『じゅん文学35号』(2003年3月)

 

 

 

 

新 生

 

 

 

 美知が妊娠したと知った時、生まれて来る子は女の子であって欲しいと願った。そして、名前は「桃」と付けたいと思った。

 桃はモモである。大島かおり訳のミヒャエル・エンデ『モモ』の副題にはこうある。

  時間どろぼうと

  ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の

  ふしぎな物語

「ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子」……そう、私は生まれてくる自分の子どもによって、私自身が失ってしまった時間を取り戻したいと願ったのだ。

 

 午前八時、琵琶湖の湖面を反射してくる光にはすでに夏の勢いがあった。私が京都から乗った特急サンダーバードの始発列車は琵琶湖に沿って富山へと急いでいた。もっとも急き立てられているのは私の心持ちであって、列車は予定どおりに鉄路を進んでいるに過ぎないのだが。私の向かう神岡は富山から更に一時間あまり神通川に沿っての山道を上らなければならないのだ。

 昨夜と言うよりは今日の午前一時過ぎに美知の母親から私の携帯電話に連絡が入り、美知が分娩室に入ったと聞かされた。産道が狭いので、あるいは帝王切開になるかもしれないと言う。今まで大きな病気もせずに丈夫に育ってくれた娘なのに、と美知の母親は気落ちしたような声だった。

「ちょっと切るだけで美知も楽に出産できるのならいいじゃないですか。三十二歳だから高齢出産というほどでもないでしょうが、無理しないのが一番ですよ」

「だけどねぇ、せっかくのきれいな体に傷を付けてしまったら、あなたにも申し訳ない気がしてねぇ」

 私自身、左の腕に障害を持つ。手術の傷など小さなことだ。ぼくは美知の体に惚れたわけじゃありませんよ、と言いそうになって私は口をつぐんだ。仲間内には言える冗談も、彼女の母親には不謹慎に違いない。

「それに麻酔をかけるそうだし……」

 美知の母親は定年を迎えた一昨年まで小学校の教諭をしていたというが、大学で富山市内に下宿した四年間を除けば生れた時からずっと神岡に住み続けている純朴な人だった。昨年の秋、入籍することを伝えるために美知と神岡を訪れて、彼女の母親の控えめな、いや清潔なと言うべき気質に触れて、私はとても感動したものだ。娘よりも一回り以上も年上の離婚経験者で、しかも左腕に障害を持つ四十六歳の男に、美知の母親は何の不都合も言い立てず、長旅をねぎらい、そしてすべてを受け容れてくれたのだった。

 私たちからの話を聞いたあと、美知がまだ幼い時に事故で亡くなったという美知の父親の位牌が納められた田舎らしい大きな仏壇に向かって、美知の母親は誰に言うでもなく穏やかに「良かった、良かった」を繰り返したものだ。

「麻酔をすると言っても、医学も進んでいるでしょうから大丈夫ですよ。それよりぼくは、生まれてくるのが本当に女の子かどうかの方が心配ですよ。女の子の名前しか準備していませんからね」

 六月初めの超音波検査で、生まれてくるのは女の子だと知らされた。予定日が八月初めで、夏の盛りに生まれてくるんだなぁと漠然と考えていたのが、女の子らしいと聞かされてからは急に現実味を帯びて感じられるようになった。もはやオタマジャクシのような小さな生き物ではなく、女の子の形を持った一つの命となったのだ。そして私は改めて『モモ』を思い出したのだった。

 ミヒャエル・エンデの『モモ』は美知と知り合ったばかりの頃に彼女から贈られて知った本だった。児童書に分類されているようだったが、美知に強く勧められて、いざ読み出すと『モモ』は子ども向けとは思えなかった。これは失った時間を持つおとなのための読み物だと思った。それは当時の私の心に染み入るように入ってきた。現実に追われるように生きていた私に、緩やかな時間と豊かな時間のあることを教えてくれた。あきらめることもないし、生き急ぐことなど何もないのだ、と。そして、淡いオレンジ色の清楚なその本を読み終えた時、私は救われたと感じた。ミヒャエル・エンデのおかげであり、主人公のモモのおかげであり、そして美知のおかげだった。

