四行半診療録余滴シリーズ(7)

医師と鋏は使いよう

 

「先生、これ、病理に出しときますよ」

 そう言って村木ジュン子センセは一円玉の大きさの真ん丸の皮膚組織をぼくに見せに来た。他の病気で入院中の美佳乃アキさんが胸元のホクロが気になるというので切除することになったのだが、こんなに丸く切り出してあとはどうやって閉じたんだろう? 普通は紡錘形に切除してから寄せて縫い閉じるのだが……。

「センセ、で、あとはどうしたの?」

「適当に縫っときましたよ。血も出てないし、バッチリです」

 おいおい、術後出血がなければいいってもんじゃないだろう。美佳乃さんをまだ病棟へ帰していないというので、村木センセといっしょに回復室で恐る恐る前胸部のガーゼをめくってみる。……あわわわわ。な、何と傷は十文字に大きく糸を掛けて縫ってあった。まるで出臍だ。いや、場所柄、第三の乳首かな? 浅い部位の小さな切除手術だからと任せたのが甘かったようだ。今までさんざん思い知らされてきたように、「げに恐ろしきは研修医」なのだ。 

「村木センセ、これでもいいんだけど、少し工夫してあげるとシワみたいになっちゃってほとんど目立たなくなるからね。縫い直してあげようね。……きれいな患者さんだから、きれいにきれいに治してあげないとねぇ」

 トラブル回避のためには不本意ながらも歯の浮くようなお世辞も言わなければならないのが指導医の仕事だ。患者さんの手前、研修医を頭ごなしには叱れない。

 女は死ぬまで女なのだし、ましてや美佳乃さんは若い頃にはモデルもしていたという美貌の持ち主なのだ。縫い直さないわけにはいかない。胸元にも乳首があるのでは着る服にも困るだろうし。

「……美佳乃さん、10分で終わるからぼくに縫わせてくれませんか?」

 美佳乃さんの肩に手を置いて、目を見つめながらゆったりと話し掛ける。さりげないスキンシップをとること、目を逸らさないこと、静かにゆったりと知的に、それでいてイヤとは言わせない力強さも必要だ。おばちゃん患者をこちらの意のままに動かすには修練がいる。学生時代に合コンや合ハイで鍛えた対女性ストラテジーがこんなところでおおいに役立っている。

「まぁ、先生、こんなおばあちゃんなのに……おほほほ……きれいだなんて、……ふふ、ふ、ふふふ。どうしよう、わたし」

 やれやれ、どうやらこれでもう一度手術室に入ってくれるようだ。こんな縫い方で病棟に帰したらナースや他のドクターから何を言われるかわかったものではない。それに教授回診で田戸鎮子教授から指導医の責任を問われるだろうし。

「あらあら、ずいぶんユニークな縫い方してあるじゃない。誰のセンス、これ?」とか何とか言ってベッドサイドではニコニコしておきながら、回診後の医局会では「坂井先生、任せてあるんだからよろしく頼むわね」とチクリと来るのだ。で、研修医には「ちゃんと勉強すんのよ」だけで、お咎めなしだ。

「研修医は真っ白。黒く染めるも赤く染めるも先輩医師の責任よ」というのが田戸教授の考えだ。ぼく自身を振り返ってもまったくその通りで、良くも悪しくも先輩たちのやり方が染み付いている。田戸教授の見識は正しい。そう、村木センセに非はないのだ。ちょっと気ムラがあるだけで、ちょっと不勉強なだけで、ちょっと不器用なだけで、ちょっと適性が……、ま、とにかく村木センセは悪くないのだろう、きっと。責任はすべてぼくにあるということだ。あ〜あ。

「先生、美佳乃さんの抜糸しますけど」

 村木センセが呼びに来た。先週の一件があって、一人では何もしないように釘を刺しておいたら、点滴も患者家族への説明も、検査のオーダーからちょっとした処置にまで付き合わされるはめになっている。

「センセ、抜糸したことある?」

 恐る恐る聞いてみる。

「いえ、無いですけど、簡単でしょ? ピンセットで引っ張って鋏でチョッキン!」

「……」

 う〜ん、参った。恐るべきノーテンキだ。

 糸はどうすんの? 動かしてから切るの? 糸を動かさないようにして切るの? ピンセットは糸のどこを掴むの? どっち向きに引っ張りながら糸のどこを切るの? 鋏やピンセットにもいろいろ種類があるけど、細いナイロン糸を切る時はどれを使うの? 前処置は? 抜糸後の消毒は? テーピングの仕方は?……すべての処置には根拠があり、いろいろと知ってないと最善の医療はできないんだけど、村木センセは野戦病院にでも赴任するつもりなのかな? 現代医学もここまで甘く見られたか。この先、この村木センセを一人前にするにはどれだけの時間が要るのだろう。とほほほほ。

「うへっ、切っちまったぁ!」

 まただ、またまた村木センセ。ナースセンターの全員がギョッとして声のありかを探すと、決まってそこには村木センセの姿があるのだ。今度は何をしでかしてくれたんだろう。彼女を預かってからというもの心の休まる時がない。もっとも、そうは言いながら「何とかな子どもほど可愛い」と言うが、確かに村木センセをかわいいと思い始めている自分にも気付いている。最初は誰も何も知らないものなのだ。そう、研修医はみんなかわいい!

「センセ、どうした? アンプルで指でも切ったの?」

 見ると村木センセは体重計に乗っている。

「先生、とうとう40キロを切っちゃったんですよ!」

 なんだ体重か。減量したがっているナースが多い中で、小柄の村木センセは食が細くて、忙しくて食べ損ねるとすぐに体重が落ちるそうだ。

「うわっ、センセ、私のお肉あげる! ここの脂肪も好きなだけ持ってって〜」

 ちょっと太めのナースが脇腹をつまんでいる。

「ういっ、そうかい。もらっちゃおうか。先生も手伝ってください。え〜と、腹部の皮膚切開は円刃メスで、美容目的の手術だとピンセットは形成外科用のフック付きピンセット、糸はナイロンの……でしたよね? へっへっへ」

 う〜ん、実にかわいい。多少要領が悪くても、ちょっとばかり不勉強でも、まったくもって不器用そのものでも、ま、いいんだよそれで。最初はのんびりでも、一度きちんと教えられて納得したことはバカ正直に守り通す人格こそが外科医の適性で一番大事なことなんだからね。

 同期や後輩で要領のいい研修医だった奴が開業したと思ったら要領よく金儲けのための医療に精を出している例をいくつも見てきた。治療を選ぶために必要な検査をするのではなく、症状から考えられる病名をいくつも「○○の疑い」としてカルテに書いては、その病名でやってもいい検査・出してもいい薬を片っ端から出して保険点数を稼ぐのだ。日本の医療はヤブほど儲かる仕組みになっている。

「他にも何人かは村木センセに手術してもらった方がよさそうだな。……あ、これってセクハラか。ごめん、ごめん」

 研修医を指導していて気付くことがたくさんある。人を育てることで自分も育つというのは本当だ。ぼくもずいぶんと寛容になったし、我慢強くなった。わかり易く伝える技術も、周囲の人間全体への目配りも、そうした生きていく上で必要な知恵を彼らの指導をする中で身に付けて来れたように思う。そう思えば確かに育てがいのある奴等ばかりだった。今日のぼくがあるのも、研修医諸君に鍛えられたおかげ、と感謝しよう。げに有り難きは研修医である。

 

 

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