『じゅん文学』No22(1999.12月)

 

 

  

男を診たら

 

 

「でも、先生、全然眠れなくて頭痛がひどくて死にそうだって言われるんですよ。入院して調べるしかないんじゃありませんか?」

 うーん、当直研修医のこまり君の言うのはちょっとだけ正論なんだが、患者は仮病常習犯の谷長おじさんである。入院させればまた何か事件を引き起こしてくれるに決まっているのだ。

 ぼくはこまりセンセの白衣のVゾーンに見えているレモン色のブラウスの深い切れ込みとハート型の金のペンダントに目をやりながら、こまりセンセに「男の見方」というか「男性患者の診方」を教えるべきかどうか思案していた。

 いつも洒落たものを白衣の下に着ている村岡こまりセンセは深窓の令嬢ならぬ「新装の麗女医」と呼ばれていて、ここ数年の研修医の中でピカ一の美人である。残念ながら卒業と同時に結婚してしまっているのだが、恋愛経験もなく、親に勧められるままに十歳年長の生化学教室の講師と見合いをし、そのまま結婚したそうだ。一度の見合いで決めてしまったことだけでも世間ズレしていないのがわかる。ぼくの同級生の女医には独身もいるのだが、見合いを三十八回したとか、見合い写真を二百枚は見たとか、イブニング・クルーズにセットされた「医師のための出会いの……」といった類の会員制パーティーの常連になっているとか、趣味で独身生活を楽しんでいる女医も多いようだ。

 それはともかく、医師であっても女医は女医、女医の側がどう思っていようと男性患者は女医を「女」として見ているのが実際なのだが、無垢なこまり君を男性患者不信に陥らせるようで辛いし、それ以上にそうした俗なことを教育したらぼくが俗物にされてしまいそうで、それでなかなか話が進まないのだった。

 こまり君は診断学のバイブル本を開きながら、学術的にぼくに食い下がってくる。

「先生、それに血圧は下が一一八もあったんですよ。嘔気もあるし胸部不快感もあって高血圧性脳症や冠不全も考えられるんじゃありませんか?」

「そう? ぼくがさっき計った時は血圧も心電図も正常範囲だったがなあ。まあ、そういうことなら帰しちゃって何かあると困るよね、確かに。……だけどなあ、あの人はなあ」

 こまりセンセに計られると血圧が十から二十は上がるというのが病棟での男性患者の風評である。中年真っ盛りの谷長おじさんであってみれば、こまりセンセに見つめられただけで十は上がり、血圧測定で腕を取られれば更に二十は上昇したに違いないのだ。白衣性高血圧という病名があるが、ぼくは「女医性高血圧」という概念を提唱しようかと考えたことがあるくらいである。

「じゃあ、先生は死ぬほどの不眠と頭痛で苦しんでおられる患者さんに睡眠剤と鎮痛剤だけ出して帰宅させるべきだ、って言われるんですか?」

 こまりセンセの大きく見開かれた目に薄っすらと涙がにじんできている。しかし、指導医としてはやはり押さえるべきことは押さえておかなければならない。

「死ぬほどの、って、どういう根拠なの?」と、ぼくは冷静さを取り戻して指導医の顔に戻った。

「ですから最低血圧が一一八もあったし、ご本人の訴えとして、死にそうだって何度も言われるし……。本当に悲愴な顔をされてるんです」

「じゃあ、死にそうだって百回言われたら、足に棘が刺さっただけでも入院させて様子を見るの?」

「私は自覚症状のことを言ってるんです。患者本人の言うことが一番の情報だ、っていつも言われてるじゃありませんか、先生だって。……そんなに私ってバカでしょうか?」

 こまり君は涙目になっている。おいおい、そんな目でぼくを見上げるなよ。いじめてるんじゃないってば。

「いや、ゴメン。譬えが悪かったけど、医学は客観性が大事だということで……。谷長さんは肝臓外来でぼくも診てるけどね、夫婦喧嘩で居場所がなくなると入院させてくれって夜中に受診して来る常連なんでね。あ、もちろん、患者を疑ってかかっちゃいけないんだけど……」

