『季刊作家』No1(1992.3月)

 

 

  

送り火

 

 一、

 

 よく冷えたビールを、冷凍庫に入れて冷やしてあった薄手のコップにゆっくり注ぎながら、石見雅彦は台所に立っている妻の律子に先程から言おうかどうしようかと考えあぐねていたことを、ぽつりと口に出した。

「きょう、帰りにあの人の幽霊を見たよ」

「幽霊って、……亡くなりはったん? そんな話、わたし聞いてないわよ」

「全部が全部、ぼくが聞いたことを君に話してる訳ないじゃないか。まあ、あの人が死んだなんて話はぼくも聞いてないけどな」

「何、それ。死んでもないのに幽霊はないでしょう。それに、いつからあなた霊魂の存在を信じるようになったん。人間なんて自己保存のための反射運動で動いてるだけなんと違うの? アメーバといっしょなんでしょ、ヒトも」

 雅彦より二歳年上の律子は、外では自分の夫が医師で、しかも医学部としては三十五歳という若さでK大の講師であることを、口には出さないまでも誇りに思っている。そのくせ家の中では、雅彦に対して、人間を生物としか見ない医師の見方をからかうことがよくある。

 律子は生まれも育ちも大阪で、O大薬学部の大学院まで出ている。結婚後も子供ができるまでは、大阪市の郊外にある大手製薬会社の研究所に研究員として勤めていた。それが、上の子の遥人が生まれると、育児も重要なやりがいのある仕事、と宣言して律子は研究所を辞めて家庭に入った。しかし、大脳皮質にはやはり刺激が欲しいと見えて、子供たちが七歳と四歳になりしっかりしてきた最近では、薬学の知識を生かして無農薬野菜やセッケンの普及運動に取り組んでいる。さらに今では、留学生相手の里親ボランティアになったり、上の子が通っている小学校のPTAにまで顔を出し始めていた。

 それでも、所帯染みたりするでもなく、運動家的な思い込みの頑なさを人に感じさせることもないのは、やはり、知性に裏付けられている強さであった。雅彦も、こうした律子の行動力と知識欲には、一目も二目も置かざるを得なかった。

「実はな、これで二度目なんだ。前も川端通りの胸部疾患研究所の角の所なんだ。……身長が百六十くらいで、髪は肩までのストレートだった。あっ、と思って車をすぐ脇に止めて探すともう消えている。あの方角だと、普通の歩行者だったらまだ姿が追えるはずなんだ」

「いややね。足はあったん、それ?」

 律子は、真面目に話している雅彦の顔がさもおかしいという目をして聞いている。

「暗くてよくはわからないんだ、顔とか細かい所は。でも、あの歩き方、足の運び方、髪の揺れ方は彼女のものだった」

「前はいつ?」

「七月終わりだった。半月ぐらい前。小雨が降っていた。オレンジ色の傘に、袖のない白っぽい淡いワンピースを着ていた」

「きょうは? 同じやった?」

「いや、きょうは緑色で、……膝より少し短いスカートで古いデザインの服だったような気がする。暗かったし、前髪が長くって顔が見えないんだ」

 雅彦は、先ほど帰りの車の窓から見た「あの人」の姿を頭の中から搾り出そうとするように、両手で目を強く押さえた。眼球の奥の動脈の拍動が指先に感じられる。

 雅彦は目蓋を強く押し続けながら、眼球の奥の量感のある暗闇にあの人の幻が像を結んで来ないかと待った。しかし、あの人の幻も、学生時代の面影さえ浮かび上がっては来ない。ただ漆黒の宇宙の中を、時に血の色の火花が飛び交うばかりで、意味のある形は現われて来なかった。

「誰か、似た女の人やったんと違うのん? 夜目遠目って言うし。いつもあの人のことばっかり考えてるからそう見えるんやんか」

「馬鹿言うなよ。彼女のことなんか君と結婚してから思い出したことさえないんだ。からかうなよ、ぼくはまじめだ」

「ほんとに幽霊?」

「そう言われると、彼女に似た女の人が歩いていただけなんだろうな。だけど、ぼくには、あの人の霊としか思えなかった。胸にドキンと来たんだ。……この感じは当たるんだ。だから黙っていられなかったんだ。誰かに話して気持ちを軽くしたかった。そう、初めて君の見合い写真を見た時もドキンと来た。ぼくの勘は必ず当たる」

「もう。冗談やの、本気やの。こっちは真面目に聞いてあげてるのに」

「まあ、また遇うだろう。今度は追い掛けて確かめとくよ」

「いややね、だいじょうぶ」

 雅彦は、律子にはそう言ったものの、やはり、あれは麻衣子だったと思っている。

 あのドキンという感じは本物だった。自分の中にはもうひとりの自分がいて、これまでも様々な節目で自分に決断のきっかけを教えてくれているのだ。大学受験もそうだったし、麻衣子との出会いも律子との結婚も、いつも、ドキンと胸の中でもうひとりの自分がOKのサインを送ってくれたのだ。自分の思うように事が進んだ時にはいつも、その前にこのドキンという感じがあった。

 それが、デ・ジャ・ヴ既視感というものに過ぎないらしいと大学の一般教養の講義で聴いて知った後も、雅彦はそのドキンと来る直感を大切にして来た。自分はどこか回りの連中とは違った、もうひとつの感覚を持っているのではないかと密かに思って来たのだ。その感じが外れたことは今まで一度もなかった。

 ……二度にわたって現われたのは、何だったのだろう。霊と言っても、それは、それを見た者の無意識の希求がそういった形を取って現われた幻視に過ぎないものだろう。ならば、いったいおれにどんな欲求が隠れているというのか? 霊魂などではないとしても、おれに麻衣子の幻影は何を伝えたかったのか。十三年ぶりに不意に現われて、麻衣子は一体、何を……

 

 今から十数年前、雅彦が坂口麻衣子と出会ったのは、大学のサークルでであった。四歳の時からヴァイオリンをしている雅彦も高校時代にフルートを始めた麻衣子も、大学入学と同時に大学のオーケストラに入った。東大路に面したオケのボックスから、吉田山の南側にある下宿への帰り道が同じ方向であったこともあって、二人はすぐに親しくなった。二人とも、まだ十八歳であった。

 中学高校と一貫教育で知られる私立の進学校で十代の六年間を送り、同年の異性をガラス越しにしか見て来なかった雅彦にとって、麻衣子は小説や映画を通して思い描いてきた「女」という、男とはまったく異なる生き物の顕現であった。

 今まで読んだり見たり聞いたりしていただけの時は、女という生き物の姿やしぐさ、声を頭の中に思い描くことはできても、その体温までを感じることはなかった。それが今、麻衣子の声にも、フルートを吹く時の細い指の動きにも、肩にわずかに掛かる手入れの良い艶々とした髪の揺らぎにも、生き身の女の温もりがあった。

 習慣となっている朝の三十分間のヴァイオリン独習の時も、麻衣子の息吹が、旋律に乗って雅彦の耳から入って来るようだった。麻衣子と時空を共有しているという思いが、彼の脳を震わせ、彼の出すヴァイオリンの音色を豊かに膨らました。今までは譜面をなぞっていたに過ぎなかった自分の作り出す音に、今初めて魂が込められたのだ、と雅彦は麻衣子に感謝した。

 彼女と離れている時ですら、自分を取り巻くすべてを麻衣子と共有していると確信できることで、生活は血の通った暖かみのあるものに変わっていった。

 そうした「女」という異性の体温の温もりを精神的に感じる中で、雅彦は彼の十代を取り戻し、一気に駈け抜けたのだった。

 やがて気が付くと二人とも二十歳になり、現在から未来、つまり近い将来二人はどうしていくのかを、漠然とながらも二人はそれぞれが考え始めた。二人の関係が、大人の男と女の関係を伴うものになったのもその頃からだった。唇や指で互いの身体を確かめ合うばかりだった二人が、残された一つの仕切りを乗り越えたのは、一月初めの麻衣子の二十一歳の誕生日だった。

 それからというもの毎日のように二人は、五階建ての最上階にあってそこだけ隔離されているような雅彦の部屋で、暖房を強めに効かせては生まれたままに近い姿で抱き合っていた。昼も夜も二人とも、初めて知った、自分とは異なる体をおもちゃにする遊びに夢中になっていた。

 

 あれはまだ肌寒い三月だった。そんな遊びにも飽き、淫らな海を共犯者のように二人で漂うだけだった時期が過ぎて、そろそろ海の向こうに落ち着く先を探さなければ、と感じ始めていた頃だ。

 週末に雅彦は病理学実習のプレパラートを借り出して、下宿でテキストと照合させながら顕微鏡を覗いていた。夕暮に街が落ち着いてくる頃に、いつものように麻衣子はやって来た。

「また? また試験があるの?」

「これ? これは趣味、じゃなくて、自習してんだよ。試問はまだまだ先だけど、帰って見ないとゆっくり見れなくてね」

 麻衣子は机の上の双眼の顕微鏡を珍しそうに眺めながら、木製のプレパラート・ケースの蓋の裏に貼ってある標本の一覧表を読み出した。

「……卵巣、卵管、……へぇ、胎児って、赤ちゃんのもあるの。本当の人間の?」

「そりゃそうだよ。ほら、ヒト胎児第十一週とか……」

「顔もあるの?」

「あるよ。十一週だからまだこんなに小さいし、全身の矢状断の切片だったと思うけどな……見てみる?」

「いや。顔があるのはいや」

「矢状断……真っ二つに、こう切った断面だから、顔なんてわかんないよ。恐くなんかないよ。可愛いもんだ」

 雅彦は一覧表で標本番号を確かめると、標本ケースにぎっしり立てて並んでいるプレパラートの中からそのプレパラートを抜き出した。産院から、堕胎したものを貰ってきて標本にするという話だった。数ミリの心臓も脊椎になる組織も出来上がっていて、それはもう立派なヒトのミニチュアであった。ただ顔の部分は標本が悪くてささくれており、どのような表情も読み取れない。

「恐くないって。覗いてみなよ」

 麻衣子はそれでもこわごわ顕微鏡の接眼レンズに目を付けた。雅彦は横から拡大の倍率を一番低くして全体が一つの視野で見えるようにすると、麻衣子の横顔に見入った。左手の指で髪が落ちてこないようにしながら、麻衣子は慣れない双眼顕微鏡を覗き込んでいる。

