『じゅん文学38号』(200312)

 

 

 

 

 

 

ザ・ホスピタル

 

 

 

 

 

 扁桃腺が腫れているだけだと思った。しかし唾を飲み込むと飛び上がるくらいノドが痛い。一週間ほど前からノドがおかしかったのだが、昨日から急に痛みが激しくなったのだ。昨日の昼からほとんど食べていないから腹に力が入らない。これでは仕事にならないので会社は休むことにした。俺は医者が嫌いだが、しかたがない。俺は久しぶりに病院に行くことにした。

 

病院など十年ぶりだろうか。高校の時に足首の怪我で行って以来だ。あの時は放課後にサッカーをして遊んでいての怪我だった。ひどく痛くて歩けなかったが、病院まで肩を貸してくれた同級生二人の手前、涙をぐっとこらえていた。とにかく痛かった。関節がぐちゃぐちゃに折れていて入院させられて何時間もかけて手術をされるんだろうと覚悟をして行ったのだった。それなのに、生意気そうな若い医者は俺にいささかの同情も示さずに足首のレントゲン写真を見終わるとカルテにゴチャゴチャ書きながら「ま、捻挫だね」と言ってのけた。そして、「いちおう、この湿布をしときなさい」だけで帰された。腹が立った。帰り道、同級生たちは「足首は痛いんだよなぁ」とか「捻挫も痛いときは痛いよなぁ」と慰めるように口では言ってくれたが、二人とも俺に肩を貸そうとは言わなかった。情けなかった。足首の痛みは我慢できたが、くやしくて涙が出た。それから俺は医者が大嫌いになったのだ。

が、昨日の夜よりもノドの痛みは十倍になっていた。いや、百倍ちかい。医者に診てもらいに行くんじゃない、薬をもらうだけだ、と自分に言い聞かせて、俺は病院に行くことにした。

俺は会社にメールで休暇を取る事情を送信すると、バッグに今まで使ったことのないまっさらの健康保険証を入れ、財布に一万円札が入っているのを確かめてバス停に向かった。

 

バス停の名前になっているとおり、降りたバス停のすぐ前がその総合病院の正面だった。病院の玄関先では、初老のガードマンと太ったばあさんの看護婦が、やって来る患者ごとににこやかに声をかけていた。タクシーから降りようとする老人の患者を見つけると飛んでいって降りるのを手伝っている。そうか、病院もサービス業であることにやっと気付いたのかと俺は感心した。高校生の時の経験もそうだが、学校検診や職場の検診でも、医者とか看護婦とかいう人種は何を警戒しているのか、とにかくいつも威張っていて自分を守るのに汲々としている奴らだと思ってきた。最近では病院が増えて患者の取り合いになってきたからなのだろうか、病気を治すのはサービス業だとやっと気付いたようだ。病気でぐったりしている時に、難しい勉強をしてきたのか何なのか知らないが、医者だというだけで上から偉そうに言われたくはない。とにかく、医者とか看護婦とか、病院の職員が親切になったのはいいことだ。

あ、看護婦じゃなくて看護師というらしい、最近は。そもそも医者じゃなくて医師だったっけ? ま、中身は変わんないんだろうが。

病院の玄関ロビーに入ると正面に赤い字の「新患受付」が見えた。その吊り案内板の下に、遠目にすごい美人が受付をやっているのが見えた。ついてる、と思った。この病院は「当たり」だ。病気でぐったりして病院に来て最初に声をかけられるのが新患受付なのだから、そこに美人の女性を配置するのは理にかなっている。もしも、この受付に座っているのが生意気そうな野郎だったり、意地悪そうな老人だったりしたら、半分以上の患者は帰ってしまうだろう。うん、患者思いのなかなかいい病院だ、と俺はにんまりした。

「はじめてですね。今日はどうされましたか? 何科を……」と、細面をわずかに傾けて上目遣いに俺を見つめながら聞いてくる。遠目に見た時ほどではないが、まぁ、美人と言えなくはない程度の若い女だった。