 ウルウルした目で見上げるのは勘弁してほしい。ぼくも平凡な男なのだ。いい女に泣かれたら理性が鈍ってしまうじゃないか。

「だからね、そういうことじゃなくて、今は症状を客観的に評価してだね、それでだね……えーっと、それでだね」

 自分でも何を言おうとしていたのか忘れかかっている。こまり君の目にはすでに大粒の涙が少女漫画のようにキラキラと光っている。

「わかった。君が言うとおり、今晩一晩は入院してもらって血圧と心電図をモニターすることにしよう。じゃあ、あとは任せていいかね? 何かあったらコールしてくれていいから」

 ぼくは論理的な指導を断念し、男性患者の診方という処世術の指導も先延ばしにしてしまった。女の涙の勝利である。

 

 さて、翌朝のことである。

 当直日誌を持ってこまり君が研修医当直室から引き上げてきた。病棟医長のぼくに当直日誌を見せて概略を説明するのが研修医当直の朝一番の仕事なのだが、こまりセンセは睡眠不足で元気がないようだ。あのあとで本当に高血圧症状か心臓の症状が出て夜間にどたばたしたんだろうか? あるいは……。

「日誌です。点検をお願いします」

 こまり君は妙に硬い顔をして無言のまま昨日の日付のところを開いた日誌をぼくの前に差し出した。

 見ると、午後11時半に観察入院とした谷長さんが午前2時に「軽快退院」したことになっている。本人がもう大丈夫だからと言うんで帰したんだろうか。医学的には緊急性のある問題はもともとなかったのだから別にそれでもいいが、午前2時というのはやはり退院時間としては非常識である。

「谷長さん、どうしたの? 里心が出たのかな?」

「退院、といたしました」

 ぶすっとした顔で、言いたくない事情がありそうである。言いたくないという事であれば、ぜひとも聞きたくなるのが人情だ。谷長さんの前科から言えば、深夜勤務のナースのお尻を触ったか女性病室を覗いたか、はたまた……。

「そう。どうして?」

「入院患者として不適切な点がありましたので」

「不適切な?……ふーん、クリントン大統領みたいな?」

 にやりとしてぼくが更に尋ねると、ぼくの冗談がわかったようでこまり君はやっと笑顔を見せた。

「ちょっと注意して差し上げたら、死にそうだって頭を抱え込みながら退院して行かれましたわ」

「死ぬほど頭が痛いって? なのに退院させたの?」

 ぼくが怪訝な顔をすると、こまり君は思い出したようにフフフと笑って、おとなの女の顔になった。いつもの麗しい女医の顔ではない。

「一時間おきに血圧を測りに行ってたんですけど、計測中に胸の中に手を入れられたんですよ! それで、思いっきりカルテの角で頭を叩いて差し上げましたの。皮下か硬膜外に血腫が出来てるかも、フフフ」

 大学病院の入院カルテの表紙はかなり分厚くて角には金具が打ってある。あれで思いっきり叩かれたら相当なものだろう。頭を抱え込んで、というのが目に浮かぶようだ。

「あの方、不眠と頭痛できょうの外来を受診して来られるかもしれませんけれど、よろしくお願いいたします。痛くて眠れなかったと思いますからね、フフフフ」

 こまりセンセの胸元でハート型の金塊が守護神のようにゆったり揺れながら、優雅に光っている。

 うーん、男のぼくなんかが心配するまでもなく、女医の方々はしっかりと処世の術を身に付けて行かれるようである。だけどねぇ、仮病で病院にやってきた患者を本当の病人にして返したら洒落にもなんないんだからね、お手柔らかにお願いしますよ、こまりセンセ!

 

 

 

 

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