 

 美知を知る一か月前に、私は前妻から起こされた調停が成立して離婚をしていた。妻は私の母の介護に心が疲れ果てていたし、私は職場での諸々のストレスから家庭を顧みる余裕を失っていた。七十になる私の母は首から下はすっかり弱っているのに、頭と口だけは過剰なほどに元気だった。私に妻がいる以上は「嫁」の世話を受けるのは当然のことと考える母だった。調停の場で妻から出てくる話を聞きながら、私自身がいかに家族を省みなかったかに愕然としたし、妻が家を出たくなった気持ちは私にもよくわかった。しかし、改悛した現在ではなく、非難されるべきであった過去に対する責任を取らなければならないのが調停という場だった。今までの不実を幾分かでも埋めようと、私は住んでいる家以外のほぼすべての資産を妻に譲り、月々の送金も約束した。育児のために結婚後直ぐに仕事を辞めた彼女には今となってはパートの仕事しかないのだ。高校生になる二人の息子たちの親権は妻に委ねることにし、今後の教育費のすべても私が出すことにした。そんな私の思いには関係なく、息子たちは当然のように母親と住むことを選んだ。そして、私の家族は要介護認定を受けている老母だけとなったのだった。

 私の「時間」はそこで終わった。あとは母を送り、私自身の命が果てるまで残った時間をやり過ごすだけの生活になるのだと漠然とすべてをあきらめた。それが二年ほど前のことだ。

 私に妻がいなくなり私が仕事を続けなければならない以上は、母は施設に入ることを受け容れるしかなかった。美知は母が入った施設のカウンセラーだった。介護認定の面接や入院当初の煩雑な手続きを助けてもらったりした際にメールでの連絡が何度か往復し、やがて母のことではない話題でのメールの交換が始まったのだった。

 

 長い長いトンネルを過ぎた。列車はすでに福井県に入ったようだった。急に明るい真夏の日差しを受けて、始発で乗客のまばらな車内に効き過ぎている冷房で堅くなっていた体も、心までもが暖められてくるのを私は感じた。

 高校生になった息子たちが彼らの母親とともに私のもとを去って行ったあとに、まるで天から舞い降りてきたかのように、新しい命が私に授けられたのだ。生まれてくる娘は希望だった。私にとっては、まさしく私自身が失ってしまった時間を取り返してくれるかもしれない希望そのものなのだった。女の子だとわかった当初には「かぐや姫」と名付けたいくらいだとふと思った。いや、かぐや姫ではいずれ手の届かない遠くに行ってしまう。やはり人間の名前にしよう。最初に考えたとおり「桃」で決まりだ、そう独り言をつぶやいては心の中まで熱くなったものだ。こういうのを親馬鹿というのだと自分を笑いながら、私は生れてくる娘に最高の名前を与えたいと真剣に考え悩んだのだった。

 

 窓の外を北陸地方ののどかな風景が流れていく。学生の時に地理の授業で習った散村を思わせる小さな集落や見慣れたロゴを掲げた大きな家電の工場もまれに見えるが、ほとんどは何の飾りもない実質的な家々が散らばった一面の田畑の風景だ。どこまでも続く青々とした稲田の広がりは美しかった。

 何の脈絡もなく、児童憲章を思い出した。あるいは、稲田の広がりの美しさに今から伸びていく若い命を思ったのだろうか。妊娠がわかって、美知が嬉しそうに見せてくれた母子手帳に児童憲章が載っていたのだ。