「ああ、眼と眼の間の距離を合わせないと見にくいだろう。片方の眼だけで見たら?」

「うん、これの方が見易いわ。……本当、内臓も人間の形をしてる。こんなのばっかり見てて恐くならない? これ全部死んだ人の身体の一部なんでしょう?」

「麻衣子は肉屋へ行かないのか? 一緒だよ、死んだ牛も死んだヒトもね」

「これはいや。やっぱり、人間の形してるのって恐くなってくる」

 麻衣子が顕微鏡から顔を起こしたとき、横から雅彦は麻衣子の白く薄い耳をそっと噛んだ。麻衣子の香水が強く匂った。

「……もう、せっかちなんだから。こないだ言ってた荻野式ではきょうは危険なのよ。あれ用意してあるの?」

 部屋の灯りを消すと、消し忘れた顕微鏡の鋭い明かりがその周囲を眩しく照らしていた。ぼんやり照らし出されている部屋の東側の壁は、二つの本棚で占められている。その本棚には専門書が並び、最上段には楽譜の束と黒いヴァイオリン・ケースが置いてある。その横のグレーのカーテンには、突き刺さるように隣のビルの影が鋭角を作って差して、その窓からは下の坂道を通る車の音が微かに聞こえてくる。

 麻衣子に避妊をするように言われたのに、雅彦はその日、意地になって、それを着けずに麻衣子の身体に分け入った。さすがに間際になって、膣外射精をしたものの、時々雅彦はそんな無茶をしてしまう。自分なりに、きょうは大丈夫、という予感がするのだが、もちろん医学的な裏付けがある訳でもなかった。ただ、麻衣子と自分だけの二人だけの狂ったような行為の間に、避妊のためという賢しげな行為を挟み込むのが不快なのだ。

「もう、お馬鹿さんねえ。シーツが濡れちゃって……」

「いいじゃないか。ぼくが洗うんだし」

「そんなこと言ってない。自分だけ気持良くなって、それでおしまい? ずるい。それに、妊娠したらって考えないの?」

 麻衣子は目は笑っているが、言葉にはいい加減な返事では許さないという気迫が篭もっている。顕微鏡の光りに照らされて、麻衣子の表情は鋭く見える。

「対等じゃないって?」

「そんなことじゃないの。……私は雅彦のマスターベイションの道具じゃないってこと。ひとりの人間ですよってこと」

「そんなこと当たり前じゃないか。誰でもいい訳ないさ、麻衣子だから抱く気になるんだし……」

 雅彦は自分の立場から離れてものを言うことがなかった。他人の目で自分を見るということがなかった。常に、自分はどうしたいのかがあって、その対象としての他人があるばかりだった。自分は平気で他人の領域に踏み込んでいながら、人には高い壁を作って自分を囲っていることに自分でも気付いていなかった。

「ねぇ、もう十日ほど遅れてるんだけど、どうしたらいいと思う?」

「えっ、ど、どうって、そんな訳ないじゃないか」

「本当なのよ。ねえ、どうしよう?」

「嘘だろう? そんなはずないって。もうじき始まるって。もともと不順だって言ってたじゃないか。……いつ? そんなぁ、そんなことしてないだろう、ねぇ」

「答えて。私はどうしたらいいと雅彦は考えるのか」

「そんなぁ……病院に行くのか?」

 麻衣子は悲しい目をして待っている。

 麻衣子の悲しみは自分自身の身体の変調によるのではなく、そんな麻衣子の身体のことよりも自分の立場を心配し出した雅彦の弱さが不安なのだ。そして、そんな雅彦と既に深い関係になり、やがては医師になる人、と計算している自分自身の打算が麻衣子には悲しいのだろう。

 雅彦にはそうした麻衣子の胸の内が想像できるものの、彼はすべて自分に都合のいいように事が進むはずという、長らく培ってきた優等生気質の中で、もう自分を甘やかし始めていた。

「大丈夫だとは思うけど、病院に行ってみたら。確か、尿の簡単な検査だけでわかるはずだから」

「一人で?」

「……二人で行くの? どうして? 二人の方が恥ずかしいだろう、ああいう所は」

「そう、わかったわ。もし明日なければ、病院に行きます」

「うん」

 麻衣子に見据えられながら、雅彦は今のはきっと嘘だ、と思い始めていた。おそらくは二、三日してから、やっぱり有ったと麻衣子は言ってくるだろう。結婚の方へ話が行くかと思って出した嘘だったのだろう、と。

 雅彦は、麻衣子が自分たちの目の前にレールを敷き出したことを不快に感じた。麻衣子の気持ちはわかるが、自分はまだ学生であり、どのようなものであれ、今から決められた道を行く考えなど全くないのだ。

 

 それからの半年ほどというものは、麻衣子によって二人の関係が次第に世間の中へ引き込まれそうになっていく感じが雅彦には見え隠れした。それが時に雅彦を戸惑わせ、苛立たせた。

 それからだろうか。麻衣子は自分の選んだ引き返せない道が、最初思ったほど堅牢なものではなく、繊細ではあるが脆い一面の潜んでいることを意識し始めたようだった。

 当時の雅彦は麻衣子のそうした心の変化に気付いてはいても、結局は自分の意のままに、ことが進んでいくものと信じて疑ってはいなかった。

 冬が終わり、春に向かって街路樹はどの枝にも緑の芽が脹らんでいた。二人は四回生になり、文学部の仏文に進んでいた麻衣子の卒業が近くなると、適齢期という言葉がまわりから麻衣子に浴びせられ始めた。オケの練習のあと、みんなで飲みに行ってそんな話になると、麻衣子が救いを求めるような淋しい笑顔を雅彦に向けることが度々あったはずだった。そんな時、雅彦はそれを受け止めるでもなく拒絶するでもなく、弱々しく、困ったねという目でしか彼女に答えてやらなかったのだった。

 あの頃、医学部の雅彦は専門課程に進んで二年目に入っていた。ホルマリン固定された死体による解剖実習や生理学のウサギを使った実験がほぼ終わり、まわりの同級生たちのほとんどは、いわば医師になる覚悟を固めつつある雰囲気であった。

 そうした中で、十人ほどはまだまだ学生生活を楽しむことに浸り切っていた。学生生活を謳歌しようという自覚はなかったが、雅彦自身もそうしたモラトリアムの中に足踏みしている一人であった。

 学部の講義や実習は要領よくこなしながらも、オケのボックスで秋の定期演奏会に向けて深夜まで楽譜に向かったり、全体練習が退けたあと、雅彦の下宿で、むさぼるように麻衣子とじゃれあうような性の遊びを繰り返したりする日常が雅彦の生活であった。

 医師になるための準備に取られる時間は必要悪であり、止むを得ずこなしているノルマにほかならなかった。医師国家試験はまわりに合わせていれば合格するに決まっていた。医師になれるかどうかなどという不安はなかった。その試験に通ることイコール医師になるということであった。

 そうした理解の単純化、図式化が、当時平気で自分の頭の中で行なわれたのは、男子ばかりの進学校に六年間もいて、人間の体温から隔離されて来たためではないかと雅彦は思う。そして逆に、麻衣子との関係をどうしていくのかといった、相互に働き合うために単純化しにくい事柄の処理については、逃げるようにただただ先送りにしようとしていた。

 当時、麻衣子との関係に何らかのけじめを付けなければならないという周囲の気配を、誰よりも敏感に感じ取っていたのは雅彦自身だった。麻衣子はすでに雅彦との関係をどういう形で収束するか決めてしまっていたのは明らかだったし、彼女の方は待つだけだったのだ。

 ……自分が決めなければならない。しかし、自分をどうするかさえ決めていないのに、突き詰めればやはり他人でしかあり得ない麻衣子という一つの人格を、どうして責任を持って受け止められるというのだろう。独立した一つの人格として麻衣子のことを大切に考えるからこそ、今、自分ははっきりと答えてはやれないのだ、と雅彦は思っていた。

 それが、自分自身では何事も決めたくはない、いざとなったら人のせいにできるように、という無意識の狡さ、保身を図る態度から出たものだという自覚は彼にはなかった。

 

 麻衣子との別れは突然だった。いや、それはあの三月の日から少しずつ用意されてきたものだったのかもしれない。雅彦の意志的な逃げの姿勢と、麻衣子の当然と言えば当然な進路選択との軋轢が高まってきて、とうとう歯車の咬合が、ふっと外れてしまったようだった。

 それはもう十三年前の夏になる。

 八月十六日の大文字送り火の日だった。京都に来てから四度目の大文字を、今年も麻衣子と二人で、御所の北にあるホテルの最上階のラウンジから眺めるはずだった。

 そのホテルの総支配人の高校二年になる息子の家庭教師を、その子の中学の頃からしている雅彦は、例年、買えば結構な値段になるはずのディナー付きの送り火観覧券を二枚、お中元といって贈られていた。

 昼間の陽射しがやや衰えた六時前に、麻衣子は雅彦の下宿にやって来た。おとなしい色の好きな麻衣子には珍しい、花柄を散らした麻の白いワンピースにつばの広い帽子を被っている。

 雅彦は、大学入学時に利殖も兼ねて彼の父親が買った2Kの単身者用マンションに住んでいた。吉田山の西南側斜面に建つ五階建ての最上階にある雅彦の部屋からは、遠くに妙法の一部が見えるだけで、鳥居や船形、如意ヶ嶽の大文字は山や建物の陰になって全く見られない。

「あっ、もうそんな時間?」

 夏の光の中に立つ麻衣子の鮮やかな姿に、雅彦は心が昂ぶったのを覚えている。確かに、彼女はもう完全に大人の女の姿であった。緩やかな弯曲を見せて体に馴染んでいる麻の服の奥には、白く柔らかい皮膚の広がりが隠されている。そのすべては自分のものであり、自分は彼女の体のすべての部分を既に知っているのだ、という考えが雅彦をこの上もなく幸福にし、彼を有頂天にした。

 その昂ぶりが大きかっただけに、麻衣子が遠慮気味に、そして何度も練習した台詞のように、両親に会って欲しいと切りだした時、雅彦は急に崖の縁にでも誘われたように、驚き恐れた。そして、二人だけの時間を麻衣子に拒否されたようで雅彦は素直になれず、よく考えもせずに彼女の申し出を断っていたのだった。

 麻衣子は、彼女の両親が大文字を観に福島から出て来ている、と切り出した。弁護士をしている父のつてで、鴨川べりのホテルに良い席が取れていること。雅彦さえよければ、一緒に食事でもしながら送り火を観たいと両親が希望していること。そして、急な申し出で失礼なことは重々わかっているが、どうか気軽に考えて、娘がお世話になっているお礼をさせて頂きたい、という彼女の父親の伝言を一気に話した。

 雅彦は考える間もなく、自分の責任から逃げ出していた。それは、半ば反射的とも言えるほど、唐突で冷淡だった。

「大文字ならいつもの所の方がよく見えるじゃないか。……そう、それに正月以来なんだろう? 久しぶりに親子水いらずの方がいいんじゃないの」

「いや?」

「いや、そうじゃなくて、……送り火だろう、血の繋がりのある者だけで観る方が、なんというか、じーんと来るような気がするんだけどなあ」

 麻衣子はぎこちなく後ずさり、やっとのことで体をドアの方に向けた。それから小さなバッグの中で右手を忙しく動かしながら、ハンカチを探していた。雅彦は麻衣子の受けた心の傷が意外なほどに深いことに驚きながら、そのくせうわべの自分が、ますます冷淡なふうを装って彼女の顔を見詰め返しているのを不思議に感じていた。

