『おだわら文藝』No4(1995.1月)

 

 

  

匂 い

 

 

「この主治医が勤まるのは、おまえしかいないな」

 そう病棟医長から指名されたのは、やはり、名誉なことと喜ばなければならないのだろうか? 通常、患者が入院してくると研修医の間で疾患別に順番に主治医を受け持っているのだが、このケースはどの分類にも入らなくて、研修医の七人の間で「譲り合って」いたのだった。いや、「押し付けあって」いたのだ。主治医がぼくに決まったのは、病棟医長でもあり、このケースの事実上の主治医でもある鍋島講師のその一声だった。

「武田吉太郎殿 五十二歳」と患者の名前が書いてあるカルテを持って、ぼくは病棟の西のはずれにあるその個室に向かっていた。あと数メートルという所まで近づいたあたりで、ウッ、とぼくは立ち竦んだ。正面から西日の入った廊下に強烈な匂いが立ち篭めている。この匂いの強さはその中に生きる者の生命力の強さそのものなのだな、と妙に納得させる気迫ある臭気である。

 ……それにしても、これから毎日この匂いの中を、彼の病室まで診察に通わなければならないのか。

 ……そもそも彼は「病気」と言えるのだろうか? 「音声障害」という病名は、声が出ないか出にくい状態を差すはずではなかったか? 「よく喋るから、相手になってやれ。手術の後は二週間喋れんのだからな」と、鍋島先生からは聞いている。すらすら喋れる人間にどうして「音声障害」という診断が付けられるのだろう? 癌の診断を付けていながら二ヵ月も待たせている患者があるというのに、税金で支えられている国立の医療機関が、健康そのものとも言える彼を優先する論理とはいったい何であるのか? 医療とは病弊に苦しむ人をその苦脳の淵から一刻も早く救い上げるという崇高な営為ではなかったのか? 医療の倫理とは、医師の使命とは、医の原点とは、いったい……

 

「あっ、センセ、今から診察? ちょっと、アレしてくるの。部屋で待っててぇ」

 西日の中から現われた、淡いグリーンのロング・ネグリジェのその人は、白衣のぼくと擦れ違いざまにそう言い捨てて細いヒールの音をたてて通り過ぎていった。

 ぼくは振り返らなかった。振り返ったなどと思われたくなかったし、ましてや、そこで視線が合ったりしたら、とぼくは恐れたのである。

 既にここは「武田吉太郎殿 五十二歳」の圏内なのであった。先程から慣れつつあった匂い、生命力に比例する強烈な臭気が、彼の存在の「辛うじて耐えられそうな重さ」を主張して彼の後に従って流れて行った。あるナースによれば、これはニナ・リッチの何とかという代物であるそうだ。「嗅覚と視覚に強く訴えてくる方よ」と主任ナースは唇の右側だけを引きつらせて言い、「そりゃもう、かわいい人よ」と婦長は笑った。

 つい数分前の、ナースステーションでのナースたちやほかの研修医たちからのおどかしや励まし、からかいを思い出しながら、フン、思った程ではないな、とぼくは鼻腔内の外気を一気に排除した。即座にあたりの外気が新たに入ってきたが、原始的な感覚である嗅覚は、もうニナ・リッチに慣れていた。

 ぼくは度胸を決めた。西日に向かってゆっくりと進むと、空き部屋ひとつを置いて彼の部屋があった。婦長の字で「武田」と苗字だけが書いてある白いネームプレートの差し込んである部屋の前で、苗字だけ、という婦長の深慮に感心して、ぼくはそこに立ち尽くしていた。

「センセ、お入んなさいよ。別に捕って食おうなんて思ってないわよ」

 後ろから「武田吉太郎殿 五十二歳」の声がした。確かにそれは「吉太郎殿」の声であり、「五十二歳」の声であった。「なるほど、音声障害、か」と、ぼくは納得した。確かにこれでは困る。吉太郎殿も困るだろうが、ぼくたち聞かされる方も確かにこれでは困るのだ。

 振り返ると、淡いグリーンのネグリジェの上にはゆで卵の顔があり、その上には深紅のシャワーキャップが乗っていた。化粧をしていない顔は本当にゆで卵のようだった。あとで聞いたことだが、この顔は、毎月二回の女性ホルモン注射と毎日二回のシェービング、そして毎週二回の泥んこパックの賜なのであった。(なお、彼は決して「髭剃り」とは言わなかった。シェーブでありメイクであり、ブロウでありカールであり、そしてペイントでありケアなのであった。)

