送る人々

井坂ちから

 

 

 二月三日、やっと母が亡くなった。七十六歳だった。

 

 葬儀社の清水さんの低い声は聞いていて心地よい。前髪の生え際はかなり後退しているものの、たぶんまだ四十代だろう。私より少し年下と思われる清水さんは穏やかで落ち着きがあって、人柄がそのまま声の質と語り口に表れ出ている。母の亡くなった病院で紹介された葬儀社に最初に電話をした時、電話口の清水さんの声を聞いてずいぶんと安心したものだ。母の遺骸を病院から葬儀場まで搬送する車中で、母の病名や出身地のこと、これから二、三日間の天候の予想など、当たり障りのない話をしながら、背後に遺骸の存在を意識しての遺族への配慮がひしひしと感じられた。職業柄とは言え、なかなかの人物だと感心したものだ。看病で疲れ果てている遺族ならこうで、長期の看病から解放されてほっとしている遺族ならこう、そんなふうに場の風を読めるのだろう。あるいは、病名によっては感染の恐れがないかなど、確認しなければならないこともあるのかも知れない。

 家族だけで経営されているというこぢんまりした葬儀場に着いて、家族控室に案内されてから葬儀の打ち合わせがあった。母を扶養していた私が責任者だから喪主ということになる。清水さんから順々に訊ねられるままに、無宗教で、ごく内輪の肉親だけで葬儀を済ませたい、と私の希望を伝えた。八十近い齢での死去で、社会との関わりもほとんどなかった母であってみれば、静かに立ち去るのが相応しいだろう。そして、火葬では遺骨が残らないように完全に灰にしてもらいたい、とも私は彼に率直に話してみた。死はすべての終わり。命が消えたら何も残さずに消えてしまうのが潔い。それが私の考え方だ。

「そうすると、お骨は拾われないということですか?」

 清水さんはほんの一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに穏やかな表情に戻って私の胸の辺りに視線を据えて次の言葉を選んでいる。

 私は私の考え方を簡単に話した。一昨年の夏から心不全が進んで内科入院が続いていた母の状態が超低空飛行になって、主治医から遠からず終焉が訪れることを伝えられたこの年末に、私は葬儀に関する情報をノウハウ本やいくつかのホームページで調べていた。

「最近では火葬場の燃焼設備が強力になっているので完全に遺体を焼却し尽くすことができると読んだことがあります。死んだ以上はモノとしては何も残さない方が潔いと言うか、骨を残したら中途半端と言うか……」

「先ほど富山県にお墓がおありだということだったと思いますが?」

「はい、墓はあります。富山にいる兄が管理をしているはずです」

「お骨を拾われてもお納めするところはおありになる。それでも、お骨は要りませんか?」

 後半は清水さん自身に向かって問いかけるような小声になった。清水さんは私の胸の内を読もうとするように視線をまったく動かさずに私の正面に座っている。

 北陸の田舎町には先祖代々の墓がある。私が中学三年の秋に父が食道癌で亡くなり、二年後には祖母が亡くなって、骨壷が墓の下の空間に納められた場面も記憶には残っている。それでも、私は大学入学で京都に住むようになってからは一度も墓を訪れたことはない。祖母が健在だった高校二年の夏までは当然のように八月十五日には家族で墓参に行ったものだが、高校三年の夏には受験勉強に集中していた私は母の誘いをあっさりと拒否して机に向かっていたものだ。大学生になってからは、夏の帰省も交通機関の混む時期を外したこともあって、墓参という家族行事に付き合わされることもなくなった。その数年後に、地元で小学校の教諭になっていた兄が同僚と結婚する話が纏まり、相手が一人娘であったことから兄が養子として入ることになったのを機に、母は富山の家を処分して京都で私と一緒に住むようになったが、墓参は母と兄夫婦だけで行っていたようだ。だから、ここ三十年以上の間、私の普段の生活からは墓の存在は完全に忘れ去られている。

