『じゅん文学35号』同人評シリーズD(2003年3月)

 

 

 

 

小久保圭介『熊野父』(34号)を読む

文体の魅惑と文体の呪縛

 

 

 

 

 

 小久保兄が書いた『熊野父』を読みながら、いつかこんな気分で本を読んだことがあったと思い当たり、ふうっと熊野の空を思ったら、無性に中上健次を読み返したくなり、ウチの書棚にある中上の数冊の本の中から『枯木灘』と『岬』に挟まれた『鳳仙花』を抜き出してみたのだった。これを最初に読んだのはいつだったかいねと読み進めば、フサの子どもらの名前に郁男やら芳子、美恵、君子、泰造と続き、龍造との子の秋幸が出て来ると、おおお秋幸じゃ秋幸じゃと昔の連れに会うたようで嬉しく、やはり中上は中上じゃねとこちらまで熊野の言葉に染り、中上の文体になっとるわいよと自分の書いている文章に半ばあきれ半ばはうんうんと肯く。中上が繰り返し書いた熊野の土地にはヤマトとは違う土の匂いがするんかしらんと思て、小久保兄の『熊野父』を探せば、「太もも出してコーヒー運んどおる」女子高校生の太ももやら「花柄様」の「ブラジャー様」から飛び出した乳房やらが目の前に白く浮かび、その生温かさと匂いまでもが紙面から伝わるようで、おおおおこれは中上じゃ中上じゃ、小久保兄や長谷兄もそしてもちろん井坂も大好きな匂いじゃわいねとひとりごちながら、紙面に鼻こすり付けている自分に驚き笑う。熊野はほんに精液と血と汗と涙の街じゃねぇ、とたわけをつぶやき読み進めば、小久保兄は「衛生サック」じゃ「シャブ」じゃと昭和三十年代日本文学にたびたび顔を出す懐かしい文学用語を使い、どないね懐かしいかいねと聞いてくるようで小久保兄の人なつこい笑顔が浮かび、そうじゃそうじゃ吉行も小島も安岡も遠藤もこんな言葉で書いとったわいねと嬉しくなる。

 

 ……というように、文は文体である。人も文体だ。何を書くかは大事だが、どう書くかも小説作りの要諦であろう。句読点の打ち方、一文の中にいくつの主述を内包させるか、主語の省略の程度をどうするか、どこの方言をどれだけ組み込むか、セリフをどれだけ独立させどれだけ地の文に紛れ込ませるか、……。様々な面から分析してみると、その書き手に特有のあるパターンが存在し、確かにそうした文体には読者をしっかりと掴んでしまう魅惑がある。

 野人中上健次が出た時は鮮烈だった。日本中のマトモな小説を読むインテリ層(読書愛好癖のある現実適応型「中の上」知識人)のほとんどが上品でひ弱な都市型生活者となり、精液と血と汗と涙から遠ざかった時に中上は出たのだった。既成の美文を敢えて否定して、ゴツゴツした野性の文体を選んだのは中上の見識である。中身に見合った器を用意したわけだ。

 最近、「在日」の作家の一部が中上と同種のネタを新鮮めかして書いているが、何も新しくはない。在日の世界がすべてそうであるかのように誤解されるのでは、と他人事ながら心配になるだけだ。

 新しいものを書こうとすれば過去の文体の呪縛から逃れないと新しいものには到達しないだろう。中上がやったことは美文に慣れた日本文学愛好家に、こんな書き方もあると見せてくれたことだ。そこにあったのは、生の根っこにまで下りていって魂をグイッと掴み出す逞しくゴツゴツした男の手の魅力だった。

 小久保圭介の手はやさしい。中上よりははるかにやさしく、井坂よりもなおやさしい手をしている。中上や井坂よりも劣るなどと言っているのではない。人それぞれのアプローチで自分探しをして行くものなのだから。過去には華奢な指先でひょいと生の根っこをつまんで見せた天才たちも多くいた。生の根っこを掴みたいのは中上も小久保も、そして井坂も同じなのだ。

 井坂の独断だが、人間の骨は十代までに決まり、二十代までの知識と経験がその人間の血となり肉となる。人が、文学なり絵画なり音楽なり演劇なりスポーツなり政治なり科学研究なり、何らかの自己表現を目指し続けるのは、二十代までに獲得した血が騒ぎ肉が躍るからなのであろう。

 小久保圭介が今までやってきたことは常識的な世界を懐疑するゆえの常識的な文体の破壊である。現実適応力が過剰なまでに旺盛な現代人に向けて、そもそも過剰な現実適応力などあった方がいいのかどうかという痛烈な問いを発しながら小久保は「我は正しき道を行く」と彼自身のペースを守って見せる。

 寡作のためか小久保圭介の全貌はまだ明らかではない。たしかに今のところはまだ痩せ蛙である。頭に「暴れん坊将軍」と書いた鉢巻を締めて「無常」と「希望」の二本の幟を持って立つ痩せ蛙だ。まだじゅうぶんに暴れていない以上は、生の根っこは掴めていないように私には見える。だが、文体としての小久保圭介はたしかに「暴れん坊将軍」そのままである。彼の存在そのものが強烈な批判であるのと同じように、彼の文体も強烈な存在感を持つ。

 ま、ごちゃごちゃ言うことはないか。

  痩せ蛙 負けるな 井っ坂 これにあり……なんちゃって。

 小久保ぉ、バシバシ書いて暴れろよ!

 

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