「へぇ、母親と子どもの名前を書く欄はあるのに父親の名前はないんだね?」

 母子手帳の表紙を見ながら、私が呆けた口調でそう訊ねると美知はにこやかに答えたものだ。

「そうよ。生れてくる子は間違いなく私の子なの。あなたの子になるかどうかはあなた次第なのよ。がんばらなきゃね、おとうさん」

 美知にそう言われて初めて、二人の息子を持ったというのに母子手帳を一度も見たことのなかった自分に思い到った。最初の最初からしてすでに私は彼らの父親になれていなかったのだ。自分を守ることだけで精一杯で、周囲の人間への目配りなど思いもつかない人間だったのだ。離婚してからは息子たちの誕生日に手紙を添えて図書券などを贈っている。それが着くと妻から電話が入り、息子たちの近況を教えてくれる。妻も私も、不実であった私の過去や私の母の体調、あるいは妻や私の近況などには敢えて触れずに、息子たちの近況に限っての電話だ。二人の接点である息子だけの話題に限れば、結婚当初のような穏やかな会話ができるまでになっている。離婚というけじめをつけて、今はすっかり他人に戻ったからなのだろう。ちなみに妻は美知の存在を知らない。隠すことでもないし、私の近況が話題になればさらりと話せることなのだが。

 

 児童憲章

  児童は、人として尊ばれる。

  児童は、社会の一員として重んぜられる。

  児童は、よい環境のなかで育てられる。

  1. すべての児童は、心身ともに、健やかにうまれ、育てられ、その生活を保証される。
  2. すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもって育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。
  3. ……

   ……

12、すべての児童は、愛とまことによって結ばれ、よい国民として人類の平
  和と文化に貢献するように、みちびかれる。

 

 そこには子どもを持ち、育てるとはどういうことかのすべてが尽くされていた。桃を人として尊び、自分だけのものではなく社会の一員として重んじながら、正しい愛情と知識と技術をもって育てなければならない。人類の平和と文化のために、とまでは遠すぎるが、愛とまことによって互いが結ばれる社会の一員に育てなければ……。

 

 私には苦い思い出がある。思い出と言うが、つい二年前までの私のことだ。

 私が生れる時、難産だったために左腕の神経を傷めてしまい、その後遺症で私の左の腕の筋力は右の半分も無い。左腕自体をゆっくり動かしたり、定期入れなど軽いものなら持てるが鞄は持てない。握力がほとんどないのだ。腕の長さも右よりわずかに短く、力仕事に使われない腕は更に筋肉が萎縮して細くなり、ほとんど骨の形を浮き上らせている。

 生まれながらの障害を抱えて、子どもの頃から私は、自分が生き残るために、そして他から潰されないように、必死に勉強をした。そこそこの大学を出て、堅実な地元企業に就職し総務部長というポストにまで就けたのはそうした努力の結果だった。体で決定的な劣位に立たされている以上は、頭で絶対的な優位に立つしかないと子供心に考えたのだ。私は社会に背を向けて生きてきたとも言えるかもしれない。社会というものが愛とまことによって互いが結ばれている人の集合とは見えなかったからだ。他人は私の左腕に力の無いことを知ると哀れんだ顔を見せるが、それは慈悲の仮面の下で自分の優位を確認しているに過ぎないのだと私には見えた。子どもは正直で残酷だ。外見だけでは目立たない障害だが、体育の授業や遊びの時に「おまえの左の手、変やで!」と指差されたことも一度や二度ではなかった。

 自分の劣ったところを突かれれば、人はそれを庇うか隠すか、他で優位に立とうとするかのどちらかだろう。学生時代は制服に従うしかなかったが、社会人となってからは私は真夏でも半袖を着なかった。そんな私を海に引っ張り出したり、暑い時は涼しくしなきゃと半袖シャツを贈ってくれてその場で着替えさせたのは美知だった。前の妻にはそうしたところはなかった。ある意味では無理強いしない優しさだったのだが、今にして思えば他人(たしかに夫婦も互いに他人だ)に対する無関心からなのかもしれない。前の妻も私もどこかで社会や他人を斜に見ていたのではないだろうか?