「富山から見えるお兄様とご相談されましたか? 仏様はお兄様の母上でもおありになるわけですから」

「兄は養子という形で結婚しましたので、常々、家のことはすべて私が決めればいいと言ってくれています。私がこうしたいと言えば、それに同意してくれるでしょう」

「お骨が残っては邪魔ですか? 納めるお墓もおありですが?」

「邪魔ということではなくて、ただ、まぁ、何と言うか、何も残さないのがいい、と。死に行く者が残った者の足を引っ張るのはいかがなものか、と」

 たしかに私には大学生時代をそのまま引きずって生きているところがある。論理で押しているつもりでも、全体を見渡しきれていない、と言うか、現実をより広く深い視野から考える人に出会って初めて自分の未熟さに思い到ることが今でもあるのは事実だ。実はその時も、私は清水さんから教えられることになりそうな予感があったのだが、意味もなく物わかりよく自分の意見を引っ込めるのはおかしなことと思って、この先の展開がどうなるか見てやろうと他人事のように思ってもいたのだ。

 清水さんは穏やかな目を起こして私の顔を見ると、兄の到着を待ってから決めるように提案した。

「もしもお兄さまがお骨を富山のお墓に納めてくださると言われたら、京都には何も残りません。お喪主様がお骨にこだわられないのは承知いたしました。お骨を残すも残さないも、お兄様のお気持ちのままに決めていただいてはいかがでしょう? お母様と深い関わりのあったすべての方々が心残りのない形でお母様をお送りできることが大事だとはお思いですよね?」

 そう言われれば、反論する話ではなかった。死別はそれぞれの個人の問題だ。私は私のやり方で母との死別を処理するが、兄には兄の思いがあるだろう。

 郷里で小学校の校長をしている兄の選択は「遺骨を残す」だった。奇を衒うことのない兄らしい選択だなと私は予想通りと思ったのだが、続けて、兄は教師としての経験を話してくれたのだった。

「何年かに一度は生徒の父母の葬儀に出ることがある。親を亡くした生徒が忌引があけて登校して来て話をすると、親の骨を拾った経験がとても大きなことなのがわかるんだ。私たちはともかく、若者たちにはいろんな経験をさせるのがいいんじゃないか?」

 「若者たち」とは、母の孫たちという意味だ。娘の桃にとっては人の死を経験するのは初めてだし、私の息子たちも兄の子どもたちも遺族として葬儀を経験したことはない。私は兄と清水さんに脱帽した。思えば、私自身が日頃から「私はいい。子どもたちさえ……」と、自分のことは二の次、三の次で、子どもたちのために生きているようなことを妻の美知には言っているのに、何のことはない、自分の考えだけで事を進めようとしただけのことだったと気付かされた。「自分の考え方」というこだわりも捨てて、もっと謙虚に人々の多様な考えや経験に接するのがいいのだろう。それこそ、私自身にとっても、葬儀は祖母の時以来だから三十数年ぶりになる。通夜をし火葬をし拾骨をするのは、息子たちにも桃にも、新しい貴重な経験をさせることだと私は納得し、清水さんや兄の意見に素直に従った。

 

 通夜に先立つ死化粧の場にも息子たちや桃は立ち会って、じっと祖母の遺骸の変貌を見つめていた。清拭や化粧は、まだ三十代と思える知的な面立ちの女性が担当してくれた。清水と名乗られたが、清水さんの妻かあるいは妹なのだろうか? 母は顔を濡れた綿で被われ、身体には薄い布団が掛けられた。その布団の下で遺体の体位をときどき換えながら、女性の清水さんは実に穏やかに丁寧に事を進めていく。母は、薄い布団の下に差し入れられた手で拭き清められ、生前によく着ていた訪問着に着替えさせてもらった。清拭と着替えが終わって布団が除けられ、病衣ではない艶やかな和服姿の「元の母の姿」が現れた時、立ち会った全員から「あっ」という微かな声が漏れた。そのように着替えてもらっただけでも死者への礼は尽くされたように私は感謝の念を覚えたものだ。母の身体が改めてきちんと上向きに据えられて、細かなところまで衣装を調えられてから、次には顔に丹念に化粧が施され、最後に薄く紅を差してもらった。そのすべてを四歳の桃は私の腕に掴まりながら一言も発することなく無心に見つめていた。途中で私が小声で「おばあさん、すっきりしたお顔になったね」と桃の耳元に声をかけても、彼女は何も答えずに「うん」と頷くだけで、なおも清水さんの手元を注視しているのだった。そして、死化粧をすべて終えた清水さんがにこやかな顔で穏やかに「お綺麗なお母さまでございますね。(化粧の具合はこれで)いかがでしょうか?」と私たち遺族を見渡して挨拶されてはじめて、桃は私と妻の方を向いて安心したように笑顔を見せながらつぶやいたのだった。