「ノドが痛いんです。扁桃腺だと思うんで、薬が欲しいんです」と、俺は健康保険証を出しながら用件を簡潔に述べた。

「扁桃腺かどうか、まだわかりませんよ。やはり専門の医師に詳しく診ていただかないと……。ノドの痛みということですから、耳鼻咽喉科になりますので、ここにお名前から順に記入してください」

若い女は笑顔のまま半ば事務的にそう言うと、俺に『診療申込書』なる書類を渡した。保険証を見てくれれば名前も住所もすべてわかるじゃないか、ノドが痛くて半日以上も何も食べてなくてぐったりしている患者にこんなモノ書かせるなよ、と俺は言いたかった。が、議論する気力もない俺は黙々とその書類に記入した。

「これで結構です。では、この緑のラインに沿って耳鼻咽喉科の外来にお進みください。耳鼻咽喉科の前に長椅子がありますので、そこでお待ちください。検査の都合上、食べたり飲んだりなさらずにお待ちください」

 食べたり飲んだりできないから来たんじゃないか、と言ってやりたいと思ったのだが、ま、おとなげないと思って、黙って指示に従った。今の俺には無駄口を叩く元気もないのだ。

「なお、ただいまの待ち時間は約40分となっています」

反射的に、えっ、40分も、という顔になったのか、受付の彼女は思ったとおりという顔付きで言葉を添えた。

「お待ちいただくお時間をお伝えするのが親切かと思いまして……。たくさんの患者様がお見えですので……。誠に申し訳ございません」

淡々とした口調と表情にはちょっとムッとしたが、この苛立ちはどこへもぶつけようがない。薬が欲しくてやって来た俺は黙って待つしかないのだ。

廊下には赤、青、黄、緑の四本の線が引かれてあった。俺は緑の線を追って、産婦人科、小児科、眼科の前を通り、一番奥にある耳鼻咽喉科に着いた。すでに十数人が待っていて長椅子はすべて埋まっていた。詰めてもらえば座れるのだが、俺はノドが痛くて声も出したくはなかったのだ。

「病気についてのどんなに小さなご質問でも遠慮なくおたずねください。私たち医師と看護師が親切にご説明いたします」という大きな字のポスターが張り出されていた。そう言えば、各科の前に同じような掲示が張り出されていた。見回すと「患者様には親切に、病院内は美しく、対応は上品に」という標語もあった。昔から標語というのは、現状がそうではないからそうしたいと標語で啓発するのだと決まっている。とすると……、と俺は考えなくてもいいことまで考えてしまった。

待ち時間の目安を示すのはたしかに親切だが、40分間もこのまま立って待たなければならないのかと思うとめまいがしそうだった。そもそも病人を立って待たせるのって親切じゃないよな、と俺は掲示を見ながら虚しさを感じた。

しかし、やがて一人の名前が呼ばれて俺のすぐ側の長椅子に座っていた子どもとその両親が診察室の中に入ると、その長椅子が空いて、俺はすぐに座れた。俺は身体を投げ出すようにその長椅子に座った。背もたれにもたれるよりも横になりたいと思ったが、重体患者じゃあるまいに、とさすがに思い止まった。

俺が座るとすぐに、横に中年の女が座ってきた。大きな尻の太った女だった。いやな予感がした。

「にいちゃん、どうしたん? しんどそうな顔やなぁ。食べてへんのと違う? それ食道癌かもしれへんよ。うちの爺ちゃんも食道の癌やってんけど、食べれへん言い出さはって半年もせんうちに死なはってん。癌は恐いよぅ」

いつの間にか、俺は癌にされている。俺は扁桃腺だ、と言いたかった。が、「専門の医師に詳しく診ていただかないと」と言った受付の女の声を思い出して黙っていた。俺は男も女も年上は苦手だ。この手合いは黙って聞き流すに限る。俺は黙って力のない笑顔で目礼を返した。話したくないからほっといて、という挨拶のつもりだった。が、女は俺を放してくれなかった。

