じゅん文学31号(2002年3月)

 

 

 

 

教授回診で〜す!

 

 

 

「田戸教授の総回診で〜す!」という羽丹婦長の院内放送で教授回診が始まる。今日は週に一度の教授回診日だ。これは患者のためであり、研修医のためでもある。

「あなた、今すぐに死んでごらんなさい」

「えっ、そ、そんな」

 速河センセが泡を食った顔になった。

「でしょ? 病気ってそんなものよ。いつだって不意打ちなんだからね。不条理なのよ、本来が。患者になったら誰だって混乱しちゃうんだからやさしくしてあげんのよ、わかった?」

 回診中に質問してきた患者のおばあさんに田戸教授は10分以上もかけて実に実に丁寧に説明をしてあげていた。そのおばあさん患者は自分の病気について何も説明を受けたことがないかのような口ぶりだったのだ。

 主治医の速河ゆかりセンセがぶつぶつ言い訳している。

「あれだけ詳しく説明したのに……。何にも聞いてないんだからなぁ、ブツブツ」

「怒んないの、速河センセが優しいのは皆ちゃんとわかってるんだから。病気になったら誰だって……そう、私だってへたっちゃうんだよ」

 地獄耳の田戸教授は回りのみんなのどんな呟きも聞き逃さない。

 速河ゆかりセンセは確かにきちんと説明したのだろう。立て板に水のように理路整然と淀みなくすべてを尽くしたに違いない。優秀な成績で卒業した女医であり、きちんきちんと要所を押さえていてうっかりミスのない優等生である。万全のインフォームドコンセントだったのだろう、彼女の中では。しかし、これは研修医によくある根本的な勘違いの一つなのだ。すべての人間は筋道を立てて考える、とか、すべての人間は聞いたことを覚えている、とか。そんなの実はありえないことなのだが、「自分の仕事をこなす」「自分のベストを尽くす」という自分中心の視点でこの医療という仕事に当たっていると実は何も見えないものなのだ。

 週に一度の教授回診は入院患者たちにも好評である。教授回診といえば、患者を標本扱いして白衣の集団だけで話を進めていってしまう場合が多いものだが、田戸教授は、患者にも主治医とのディスカッションに加わってもらうというスタンスで話しかけているからだろう。ま、確かに風貌だけだと田戸教授も井戸端会議のおばちゃんの一人になってしまう。でも生活実感がなければいい医療は難しいものだ。

羽丹婦長の先導で医師団が順に病室を回って行く。田戸教授のうしろに控えている黒坊助教授はいつもニコニコだ。その名のとおり、顔は色黒で頭は坊さんのようだ。達観した行者の風貌である。何でも「黒坊先生はニコニコしているだけで患者さんを治すんだからたいしたもんだ」ということで助教授に抜擢したという噂だ。さすがにそれはないだろうが、回診中もニコニコしては患者さんの肩をさすったり、足のむくみを指で押して確認してはピースサインを送ったり、子どものふさふさとした黒髪を羨ましそうに撫でつけてみたり、女性の患者にはウインクを欠かさないし……と、スキンシップの大切さを研修医に見せている。

黒坊助教授に続くのが客員教授のルズユセハ・カッサルナイダイ先生だ。カッサルナイダイ教授はどこか東南アジアのご出身だそうだが、交換教授制度を利用して日本の医療を視察されている。

「♭●*#%☆、♀∬♂?」

「イエ〜ス」

「♀♪▽♪★◎♀∞♀!!」

「オゥ、サンキュー!……カッサルナイダイ先生がこの縫合をとても誉めてらっしゃるわよ。縫ったドクターに祝福のキスを差し上げたいそうよ。……村木センセ、出てらっしゃい」

「ゲッ、それは坂井先生が……」

「村木センセ、主治医は君だよ!」

「坂井先生、そ、そんな、ズル〜イ! 美佳乃さんの縫合は先生が……」

「ゴチャゴチャ言わずに出なさい! 主治医だろ、君が!」

 ぼくも厳しい指導医に徹する時がある。こういう場合だ。

 縫合したのが若い女性のドクターだとわかると、カッサルナイダイ教授はもう鼻息が荒くなりしきりに舌なめ摺りを始めている模様だ。これも研修医の試練である。

 カッサルナイダイ先生と話が通じるのは田戸教授だけだ。一応は英語で話されているらしいのだが、癖の強い発音はぼくらにはほとんど理解できない。筆談はもっと通じない。彼の筆跡はどう見てもミミズの這った跡だからだ。げに国際交流は難しい。

 次の病室はおじさんばかりの4人部屋だ。不整脈に、肝硬変、通風、糖尿病の4人。アルコールで健康を壊したと自認している4人組が集まっている。一時期危なかった肝硬変の川北さんは今はすっかり持ち直して、この部屋の牢名主になっている。痛風の荒浪おじさんだけがやたらと元気だ。足の親指の痛みが消えてしまえばケロッとしたものである。