 ……これは他人事じゃないんだぞ。これでいいのか。おい、しっかりしろよ。

 そんな声が自分の中で、雅彦に次のひとことを促していた。

 彼女はドアのノブをゆっくりと回し、まるでこの上もなく重い扉を開けるように、ドアを外へと押し開け始めた。

「ごめんなさいね。それじゃ、私だけでも両親の方に行くわ。きょうは両親に付き合わなきゃいけないみたいだから、……」

「そう。残りの一枚はボックスを覗いて、暇そうなのを誘って行くよ。こっちこそごめんな。急な事で、どうしていいかわかんなくて、……何か変なこと言っちゃっても困るし。ごめん」

「いいの、きょうは親孝行の日なの。巻き添えにしようとした私が悪いの。ごめんなさい」

 あの時、麻衣子の目には涙がこぼれそうになっていた。雅彦の次の言葉を待ってドアをわざとゆっくり開けている訳ではなくて、体から力が本当に抜けてしまっているようだった。

 この人は、私と先に進むことをためらっている。いや、拒否している。そんな麻衣子の心の中もわかっていながら、雅彦はそれ以上麻衣子に言葉を掛けなかった。何かを言わねばと思いながら、言葉が、血の通った人間の言葉が浮かんで来なかったのだ。それに、一時の感情で、一生に渡る一つの決められた道を自らに課す程、ひ弱な自我も自分は持ち合わせてはいない。そう雅彦は思った。

 

 その日から、オケの練習が夏休みに入ったこともあって、どちらからも連絡を取らなかった。二人とも、意地があった。それが、一つのかけがえのない人間関係を維持するためとはいえ、自分の方から屈していくのは惨めで耐えられないことであった。

 雅彦は一月あまりの麻衣子のいない時間を、病理学の二百枚を超えるプレパラートのデッサンに費やした。後期の最初に病理学の試問が待っていた。

 顕微鏡の下には肝細胞や腎の糸球体、小脳の神経細胞といった様々な組織が、多くの試薬によって赤や黄色、黒などに美しく染め出されている。かすかに酸味を帯びたそれらプレパラートの匂いは、病理学実習室の古びた漆喰の建物にも沁み込んでいたと同じ匂いではあったが、麻衣子を思い出させる艶めかしい匂いでもあった。

 ……性欲だけのために、これまでおれは麻衣子を求めてきたのだろうか? 抱けさえすれば、女なら誰でもよかったのか? いや、そんなことはない。街を行く娘たちの肉感やポーズなどに牽かれるほど、おれは平凡な男ではないはずだ。やはり、麻衣子の、あの人格を備えた美しい存在をこの腕の中に実感できたからこそ、心満たされたのだ。 現実の麻衣子から離れることで、雅彦の中の麻衣子は、再び、初めて出会った頃の知性に裏付けられた美しい少女として形作られていった。しかも、つい先日まで慣れてきた、成熟した女の肉と皮膚の感覚は残り、麻衣子は掛け替えのない最上の女として雅彦の胸を焦がした。

 雅彦は現在という時を忘れようとするかのように、プレパラートを一枚一枚、赤と青、黄の色鉛筆でデッサンし、その横に所見を書き込んでいった。それでも、時々は手を止めては麻衣子に対する自分の気持ちを確かめようとした。そしてたちまち、そうした自分を抑えようとする気持ちと戦わなければならなかった。

 標本ケースに並んでいるプレパラートの中には、あの日麻衣子に見せた、まだ数センチにも満たない胎児の矢状断切片のHE染色標本もあった。

 ……これはこの世に生まれることなく消えて行こうとしている、おれと麻衣子との幻影の胎児なのだ。おれは取り返しのつかない愚昧なことをしてしまったのではないだろうか。医師になり、麻衣子と歩む一生にどんな不満があるというのだろう。それで十分ではないか? 可能性は無限にあるのではない。人の生きる道など、いくつかの限られた選択肢から、自分でひとつを選び取っては先へ行くしかないのだ。あの送り火の日が、おれにとっての、初めての大きな選択の節目だったに違いない。あの日、おれは自分で選ぼうとはしなかった。求めなければ、何一つ得られないのは当たり前ではないか。……

 その標本の胎児はもうヒトの形を整えていて、子宮の中に収まっていた時のままの卵形に身を屈めている。世の中に出てくる意志など初めからなかったかのように、永遠にこうして眠り続けるつもりなのか、静かにプレパラートの平面に沈み込んでいる。

 ……愛している。やはり、おれは麻衣子を愛しているのだ。ならば、なぜ、おれの方から?……

 九月も下旬になり、オケの全体練習が再開されても、麻衣子はボックスに現われなかった。卒論の準備で忙しいこともあるのだろうが、雅彦を避けているのも明らかだった。 十月の始めに初めて木管のパートに麻衣子を見かけた時、彼女は辛そうに視線を落としていた。それは、二人の関係を壊したのは雅彦の方であり、折れるとすれば雅彦の方から声を掛けるべきだ、と暗に訴えているように雅彦は思った。

 その時、雅彦が無理をしてでも明るく振る舞って、いやぁ、大文字の時はごめんな。久しぶりだね、元気だった、とでも切り出せば良かったのだろう。麻衣子はやはり待っていたのに違いなかったのだから。しかし、その時の雅彦は、そうした麻衣子の頑なさを十分には理解できなかった。そうした麻衣子の表面的な頑なさに、やはりうわべだけの冷淡さで雅彦は答えてしまったのだ。

 雅彦は麻衣子の姿を見かけていながら、特別の関心を示さない振りをした。夜十時近くに練習が終わると、いつものように誰かと話すこともなく、麻衣子は同じフルートの仲間と連れ立って帰ってしまい、雅彦は一人で下宿までの緩い坂道を上って帰った。

 ……あるいは、麻衣子の方から、おれを拒絶しようとしているのだろうか? いや、そんなことはない。二人が別れてしまうことなどありえない。いずれ、麻衣子はこの腕の中に戻ってくる。きっと……

 雅彦は自分を中心にしか考えられなかった。麻衣子の心にあるこだわりの大きさが日増しに大きくなり、二人の距離をどんどん大きくしていることが彼には見えていなかったのだ。

 

 やがて、二人は本当に離れていった。

 大学の構内で遠くに顔を見かければ、胸をぐいと掴み上げられるような痛みが身体の奥を走るのに、うわべでは雅彦は冷静を装っていた。二人はともに互いを待っているのだ。ちょっとしたきっかけさえあれば。そう思いながらも、自分の方からは何も働き掛けないままに、ひと月待ち二月待つうちに、雅彦の心の中も次第に枯れて行った。

 あの秋の間、麻衣子は、尖った針のような別れの決意を心の中に植え込んで、時間を掛けてそれを大きな真珠のような揺るがぬ物にしようと考えていたのだろう。長らく裁判官をしていた父親に育てられた話を彼女から幾度か雅彦も聞いたことがあって、彼女の処世の方法はある程度雅彦にもわかっていた。雅彦は自分をかなりプライドの高い人間と考えていたが、今にして思えば、麻衣子の方が遥かにプライドが高かったというべきだろうと思う。

 雅彦が、別れという言葉を切実に自覚したのは、十一月になって東大路の歩道を黄色く色付いたプラタナスの落葉が埋めるようになった頃だった。奇妙に人気のない晩秋の京都の街を、雅彦はいつも一人で歩いていた。講義が済んでから、分厚い専門書を何冊も抱えてうそ寒い下宿への坂道を登りながら、初めて、すべてを喪失したような感傷が雅彦の胸を絞り込んできたのだった。

 失って初めて、雅彦は麻衣子を切実に求め始めたのではなかったか。その思いは満たされぬ性欲などのためではなく、今まで味わったこともないほどに切実で、悲しみが深かった。それは、決して再び得られないものを失ったのだと悟ったための切実さだった。

 高く澄み渡った空を数十羽の群れを成して、雅彦が名前を知らない白い鳥たちが北へと渡っていく。通りからも、雅彦の部屋の北西側の窓からも、一日に幾度もそうした鳥の群れが見えたのだ。その高さがあまりに高く、そしてその上の空にすべての音が吸い込まれていく空虚さに、雅彦はかつて感じたことのない寂寥感を覚えたものだった。

 あの頃、雅彦は未練と自責の虜になっていた。そのために一年余りの時間を棒に振ったと言ってもいいかもしれない。

 その頃、夕暮や白昼に雅彦は麻衣子の幻影を見ることがあった。

 例えば、ある夕暮、臨床系の口頭試問の準備をしている時、ドアの前に人の気配を感じてドアを急いで開けてみる。そこには麻衣子が声もなく泣いて立ち尽くしている。彼女は、私にはあなたしかないのだと目で訴えると、映画のコマ落としのように雅彦の胸に崩れ込んでくる。あるいは、真夜中にふと目覚めると、きっと電話のベルで起きたに違いないと思う。やがて、逢いたい、と涙声で訴える麻衣子からの電話があるのではないかと、眠れないままに夜を明かす。……恣意的な幻想に酔い、すぐにその余りの自己本位の甘ったるさにあきれ、そうした自分に腹が立った。そんな、足が地に付かない生活が一年以上も続いたのだ。

 

 二十二歳から三歳にかけて、雅彦がそうした悔恨と怨嗟を捏ね回しているうちに、プライドという彼の中にあった頑なな若い思い込みも次第に疲れ切っていった。あるいは、遅れてきた思春期のみずみずしさが抜けて人間として枯れていったということなのだろうか。

 その頃から、人は大切なものを一つずつ失いながら生きていくものだ、といった先人の言葉に目が止まるようになった。物事を決め込まずに生きていこう、という今の雅彦の生き方が形をなしてきたのはこの時期であった。

 幼すぎる二十代であった当時の自分の荒々しい稚拙なジャンプを経て初めて、ここまで登って来たにほかならない自分の航跡を、雅彦は実に久し振りになぞってみていた。 麻衣子の幻影を見て心が騒いだことを、妻の律子に正直に話してみて良かったと雅彦はひとり思った。

 

 

 

二、

 

 石見雅彦は教授室の厚く重い黒光りした木製の扉を、音を立てないように後ろ手で閉めると、秘書室でコンピューターに名簿の打ち込みをしている都築葉子に向かって、悪戯っぽく片目をつむってみせた。

「ああ、疲れた。参ったなあ、まただよ。今度は開講五周年記念論文集を出すんだそうだ。たった五年で記念論文集なんてね。……ちゃんとしたのが集まる訳ないのになあ。また、でっちあげのペーパー書かされるのかなあ」