「おばーさん、きれいにならはったなぁ? おばーさん、うれしいなぁ?」

 死化粧をしてくれた清水さんにも、無心なわが娘にも、私は頭を深々と下げて礼を言いたい気持ちだった。老いてからはいろいろとあった母だが、早くに夫を亡くしたあとも必死で兄と私を育て上げてくれたことには、恩義を感じないわけにはいかない。清水さんも桃も、そんな母に私に代わって十分な敬意を示してくれたのだ。

 

 火葬が終わった。

「おばーさん、なんで、もやしたん?」

 最初に出た声は桃からの率直な質問だった。それまでにも、火葬場への移動の車の中や待合のホールで、死んだ人の身体はそのままだと腐ってしまうのだ、だから燃やして骨だけにしてもらうのだと答えていたのだが、骨の実体を見たことのない娘には得心がいかなかったのだろう。人の形を髣髴とさせる遺骨に接してはじめて、あの遺体が燃やされてこの遺骨になったことを了解したのだろう。

 ステンレスでできた矩形の台の上には焼き上がったばかりの白く乾いた骨が母の骨格を偲ばせるように載っていた。頭骨、背骨、上肢、下肢と、おおよその骨格が判別できる程度に、半ば崩れ半ば残って、母の骨が広げられている。もはや生々しさは微塵もなくて、焼き上がったばかりの暖気を放ちながら光を反射しない落ち着いた白色を呈している。遺骨を最初に目にした時には、大人たち一同がほっとした気持ちで穏やかな表情になったのを互いに感じたものだ。何と清潔な、清清しい姿になったのだろうと感心していたというのが大人たちの正直な感じ方だったと思う。

 心不全末期の病床での母は、人工呼吸器やいくつもの持続点滴の器械類に囲まれ、何本もの原色や灰色のコード類がはだけた胸の上を這っていた。そして、両腕や足の注射針を刺されたところがいくつもいくつも黒紫や茶色の内出血の痕になっていた。顔も浮腫と貧血などでむくんでいた。これが、兄と私が子どもの頃に自慢に思っていた美人の母の末期かと、いささか苛立ちに近い思いも死に立ち会った時には溜まっていたのだ。

 拾骨室も天井が高くて清潔な空間だった。明るい照明の下で、私も妻の美知も桃も、穏やかな表情で母の遺骨を眺めていた。前妻と住む大学生の二人の息子たちや、私の兄夫婦と彼らの長女、長男も、譬えて言えば、博物館で古代生物の骨格標本でも見るように淡々と母の遺骨に向かい合っていた。

 葬儀社の清水さんが、まず、遺骨に向かって一礼をしてから、喪主である私たち家族に拾骨のための箸を渡した。

「お渡しした箸は、一本は木で、もう一本は竹でできております。木は火に、竹は水に通じます。お骨を火と水によってあの世へとお送りするためです」

 皆が箸に目をやって、なるほどと頷いている。こうした小道具にも昔からの儀式らしい演出があるものだ。私もしげしげと木と竹で一対となっている長い箸を眺め渡した。

「おとーさん、これ、きぃとたけ、やって」

 娘の桃が私の礼服の袖を軽く引っ張りながら自慢げに教えてくれる。大人の難しい話を自分だってわかるのだという自己主張だ。四歳になってからのここ数か月、周りの大人の会話の一部を復唱して自分も大人の会話に加わろうとする。時と場合によって、可愛くもあり、うるさくもあり、美知も私も「そうだね」と微笑みながら相槌を打っては、半ば聞き流している。