「何かアルコール臭くない、この部屋? 気のせいかな? あんたたち飲んでない? 治ってないのに飲んじゃダメよ」

 田戸教授はまじめな顔だが、ぞろぞろと付いて回っている医師たちも患者たちもニヤニヤ顔である。

「教授、飲んだりしませんよ、ぼくら。みんな元気なくして寝込んでるんですから」

 荒浪さんは船乗りさんで顔も腕も真っ黒だ。

「寝込んでた顔じゃないわね。もうそろそろ飲みたくなった、っていう顔じゃないの。薬、ちゃんと飲んでる?」

「ドリンク剤で飲んだらよ〜く効くんですよ、これが」

 ペースメーカー埋め込み後の定期検査で一泊入院の野水さんだ。見ればベッドサイドにドリンク剤の空き瓶が並んでいる。荒浪さんが若い奥さんに頼んでまとめて買って来てもらってはみんなにも配給しているという。マムシやらスッポンやら諸々の粉末が入っていて、荒浪さんの若さの秘訣らしい。

「どれどれ? あらっ、ちょっと、これ、お酒じゃないの!」

「はぁ?」

 荒浪さんも野水さんもきょとんとしている。

「アルコール入りよ、これ。そりゃ効くはずだわ。はい、これ残り全部没収ね。研修医に差し入れ、ってことにしましょ」

「えええっ、そんな殺生な。精力付いてうまかったのに、あれ。トホホホ」

 入院中に精力つけてどうすんの、と突っ込みたいところだが、くしゅんとした荒浪さんの様は哀れでもある。

 更に田戸教授は何かピ〜ンと来たのか、病室の隅にある共用の冷蔵庫を開けるとゴソゴソと中をチェックし出した。こういうところがオバチャン教授の強いところである。家に帰れば相思相愛の旦那と並んでいっしょにキッチンに立つそうだ。

「う〜ん、やっぱりね。これ誰の? おいしそうな匂いがすると思ったら酒粕じゃない。あぶって食べてたんじゃないの、もしかして?」

「あ、ああああ、教授、そこまでしまっか。……とほほほ、見付かってしもたがな、野水はん」

 川北さんはしょげ返っている。野水さんはニヤニヤと諦め顔だ。四人とも完全な断酒状態になりガックリきている。しかし、ここは病院である。野暮なようだが、あきらめてもらうしかない。

「速河センセ、野水さんのペースメーカーのバッテリー、大丈夫だったでしょ? それから、荒浪さんの尿酸値は?」

「は、はい。緊急点滴をして9まで落としました」

「そう。尿酸の正常値は?」

「は、はい。あの、あの……」

「数字はだいたいでいいの。元気になればいいのよ。数字だけ見て診療しちゃダメよ」

「は? あわわわわ」

 教授にあるまじき大雑把な回診だが、患者の前ではこれでいいというのが田戸教授の方針だ。細かい指導は歩く医学事典と呼ばれている坂井講師(と、ぼくのことだが)が手取り足取りやっているのだから万全である。

 教授回診も佳境に入って、残るはVIP用の個室に入院している佑方喜与子女史だ。佑方女史は当地選出の国会議員の妻で、ご当人もたくさんの役職を引き受けている。婦人会や赤十字、ペット愛護団体、街の緑化推進会に留学生の母親会、老人福祉協議会に出身女子大の同窓会会長、何とかを守る会に何とかの廃止を求める会、何とか委員会にかんとか協議会……と、本人でも時々「推進」だったか「反対」だったか間違えるそうだ。ま、とにかくひっきりなしに電話やファックスの連絡が入るものだから病状は軽いのに特別室に入ってもらっている。これといった症状はないがとにかく全身の憔悴感の訴えである。更年期ブルーという奴か、はたまた慢性疲労症候群というべきか?

「どう、佑方さん、元気になった? ぐっすり寝たら少しは元気が出るんじゃない? あなた働き過ぎよ。私みたいにグウタラやんなきゃ持たないわよ、もう若くないんだし」

 田戸教授とは昔から知合いらしい。

「私の方が田戸先生よりず〜っと若いのに何で私ばっかり病気になるのかしら? 健康食品やビタミンのサプリもたっぷり摂っているし、エアロビクスは毎日だし、週に一度はエステで全身パックもしてきたのに。田戸先生、自分だけいい薬飲んでない、こっそり?」

「ふふふ。そんな都合のいい薬ないわよ。休息が一番なのよ。エステで皺を伸ばしてもらうより、たっぷり休んでから外で若い男を追っかけた方がよほど若返るわよ、あなた。あはははは。……主治医は大坂部先生だった? 大坂部センセ、どう? 何か引っかかった? 入院時に一通り調べたんでしょ」