「でも、決まったんでしょう」

「そりゃそうだよ。マルPがそう言うんだから、そう決まったってことでしょ」

 医局員やナースが揶揄を込めてマルPと呼ぶ北条教授は、四年前に四十代の若さで、新設されたばかりの頭頚科学教室の主任教授になったやり手だった。その、あらゆる点で強引なやり方や日常的な朝令暮改に、医局員も病棟外来のナースたちも皆、この変わったキャラクターを持て余していた。しかし、プロフェッサーはプロフェッサーであり、適当におだてながらうまくやっていくしかないと誰もが観念して彼に従っていた。

「で、先生は何が当たったの?」

「腫瘍免疫でペーパーを最低三つ。それから、論文集のうち数冊だけ特別に装丁して偉いさん達に配るんだそうだ。その製本の手配全般をするように、との仰せでしたよ」

「うわぁ、たいへんなんだ」

「ここは締め切ってるからほとんど聞こえないけど、隣は外の蝉の声ががんがん聞こえるからね。マルPも蝉も一緒だよ。うるさいだけで何を考えてるのかわかりゃしない。あーあ、免疫で三つか、……症例報告に、統計に、もうひとつはマウスに死んでもらって、なんかデータでも作るかなあ」

「みんな同じようなこと言ってますね。さっき、橋本先生と野浦先生もそんなこと言いながら出ていかれたわ」

「ね、みんな苦労してんだよ。一将功成って万骨枯るってやつだね」

 北条教授は夏に入ってからは、エアコンを強く効かせながら、窓を大きく開け放って机に向かっている。部厚い扉の向こうには、旧式のエアコンの唸る音と蝉の声で、こちらの話が聞こえるはずはなかった。

 葉子のデスクの横にあるソファーに、白衣のボタンを外しながら雅彦が座ると、葉子は決心したように、コンピューターの画面を見詰めたまま雅彦に訊ねた。

「あの……先生、きょうも遅いんですか?」

「ん? あ、いや。……家族に手術の説明をする約束があるけど……うん、七時には空くと思う。……いいよ、いつもの所のロビーで待っててくれる?」

「はい」

 葉子は少し目蓋が赤らんだ顔を雅彦から隠すように、またコンピューターのキーボードに向かった。タイピングの時は髪を後ろで括っているため、美しく幼い形の耳が艶のある黒髪に映えて、葉子の若さを雅彦に見せ付けている。

 

 雅彦と葉子の関係が始まったのは昨年末の医局の忘年会の日からだから、まだ八ヵ月にしかならない。それも、二人きりの時間を過ごすのは、歓送迎会とか教室主催の研究会とか、医局の行事が済んでからの飲み会のあとのホテルでの二時間余りに限られていた。普段の日に誘うようなことは今まで一度もなかった。まして葉子の方から雅彦を誘うというのは、二人の暗黙のルールにはないはずであった。

「どうした?」

「あとで。……先生、ずっと待ってるから、きっと来て」

「わかった。遅れないと思う」

「はい。……すみません」

 三時からの内科と合同の甲状腺カンファランスが長くなり、野浦助手たちがやっているヌードマウスの実験に付き合っているうちに七時を過ぎてしまった。それから、来週月曜日に手術する舌癌の患者の家族との面談を済まして車に乗り込むと、時計は八時近くになっていた。外科系病棟横に停めて置いた車の中には、日中照り付けられた熱気がまだ篭もっていた。エンジンを回して、ライトを点け、病院の北門から夜の街に出る時、面倒な話でなければいいんだが、と雅彦は葉子の若い体を思い出しながらひとりつぶやいた。妊娠、という言葉が頭に浮かんでいた。

 

 雅彦が葉子と逢う時にいつも使う河原町通りに面したホテルに着いた時には、時計はもう八時を廻っていた。

 地下の駐車場からロビーに上がると、葉子は人目につかないいつもの隅の席で、臙脂色の皮のブックカバーをした薄い文庫本を開いて、雅彦を待っていた。お互い目が合うと、雅彦はそのままフロントに部屋を取りに行く。部屋のキーを持った雅彦の姿を認めると、葉子はゆっくりと本を閉じ、レシートを持って席を立った。ロビーの隅にあるエレベーターに雅彦が乗り込み、少し遅れて、閉じる間際に葉子が体を滑り込ませる。いつものやり方だった。

 部屋に入るとすぐに、葉子は体を求めてきた。雅彦が気になっていたことを切り出したのは、二人が長い愛撫から体を離してからだった。

「どうした? 何か困ったこと?」

 まさか妊娠したということじゃないだろう、と咽喉まで来ている質問を押さえて、雅彦は葉子の腰の曲線をなぞりながら訊ねた。張りだした腸骨から後ろには若々しく張っている肉の存在があり、腸骨の突起の内側には指に吸い付くような柔らかくわずかに湿りを帯びた白い皮膚がやや窪んで広がっている。

「ええ、ちょっと困っちゃった」

 白衣の時の雅彦は葉子にとっても、やはり、医師であり医学部講師という肩書きが壁を作っているが、こうして裸で肌を合わせていると、雅彦は強い男であり、葉子はしなやかな体を持つ女でしかない。葉子の口調もしぜんと大学の時とは違ってくる。

「父が話を持って来たの。父の研究室の助手らしいの、その人」

 なんだ、見合いか。妊娠じゃないのか。脅かすなよ。と、そこまで出掛かったのを呑み込むと、雅彦は次第に余裕を取り戻していった。葉子がテニスで鍛えた引き締まった足を雅彦の足に絡めてくる。

 葉子は東京の女子大を出て、医学部の頭頚科教授室の秘書になって二年を迎えようとしていた。彼女の父親は経済学部の教授をしており、母親もどこか関西の私立大学で教職に就いているはずだった。

 教授たちは娘が大学を出ると、こうやってどこかの教室に秘書や編集助手として彼女たちを出入りさせるようだった。葉子が言うには、それは行儀見習いという建前と、優秀な若い男をその教室の教授にあてがってもらうための顔見せという面があるらしい。

「天才肌の男だからお前の気性に合うだろう、って言うの。研究者なんて嫌だなあ、あたし。……先生は別。研究やってますなんて顔しないでしょ。先生、だあい好き」

「ああ、どうせ大したことやってませんよ、ぼくは。北条君にもそれはよく言われてますからねえ」

「もう、マルPのことなんか言わないで。……もう一度して、ね」

 雅彦は葉子の乳房を玩びながら、長くイギリスに住んでいたという都築教授でさえ、娘に見合いを勧めているのが可笑しくなった。

「どう、お見合いするの? おもしろそうじゃないか、会ってみなさいよ。天才肌の男なんて、今時滅多にいないからねえ」

「先生以外には、でしょ?」

「ぼくも見合い結婚なんだ、一応ね。いろいろ写真を見せられたなあ。……大抵は女のうちの一人でしかないんだけどね、今のかみさんの写真を見た時は、ビクンと来たね。女の一人じゃなくて、一人の女、という感じだった。結婚までの半年は、なかなかの大恋愛だったんだぜ」

「先生、十一月のハンブルクは奥さんも一緒?」

「あ、いや。あの学会なあ、国際学会なんて名ばかりで、製薬会社がパトロンの、ほとんど身内の会なんだ。マルPが一週間しか時間くれなかったから、一人で行くつもり。何、君も来るっての?」

「どうしようかなあ。行っていい?」

「そりゃあ、偶然同じ日に同じ所へ飛行機に乗ったって、そりゃあ君の勝手だよ。……でもなあ、たった一週間だからなあ。もったいないよ。君ならいつでももっと長い休みが取れるだろう。ドイツはいいよ。行くんならゆっくり廻ったら」

「そうね、それに、みんなにばれちゃうかな」

「なかなか、おとなしいじゃないか」

「先生、あたしと奥さんと、どっちが、いい?」

「比べられないな。肉もうまいし魚もうまい。まあ、かみさんの方が淡泊だね。……君は異常だ。秘書室では、きれいないいお嬢さんなんだがなあ」

「ふふ、あたしはイジョー、か、……うふふ」

「変な子だね。でも、それがいいんだ……おっ」

 雅彦の体の上に葉子がいきなり乗り掛かって来て、二人はまた体を合わせた。部屋は足元の明かりしか点けていない。カーテンを引いていない窓からは、満月に近い月の明かりが部屋に流れ込んで、二人の輪郭を浮かび上がらせている。

「先生、お願いがあるんだけど」

 時計は十二時を回っていた。終わったあと、しばらく寝込んでしまったらしい。葉子の顔がすぐ横にあって、こちらを見ていた。実験が長引いたとしても、普段ならそろそろ帰る時間だ。葉子は急がない。いつものように、友達の所に泊まっていることになっているらしい。

「先生、奥さんと別れて!……うそうそ。……先生、あたしが結婚しても、時々こうして会ってくれる?」

「うん?」

「だって、先生が一番合うみたいなの。先生が奥さんも子供さんも居てあたしを抱いてるように、あたしが結婚しても、あたしが先生に逢いたくなったら、こうして抱いて欲しい。……ねえ、だめ?」

 雅彦はとっさに言葉が出なかった。言われてみれば葉子の言うとおりであった。結婚していても男はよくて、女はいかんというのはおかしい。無意識に、男はいいが女は駄目と思い込んでいる自分の手前勝手な考えに雅彦は苦笑した。若い葉子の方が、よほどしっかりと自分の考えを持っている。高校に入る前まで住んでいたというイギリス仕込みの個人主義という奴かもしれない。

「ねえ、先生、いいでしょ? 先生がOKなら、あたし誰かと結婚してもいいなと思ってるの」

 雅彦は返事ができなくて、ただ笑い出してしまった。葉子は自分の生き方に何の疑問も持っていない。結婚した方が落ち着くから、社会的に上のクラスに属する男となら結婚しておこうと考えている。そして一方で、雅彦との情事も確保しようとしている。したたかな、なんとしたたかな。しかも全く罪の意識もなく、それらをやってのけようとしている。雅彦には驚きというより、こうした若い女の出現は新鮮であった。

「先生、今の奥さんが初恋? ……の訳ないか、ねえ?」

「それなんだ、この間なぁ、胸部研の鴨川に出る所で初恋の人の幽霊に会った」

「えー、すごい。その人死んじゃったの? いつの人? 高校?」

「ぼくはおくてでね。大学に入った時だな」

 葉子はシーツの中に潜り込んで雅彦の下半身をいじっている。

「化けて出られるようなことしたんでしょ、きっと」

「痛っ。……まだ死んでないよ。いや、死んでないはずだ、今は知らないけどね。死んでないのに、魂だけがぼくに逢いに来た。どうだ凄いだろう」

「じゃあ、残った身体だけはどこかでほかの人の奥さんやってる訳だ。かわいそうだね、そのハズは」

「奥さんやってる? そうか、やっぱり誰かと結婚してるだろうか」

「そりゃそうよ、ここは日本なんだから。……先生のこと忘れられなくて一人でいると思ってた? 甘ーい。先生、ロゥマンチックねえ」

 二人はまたもつれあい、それからしばらく無言で、激しく求め合った。葉子が次第に大きな声を上げ、それが急に、震えるような擦れた小声に変わった時、雅彦の二度目が終わっていた。