  木と竹の箸で私と妻がいくつかの骨片を骨壷の中に納めた。長い箸をうまく使えない娘には、美知が手を添えて小さな骨片を持ち上げてやる。

「これ、おばーさんのほね? おばーさん、しんじゃったん? ほねになったん?」

 桃が普段の声でいつものように質問を連発する。昨日から、彼女にとって初めてのことばかりが続いている。

「お嬢ちゃん、おばあちゃんのお骨をここに入れてあげて」

 清水さんが骨壷を娘の持つ箸に近付けてくれて、桃は殊勝な面持ちで静かに骨を壷の中に入れた。

 兄と同じく小学校の校長をしている義姉はさすがに幼い子どもの扱いがうまくて、葬儀中から桃を抱いたり手遊びで遊んだり、いろいろと桃の相手をしてくれたが、この場面は血族の儀式だと遠慮しているようで、手は出さずに穏やかな笑顔を桃に向けている。私たちの箸を順に回して、兄夫婦や母の孫たちも遺骨を次々に壷の中に入れていく。

「桃ちゃん、お箸、上手にできるのねぇ。おばあさんも喜んでおられるわ」

 義姉がそう言うと、桃は「おばーさん、おそらにいはる?」と私を見上げた。義姉から昨夜か今朝に、母は亡くなって星になったか鳥になったとでも教えられたのだろう。

 義姉の手前、どうしようかとも思ったが、娘から訊ねられているのが私である以上は、私は私の考えを言うしかない。娘と話す時は私もおかしな京都弁を使う。

「おばあさんは死んじゃった。死んだら、もうおしまい。もう会えへんし、どこにもいはらへんよ」

「ふーん」

 四歳の桃には死ぬということがわからない。どう言えばわかるのか私にはわからないが、きちんとわからなくてもいいとも思っている。死とは、元には戻れない非日常のこと、知っていた人と二度と会えなくなること、それが印象に残ればいい。

「きょうの朝も死んではったやろ。お話もできないし、動けないし」

「うん。おばーさん、しなはったんやなぁ。……おそらにいはるん?」

 桃が今度は美知を見上げて母親の意見を求めようとする。これはいつものことだ。父親はこう言い、母親はこう考える。その答えが違う時、彼女なりに考えて何がしかのモノの見方、考え方を頭の中に積み上げているのだろう、と親バカの私は桃に期待している。しかし、妻の美知は違うようだ。この時期の子どもは起きていても寝ている時と同じで夢を見続けているのよ、と言う。辻褄が合わなくてもいい、明るい記憶、楽しい記憶、嬉しい記憶、そんなたくさんの思い出を作ってあげれば、それで子どもは良い子になるし、立派な人間になるのだと言う。

 桃の質問に美知はわずかに微笑みながら、そうかもねぇ、と小声で答えて、笑いを抑えたような表情で私と義姉を交互に見る。私には私の、義姉には義姉の言い方がある。それでいい、という共通の認識がこの場の大人たち全員にあるのがお互いにわかっているから、場はあくまでも穏やかで和やかだ。

 桃が今度は私を見上げるから、私はやはり私の言い方をする。何度聞かれても、私は心にないことは言えないし、桃にも事実を事実として理解する科学の目を持って欲しいと思っている。私は桃の華奢な肩に左手を置いて、右手でステンレス台の上の母の遺骨を指し示す。

「おばあさんは、ここ。ほっといたら腐ってしまうから焼いてもらった。体の中には骨があるんや。桃もここ硬いやろ。ここも骨。足にも手にも骨がいっぱいあるんや」

 桃がふと思い出したように笑顔いっぱいの表情になり、頭を振りながら踊り始めた。

「♪ほーね、ほね。ほーね、ほね。……♪」

 小さな声とは言え、こんなところで何を歌い出すのかと思ったら、子ども向けのテレビ番組でやっている歌だと妻が教えてくれた。息子たちや姪、甥が、こんな場所で笑っていいのかという複雑な顔をして、無邪気な四歳児に笑顔を向ける。清水さんも兄夫婦も声を出さずに笑っている。亡くなった母へのいい供養になる、とでも言いたげだ。

 

 いつもは実母、つまり私の前妻と住んでいる息子たちは、今は二人とも大学生になっている。母が入院してから私が声を掛けて一度だけ彼らと一緒に母を見舞ったが、普段は母とも私たち夫婦や桃とも距離のある生活だ。今回の葬儀でまるまる二日間一緒にいたが、今回が事実上は桃と息子たちの初対面になる。桃が三歳半の頃、保育園の友達の兄弟姉妹の話が普段の会話でよく出るようになった時に、桃が兄か姉を欲しいと言い出したことがあった。その時に、まったく普段の口調で、私はサラリと桃に二人の兄がいることを伝えた。

