『おだわら文藝』No4(1995.1月)

 

 

  

 

 

「先生、これ引っ繰り返ってるよ」

 看護記録に術前のバイタルの記録をつけていたナースがぼくに目配せした。手術室のシャウカステンに架けた胸部のレ線写真が左右逆だと言うのだ。麻酔科のドクターが何か言いそうになったのを止めようと、主治医のぼくは咄嗟にそのフィルムを手に取った。

 まだ手術室に入ったばかりで、手術台の上に横になっている坂本さんの身体が強ばっているのが、嫌でも目に入ってくる。手術前の緊張よりも、自分の心臓が話題になっていることへの怯えのせいだ。

 「右胸心」……心臓が通常とは違って、胸の右側にあること。

 それだけのことだ。そう、ぼくら医療関係者にしてみればそれだけのことなのだが、手術前の検査で撮った胸部レントゲンで右胸心を知ったぼくが、珍しいですねぇ、と言おうとするより早く、坂本さんは深刻というか真剣な顔でぼくに懇願したのだった。

「先生、心臓のことは絶対、秘密にして下さい。妻は何も知らないんです。こんなことが知れたら……」

 坂本さんはそう言って、ぼくの腕を掴んで、約束してくれと哀願したのである。

「先生、男と男の約束です。このことは先生一人の胸にしまっといてくれますね」

 そう言われるほどのことじゃないんだがなぁ、右胸心なんて。そう思うものの、坂本さんのあまりに深刻な顔を見ていると、シロウトさんにしてみれば、やはり心臓が右にあるってのはすごいことなのかな、という気にもなってくる。

 聞けば、坂本さんは中学まで左利きだったのを、右胸心を知った中学三年の時から「必死に訓練して」「人並みの」右利きに変えたのだそうだ。利き手と心臓の位置には関係はないはずなのだが、彼に言わせると、心臓をはじめ内臓全部が逆になって生まれたせいで「世の中すべて」が逆だと言う。

 坂本さんは言うのだ。手も足も耳も目も、すべて左右が逆に付いて生まれついた悲劇の人なのだ、と。彼の右目は本来左側にあるべき眼球であり、右にあるものは左に見え、左にあるものは実は右に見えているのだという。頭がそうした異常事態に慣れてきたせいで、左右が逆に見えていても手や足に逆の命令を出してくれるおかげで人に知られずにきているだけなのだ、そうである。

 馬鹿馬鹿しい、とあっさり無視する手もあったのだが、「ほう、そんなこともあるかもしれないな」などと、科学者の目を一瞬横に置いて、物事をおもしろくしようという遊び心から、坂本さんの哀願を受け入れてしまったのだ。「わかりました。でもねぇ、麻酔科の先生には黙っとく訳にはいきませんよ。第一、レントゲンを見れば一発ですからね」

「ですから、先生方だけの秘密にしてくれませんか。ほかの患者や看護婦さんたちに知れたら、あっという間に広がってしまうでしょう。万が一にも、幸江にこんなことが知れたら……」

 坂本さんは本気なのだった。妻の幸江さんは、確かに線の細そうな華奢な体付きの可愛い感じが残っている人だ。このことを知らされたら、「えっ、心臓が右にあるなんて、そんな馬鹿な……」とか何とか言って気を失いそうな気もしてくる。

「先生、これでよろしゅうにお願いします」

 坂本さんはそう言って、ガウンの下から大型の封筒をぼくに差し出した。「志」と書いてある。

 御礼、寸志、薄謝、志、御挨拶、……そうそう、松の葉なんて書いてあるのもあったな。要するに、袖の下を渡すからよろしく、というわけだ。よろしく、などと言われても何をよろしくすればいいのかわからない。手術は若い医者にとっては自分の練習だから、頼まれなくても(拙いながらも)自分のためにベストを尽くすし、術後をこじらせると休日にまで仕事が出てくるからやるだけのことはやるしかないのだ。部長にしたところで、手術成績をまとめて学会発表するために手術をこなしている訳で、袖の下の有り無しで治療が変わったりはしないのだ。要するに、医術は人のためならず、すべて医者自身のため、ということなのだが……。

 と、それはさておき、坂本さんから部厚そうな「志」を差し出されて、ぼくは困った。

「いやぁ、そんな気を使ってもらわなくていいんですよ」と、いつもどおりのセリフは出たものの、それから後が続かない。

 一、二度遠慮した上で「では、研究費にさせていただきましょう」とつぶやいて、きっちりもらってしまう、というのが先輩から教わったマニュアルなのだが、今度の「よろしく」はどうも趣旨が違うようなのだ。坂本さんの右胸心をナースたちに隠し通せというのだから、きわめて難しい注文と言わねばならない。

 坂本さんはさっきから白髪の混じった頭を若造のぼくに下げたまま、「どうか、どうか……」を繰り返している。彼の真剣な「志」にぼくは打たれた、と言うか、分厚い「志」に目が眩んだ、と言うか……。

「わかりました。最善を尽くします」

 ぼくは彼の「志」を受け取りながら、マニュアルにはないそんなセリフを口走っていた。しかも左手では彼の心臓のある側の肩を軽く叩きながら、「大丈夫ですよ。心配要りませんからね」とまで言ってのけてしまったのだ、根拠もなく。

 ともかくも、彼の秘密を守ることが双方の利益になることは確かだったから、あの日、ぼくは力強く彼にそう約束してしまったのである。

 

 坂本さんの病気は、よくある良性の甲状腺腫瘍だったから、手術もすんなり仕上げて、術後経過も良く、一週間後に退院になった。

 やれやれである。治療を「よろしく」したのは当然として、守秘義務を「よろしく」守るほうは、手術室のナースをはじめ、何度か緊張する場面があったのだから、全く、やれやれなのだ。知っているのは主治医のぼくと、担当の麻酔科のドクターと、それと部長だけだ。いちおう真面目な顔でぼくが部長にその件を話した時、部長はにやにやしながら「腫瘍だけが病気じゃないからな。気持ちのケアもしてやることだな、ワッハッハ」と言っただけだった。どうも部長にも坂本さんの「志」は届いていたようだ。

 

 さて、話はこれからである。

 退院の挨拶にケーキの大きな箱を持った奥さんの幸江さんがナースステーションを訪れた。

「先生、看護婦さん、たいへんお世話になりまして……。先生、主人が心臓のことでご無理を言ったのではありません? 私にも内緒にしたいみたいですから」

「えっ」

「やっぱり。……あの人ったら、馬鹿ねぇ。そんなこと、毎晩一緒に寝てればすぐにわかることですのにねぇ」

 その時、流し目になった幸江さんの目尻の小皺にうっすらと紅が差してあるのが、妙にぼくの記憶に残った。

 ぼくがまだ結婚していない、医者になって三年目の春のことである。

 

 

 

 

 

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