 

 気持ち良さそうにわずかに口を開けて眠りについた葉子を確かめると、雅彦はすぐにシャワーに立った。終わった後には、心地よい睡魔がすぐにやって来るからだ。普段、手術や動物の血を触る実験の後では、家に帰る前に必ずシャワーを浴びる習慣が、こんな時には好都合だった。やはり、帰らなくてはならない。それが、家庭の安定を大前提にして、その上で縛られない気ままな生活をしたいという、雅彦自身の生活のルールだった。

 葉子のことが律子に知れたらどうしよう、と雅彦も考えたことがない訳ではなかった。しかし葉子と会うのは月に一回位のものであったし、朝に帰るようなこともない。手術が深夜に及んで、術後管理に病院に泊まり込むことさえあるのだ。葉子が変に動きさえしなければ、律子に知れることはまずないはずであった。

 それに知れたら知れたで、賢明な律子ならすべてを自分の中で処理して、うわべ上は雅彦の不実を看過してくれるのではないか、という甘えもあった。あるいは、律子と見合い結婚したそもそもの最初から、年上であり、自分と比べても遜色のない知性を持つ律子の精神的な寛大さに期待し、自分の気ままな生き方を甘受してもらおう、と無意識の内に雅彦は計算していたようにも思う。そして、自分の行為を自分であまりに先廻って自己規制するのは止めよう、という開き直った生き方が雅彦を根底で支えているとも言えた。

 律子と子供たちとの生活や大学での医学部講師としての生活が日常であるとすれば、葉子との密会は非日常である。それは気晴らしであり、生活に翳りを付けてその味わいを高めてくれるものであった。

 静まり返っているホテルの廊下で、オートロックのドアが閉まる音を雅彦は確かめた。それからフロントに降りると、キャッシュで支払いを済ませ、夜の河原町通りに車を出した。一時を少し廻っていた。

 夏の夜の街はまだ人通りも結構あり、通りにはタクシーに混じってさまざまの色の車が行き交って、街灯に映えていた。

 大文字の送り火は明後日に迫っていた。下ろした窓から入る夜の風は、昼間の熱気が嘘のように涼やかで心地よかった。もう、若者たちのための夏は転げるように去ろうとしており、それに続いて、大人たちのための秋が、京都盆地の底にどっしりと腰を据えようとしていた。

 結婚してからも、と葉子が言っていた。確かに、雅彦が違和感なくすんなり受け入れられるパーソナリティーは、律子のほかには葉子が初めてだ。律子は知性において、葉子は感覚において。

 ……それにしても、すべての面で自分の分身のようでさえあった麻衣子のような存在はもう現われはしないのだろうか?

 追憶の中で純化されているに過ぎないかも知れない麻衣子の記憶が、あの麻衣子の幻影を見かけた日から、雅彦の中で理想の女として再び大きくなっているのだった。人間として優れた律子と、女としての魅力を持つ葉子の、その両方を兼備している存在として、記憶の中の麻衣子は雅彦の胸の中に、小さいながらも再び光を投げ掛け始めていた。

 八年間の律子との生活で満たされない部分がこれといってあった訳ではない。雅彦にはわかっていたことではあるが、律子との間には愛情と信頼はあるが、男と女の恋情といったものは最初からなかった、ということだろうか。  大阪弁を使う律子との出会いは、その最初から、雅彦にとっては異質なものであった。大阪弁で来られると、そこにはもう女と男の間のけだるく儚ない叙情が入り込む余地がなくなるように雅彦は思ったものだ。大学の教養課程の社会学の講義で、男は男を人間として見るが、男は女をまず女として見てしまう意識があると聴いたが、雅彦は律子のことを最初から人間として見ていたように思う。

 無論、結婚の前後には、肌を合わせながら、男と女の細やかな気持のやりとりもあったはずだが、八年たった今では、よく言われるように、お互いに空気のような存在になってしまっているのだろう。少なくとも、かつての麻衣子との間にあったような張り詰めた感情のやりとりは最初からなかった。安心し切っていられる反面、そうした物足りない感じが、雅彦の中に潜航していたのかもしれない。

 去年の忘年会のあと、二次会のピアノ・バーで隣に坐った葉子と二人で街に抜け出たのはなぜだったのだろう。出ようか、と誘ったのは雅彦からだった。葉子にすれば、家庭も仕事もうまく行っていて落着き払っている年上の男の心を軽くひっかき廻してみようという、軽いいたずら心で付いて来たに過ぎなかったはずだ。

 ……あの時、いったいおれは何を葉子に求めたのだろう。若い身体が欲しかっただけなのだろうか?

 そうとも言えるが、それだけではなくて、あの時おれは飛びたかったのだと雅彦は思う。確かに順調に流れている現在ではあるのだが、その単調さが堪らなくなる時がある。酒の酔いの勢いがあったにせよ、あの時おれは確かにもう一人の自分の世界へ飛び出したかったのだ。

 そして、その夜初めて葉子を抱きながら、雅彦は十数年前の麻衣子と抱き戯れていた日々の記憶の中を飛んでいた。葉子の若い身体と交わって、自分が溶けていく快感に雅彦は酔い、それに、二度とは得られないであろう麻衣子という「完全な」女の喪失感が重なって、雅彦は胸が押し潰されるような、奇妙な昂ぶりの竜巻の中に舞い上げられているようだった。

 葉子とのことは、いわば麻衣子の身代わりとして始まったことであった。今は葉子がひとり歩きを始めているが、日常の流れから飛び出したくなる時、決まって目の前に現われるのは葉子を知る前までは麻衣子であった。

 影の形から樹の形がわかるように、麻衣子の記憶をたどる中で、妻の律子には欠けている部分を無意識に感じ取り、どこかにそれを求めて来ていたのであろう。影のない人間などいない。今、葉子という実在する樹を持ったことで、初めて、律子の欠落している部分が補われ、自分の中の麻衣子の記憶という影に見合うものとなったように思う。

 律子と葉子とのきわどい平衡を保ちながら行くことの中でこそ、自分はこの日常を満たされて遣り過ごしていけるのだ、と雅彦は思うのだった。

 律子と結婚してから後だけでも、雅彦は数人の女と遊んでいた。でもそれは、地方の病院に赴任している時のナースであったり、製薬会社のプロパーと飲んだ後であてがわれたプロの女だったりで、ほとんどは一、二回の関係で終わっている。それらにはメンタルな価値は全くなくて、その時の性欲の処理の対象として、向こうから目で誘って来た女を抱いたに過ぎなかった。しかし、葉子とのことは違っている。雅彦にとって葉子は、律子との理詰めで安心できるものの単調で平和な日々から、ひととき情念の世界へと飛び立たせてくれるキューピッドなのだ。

 これからも律子とは堅実で明るい家庭を築き続け、葉子と逢う時には、スポーツで汗を流した時のような健康な疲れと心地よい解放感を味わっていくことになるだろう。その両方が自分には必要なのだと雅彦は思った。

 不倫であるとか、後ろめたいとかいう気持ちは全くなかった。いや、そうしたネガティブな影が心を過るのは、律子から葉子へ、葉子から律子へと、自分の気持ちを切り替える一瞬のことでしかなかった。無論、そうしたうしろめたさは、葉子とのことや夜の付き合いについて何も知らない妻の律子に対してだけであった。

 家族や社会に対して、そして自分自身に対しても、誠実に生きていくやり方しかあり得ないような律子を、雅彦は最も信頼できる他人と思っている。そして、彼女のそうした稀有な生き方をこのままで伸ばしてやりたいという庇護者のような気持ちも抱いている。雅彦は律子の持つ誠実さや一途さを、自分は既に失ってしまったものと悟っているのだった。

 良識とか世間などというものは互いに互いの首を締め合うための必要悪に過ぎず、そんなものにかかずらう気は雅彦にはとうの昔からなかった。雅彦は世間とか常識なるものには何の興味も持ってはいない。

 彼にとって不本意ながらも相手にせざるを得ない世間とは、喉頭癌やら舌癌、食道癌を恐れてやって来ては、くどくどと不安を述べ立てる癌恐怖の初老の患者たちを相手にした退屈な外来であった。それに、こちらから合わせてやるしかない、人格の破綻した駄々っ子のような北条教授との付き合いも、淡々と事務的にこなしていくしかない仕事であった。

 ……ゆっくり休めるねぐらも大事だが、一つぐらい誰にも知られていない自分だけのオアシスを持っていてもいいじゃないか。

 雅彦は、ホテルで幼い顔を見せて眠っているであろう葉子の顔を思い出しながら、これで決定だな、と呟いた。自分を取り巻く混沌とした世界に、こうやって一つずつ自分との関係を取り決めていき、秩序を与えていくことは、快感であった。

「さあ、オアシスから、ねぐらに帰るぞォ」

 丸太町通りから北に、双ケ丘の上りになっている道でアクセルを強く踏み込むと、雅彦は、そう自分に言い聞かせた。前方の坂の右手に四階建ての雅彦のマンションが見えて来ていた。まだ起きていて、ボランティアの点字翻訳でもしながら自分を待っているであろう律子の顔が頭に浮かんだ。自分の顔が律子と居るときの顔に、今、変わったのを雅彦は自覚した。

 時計は夜中の二時になろうとしていた。

 

 

 

三、

 

 大学病院も盆休みと思っている患者が多いおかげで外来が早く終わった石見雅彦は、里村助教授と医局の抄読会の予定表を打ち合せたあと、ハンブルクの国際学会での講演の準備に医学部図書館に寄った。大抵のペーパーのコピーは製薬会社のプロパーがただで取って来てくれるが、古い専門誌になるとやはり、医学図書館に行って自分で探すのが早くて確実なのだ。

 外は八月半ばの熱気だというのに、空調の効いた薄暗い書庫はひんやりとして、かすかに古い本の持つ懐かしい匂いが淀んでいる。

 頭頚科という、一般の人がほとんど知らない診療科目が独立してまだ数年にしかならない。いわば脳と眼と歯を除く鎖骨より上の疾患を扱うのが頭頚科なのだが、その性格上、耳鼻咽喉科を中心にして、脳神経外科、外科、口腔外科、形成外科といった各科がそれぞれスタッフを出し合っている。

 雅彦は北条教授と同じ耳鼻科の出身で、教授の信任も厚い代わりに、外科出身の里村助教授や口腔外科出身の橋本講師とワンマン教授との調整役を、いつも先回りしてこなしておく必要があった。

 

 閲覧室でコピーする箇所をチェックしていると、離れた机で、学生が大文字をどこで見るかの相談をしているのがかすかに聞こえてきた。きょうは十六日で、夜には京都の北に並ぶ五山で送り火が焚かれるのだった。

