになったから、たぶん遺族の希望に沿って処理されたのだろうと思ったことはあるのだが。

「まあ、癌保険なんてのもあるから普通の病気を癌と書いたらあとで問題になるだろうけどな、その逆はいいんだ。医者の裁量権だよ、先生」

 本当だろうか? そんなの裁量していいんだろうか? 厚生省の出している死亡統計も全然信用ができなくなってきた。

「その時はそれで良かったんだ。あいつも奥さんも随分と感謝してくれてな。葬式も普通にできたしな」

「ふーん。そういうものですか」

 割り切れない話だが、自殺は肩身の狭い死因というのが世間の現実というもののようである。ぼくは大学の専門課程四年間で自然科学者としてのトレーニングを受けてきたのだが……。本当にこんなのありでいいんだろうか?

「そこへ、例の一億五千万だよ」

「先生にも分け前があったんですか?」

 ぼくはちょっと意地悪な気分だった。

「馬鹿言え。俺はもちろん、あいつだって受け取りたくないさ。自殺が表に出なければそれでよかったんだ。金なんか腐るほどあるんだから」

「へーえ、すごい話ですね」

 腐るほどのお金はまだ見たことがない。開業医の金庫って、いったいどうなっているんだろう?

「金じゃないんだ。なのに、保険会社は薬物による事故死ということで、疾病死亡じゃなくて事故死だから五千万の特約保険金がついて一億五千万円もくれるって言うんだ。普通死亡の一億ならともかく……」

「一億でもすごいじゃないですか。マンション買って、車のローンを済まして、うーん、まだ余るな」

「俺は善意でしたんだぜ。あいつへの友情だ。あの娘の自殺を予知して防止できなかった悔いも少しはあるかな。……いや、とにかくすべては俺の善意からなんだ」

「保険金なしで自殺を世間に知られるのと、事故死で一億五千万か……。天国と地獄だなあ。匙加減って言うけど、診断書一枚ですごいことをされましたね、先生」

「……」

 いまさら、あの死亡診断書は間違いでした、などとは言い出せないのだろう。それこそ、虚偽の診断書を書いたということで処罰の対象になってしまうのだから。

 小野塚先生はすっかり滅入ってしまって、水割りのグラスに指を入れて氷を回している。

「先生、元気出してくださいよ。いいことされたんじゃないですか。みんな喜んでくれて、八方丸く納まったんだから。ものは考え様ですよ。……あっ、保険会社は損したのか。ま、生命保険会社なんてどれも大きい会社だから一億や二億はいいんじゃないですか、ね、先生」

「俺も損をしたんだ」

 ぽつりと小野塚先生はつぶやいた。

「はあ?」

 ぼくには何のことかわからなかった。分け前を貰いそこなったということだろうか、やはり? 俗人のぼくにはそうとしか思い浮かばない。

「保険金の話が出てから、どうもお互い気まずくってな、全然会ってないんだ、あいつと。やはり、知り合いの家族なんか診るもんじゃないよ。あーあ」

 以心伝心の善意の代償として、小野塚先生は三十年来の親友を失ったと言うのだった。

 なるほど、塞翁が馬ではないが人生には実に奥深いものがあるようである。

 

 

 

 

 

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