「何や声も出えへんの? それやったら喉頭癌かもしれへんなぁ」

女はみんなを癌患者にしたいようだった。

「声を出すところを喉頭って言うん知ってる? わたし、甲状腺の癌で手術してもろて治ったんやけど、手術の前に医学のこといろいろ勉強してね。へたな看護婦さんよりよう知ってるいうて先生にも褒められてねぇ。あははは」

変な奴に捕まってしまった。癌だったと言っているが、治ったら第二の人生だと言って奔放な性格になる人がいると聞いたことがあるけれど、この癌女もその口らしい。

「わたしの癌はねぇ、ダーリンが見つけてくれはってん。おまえ首のとこ腫れてへんか、言わはって、それで調べてもろたら甲状腺の癌やってんわ。ほんま、わたし、ダーリンは命の恩人や思て、サービスしてあげてんねんよ。うふふ。あんた、昨日の晩なんかなぁ、……」

あああ、俺は何しに病院へ来たんだ。こんなバカ女の与太話を聞きに来たんじゃない。俺は癌じゃない。俺は扁桃腺だ。俺はノドが……。

と、癌女は知り合いを見つけたようで、席を移っていった。ホッとした。

彼女は誰にでもそうらしく、なれなれしく話しかけるのは癌から生還した開き直りのようだった。

「いやぁ、あんた来てはったん。元気そうやないの」

「あ、はぁ、まぁねぇ」と、相手は気のない返事をしている。やはり癌女のパワーに辟易しているようだ。

40分を覚悟していたが、20分あまりのところで俺の名前が呼ばれた。やっと薬をもらえる。ノドに薬を塗ってくれたら少しは楽になるだろう。とにかくノドの痛みはピークに達しているのだ。

医者の前に行くのかと思ったら違った。看護婦が紙と鉛筆を渡して、『問診票』というのを書けと言う。「聞こえにくい」とか「耳鳴りがする」、「めまいがする」、「頭が痛い」、「耳が痛い」、「耳だれが出る」、……とごちゃごちゃと並んでいて、下のほうにやっと「のどが痛い」と「食べられない」を見つけた。「めまいがする」にチェックを入れるかどうかで俺は数分間も悩んでしまった。が、症状を言う時にポイントを絞らないと検査漬けにされる、とテレビの健康番組で聞いたことがあったのを思い出して、結局「めまい」はないことにした。症状の質問の次の項目には、他の科を受診していないかとか、薬で副作用はないかとか、今までにした病気はとか、家族に大きな病気はとか、今飲んでいる薬はとか、小さい字でぎっしり並んでいる。俺はノドが痛いだけなのだ、他には何もない。さっさと診て欲しい。そう思ったが、いい加減に疲れきっている俺は黙って「なし」をいくつも書き込んだ。

たしかに、耳鼻咽喉科だから声の出ない患者や聞こえが悪くて会話での意思疎通ができない患者もいるだろうから、こうした問診票で症状を訴え易くするのは親切かもしれない、と俺は考え直した。そう、たしかにこの病院は親切な病院なのだろう、元気な老人たちには。

身体は消耗し切っているのに、そうこう考え事をしていると、熱のためもあるのか頭がくらくらとし出してめまいがしてきた。俺はもう一度鉛筆をとると「めまいがする」の項目を探したが、めまいがして小さい字の並んだ問診票がよくわからなくなっていた。

カーテンの奥から一人のじいさんの患者が出てくると、入れ替わりに俺の名前が呼ばれた。今度は中年の男の声だ。どうやら担当の医者らしい。やっと俺の診察の番だ。ちょっと元気が出た。ここからが今日のヤマ場なのだ。身体に力が入らなくてゆっくりしか動けなかったが、俺は気合を入れて診察台に座った。

目の前の医者は穏やかな顔をした四十代の人物だった。十年前の若造とは違って、この医者はまともかもしれない、とちょっと安心した。

「どうしました? ……ノドが? いつからです? ま、口を開けて」

「きひょーひょ、はわわわ……」

痛いのは「昨日の昼から」と答えようとした矢先に、口の中に金属のヘラのような奴を突っ込まれたのだ。いつから痛いのか聞きたくないのか。質問したのはあんたじゃないか! 答えを聞く気がないのなら質問するなと言いたかった。やはり医者って奴はどいつもこいつも……。

あぁぁぁ、やはり、ついてない!