 大坂部センセは頭をボリボリ掻きながら笑いで誤魔化している。どうも検査結果をどう解釈していいかわからないようだ。

「いいんじゃないの。骨密度も……お、若〜い。うん、自信持っていいんじゃないすか」

 カルテに目を通していた黒坊助教授がニコニコして言う。元気を与えてくれる価値ある笑顔である。

「元気出しなさいよ。更年期だとか思秋期だなんて言ってないで、睡眠さえたっぷりとったら大丈夫よ。診断名は“過労”ってことね」

 と、その時、大坂部センセがもじもじと呟いた。

「教授、あのう〜、佑方さんですが、妊娠反応検査をしたんですが……」

「は?」と田戸教授。

「へっ?」と黒坊助教授。

「∬♪♀!」とルズユセハ・カッサルナイダイ先生。

「ぎょっ!」と羽丹婦長。

「きゃっ!」と速河センセ。

「んぎゃ?」と村木センセ。

「ほへっ!?」と海田センセ。

 田戸教授も他のみんなも大坂部センセの顔を見つめて、続いて出て来るであろう言葉に大きな驚きを準備しているのが明らかだ。

「ど、どうだった……の?」

 普段は冷静沈着な田戸教授さえもが動揺を隠せないようだ。まったく動じていないのは大坂部センセだけのようだ。みんなの過剰な期待に逆に言いにくくなったのか、頭をボリボリ掻きながら困ったなという顔をしている。

「どうだったの。早く言いなさい!」と田戸教授。

「はぁ、いえ、そうじゃなくて……」

「そうじゃなくて、何なの」

「はぁ、妊娠反応をしてしまったんですが、してよかったのかなぁ〜?、と」

「ん?」

「あのですね、前に坂井先生から妊娠年齢じゃない女の人に妊娠反応などというとんでもない検査はするな、って教えていただいたんですが」

「妊娠年齢じゃない、とはどういうことですの?! とんでもない、とはどういうこと! 私はまだまだ“旬“のオンナですわよ、失礼な!!!」

 むむむ、ベッドの上に座って病人になり切ってうなだれていたはずの佑方女史がキッと面を上げると大坂部センセを睨み付けた。う〜ん、すごい迫力。さすがは選挙で鍛えた国会議員夫人だ。

 後ろの方から聞こえた「恐〜い」という声は村木センセか。一方で大坂部センセは鈍感なのか大物なのか、なおもニコニコしながら髪の毛をボリボリだ。

「そ、そんな話じゃなくて、結果はどうだったの?!」

 興奮した佑方女史を鎮めるべく、田戸教授は本題に戻そうと必死だ。

「は? もちろん陰性でした。妊娠はないっすよ」

 言うまでもない、というそっけない答え方で大坂部センセが答えた。

「まぁ、もちろんとはどういうことですの! え? 大坂部先生、おっしゃい! も・ち・ろ・ん、とはどういうことですの!!!」

 佑方女史は顔を真っ赤にして毛は逆立ち、全身をぶるぶる震わせながら、腕を振り回している。般若か仁王か赤鬼か。

「いやぁ、ははは、困っちゃったなぁ」と、大坂部センセはなおもボリボリ、ニコニコ。すごい、これは間違いなく大物だ。

 そうこうするうちに、佑方女史の両の黒目だけが天井の方へすう〜と動いて行くと同時に全身がガクガクと大きく揺れて、そして終にはベッドの上に大の字に倒れてしまった。あわ、あわ、あわわわわわわ、と口からは泡も吹いている。

「あら、ま、ナイーブな奥様ねぇ」

 付いていた研修医や若いナースがたじろぐ中で、数秒で収まると見抜いている田戸教授や黒坊助教授たちはまったく動じない。

 実際に、何もせずに待っていると、ちょうど10秒後には佑方女史は大きな目を開けてむっくりと上体を起こした。長い長い睡眠から目覚めたようにすっきりとした顔をしている。

「あら、皆さん、ごきげんよう。今日は回診だったかしら?」と何も記憶にないようだ。

「佑方さん、あなたもうすっかり治ったわ。もう退院していいわよ」と田戸教授。

「まぁ、そう。そう言えば体がすっかり軽くなったみたいですっきりしているわ。大坂部先生のお薬が効いたのかしら?」

「いやぁ、あははは」と大坂部センセ。ニコニコ、ボリボリ。

「そうね、ちょっと効き過ぎかもね」

 田戸教授は「これで一件落着」と聴診器を外して羽丹婦長に返している。かくして本日の教授回診も大過なく終了である。研修医の指導担当としては肩の重い重い荷をやっと下ろせたわけだ。めでたし、めでたし。

 

 

 

 

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