 体の障害にこだわり続けるうちに、体ばかりではなく心もやがては「健やか」ではなくなるのが障害者なのだと私は思う。「すべての児童は心身ともに健やかに生まれ」などとは、まったくのウソではないか、と以前の私ならば右の拳を震わせて憤ったことだろう。今の私は変わった。美知と出会い、やがて桃が美知の中に宿ったことを知ってから、自分を取り巻く社会や多くの人々と自分とが確かに繋がっていることを感じ始めている。

 

 福井に停車。駅に出ている羽二重餅の看板に、ベビーの肌の感触を思い出した。初めて息子が生れた時には、さすがに物珍しくて最初の頃は育児の真似事をしたものだ。ベビーの肌は福井の羽二重餅のようだと思ったのははっきりと覚えている。あの時、左腕に十分な筋力があればオムツも替えられただろうし抱き上げることもできただろう。そうであれば息子たちとも妻ともまったく違う関係を作れただろうし、私の屈折した心も開かれていたのかもしれない。確かにそのとおりだが、有り得なかった「もしも」など誰もが持っていることだ。美知が言うように人は前を向いて生きていくしかない。私は私だ。現在の私でこれからを生きるしかない。

 桃を抱き上げることはできなくても添い寝はできる。ベビーカーを押すこともできるし手をつないで歩くこともできるだろう。本を読んでやったり勉強を見てやったりもできる。そして、何より、私は桃を愛しているよ、と満面の笑顔で伝えてやることができるはずだ。たしかに美知が教えてくれたとおりだろう。

 ふと思う。時間を取り返してくれるというモモは、やがて生れてくる桃ではなく、実は美知なのではないか。生来の障害にこだわり続け、離婚となった理由も息子たちに去られた理由もすべてを障害や母といった外の原因にしていたのが私の過去だった。そんな私の心を開いてくれたのは美知だったのだ。桃が生れるまでもなく、私は美知によってすでに人間らしい時間を取り返しているのだ、と思った。涙が出た。ありがたいと思った。何としても美知には無事でいて欲しいと思った。万万が一に、ベビーを諦めなければ母体が危ないと言うのなら迷わず桃を諦めようと思った。美知の母親に見せられた赤ん坊時代の美知の写真から、私の頭の中ではすでに桃の無心な笑顔が作り上げられているのだが。そう、美知こそが私のモモなのだ。

 私は手帳を開くと、美知の写真と妊娠八ヵ月目の胎児の影の写った超音波検査の写真とを見比べた。桃には申し訳ないが、ノイズだらけの白黒模様のような桃よりは美知の方が愛しく見える。やはりどちらか一方をと言うなら美知だな、と力の無い笑顔で馬鹿なことを考えている自分が笑えた。しかし、すぐに私は思ったのだ。この私が代われるものなら、美知や桃の幸せのためにそれが避けられないと言うのならば、喜んで私自身が犠牲になろう、と。

 

 携帯電話が鳴った。職場からだった。家族が入院したので休ませてもらう、とメールで送っておいたのだが、私の再婚も美知の妊娠も知っている部下からの連絡だった。

「実はね、生れそうなんだよ」

「良かったじゃないですか、部長」

「まだ生れてないよ。これからだ。悪いけど、頼むな。今日が金曜でよかったよ。月曜には出社するから」

 いくつかの事案について私の確認を取ると、彼はもう一度「本当に良かったですね」を繰り返して電話を終えた。離婚調停中の私を知り、美知と出会ってからの私を知る彼の声には作り物ではない祝意が込められていた。ありがたいと思った。この私もまた、「愛とまことによって結ばれ」た存在として社会に迎え入れられている。

 

 いつの間に金沢を過ぎたのか、次は高岡だというアナウンスが流れている。その次が富山だ。昨年は富山駅前からレンタカーを借りて美知の運転で神岡まで行ったのだが、普通の車を運転できない私は今回は高山本線と神岡鉄道を乗り継いで行くことになる。美知の母親とは夜中の電話で、生れた時にしか連絡しない約束になっている。途中経過を聞いても心配するばかりだからだ。そのため、陣痛はうまく進んでいるのか、帝王切開という手術になったのか、それとも自然分娩で時間がかかっているのか、今は何もわからない。携帯電話はまだ鳴らないが、陣痛がまだ本格的ではないのだろう。初産婦は陣痛が始まってからまる一日かかることもあると聞いているから、出産の時に間に合えばいいが、という思いだけで神岡に向かうしかないのだった。

 