 雅彦は、思い付いて辞書・目録・名簿のコーナーに行って、昨年末に出版されたK大学の卒業生名簿を持ってきた。無論、麻衣子の消息を確かめるためであった。

 意識はしていないのに、鼓動が早く大きくなっている。それに、指先がかすかに強ばっているようで、思うようにページがめくれない。それはまるで、雅彦の感受性が十数年前にタイムスリップしていくための、準備運動のようであった。

 昭和五十*年卒業の文学部の項を、青木、綾野、五十部、……と、目で追っていき、気が付くと関本という名前になっている。まさか、坂口という漢字を見て目が停まらないはずがない。……死んだ? まさか。雅彦は動悸がさらに早まるのを感じた。あの日の霊は本物だったというのか。そんなはずはない、あの人が今はこの世にいないなどとは、そんなことはあり得ない。もしそうなら、自分にも何かそれとわかる変化があったはずだ。……あるいは、あれが? 雅彦は、背中に冷やりとしたものが一筋流れるのを感じた。それでも、目は名簿の名前をゆっくり、ゆっくり追っていた。しかし、坂口麻衣子の名前はやはりなかった。雅彦は目を閉じて、呼吸を整えようとした。そんなばかな、そんな……。

 あっ、と雅彦は声が出そうになった。そうだ、旧姓では載っていないのかもしれない。彼はそれに思い付くと索引を調べ直した。やはり、旧姓の索引があった。急いで部厚い名簿の終わりの方にある旧姓索引を開く。彼がこれだけ興奮するのはそれこそ十数年ぶりだった。

 赤木→牧村、秋山→若槻、……雅彦の目は一点で釘づけになっていた。視覚から入ってくるあ行の終わりあたりの情報を頭で反芻しながら、一つずつ追うまでもなく目は既に、坂口麻衣子→宇野麻衣子という一行を見ていた。

 生きていた。結婚していた。それら二つの麻衣子についての情報に、雅彦は強く感動していた。麻衣子は今も生きている。そして、宇野という男と結婚し、おそらくは子供もいて、……。先程まであれほど緊張していた肩から、ふっと力が抜けた。

 葉子が先日言っていたように、自分は結婚し二人の子供まであるのに、麻衣子には自分に貞節を守って一人でいて欲しかったと思っている自分が可笑しかった。彼女も三十五歳なのだ、生きているのが普通だし、どちらかと言えば保守的な彼女が結婚しているのは、むしろ当然と言えた。 雅彦はあらためて文学部の項を開き、先程は目に止めずにいた宇野という姓を見付け出した。確かにそこには宇野麻衣子とあった。そして彼女の住所が岡山市内で、意外なほど近いことに胸が鳴った。岡山といえば、新幹線で京都まで一時間である。

 やはり、あの日の幻影は彼女そのものだったのか? 大学の交響楽団のボックスか、かつての彼女の下宿から鴨川にでも出ようとすれば、あの場所を歩いていてもおかしくはない。いや、そんなはずはないだろう。麻衣子が若い日の感傷に引かれてはるばる岡山から京都を訪れ、しかもわずかひと月足らずの内に二度も自分と会う事は考えられない。

 あれはやはり、幻影であったのだ。彼女に似た人を見かけて自分が思い描いた幻影に過ぎない。雅彦はそう自分を納得させようとした。

 それに、彼女の住所が岡山市**町六丁目一ー二 法務省職員官舎、とあることが、現在の麻衣子の生活までも雅彦に思い描かせた。K大の文学部を出た彼女が結婚する相手であってみれば、相手は一般職のはずはなかった。おそらくは父親の関係で若手の裁判官と見合いをし、結婚をしたのだろう。それは手堅い彼女らしい選択といえた。

 雅彦は先日来、麻衣子の幻想に酔い、自分に都合のいい夢を見ていたような自分に気付いた。それが、今、見事なまでの現実の像をもって、彼に答えてきたのだ。

 ……まだまだ甘いな、おれも。雅彦は苦笑すると、その十センチはある分厚い名簿を閉じ、何食わぬ顔をして元の棚に戻した。先程まで丁寧に目次を追っていた古い医学雑誌が、急に古びた汚らしいものに見えてきて、彼にはコピー箇所のチェックどころではなかった。色褪せた現在から離れて、しばらく体を伸ばしてゆっくり休みたかった。

 

 医学部と病院の間にある医学部図書館を出ると、陽射しは真夏と変わらず、頭の真上から雅彦の白衣に降り注いだ。白衣が自分の熱した体温を逃がさない分厚いコートのように彼の肩や胸を密に包み込んできて、全身から粘液のようにまとわりつくような汗が吹き出してくる。大学病院の白く聳える建物が、今は急に自分とは距離のある現実と思えてくる。

 休もう。それからきょうは久し振りに送り火を観に行ってみよう、と雅彦は思った。

 心当たりのホテルや鴨川べりの店に問い合せてみたが、やはりどこも予約でいっぱいであった。電話で律子に、子供たちを連れて出町柳まで大文字を観に出て来ないかと誘ったが、彼女は八時半に約束があると言う。近所に全盲と弱視の夫婦が住んでいるのだが、そこの四歳になる女の子に花火を見せてやる約束を昨日したらしかった。光子というその女の子自身も軽い弱視なのだが、輪郭は大抵わかるらしく、雅彦の所の下の子の舞と同じ年齢で近所のため、普段からよく一緒に遊んでいる。二年前に今のマンションを買った時から、律子は進んでその一家の世話をしていた。「そう。あの子は花火わかるのかな?」

「わかると思う。ほら、奥さんは弱視やけど、晴れた日は赤と黄色はぼんやりとわかるって言うてはったでしょう。みっちゃんも多分、同じ病気やから花火はわかるんやないかって」

「それ、奥さんに聞いたのか? いいのか、そんなこと聞いて」

「え? どういうこと。あなたみたいに変に気を回すから、逆にあかんのよ。……あのね、あなたも大文字堪能したら、早めに帰って手伝ってね。子供三人に花火させるのに、見えてるの私一人だけやったら目が行き渡らへんねんから」

「あのなあ、堪能ってなあ、……。ところで、きょう、図書館で去年出たK大の卒業生名簿調べたら、あの人生きてたよ。結婚して岡山に住んでるようだ」

「まあ、まあ、それはよかったねえ。でも、結婚してはって残念やった?」

「ばか」

「ま、とにかく、早めに帰ってね。いつもの児童公園でやってるし」

「うん。ちょっと遅れるけど、行くのは行くから」

「あ、あの、それからね……」

「何?」

「……気ィつけてね。胸部研のとこ通らんといて」

「大丈夫だよ。生きてるんだから、化けて出る訳ないじゃないか」

「生きたはるから心配してるの」

 電話の向こうの律子の声はまんざら冗談でもないようだった。自分の生き方や雅彦との関係にも自信を持っているはずの律子にしては随分と珍しい弱気の声だな、と雅彦は思った。律子と暮らして八年になり、お互い空気同様になってしまっている。そのためかそうした律子の情緒的な言葉にも、雅彦はもう過敏には反応しなくなっている。

「じゃあ、9時過ぎに」

「……」

 電話の向こうでは受話器をまだ耳に当てているらしい気配がしていたが、雅彦は静かに受話器を置いた。ふっと、二日前の葉子の顔を思い出していた。いや、葉子の顔をした麻衣子の幻影を網膜の奥に見たように彼は思った。

 ……まだ、麻衣子を卒業していないんだな。若いなあ、おれも。

 雅彦は医学雑誌や専門書、スライドファイルなどがよく整頓されたスチールの書棚に囲まれた自分の研究室の隅に置いてある仮眠用の簡易ベッドに横たわると、夢の続きでも見るようにしばらくの午睡に沈んでいった。

 

 午後から、十月の学会に間に合わせようと連日遅くまでマウスを使った実験をしている野浦助手たちに付き合った後、昼間の暑気が消えやらぬ八時前に、雅彦は研究室から徒歩で川端通りを北に上がって、出町柳まで出てきた。通りには、祇園祭の頃と同じように浴衣に下駄の娘たちが歩きにくそうにして、エスニック・シャツ姿の男友達にエスコートされているのが目立っている。あれが若さというのかもしれない。見ていても違和感がなく、鴨川を背景にしてすっかり風景に溶けこんでいる。

 辺りはすっかり暮れて、人通りは普段よりはるかに多いにもかかわらず、照明制限された京都の町並みは、低いざわめきと時折あちこちで上がる娘たちの嬌声に包まれて、見慣れない町に来たような錯覚が雅彦の感傷をくすぐってくる。

 賀茂川と高野川とがひとつになって鴨川になる三角の洲になっている近くの松の木にもたれながら、雅彦はひとりで目の前の暗い山を見つめていた。

 やがて人並みの所々、雅彦のまわりからも、おーという声にならない強い気配というようなものが立ち昇った。大文字山の中央部にかすかな明かりが蠢いていた。それは大文字の形に配置された百近い石組の炉の中央にあるもっとも大きい炉に火を入れるための種火なのだ。観光で京都を訪れ、初めて大文字を観る人々にはわかりにくいが、毎年この送り火を大切に見守ってきた地元の人には、その種火のかすかな明かりが大の字の中央にはっきりと同定できるのだ。雅彦にもそれがはっきりと見える。京都に来てすでに十七年余りが経ち、自分も京都人になったということかも知れない、と雅彦は思った。

 そのかすかな明かりが見え隠れしてしばらく経ち、八時を回った頃、誰の目にも明らかな大きな明かりが大の字の真ん中に起こったかと思うと、速やかにその明かりは五つの方向に伸びていって、鮮やかな勢いのある大の字になった。

「おー」

「いゃー」

 今度ははっきりとした声が晩夏の夜の密度の高い空気の中を伝わっていく。人々の顔から、勇みが消え、一様に落ち着きのある表情に納まっていくのがわかる。

 一期一会という言葉。生者必滅、会者定離という言葉。そして輪廻転生という言葉。……大学の教養時代に宗教学の講義で聞いたさまざまの仏教用語が浮かんでくる。さまざまの宗教が持つそれぞれの物語の世界はなかなかおもしろく、一般教養の講義では宗教学と社会学、西洋史学だけは休まずに出たものだった。麻衣子と別れたあと、虚脱した午後にふと頭に浮かぶのは、やはりそうした仏教世界やショーペンハウアーの素朴な虚無の世界であった。それはまた、ヴァイオリンの音色が膨らませる空間の空気にも馴染んでいた。

 自分の悲哀も憤怒も、存在さえが、大きな輪廻のひとこまに過ぎず、自分もまたこの苦海に浮き沈みしながら流されていくしかないのであろう。……そうした諦めを自分の足元にしっかりと固めてからは、逆に、雅彦は不思議と自分の生き方に確信が持ててきたように思う。