が、俺は疲れていた。人間という奴が煩わしくなって来たのだ。どうでもいいからさっさと診て薬を出してくれ。そういう気になっていた。

「あ、こりゃ痛そうだな。どっちが痛いです?」

どっちが、と聞かれても俺には何のことかわからなかった。ノドに左右とか上下があるのか? 仕切りの壁なんかないんだからノドならノドだろう。それにどうせ俺の返事を待たずにまた何か診察道具を口に突っ込んで来るんだろうと、俺は黙っていた。

「どっち? 右のほうが痛いんじゃないかな? どうです?」

そう言われれば、たしかにノドの右側のほうが痛みは強い。うん、たしかに。口を開けさせられたままだった俺はうなずいてそうだと答えた。

「フツーじゃないな、こりゃ」と、その医者はつぶやくとカルテに何やら書き込み始めた。

普通じゃないってことは、特別な、やっかいな病気ってこと? まさか先程の癌女の言うような癌なんかじゃないだろうな。患者を心配の谷に突き落とすなよ、と俺は訴えたかった。が、俺は黙っていた。とにかくノドが痛くて声を出す気にならなかったし、熱と倦怠感で、もうどうでもよくなっていたのだ。薬が欲しくて来ただけなのだ。診察はどうでもいい。さっさと切り上げて薬を早く出してくれ!