 と、事件が起きた。高岡を出て直ぐに、車内放送で高山本線の遅れが告げられた。人身事故のため一時間程度、遅れる見込みだと言う。通りかかった車掌に尋ねる乗客がいて、人身事故というのはどうやら自殺らしい。高山本線の富山に近い駅で老人の飛び込み事故があったという話だった。

 新しい命の誕生に立ち会おうとしている私が、せっかくの命を自ら断ち切ろうとする人の最期に出会ったわけだ。以前の私とは違って、この急いでいる時に、という苛立ちは不思議と湧かない。すべては自分自身の小さな意思とは違うところで治められているのだ。死を選んだ人の事情はわからない。直接に聞かされても、死を選んだ理由など他人には理解できないものだろう。人にはそれぞれの世界があるのだ。自分の世界に他人の世界を組み込むなど無理なことだし、それは不遜なことだろう。今の私には人の自死を批難する考えはない。二年前に私が死ななかったのは母を送る責任があると考えたためだし、今、自殺など思いも付かないのは美知と生まれてくる桃のおかげだ。児童憲章にあった「愛とまこと」によって、家族を通して私が社会と繋がっていると信じられるからだ。

 美知から聞いた話を思い出す。私の母も入っている施設に入院している老人には「早くお迎えが来て欲しい」と言う人が少なくないと言う。現代に姥捨て山がないことは、老人に自ら生を終えるという選択を奪っているとも言えるのではないか、と言う老人問題の専門家もいるそうだ。持病の痛みや自由に動かない体と四六時中つき合い続け、肉親などからの精神的なサポートも得られない老人にとって、自死を選ぶことは「安楽」を選び取ることであり、ひとつの人間的な選択肢なのではないか、と。

 母は二年前からの入院生活を続けている。体調はなだらかな下り坂で、介護の手を借りることも多くなっている。母にとっての余生とは何なのだろう。美知の負担にならないように、彼女には私といっしょに週末に小一時間ほど母のところに寄るだけにしてもらっているが、彼女は仕事の合間にも母の様子を覗いてくれているようだ。美知が産休に入って六月末に神岡に戻ってから、私の気のせいか母の機嫌が悪い。母も美知の訪問によって癒されていたのだろう。ベビーが生れることを話しても母にはぴんと来ないようだ。最近では「美知さんはどこ? いつ戻るの?」というのが母から私への挨拶代わりになっている。形の見えない久し振りの孫よりは、美知の笑顔がありがたいのだろう。「○○子と違って美知さんは……」と、一々、私の前妻を引き合いに出さなければ、老いが進むとともに穏やかになったと思える母なのだが……。

 美知が母の生き甲斐になっているのかもしれない、とふと思う。同じように、家族に恵まれない老人にとって施設の職員の誰かが生き甲斐になっているのかもしれない。早くお迎えに来てほしいという人も、懐かしい歌を耳にすると自然に口ずさんだりして和やかな顔を見せるという。美知の言うとおりなのだろう。見たり、聞いたり、話したり、触れたり、あるいは、見られたり、話されたり、触れられたり、そうした受け身の接し方であっても、人と接することが生きていく楽しみになるのではないだろうか? 残った五感で自分が生きていることを感じられるうちは、人は幸せを見出せるものなのではないだろうか。

 

 高山本線の電車は、結局、三十分遅れで富山駅を出発した。神通川が見え隠れしながら電車の走行を見守っている。平野部を終え、軌道は上りになってくる。夏の光の照り注ぐ下に、渓谷を貫いて流れる神通川は精悍な藍色の竜を思わせた。見事だった。きらきらと細かな光の反射を返す藍色の水面は渓谷の深さを思わせた。かなり上流まで上がっているはずの所まで来ても川幅は広く流れも静かで、水の色も濃いままだ。昨年の秋に車で通った時は美知との会話に夢中になっていたのだろうか。今、深い色の水面には夏の緑が良く似合っているが、紅葉もさぞ奇麗だったのだろう。

 神通川は私の父みたいなものなの、と美知は言っていた。母親にも言えない辛いことがあると、大きな岩のごろごろした川原で川の流れをいつまでもいつまでも見つめていたと言う。いつも真っ直ぐな美知の強さは神岡での母と二人きりでの生活で培ったものなのだろう。美知にも社会に反発していい事情があったのに、彼女はそうしなかった。すべてを受け容れ、その中で自分を生かす道を選び取って誠実に生きてきたのだ。

