『じゅん文学』No21(1999.9月)

 

 

    

 

女を診たら

 

 

「先生、どうしましょう? 陰性だと思うんですけど先生も判定して下さいませんか?」

 夕食を終えて研究室でデータ整理をしていると、研修医当直の松川センセからコールが入った。

「何やってんだ? 陰性って、Rh型の話か?」

「いえ、妊娠反応ですよ。今、急患で女の人が来られたんです。下腹部痛の訴えなんです」

 問診と初歩的な検査のオーダーまでは研修医に許しているが、妊娠反応まで見るケースは今までなかった。

 ははーん、若い女の子の患者で子宮外妊娠か何かを疑ったんだな、とぼくは納得した。外妊の破裂が疑われるとすればのんきなことは言っていられない。妊娠を確認した上で産婦人科の宅直に連絡してもらわなくては。

「分かった。すぐ行く。痛みは? かなり苦しそうか?」

「いえ、だいじょうぶと思います。疝痛ではなく膨満感がすごく強いということのようなんです」

 その返事に「はぁ?」とは思ったが、とにかく時間外外来室へ向かった。外妊や卵巣嚢腫の頚捻転でなければ何だろう。先日診た若い子はきつい服でウエストを締め付けていたせいでの腹部痛だったのだが。

 外来に入ってみると、驚いたことにベッドに横になっている患者はどう若く見積もっても五十代後半、六十前だった。他に患者はいないようだ。松川センセがその患者の腹部を恐る恐る押してみながら何やらカルテに記入している。

「先生、どうしたの? 下腹部痛だって?」

 つとめて優しい口調でぼくは松川センセに声を掛けながら診察を代わった。

 教授回診で症例提示をする時のように硬い口調で説明をしてくれるのだが、聞きたいことはなかなか出てこない。こういう場合は「これまでにもこんなことはなかったですか?」と患者に聞くのが大事なことだし、妊娠反応までしておきながら、妊娠を疑った根拠がまったく示されていない。場当たり的、思い付き的、……とにかく科学者のすることではない。

「……それと圧痛点は局在していません。アッペ(虫垂炎)は考えにくいと思います。ただ正中部から左にかけて結構大きなツモール(腫瘤)が触れるんですが。妊……」

「あー、あ、そう。検査のことはあっちで見せてもらうからね」

 この患者に妊娠反応などという言葉を聞かれたらえらいことだ。閉経した女に妊娠反応をしたんじゃねぇだろうな、まさか。尿を調べるだけだから患者本人にはたぶん何も言ってないだろうが、どうやって保険請求を通す気なんだ、まったく。

 ぼくは頭からどやしつけたいのを我慢しながら、猫なで声で松川センセに腹部エコーの準備などいくつかの指示を出した。

 松川センセに代わってぼくが診察を始めると、患者はやっと安心したのか、引きつっていた顔が少しだけ穏やかになったようだ。ま、ちょっと話せばまともな医者か卵から孵ったばかりかはわかるものだ。患者の方も松川センセを適当にあしらっていたようだ。

「痛みますか、ここは? それじゃ、ここは?……」

 患者に確認しながら腹部を触れていくと、これは便秘症だな、と当たりがついた。便秘も高度なものになるとかなり厄介である。それに背景に大きな病気が隠れていることもあるので油断はできない。

「便通はどうです? 最後にお通じがあったのはいつでした?」

 ぼくがそう尋ねるのを待ってましたとばかりに、その患者は堰を切ったように便秘のことを話し始めた。松川センセはどうやらろくに話も聞かずに検査に走ったようだ。

「もう二週間ほど出ていないんですよ、先生。もともと便秘の質なんで一週間くらいは平気なんですけど、今回は野菜ばかりにしても水分をたくさん摂ってもダメでして。あー、苦しい。先生、市販の薬を飲んでコンニャクばっかり食べたりもしたんですけどやっぱりダメで、昼からは水しか飲んでないのに……あー、あー、あー、息をするのもつらくて、つらくて」

 脂汗が出ている。腹部の超音波検査をしながら、ぼくは段取りをいろいろ考えた。通常量のグリセリン浣腸くらいではどうにもならないかもしれない。困ったな。でも、まずはグリセリン浣腸から……。

「苦しそうですね。浣腸してみますね、まず。それで反応を見て次のことを考えますからね。だいじょうぶ、何とかしてあげますよ」

 ほっとした顔を見せた患者の様子からすると緊急性はなさそうである。ぼくはナースに浣腸の指示を出してから隣の検査室へ松川センセを連れて行った。

「センセ、何考えてんだ? 妙齢の女性にも妊娠反応か? 誰がそんなこと、教えた」

 単なる便秘とわかった松川センセはクシュンとしている。それでも口だけは一人前だ。

「先生が教えてくださったんじゃないですか。女を診たら妊娠を疑え、って」

「そうか。じゃ、聞くが、閉経後も妊娠することはあるのか? あの患者の最終月経はいつか聞いたのか? ひと月前か、一年前か、十年前か、え? どうなんだ」

「それは……」

 松川センセも問診が足りなかったことを悔いているようだ。これ以上苛めては逆効果である。ぼくはまた猫なで声に戻って、松川センセに便秘症に対する処置のイロハを教えた。

 こうなると殊勝でマジメな学生に戻るのだが、社会性というか二十数年間も生きて来たら当然あるはずの常識がみごとに欠落しているのが近頃の医師免許を取った「先生」たちである。

「先生、二週間も便が出ないってことあるんですか。ぼくなんか、毎朝いっぱい出ますよ」

 松川センセは嬉しそうだ。無邪気なものだ。泣いたカラスがもうすっかり大笑いしている。今年の研修医は落ち込むのも早いが回復するのはそれ以上に早い。暗くないだけ去年の奴等よりはマシだとも言えるけれど。

「あの人なぁ、食べた物を吸収し尽くすんだろうな、きっと。効率のいい消化器なんだろう、あのおばさん」

 ぼくは冗談でそう言ったのに、松川センセは「ふーん」とにこにこしながら頷いている。冗談も通じないのか、こいつらには、まったく。ぼくは少なからず徒労感を感じてしまった。トホホ、である。

 あとをナースに任せて(松川センセに、ではない)研究室に戻ってナースからの報告を待っていると、グリセリン浣腸を二回したあと、小一時間もした頃に大量のコロコロとした便が出て症状も一気に消失したと言う。

 便通を調える薬を処方するために外来に戻ると、松川センセは自分が治したような顔をして患者に便秘の予防法を得々と講義しているところだった。この一時間にテキストで調べただけの「机上の」知識である。

 ぼくにも便秘の経験はあるが、出ない時も、出た時も、あれはなかなかつらいものだ。

 ぼくの顔を見ると患者は本当に嬉しそうな顔を見せた。大センセの講義にうんざりしていたのかもしれない。便秘持ちならたいていの予防法は知っているはずなのだ。

「すっきりしましたか? 今度は早めに来てくださいね。二週間分を出すのはつらかったでしょう?」

「いやぁ、先生、助かりましたわ。ありがとうございました。本当ですねぇ、もっと早く伺うんでしたわ。でも、おかげですっかり楽になりました。……それに、まぁ、こちらの若先生も親切にいろいろと教えて下さって……」

 この患者もなかなか世事に通じているおばさんのようで、帰りがけに松川センセにも深深と礼をしている。そして、極めつけに、にこにこしている松川センセに妖しい流し目を送ると、最後の質問をこう訊ねた。

「で、若先生、わたし、やっぱり、妊娠してませんでしたか?」

 

 

 

 

 

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