 正面に大きく見える大文字は、時に炎が高く大きく乱舞し、生きている大の字がさまざまな表情でこちらに何かを訴えてくる。

「いやぁ、綺麗やねぇ。うち、こんな近くで見るのん初めてやわぁ」

「よう燃えてる。今年はずっと日照りやったからなあ、薪もよう乾いてるのやろなあ」

 雅彦の隣に父娘が二人ともに浴衣で並んで立っている。娘と父親だけで来たのは、もしかすると娘は近々結婚して家を出るのかもしれない。紺に赤や山吹色の花を染め抜いた娘の浴衣は艶やかで、しっとりとした夜の空気に溶け出している。雅彦は弱い風に流れてくる娘の浴衣の微かな香りを聞きながら、麻衣子も浴衣姿だった、と思い出していた。祇園祭の宵々山の人込みの中、離れないようにしっかりと手をつないでいたのも夢のようだ。あの時の手の感触は、今はもう遠過ぎて戻ってはこない。

 父は娘を想い、娘はあるいは許婚者のことに思いが走っているのかもしれない。そして自分は今、誰のことを想ってこの炎の祭りを見入っているのであろうか。麻衣子の名前が真っ先に浮かんだ。あるいは麻衣子も、きょう、この京都のどこかで同じ大の字を見上げているのではないだろうか。彼女は京都まで一時間余りで来れる岡山に住んでいるのだ。しかし、大の字を見つめる雅彦の視野には具体的な誰かの顔は映ってこない。ただ、鮮やかに雄々しく踊る数十の篝火の炎に描かれた大きな大の字だけが見えるばかりである。

 あの夏の日、もしも麻衣子の両親と会って、四人でこの大文字を眺めていたならば、今とは全く違った生を送っていたのではないだろうか。あの時が、確かに大きな人生の選択の時だったのだろう。

 結局は、自分しか見てこなかったのかもしれないな、と雅彦は呟いた。と、回りに、また歓声が上がった。

 北山に並ぶ妙法や鳥居、船型、そして衣笠の左大文字にも火が入って、京都の町を包み込もうとしていた。長く燃え盛っていた京都の夏が、今夜のうちにいよいよ燃え尽きていくのである。

 

 

 

四、

 

 帰りの道が混んでいて、双ヶ丘のマンションに着いたのはもう十時近くになっていた。

 雅彦は車を地下の駐車場に入れると、そのまま二十メートルほど坂を上がった所にある児童公園に急いだ。知らない一家が中学生くらいの子供を中心に花火をしているが、律子たちは見当らない。もう、花火を終えて家に入ったのだろう。花火の火薬の懐かしい匂いが強く立ち篭めていて、つい今し方までの舞や遥人たち、それに目の悪い遠野一家の歓声がその辺りにまだ残っているようだった。

 花火をしたり西瓜をもらったりと、普段より遅くまで起きてはしゃぎまわっていた子供たちは、十時半にはコテンと眠ってしまった。遥人が夏休みの宿題に作った「ビー玉迷路」を、雅彦が感心しながらやってみていると、西瓜の始末をしながら律子が話し掛けてくる。

「きょうね、遠野さんの奥さん、ひとりでエンゼル・ハウスへ行って来たんやて。近くまで行ったんやけど、初めて行く所やからわからへんでしょ、入り口が。通りかかった人にエンゼル・ハウスはどこですか、って聞いたんやて」

「うん」

「すぐ、そこや。……連れて行って下さい。……そしたらね、ひとりで行き、だって。……おじさん、女の人の手を引っぱって行くの恥ずかしかったんやろね。遠野さんも、さすがやねえ、それでね、ひとりで行けないからお願いしてるんです、って言ったんやて。おじさん、しゃあないなあ、って言って連れて行ってくれたそうよ。どう、すごいでしょ」

「あの人さばさばしてるからなあ。それでないとやってけないんだろうけどね」

「なかなかいい話でしょ」

「そのおじさん、なかなか可愛いじゃないか」

「ね。……遠野さんみたいにどんどん出て行ったらいいねんよ」

「そうだなあ」

「そうそう、麻衣子ちゃん、岡山だって? 逢いに行ってきたら?」

「ばーか。……いいのか?」

「いいわよ、どーぞ」

 先程の電話の時とは打って変わって、いつもの律子になっている。

 律子は麻衣子が生きていて、普通の結婚もしているらしいことを聞いて安心したのか、雅彦が麻衣子の幻影に出会ったことさえ忘れてしまっているようだ。

「これ、遥人が全部ひとりで作ったの? なかなかいいじゃないか」

「まさか。どこもビー玉が通れるだけの幅を作らなあかんって言ってるのに、頭の中は迷路をどんなふうに難しくしようかでいっぱいやねんから。壁を付ける所の下書きさせるのに、二時間も付き合わされたわ。あの子、あなたが思ってるほど賢くないんと違う? 夏休みに入ってからはヴァイオリンも一日おきみたいよ。毎日虫捕りばっかり行ってるわ。父親は四歳でバッハを弾いたというのにねぇ」

「ははは。からかわないでよ。……だいじょうぶだって。舞はちょっと心配だがな。遥人はだいじょうぶだ」

「あなたの麻衣子ちゃんは賢かったんやろけど、うちの舞子ちゃんはねぇ。……きょうもね、おとうぱんにあげるって言って、昼から折紙で犬の顔ばっかり十七個も作ってんよ。犬をやっと覚えたのはいいんやけど、十七個よ。せやのに、夕方の花火で、あなたにあげるのすっかり忘れてしまって。大丈夫かしらね、あの子」

「ま、可愛いだけが救いだな」

 雅彦は夕刊にさっと目を通すと、自分で冷蔵庫を覗いてハムとカマンベールを見付け出し、律子を目で誘った。律子は台所を済ますと、ビール瓶を持ってきて、二つのグラスによく冷えた琥珀色のビールを注ぐ。律子も雅彦もたばこは吸わないが、アルコールは二人ともかなり強い。子供ができてからは外へ飲みに行くことはなくなったが、今でも週に一度はこうして静かな夜を送ることがあった。

 十一時過ぎになって、ビールの次に開けたモーゼルの緑の瓶が空になりかけた頃、音量を控えてあるにもかかわらず、電話の音が深夜の部屋に結構大きく鳴り響いた。

「どうすんのん、いるの? いないの?」

「今、ぼくの絡んでる重症いないからなあ、病院からとしても大した用じゃないと思うよ。それに酔ってるからね、行かずに済ますよ」

「そしたら、いるんやね」

 それだけ確かめてから、初めて律子は受話器を取り上げた。

 雅彦は深夜に自宅にかかってくる電話には一切出ない。たとえ自分の患者の急変であろうと、夜間の対応は当直医の仕事だからである。妻の律子も、夜は休むもの、十分な睡眠を摂っていてこそ昼間いい仕事ができるのだ、と雅彦に同意してくれている。

 電話は病院からではなく、オーケストラ時代からの雅彦の友人の水野からだった。彼からの連絡は半年ぶりくらいになる。彼は理学部で、今は出身地の名古屋で高校の教師をしている。高校のブラスバンドの顧問をする傍ら、地元の市民オーケストラでフルートを吹いていた。

 水野からと聞いて、先日来麻衣子の幻に酔っていたような雅彦はすぐに麻衣子のことを連想した。麻衣子と同じフルートの水野が、当時、麻衣子に好意を持っていたことも雅彦は知っていた。

 水野からは名古屋市民交響楽団の定演があるたびに電話が入り、行けると言うとチケットを送ってきてくれる。

「おい、きょうの夕刊読んだか?」

 雅彦に代わると、いきなり水野が訊ねてきた。

「ああ、さっき目は通したけど。何? どこかいいオーケストラでも来てるのか」

「石見のところは何だ? いや、全国紙ならどれでも載ってるはずだ。社会面をもう一回見てみろ。坂口君のことが載ってる」

「え?」

 坂口君、と言われて、一瞬、雅彦は麻衣子以外の誰かの顔を思い出そうとした。しかし、水野と自分の間で坂口といえば、麻衣子のことであるに決まっていた。そう言えば、大学の頃から、水野はわざと麻衣子と距離を置くためにか、彼女のことを坂口君と呼んでいた。

「今はな、宇野という姓になってるんだ。………あの人、死んだよ」

「えっ」

 絶句している雅彦に、あえて間を空けずに、水野は一気に記事の内容を電話口で読んでいる。

 ……国費留学生の……フランスのストラスブルグ郊外の……七月二十九日……急カーブを……即死……意識不明が続いていたが……法務省……妻の……現地時間で……死亡が確認……

 切れ切れにいくつかの言葉が雅彦の頭の中に雪崩込んで来ていた。それに、先日来二度も出会った麻衣子の幻影が、再び鮮やかな姿で記憶の底から立ち上がってきた。

 雅彦の中で、それらに整理がつかないうちに、さらに水野は続けた。

「おい、やはり言うがなぁ、あの夏、坂口君は自然流産したんだぞ。おまえの子だ。知っていたか? 知らなかっただろう。おれもついさっき、山川さん、フルートの山川さんだ。彼女から電話を貰って初めて聞いたんだ。おれも驚いたよ。……おい、聞いてるか?」

「……ああ、聞いている」

 雅彦は頭を打ちのめされたような衝撃を覚えた。十三年前のあの送り火の日の、雅彦には過剰と感じられた麻衣子のあの悲しみは、その自然流産のせいだったのだ。自分は何も知らなかった。麻衣子は流産したことを訴えては来なかった。それで同情を求めるような、女の弱さを武器にするのが悔しかったのだろうか。

「山川さんなぁ、半泣きだった。新聞の記事のことを伝えてくれてな。それから、坂口君のことを話し始めたんだ。卒業の年の夏らしいけどなぁ、ひと月以上も遅れた生理はつらいなぁと思っていたら、紫っぽい黒いオタマジャクシのようなものが出てきたそうだ。その時、坂口君があんまり、けろりと話すもんだから、山川さんも驚いたと言ってたよ。普段、そんなことを話題にするような人じゃなかったからなぁ」

「……」

「おい、聞いてるのか」

「聞いている」

 雅彦は自分でも声が怒ったように上擦っているのがわかった。

「山川さんがなぁ、おまえに伝えておいてくれって。今まで誰にも黙ってるのはシンドイことやった、ってな。同性としての同情だろうな、彼女はおまえに怒っていたよ」

「うん」

「二人のことは二人ともに責任があると思うから、おれはおまえだけが悪いなんて言わんが。……あ、奥さん近いのか?」

「いや、いい。続けてくれ」

 律子は家計簿でも付けているのか、こちらからは背中が見えているが動く気配はない。

 雅彦は沈黙が恐かった。雅彦に対する批判であれ面罵であれ、水野が何かを話し続けてくれる方が助かった。今、雅彦に言葉はなかった。

 ……数日前に麻衣子が死んだこと。あの十三年前の夏、自分の知らない間に麻衣子が自分との子供を流産で失っていたこと。その夏、大文字の送り火の日に、両親と会うことを求めてきた時の麻衣子の目。そしてそれを拒否した幼かった自分。最近、二度も見かけた麻衣子の幻影。……様々なショットが浮かび、消え、少しずつディティールを現わしながら、幾度もそれらは繰り返された。そうした沈黙の中に訪れる過去が、今の雅彦にはあまりにも重い。