「桃ちゃんにはお兄さんが二人いるよ。もう大学生で大学の近くに住んでるから会えてないけどな」

 桃は急に嬉しくてたまらないという笑顔になって、「おにーちゃん、おにーちゃん」と、はしゃいだ。

「そうなん? ももちゃんのおにーちゃん?……ももちゃん、おにーちゃんとごはんたべたい」

 どこまで真っ当に受け止めればいいのかわからないが、ともかくも秘密など作らないことだ。幼い子どもは何事もそのままに受け容れていくのだから。

「わかった。今度、一緒にご飯に行こう。お兄ちゃんたちに都合を聞いとくわ」

 桃の生まれる前から、私と美知は、どんな話題であれ、桃から聞かれたことには何でもありのままを話して行こうと決めていた。私の左腕の障害のことも桃は何でもないことと受け容れてしまった。二歳半頃から風呂はいつも私と一緒に入ってくれて、私の背中や右腕を洗ってくれようとする。今まで会ったことのない兄たちの出現に驚いたり、今までどうして一緒じゃなかったのかと質問されるのではないかと心配したが、美知の予言どおり、兄がいたこと、しかも二人も兄がいたことが桃にはただただ嬉しいのだった。

 

 息子たちが大学に入った頃から、彼らとメールで交信する機会ができた。受験勉強一色だった生活から大学生になって、所属するボート部の遠征やスキー旅行など、何かと物入りになると彼らから私に「相談」がメールで届くようになったのだ。やがて、社会人の先輩としての私に、将来の職業選択に関する相談が混じるようになり、空白の数年間を埋めるように一気に息子たちと私との距離は縮まっていた。何かの折に息子たちにメールで、父親の再婚と彼らの妹の存在を知らせたのだが、息子たちは彼らの母親から既に聞いていたらしく、長男も次男も「それはお父さんの生活。ぼくらはぼくらだし、お父さんとの関係は今までと変わらないんでしょ?」と同じ趣旨のメールをそれぞれ返信して来て、すんなりと事実を認めてくれたのだった。秘密にして来たわけではないが、正面からきちんと伝えたことがなかったので、大人の世界を知らない彼らにどう映るか、やはり不安はあった。それで、安堵もしたし、成人した息子たちの成長に驚きもしたものだった。

 息子たちと私たち夫婦と桃の五人でホテルのバイキングを食べに行ったのは一年ほど前だが、桃は最初からすんなりと「おにーちゃん」を連発したし、最初は腰が引けた感じだった息子たちもデザートの頃には桃と手をつないで果物やケーキをテーブルに運んでくれたものだ。

 彼らにとって桃は母親の違う「妹」だが、美知は「父の妻」以外の何者でもない。美知にも息子たちにも、「互いに選び合った人間関係じゃないから他人だし、他人でいい。ただ、将来、相続ということがある以上はそれなりのいい関係を持っていて欲しい」と私は話している。美知は「夫の息子たち」というよりは、「桃のお兄ちゃんたち」として息子たちと大事に付き合って行きたいと言う。たしかに、もう二人とも成人していて、私の息子と言うよりは大人として対等に話ができる存在になりつつあるようだ。

 

 骨壷に溢れるくらいに母の骨が積み上がった。清水さんが隙間なく詰めるように素手で骨を寄せて整理して上の面を平らにすると、ステンレス台の隅に最初から残してあった「のど仏の骨」を一番上に載せた。

「よくご覧になってください。仏さまの形をしておられます」

 清水さんは参列者一人一人に母の遺骨をしっかりと見せてから、私に骨壷の蓋をするように勧めた。清水さんが骨壷を布で包み、西陣織で飾られた箱に納めると、それを私に渡した。私は右腕でしっかり抱え込むと力の入らない左腕をそっと骨壷に添えた。軽かった。これが今の母の重みだった。生きている時は、あんなにも重く鬱陶しく感じられた母だったが、今は乾いて明るく軽やかだ。不思議だが、両肩から本当に重荷が下りたように身体の隅々までがとても楽に動く気がする。