「診断はキュウセイ・ヘントウエンと右のヘントウ・シュウイ・ノウヨウだね」と医者は専門用語を並べた。

「はぁ?」と、俺は事実上はじめての声を出した。

「扁桃腺の炎症と、右側の扁桃腺の裏側にノーヨーがあるんですよ。ほっといたら死ぬこともある恐い病気ですよ」

「えっ?」と、声が出た。もっとも、かすれて声にはならなかったが。

「ノーヨー?」と俺はかすれた声を振り絞った。死ぬこともある病気でノーヨーと言ったら腫瘍の仲間だろうか? 自慢じゃないが、俺は医学のことは何も知らない。

「扁桃腺の裏側で細菌が大暴れして膿が溜まってるんですよ。切開して排膿しないと治らないですよ」

「へっ?」と俺。

「手術で膿の溜まっているところを切り開いて膿を出すんです。膿が出たら痛みはスッと治りますよ」

「しゅ、手術ですか!」と、俺はあせった。どうせ扁桃腺で飲み薬で治るものと軽く考えていたのだ。

「手術はいや? だったら点滴で様子を見る手もあるけどね」

「手術しなくてもいいんですか?」

「いや、普通は切開するんだけど、あなたがどうしても嫌だったら点滴で抗生剤を入れて膿瘍がだんだん小さくなってくれるかどうか待ってみてもいいんですよ」

「点滴でも治るんですね?」

俺はかすれた声で尋ねた。ノドの奥を切るなんて恐過ぎる。どちらでもいいのなら切らずに治したい。

「いや、たぶんダメでしょう。点滴したくらいじゃ治らないと思いますよ、けっこう派手な膿瘍になってますからね」

「えっ、じゃあ手術しかないんじゃないですか」

「まぁ、そうですね」

「だったら最初からそう言ってくださいよ。切らなくても治るのかと混乱するじゃないですか!」

さすがに俺もムッと来て、ノドの痛みを忘れて医者に不快感を表明した。

「混乱する? そう? あんまり決め付けても何かなと思って親切で言ってみただけなんですがね。それに、切開して必ず治るとも断言できないしね」

「えええっ、膿を出しても治らないことがあるんですか?」

「そう、たとえば膿瘍じゃなくて腫瘍だったりするかもしれない」

「そ、そんな、先ほどは膿が溜まっている、膿瘍だって言われたじゃないですか!」

「そう、99パーセントはそうだけど、扁桃腺の裏側に腫瘍ができてることもあるんでね。ま、今回は違うだろうけど」

「それは切ってみないとわからないんですか?」

「いや、いろいろと調べる方法はありますよ」

「だったらそれを調べてください。切られるわ治らないわでは、困りますから」

「そうですか? でもMRIは予約がいっぱいで2週間後になるしなぁ」

「えっ! 2週間後!」

「それまで待てないでしょ?」

「待ったらどうなるんですか! 今でもこんなに痛いのに。2週間も食べずになんて生きてられない……」

「まぁ、そういうことですな。ですから、切開しないと治らないと最初にお話ししたんです」

「………」

何を言っているんだ、この医者は。俺には返す言葉がなかった。

「切開の前に針で穿刺してみて、中が間違いなく膿なのか腫瘍なのかを確認する手もあるけど、……でも、血管腫だったら穿刺しただけでも出血が止まらなくて大手術になってしまうこともあるし……」

医者は勝手にブツブツと恐い話を続けた。俺にどう判断しろというのだ。切らなければ治らないと言い、切っても治らないかもしれないと言う。更には、切ったら出血が止まらない可能性もあると言うのだ。俺は開いた口が塞がらなかった。いや、開けさせられたままで、口を閉じていいと言われてなかったのだが。

「ま、切ってみましょう。膿がドドッと出て、痛みがスッとなくなりますよ、きっと」

この医者は、物事は単純に考えようというタイプのようだった。彼には何百何千のケースのうちの一例に過ぎないのだろう。が、俺にとっては俺は一人限りでとり返しはつかないのだ。……と、急に虫歯のことを思い出した。

「左の下の奥歯が虫歯なんです。それでここ半年ほど右側でしか噛んで来なかったんです。右側のノドを酷使し過ぎただけなのでは?」

「ふふん」と医者は鼻で笑ってから答えた。

「そういう話じゃないんですよ。右の扁桃腺が深いところから押されたように腫れ上がっていてね、裏側に何かあるのは明らかなんですよ。……ま、虫歯が細菌の温床になってたのは遠因のひとつかな」

「切るしかないんですか、やはり?」と俺はビクビクしながら尋ねた。ノドが痛くて思うように舌や口を動かせない上に声がかすれているので医者にはよく聞こえなかったようだ。彼は俺の同意もなく勝手に看護婦に手術の準備を言い付け始めた。

「メスはセンジンね。あと吸引管とノーボン、それに……」

何やら一大事になってきていた。逃げられない雰囲気だ。

医者はチラッと俺のほうに目をやると、看護婦に向かって小声で指示した。

「あ、ぶっ倒れてもいいように点滴のルートを取っとこう。女と違って、若い男は血を見ると倒れる奴が多いからなぁ」

な、何を言い出すんだ。ぶっ倒れる? 俺が? いったい何をするんだ? ノドの奥を切るってそんなに痛いんだろうか? た、助けて、神様仏様!……と頭に浮かんだ瞬間に、俺は自分を笑った。何が神様仏様だ。普段は宗教をさんざんバカにしているくせに。宗教など物語世界だ。物語の世界に酔ったまま死んでいければシアワセかもしれないけれども、食べていくのには仕事をしなきゃいけないし、仕事なんて他人をだまして自分もだましてやんなきゃ付合いきれねぇよ。……とゴチャゴチャ考えていると、医者の声が頭のすぐ横から聞こえてきた。

「じゃ、ま、ちょっと我慢して。チクリと痛いのはほんの一秒だから」

俺はたまげた。え、え、えっ、手術って麻酔をするんじゃないの、普通?