 

 猪谷で神岡鉄道に乗り換える。時間調整をしたのか、長く待つこともなく小さなディーゼルカーに乗り込めた。富山から同じ行程を行く観光客も多いようだ。あと半時間で神岡らしい。猪谷からはトンネルばかりだ。陽と陰とが目まぐるしく入れ替わる。深夜の電話のあと、職場へのメールを送信したり、二泊三日の泊まりの準備をしたりで、結局は三時間しか眠っていない。神岡がすぐ近くになって安心したせいで疲れが出たのか、ここで少し一休みという気になった。大きなあくびが出ると、すっと肩の力が抜けた。

 目を閉じる。ふぅーー、とゆっくり息を吐く。大きく息を吸い込み、もう一度、ゆっくりゆっくり息を吐く。肩の力がどんどん抜けて、右肩に掛けた鞄の重みも遠のいていく。

 

 私は真っ暗な車両の中にただ独りだ。神通川の深い渓谷の底にトンネルが通されている。ここは川の底だ。見上げると、トンネルの上を巨大な藍色の竜のような神通川がくねっている。いや、トンネルの天井が竜の青白い腹だ。竜が水を堰き止めて渓谷の底にトンネルを作り、私を神岡へと導いてくれているのだ。ゴォォォォと唸りを上げながら藍色の竜は私を神岡へと急がせる。急げ。急げ、急げ! 桃が生まれるぞ。おまえの桃が生まれるぞ! 玉のような女の子だぞ!……

 

 ほんの一瞬だった。睡眠不足のせいでうたた寝をしかかっただけのことだった。もう直ぐ神岡に着くらしい。周囲の他の乗客がカメラや鞄を確認しながら、互いに旅の思いを伝え合っている。夢の中で見た竜には見覚えがあった。私の住む京都で見た竜だ。

 昨年八月の盆休みに、今年は神岡に帰らないという美知と金閣寺から等持院、仁和寺をまわり、折り返して竜安寺の石庭を見た。そのあと、近くの店で懐石の弁当を摂ったのだが、蝉の声も鎮まってきた夕暮れの庭を眺めながら食後の暖かい煎茶を楽しんでいる時に、店の人が教えてくれたのが妙心寺だった。法要の行われるお盆の期間中だけ、法堂の扉が開け放たれて、狩野探幽が描いたという天井の八方睨みの竜を間近に見ることができると言う。

「ぼくはヒツジ年の山羊座なんだ。竜に食べられそうだな」

「私はイヌ年。竜よりは逃げ足が速いんだよ、きっと」

「そうか、イヌ年なんだ。ヒツジの番犬ってところかな?」

 私は軽口でそう言ったのだが、美知は真面目な顔で私に求めたのだ。

「私、子どもが欲しい。結婚とか入籍とか、息子さんたちのこともあるだろうからそれはあなたの気持ちが落ち着いてからでいいけれど、今、私は子どもが欲しいんです」

 三十一歳という年齢もあるから、と美知は呟くように言って、じっと私からの返事を待った。美知と付き合い出して一年近くになり、一生ずっと連れ添って生きて行くだろうという予感、いや確信は二人の中で出来上がっていたが、子どものことは考えたことがなかった。母を送り、息子たちが社会人となって、自分だけの体になってから、結婚という形を整えればいいように私は漠然と考えていた。まず結婚があり、次に子ども、とぼんやりと捉えていた自分がおかしかった。いや、これは子どもを産まない性である男の無神経さなのだ。女である美知に、私は真剣に応えなければならない。

「子どもが生まれたとして、その子が十三歳の時にぼくは定年を迎えるよ。年金も頼りにならない時代だし、君にも話したように、定年までは毎年そこそこの金額を送金しなければならない先もある。そのことは、どう考えている?」

 ボーナス相当額は前妻への送金で消えるし、あと数年間は息子たちの教育費と母の入院費でほとんど余裕がないのだ。

「もちろん仕事は続けるの。子どもができてもそれは決めていることなの」

「子どもが好きなんだね」

「お年寄りも好きよ。でもね、私自身が前を向いて生きて行くためにも、一つの命を生み、育ててみたいの」

 美知ならできるだろう。美知なら強く真っ直ぐな子を生み育てていけるだろう。しかし、その子が成人する時に私は六十七歳だ。まだ六十七歳だろうか? それとも、もう六十七歳なのだろうか?