「ももちゃんも、もつ」

 桃が母の遺骨を持ってくれると言う。左腕に障害のある私を手伝おうと桃なりに考えて、普段から口を出し手を出してくれるのだが、さすがに幼い娘に骨壷を持たせるわけにはいかない。骨壷が落ちて白骨が床に散らばるシーンを想像して、私は苦笑を抑えながら顔を横に振って「それはダメ」というサインを桃に送った。せっかく母の存在から解放されたのだ。もうこれ以上、母に迷惑を掛けられるのは勘弁してもらいたいものだ。

 遺骨を家に置いてから、二日間を一緒にした全員で食事をして母の葬儀は無事に終了した。主だった親戚へは電話で連絡をして息子たちだけでの密葬とすることの了解はもらっていたが、喪主である私から改めて死亡通知を郵送することにし、富山県内に住む叔父・伯母・叔母たちには兄が訪問してくれることになった。

 

 三月の初めに郷里の墓へ納骨に行った。郷里に住む兄が納骨の段取りを手配してくれていて、京都からの私たち五人は兄夫婦の運転する二台の車で墓地に向かった。兄が頼んであった僧侶の読経のあと、大学生の息子たちが墓の手前の墓石を取り外してくれた。私と兄がひざまずいて、母の骨壷を墓の中深くに納める様を娘はやはりじっと見ていた。

「おばーさんのおうち?」

 昨夜、妻が娘に遺骨を墓に入れることを「おばあさんを骨のおうちにいれてあげる」と教えていた。桃は骨ばかりのお家はどんなものだろうと想像(空想)していたようだが、現物を見るまでは納得できなかったのだろう。実物が骨ではなく石でできていて、骨壷を納めた空間が暗く冷え冷えとしていたのが気に入らないようだ。

「ふーん、おばーさん、さみしいなぁ」とつぶやいて、桃は空を見上げた。

「おばーさん、みてはる?」と私と妻に聞く。

 妻が、「ほねは骨のおうちに」、「たましいはお空に」と教えたらしい。たましいが何かはわからないままに、まだ小寒い空を見上げながら、「おばーさん、ももちゃんのこと、みてはる?」と無邪気に妻に聞く。実にいい顔だ。生きている間はマイペースを通した困った人だったが、母は死んで初めて、いろいろなことを孫娘に教えてくれたなぁ、と妙なことを思って私の顔にも笑いが生じる。そして、娘が「たましいって、なに?」と聞いてきたらどう答えようかと心配し始めている自分に気付いて笑ってしまう。

 

 と、急にまじめな顔になって桃が私の顔を見つめた。

「おとーさん、いつ、しぬん?」

 昨夜、人は老人になったら順番に亡くなるものなのだと桃に話したのだが、桃の身近にいる人の中で彼女の祖母の次に年長なのはこの私なのだった。意外な質問に、私が何も返せないでいると、

「おとーさん、しんだら、いやや」

 そう言うと、桃の両目の端から大粒の涙が次から次から溢れ落ちて来た。こんなにもたくさんの涙がいったいどこから溢れ出て来たものか。

「おとーさん、しんだら、ももちゃん、いやや」

 泣き騒ぐのではなく、私を直視しながら静かにきっぱりと話し、大粒の涙を流し続ける娘を前にして、私は不覚の涙を抑えきれなかった。思えば、母が亡くなってから今まで一度も涙は出なかった。私は単に葬儀の進行に乗っていただけだったのだ。しかし、桃は彼女の祖母をしっかりと送り、死とは何かを学び取ったのだった。

「お父さんは死なないよ。まだまだ、死なないよ」

 私はうずくまって桃を右腕で抱きしめた。美知も兄夫婦も息子たちも、何といい顔を見せてくれているのだろう。皆が穏やかな笑顔で私と桃を見守ってくれている。

「そうだ、おとうさんはまだまだ死なない。……次は富山のおじさんの番だから」

 私は兄に目を向けて苦し紛れの冗談を言うと、美知が渡してくれたハンカチで、まず自分の目を拭い、それから桃の涙を拭いてやった。そして、まだまだ死んだりするものかと自分に言い聞かせた。この桃が成人するまでは何としても生きていたいと思った。そして同時に、母から私へ、私から桃へと繋がる血縁というものを私は感じた。その時になって初めて、私は素直に母に感謝する気持ちになれたのだった。  

                (了)

 *文中の「♪ほーね、ほね。……」は『ほねほねワルツ』(秋元 康・作詞)からの引用です。

 

 

 

 

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