 それから四十数分間にわたって、ぼくは受け持ち患者である彼のカルテを作った。「患部」である声帯は無論のこと、全身麻酔である以上、全身を詳細に診察し、もれなくカルテに記載した。(その内容は業務上知り得た秘密であり、ここで詳らかにする訳にはいかない。)

 その二日後、手術は予定どおり施行され、予定どおり無事終了した。彼はのど仏の先端を削ってもらい、声帯を後ろにひっぱってもらって、高音域の声、つまり女性化されたやや若返った声を得たのである。全身麻酔の手術の間、話を聞きつけた形成外科医や泌尿器科医はもちろん、ひまな研修医連中が、モロッコでの手術の成果を見学に訪れたのは言うまでもない。

 

 さて、彼が退院して二週間後、ぼくは一通の手紙を、患者からの預かり物、と病棟の婦長から手渡された。その日ぼくはコンタクトの調子が悪くて、眼科に行って同期の研修医に診てもらっていて病棟を留守にしていたのだ。

 封筒に沁み込ませてある香水の匂いの強さだけで、それが誰からのものかすぐにわかった。ニナ・リッチとは違うようだが嗅覚に訴えるこの力は彼を置いてない、と婦長から教えられるまでもなく、誰からのものか了解できた。

 彼は鮮やかなワインレッドのロングドレスに真珠のネックレスという姿で、鍋島講師の音声外来を受診した帰りに病棟に寄ったそうだ。指輪の無い指の方が少なかった、と病棟の若いナースが感心して言う。封筒の差出人は「巽 八重子」と女名になっていた。武田氏の芸名、あるいは商品名なのだろう。

「惜しかったわねぇ。そりゃ綺麗だったわよ。女の私が見てもうっとりしちゃうんだからねぇ。あ、そうそ、先生、妬いちゃ駄目よ。あの人ね、パパと一緒だったのよ。パパは糖尿病外来にかかってるそうよ、ふふふ」

 パパとは情人ということらしい。婦長たちは武田吉太郎殿からほかにも聞いたことがあるようで、ぼくの顔を見ながらの婦長たちの意味ありげな含み笑いはしばらく断続的に続いた。

 たまたま誰もいなかった医局の隅のソファで、ぼくはその「巽 八重子」からの封筒を開けた。中には「クラブ フェミニン・ド・マン  巽 八重子」の名刺と手紙が入っていた。細い線で流れるように書いてある立派な女文字である。時候の挨拶から始まって、手術がうまく行って感謝していることなどが、薄手の和紙の便箋に薄墨のサインペンで流麗に綴られている。エステサロンばかりでなく、日本舞踊やエアロビクスもやっていると入院中に聞いていたから、書道で女手を習ってもいるのかもしれない。

 

「……声の方を良くしていただきましたので、すっかり気持ちも若返ることができました。それでかしら、今日も、私の診察のあと、主人の検査を待っている間、待合室で素敵な殿方に見つめられてしまいましたのよ。

 先生にお目にかかれなくて残念ではございますが、店の方もございますので、走り書きにて失礼をいたします。

 本当に、店の方にも一度お寄りくださいませ。心よりのおもてなしをさせて戴きとうございます。

かしこ

                                八重」

 

 読み終えて、その便箋の香りにすっかり慣れたと思った時、あっ、とぼくはソファの上にのけぞった。眼科の外来で散瞳薬を点眼されて目をパチパチやっていた時、向かいにすさまじく派手な服を着た婦人の姿がぼやけて見えていたのである。パパの検査とは、糖尿病性の眼底変化のチェックだったのだ。そう言えば、あの時の匂い……。

「素敵な殿方」とはぼくのことであった。

 それにしても、白衣を着ていないぼくが彼の(彼女の)店に行っても、果たしてぼくと気付いてくれるのだろうか? 二週間で顔を忘れられるようでは、心からのもてなしを受けられないのではないだろうか? そもそも、彼ら(彼女ら)ばかりの店では、どんなもてなしが待っているのだろう? ……大学を出たばかりのぼくにはおよそ想像のつかない世界であった。

 それからもう、十年以上経ったけれども、今だにぼくは「武田吉太郎殿 五十二歳」の店を覗いていない。彼は今、還暦をとっくに過ぎ、ますます赤い色が似合っているはずである。角が取れてきているその名刺を見返す度に、ぼくは今でもそこに彼の(彼女の)匂いが残っているような気がして、鼻をそっと近付けてみるのである。

 

 

 

 

 

TOP PAGE