『じゅん文学36号』同人評シリーズ⑦(2003年6月)

 

 

水谷 悠

『カレーでGO!』(35号)を読む

 

《ブンガクって、何?》

 

 

 

 

アラキサンダー大王 カレーでGO、かぁ。アワワワと、腰から力が抜けたぞ、題を見た時は。

ドクトル・アラキメデス 華麗で豪華な題名だとか言って、井坂は感心してましたよ。ははは。奴は面白ければいいというふしだらなところもありますからなぁ。

大王 純文学か文芸として成功していればいい、ということじゃな。そもそも「文学」などというネーミングが良くないな。「学」などハッタリもいいところじゃろう? 素直に、音楽と同じように「文楽」にすればいいのにのぅ。

ドク それは「ぶんらく」。道行き物しか書けなくなりそう。

大王 あるいは「♪かか様の名は……」とかじゃな?

ドク おおっ、阿波の人形浄瑠璃ですな。古いなぁ。

大王 昔の文学は限られたインテリのもので、文学作品を書くには和漢の古典に通じて本歌取りやら引用やら、とにかく相当の学習が必要だったんじゃ。この伝統があるから読み物を書くことは「楽」ではなく「学」になったんじゃ。明治初めの外来語制定に関わった国語学者の違詐坂知寡乱が記した奇書『「文学事始」を知ってるかい?』に明記してあるぞ。

ドク ほぉ~、なぁんて感心するはずがないでしょう、大王? いささか・ちからん、とか「を知ってるかい?」などと聞いただけでいかがわしいのが露見していますぞ。柳の下にドジョウは一匹です、って。

大王 そうか? それは残念じゃ。ははは。

ドク ところで、井坂がいつも言う「人生は暇潰し。創作は最高の自己解放」説はどうです? 生きることは暇潰しで、終わりの時まで喜怒哀楽を楽しみながら生きて行くまでのことだと言うんですな。で、文学を読むことはそのための有効な暇潰しでは、というのが井坂の説ですな。

大王 現実生活が辛い時には現実からちょっと抜けられるから救いになるのは事実じゃろう。ただ、本を閉じると目の前には逃げられない現実が相も変わらず待ち受けとるんじゃがな。

ドク 創作は最高の自己解放、というのは書いている本人がそう言うんだから、そうなんでしょうね。自分を育てたり確かめたり、あるいは書き終えてからの自分に指針を自ら付与するために小説を書くのだ、と。書く立場からすれば小説に純も不純もない、と。

大王 たしかに文学に絶対的な純も不純もないじゃろう。書く立場からの文学と読む立場からの文学がある、ということじゃな、要は。

ドク そうそう。純文学を書いたつもりの作品がドロドロのエログロ物だったり、受けを狙ったお手軽小説なのに、読んだ人間が感動して生き方にも影響を受けることはあるだろうなぁ。

大王 で、どうだったんじゃ、このカレー物語は?

ドク ははは。筒井康隆の作品にこの手のオチがあったんじゃないかと思えるほどに洗練されていて、なかなかグーじゃないですか?

大王 カレーでゴーは華麗でグーか。うまいことを言うな、ワシも。ふふふ。

ドク 何を独りで喜んでるんです、大王。

大王 ん? ははは。そもそもなぁ、小説を書いたり読んだり、音楽を作ったり聴いたり、絵画を描いたり観たり、人はいろいろな自己実現をしながら、生きている時間を送るのが好きなんじゃなぁ。どうせ死が待っているんじゃが、だからこそ生きている時間が貴重に見えるんじゃな。

ドク 落語か何かにありましたな。ふるい付きたくなるようないい女もいずれはしゃれこうべになるから色欲など虚しいものだと坊さんに諭されるんだけれども、幽霊の化身とわかっているのに長屋の八っつぁんは目の前の優麗な女体を抱いてしまうんですな。それが人間というものなんでしょうな。

大王 ワシもいい女は抱きたいぞ。

ドク おやおや。そういう話じゃないでしょう。読む側からの話をすれば、やはり読み終わって満足感を持ちたいな。感動があればベストだけれども、情報や知識でもいい。

大王 そのためには読み手の側も、書かれた作品を深く読み込める力が要るんじゃ。世の中を広く深く知れば知るほどに、ちょっとした描写から多くのことを連想し主人公の心情に入り込めるようになるものじゃ。若い時には文学を読む力を育てた方がいいとワシはつくづく思うぞ。多くの人生を知り、様々な状況で生きることのできる文学の世界を持つことは、人生の最高の友人を持ったということじゃ。

ドク おおおっ、マジですね、大王。

大王 ワシはいつも真摯じゃぞ。だから、淑女が抱きたいんじゃ。

ドク げっ! それって、不純オヤジそのものでは?

大王 オヤジに純も不純もないぞ。ワシはとことん生を楽しむんじゃ。ワォォォ~!

ドク あわわわわわ。

 

 

 

 

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