 私は美知に彼女の母親に会うために神岡へ行く提案をし、その上での入籍を約束した。私自身も介護される身である母も、育児で美知を助けてやれない以上は彼女の母親の助けが要ると考えたからだ。母は絶対に喜んでくれる、と美知は言う。子どもを生むことに決まって、美知は目を輝かせて喜んだ。自分の年齢にわずかながらの迷いも残っていた私だったが、美知の笑顔を見ると、これで良かった、と自信が持てた。美知といっしょに私は私の時間を生きるのだ。もう決して独りではない。

 あの日、夕暮れから夜に移る中を竜安寺道商店街を南に下がって北門から妙心寺に入った。北門前には露店が並び、盆灯篭が通りを照らしていた。たくさんの浴衣姿の地元の家族連れに混じって、私たちは多くの塔頭の建ち並ぶ構内を法堂へと向かった。遠目にも法堂の賑わいが見えた。周囲の扉を外して五色の幕が下げられた法堂は照明と無数の蝋燭で明るく輝いており、香が焚かれ、若い僧侶たちの力強い読経が絶えることなく続いていた。

 と、そこに竜がいたのだ。天井に竜が描いてあるはず、と見上げるまでもなく、五色の垂れ幕に囲まれた中に凄まじい形相の黒い竜が私たちを見下ろしていた。天井一面に竜はとぐろを巻いて悠々とこちらを見据えている。邪心のある者はとても正視できないだろう。心の中を見透かしてくるような慧眼だ。その竜の眼を私はしっかりと見た。隠れることも怯むこともない。私は私だ。そして私は誓ったのだ。私は美知と生きて行く。美知の幸せのために、生まれてくるかもしれない私たちの子どもの幸せのために、私は全身全霊を捧げて最善を尽くそう。そしてそれが、他でもない私自身がより良く生きるということでもあるのだから、と。

 

 窓から見覚えのある神岡の町が見え始めた。川を挟んだ山側には鉱山関係の大きな建物が夏の光の中に並んでいる。鉱山会社の建物の多くは山肌の色に近い色調で、角張った硬さといい乾ききった様といい、山にすっかり融け込んでいる。最盛期のような賑わいはないのだろうが、夏の光の中で神岡の町はけっしてさびれては見えなかった。山に取り囲まれた町の中を神通川の支流の高原川が流れている。さすがにここでは流れは浅く幅もそう広くはない。しかし、雪解け水なのか台風の大雨なのか、どれほどの水の力が働いてここまで流されてきたものか、人の背ほどの大きな岩が川原一面に散らばっている。自然の大きな力が働いて作られたこの土地が美知を育ててくれた町なのだ。

 神が通った川。富山湾から飛騨の山中まで、太古の時代には神が往来したこの流れを、今、私は美知と桃とに出会うために上って来た。自分の障害を受け容れられなくて、神も仏もないと歯を食いしばって自分だけに執着して生きてきた自分。時間を見失って、うなだれて生きていた自分。そんな頑なであった私が、今は何かに素直に祈りたいと思う。美知と出会えたことも、美知に桃が宿ったことも、すべてが天の啓示に思えるから。神は信じられない私だけれども、先程の竜ならば信じよう。確かに私を守りここへと導いてくれたのだから。

 大いなる藍色の竜よ、あなたは美知の父なのか? あなたの娘 美知を守り、安らかに玉のような娘が生まれてくるよう、あなたの力を惜しむな。私も私の力の限りを尽くして、美知と桃の幸せのために生きよう。互いが愛とまことによって結ばれるように。人が人として尊ばれるように。

(了)

 

 

 

 

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