「大丈夫だ。聞いている。続けてくれ」

「いや、そう言われると、何も言うことはないよ。……いい人だったな。おれも彼女が好きだった、あの頃な。今は坂口君が亡くなったと聞いても、あまりに若い死というものに驚きこそすれ、泣き崩れるほどの感慨は正直言って出てこない。それだけの時間が過ぎて行ったということだろうな。……だがなぁ、石見。おまえは泣いてやれよ。あの頃おまえが十分苦しんだのもおれは知ってるがな、彼女はそれより深く傷付いてたんじゃないか?……おれはきょうは感傷的に酒を飲むことにしたんだ。おまえもきょうは医者じゃなくて、素直に彼女のために泣いてやれよな。……おい、聞いているのか?」

「ああ。……」

 水野は電話口で泣いているのかもしれなかった。あるいは既に、だいぶアルコールが入っているのかもしれない。

「おれの言いたいのはそれだけだ。なぁ、坂口君のために泣いてやれ。人が死んで行くのは石見には日常茶飯事だろうが、自分にとってのひとりの人を失うのは空恐ろしいことだぞ。もう、おまえは未来永劫まで、絶対に坂口君には会えないんだ。そう思って、きょうは泣いてやれ。な、わかったな」

「わかった。……電話ありがとう。教えてくれてよかった」

 自分がどうやって立っているのか、自分がどんな顔をしているのか、自分が何を考えようとしているのか、雅彦にはわからなかった。立っているのが不思議であった。受話器を持ち続けていられるのも不思議であった。今は水野も律子も、奥の部屋で眠っている子供たちもなかった。現在までの時間の流れはどこかへ消し飛ばされてしまい、麻衣子と実質的に最後に会った十三年前のあの送り火の日に戻っていた。

 そこには、自分と向かいあって寂しい笑顔で立ち尽くす麻衣子がいるばかりであった。彼女は凄まじいまでの白光を背後から受けて、微かにその表情を窺われるだけだった。彼女は雅彦を待ち受けているのだろうか? その身体の中には雅彦との胎児が丸まって眠り込んでいるのが半ば透けて見えている。

 麻衣子はすぐそこに手が届くかとさえ思えるのに、やがてその姿は次第次第に速度を上げながら雅彦から遠ざかり始めた。近くに見えているのに、想念の中の彼女はどんどんと遠くなっていくのだ。目で見える距離は変わらないのに、二人の間に時間と空間の透明な襞が幾重にも幾重にも重ねられて重厚な壁を作り、二人を確実に引き離していく。

 一言が出ない雅彦は、歯軋りしながら、何を言おう、どう言えばいいんだ、と焦り、もがいているしかないのだ。

 ……今、引き止めなければ、二度と再びこの人を得ることはできない。ああ、どうすれば、何を言えば……

 麻衣子と雅彦を隔てる透明な壁は、ますますその密度を増して雅彦から麻衣子を絶望的なまでに隔てていく。

 やがて、麻衣子の背後からの光が光度を増し、一瞬閃光を放った直後、雅彦の視界は瞬時に暗転して、虚無の暗さに落ち込んだ。

 そこは胸部研の鴨川に出る所だった。

 大気は濡れて黒く引き締まり、何も見えない。四角に切り取られた大きな箱のような世界に、麻衣子が一人立っていた。手術で患者に着せる緑の服を着ていた。口にも鼻の穴にも、蒼ざめた胸元や両方の腕にも何本ものチューブやコードが繋がれ、麻衣子は血の気を失った顔をしかめて苦痛に耐えていた。彼女は今、雅彦の子供を孕んだまま死に向かおうとしているのだった。

「どうした、ここにいるよ」

 そう雅彦が呼び掛けようとした時、麻衣子はふっと微笑んで闇の世界に消えていった。血の色の火花が飛び、それからすべてが消えて元の闇になった。

 音も光もない世界である。一つの過去を閉じ込めて、その箱は堅く閉ざされていく。かつての送り火の日には生きた別れがあり、今年の送り火に雅彦が送ったのは、麻衣子との死の別れであった。

 ……あの夏、麻衣子は一人で水子を送ったのだろう。それに一人で耐えた麻衣子に、あの送り火の日、おれは彼女を突き放してしまったのだ。雅彦は初めて、あの日の麻衣子の悲しみの深さに思い到ったのだった。

 雅彦は焦った。雅彦自身の意志とは関係なく、麻衣子は闇の中へ封じ込められて行こうとしているのだ。自分に大きな関わりがありながら、自分の意向とは全く関係なく、自分をも横滑りに一気に持って行ってしまう、人の死という現象に雅彦はただただ驚き、焦っていた。かつて、麻衣子が死児を送ったように、今、雅彦は一人で麻衣子を送らなければならないのだ。

 あっ、と思った時、雅彦は受話器を持ったままそこに座り込んでいた。全身の筋肉という筋肉がすっかり弛緩してしまっていた。受話器を持っているのが不思議だった。それから、意外と冷静な声で、自分が水野にもう一度電話の礼を言って受話器を置いたのにも雅彦は自分で驚いていた。

 自分ではない自分が、自分の中にもう一人居るのがわかった。背後で家計簿か無農薬野菜の注文表の集計に集中しているらしい律子に自分の混乱を気付かせまいとしている自分とは別に、冷静に麻衣子の霊を思い返している自分がいた。

 雅彦は、何食わぬ顔をしてサイドテーブルの下に入れた夕刊をもう一度出してきて、居間の端にあるロッキング・チェアーに身を沈ませた。ここでは律子に表情を見られることはない。

 先日、麻衣子の幽霊を見たことは話したが、今、それが本当の麻衣子の霊であったこと、彼女が事故の時と息を引き取る間際とに自分に逢いにやって来たのだということは律子には話すまいと思った。彼女がそれを信じるはずはなかった。麻衣子が死んだという知らせを聞いて、混乱したというふうに自分の姿を見られるのは嫌だった。世間話の一つとして麻衣子のことを、今の場合は他人でしかない律子に茶化されたくはない、とも雅彦は思った。

「何? コンサート?」

 受話器を置いた音で律子が話し掛けてきた。

「う、うん」

「そう」

 雅彦が新聞をわざと音を立てて開いて、新聞を読む姿勢を示すと、律子はまた机に向かった。

 律子は電卓でノートの数字の集計をしているらしかった。明日までに「生活環境を考える会」に野菜の注文と先週分の支払いを清算しておかなければならないのだろう。彼女は会に参加している双ヶ丘の十数人分の会計を買って出ていた。

 雅彦は、夕刊の社会面の左下にそれらしい記事を見付け出すと、頭の中に刻み付けるように一字一字、その記事を読んでいった。雅彦が最初に麻衣子の幻影を見た七月の終わりに、雨によるスリップ事故があったこと。夫である法務省国費留学生の宇野隆明氏は即死したこと。妻の麻衣子は意識不明状態が続いていたが、十一日に死亡したことが書かれてあった。すべて、雅彦の思った通りであった。

 人が死ぬと、その身体から二つの霊が抜けていくという。ひとつは魂で天空に昇り、もうひとつは魄と呼ばれ地上に残るという。雅彦は、遥かフランスの地から、二つの麻衣子の霊が空を飛び、あるいは地を貫いて自分の元に来た航跡をトレースしていた。それらは十三年余りをかけて、雅彦の所へと帰って来て、そして、去って行ったのだろうか。

 ……麻衣子が死んだ。そして、あの夏、自分と麻衣子の間の子が死んでいた。

 そのことがまた、雅彦の中で幾度も繰り返された。

 しかし、もう去って行ってしまった麻衣子の幻が再び現われて来ることはなかった。生者の空想を許さない厳しさが死にはあった。麻衣子との間にあり得たであろう様々な関係や行為のすべては、生者の邪念として死者から拒絶されている。

 病院では人の死に慣れてしまっていて、患者の死に面してもほとんど何も思わない雅彦にとって、人が死ぬことの意味が、今初めて彼の胸を貫いて押し寄せて来たのであった。

 患者は、学会報告や論文の中の症例数の一つの要素に過ぎず、死とは、他人である雅彦にとっては死亡診断書一枚の重さしかないものであった。その同じ死が、当事者にとっては量ることもできない悲しみなのだ。……この世の中で、決して二度とは得られないものがあるということ。人は大切なものを一つずつ失いながら生きていくものだ、ということ。

 

 夜の静けさがまた襲ってきた。

 ふと、麻衣子は死んだのに律子は生きている、と雅彦は思った。律子の後ろ姿には、白昼の陽射しを浴びた樹が影もなくやけに輝いて見えているような不気味ささえ感じられた。見慣れた部屋が、どこかいつもの親しみが消えて、白々しく、ひっそりと空間の底に沈んでいくようだった。壁のクリムトの女が悲しい目を虚空に向けている。

 今、おれは葉子とのことで律子を裏切っている。それに、葉子についても、おれは葉子を一人の人間としては見ていないのではないか? かつて、麻衣子との現在を真剣には生きなかったように、今また、おれは現在を放棄して生きているのかもしれない。自分でも、それでいいのだと思っているところがある。しかし、あの日、麻衣子がおれに伝えようとしたのは、そうしたおれの生き方を自問してみろということなのではないか。

「それでいいの? いつまでも、自分ひとりでいいの?」

 ……麻衣子と別れてからのおれは、頑なに自分を閉じて生きている。それは自分でもわかっている。あるいは、そうした自分を開こうと自分に強いるために、結婚の相手として律子を選んだのではなかったか。しかし、やはり変わってはいない。あの夏の日の自分と、おれは今も変わってはいない。

 自分はまた、一つ大切なものを失ったのだな、と雅彦は感じていた。その喪失感は決して不安や不快をともなうものではなかった。しかし、失ったものは大きく、残していったものは重いのだ。

 雅彦は新聞を膝に置き、静かに目蓋を閉じた。やがて、目蓋の内側で新聞の活字が溶けて、先程の送り火の大きな大の字の姿になった。……麻衣子の笑顔が燃え、麻衣子の艶やかな髪が燃え、麻衣子の澄んだ声が燃え、そして麻衣子と雅彦との間に生まれていたかもしれない胎児の、丸まった身体が燃えていった。

 勢いよく踊る大の字が鮮やかに燃え上がって、雅彦の夏を今、燃やし尽くそうとしているのだった。やがて目蓋が熱く重たく感じられた時、生まれて初めての愴恨の涙が雅彦の頬を伝って落ちていった。

 

 

 

 

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