「ま、ま、麻酔はしないんですか?」

「いいんじゃない。麻酔の注射でチクリとするのと最初から切開でチクリとするのと同じだよ、きっと」

「そ、そうなんですか?」

「たぶんね。もっとも、ぼくはされた経験はないけどね、ははは」

どうしてここで「ははは」と笑いが出るんだ! 俺の一大事だと言うのに!

「いやね、膿瘍がすっかり熟してて顔が見えてるんだ。粘膜一枚をちょっと切ったら膿が直ぐに出て来るよ。麻酔は要らないんだ、こういう場合」

「そ、そうなら最初からそう言ってください! 患者にとって、こ、こ、混乱するんでしょ」

と、俺は混乱した日本語で言った。

「混乱する? ま、そうだね。悪い、悪い。じゃ、口を開けといて。直ぐに終わるからね、たぶん。……あ、たぶんなんて付けちゃダメだよね、混乱するよねぇ」

医者は含み笑いを漏らしながら、キラリと光るメスを構えて俺の口を覗き込みはじめた。

 

あ、あ、あ、あ〜、と思ったところで俺の記憶はなくなった。気が付いたら部屋の隅にあるベッドに寝かされていた。壁も天井も仕切りのカーテンも真っ白な部屋だ。天井やカーテンにくすんだ黄色っぽいシミがいくつかあって、まるで血の跡を拭いたようだった。それに薬品臭が微かにしている。それで自分が病院に来ていたことを思い出した。重い感じのする左腕を見ると、そこには点滴の針が刺されていて、天井から釣り下げられている薬液の入ったペットボトルの中身はほとんど終わりかけていた。やさしい感じのするピンク色の薬液の色が今の俺の気分には妙に不似合いだった。

お、俺は……? 

そうだ、ノドの奥を切ることになっていたが、どうなったんだろう?

と、先ほどまであったはずのノドの痛みが不思議と消えていた。腫れぼったい感じだけで痛みがない。これならもう切らなくてもよさそうだ。点滴だけで良くなったのだ。助かったと思った。ノドの奥なんて切られたら口の中が血の海になってしまうだろう。考えただけでもゾッとした。先程はノドの痛みで冷静な思考力を失っていたのだ。少し休んだら痛みもずいぶん軽くなっている。このぶんなら飲み薬だけで治るだろう。医者にそう言ってやろう。散々におどかしやがって……。

と、カーテンが開かれて、見覚えのある看護婦がニコニコしながら顔を出した。

「点滴、そろそろ終わりそうね。すべて済みましたからね。痛くないでしょ、もう?」

「?」と、俺は返事に窮した。何があったのか自分でもわからなくなっていた。

「切開はもう済みましたからね。あれだけたくさん膿があったんだから昨日からずいぶん痛かったんでしょう。たいへんでしたね。……今はもうそんなに痛くないでしょ?」

看護婦は俺の血圧を計ると、だいじょうぶ、だいじょうぶ、とハミングしながら行ってしまった。入れ替わりに先程の医者がやって来て、「だいじょうぶだね、もう」と笑いながら、先ほどと同じ金属のヘラを俺の口に突っ込んだ。

「もう帰ってもらっていいよ。出血もないし、ほとんど」

「……」

俺は空白の時間を取り戻そうと焦っていた。が、何も思い出せなかった。

「終わったんですか、すべて?」

それがかろうじて口から出た俺のセリフだった。

「今日はおしまい。あとは口の中の傷の処置をするから、明日から当分の間、通って来て。あと、飲み薬とうがい薬が出てるからね」

「あのぅ、点滴は?」と、なぜか俺は点滴のことを口走った。点滴をしたから治ったのかと聞きたかったのか、もう点滴はしないのかと聞きたかったのか?

「ん? 明日の朝も食べられなかったら、明日も点滴するけど、ま、食べられるんじゃないかな。若いしねぇ」と、医者は答えた。「若いしねぇ」で、俺は思い出した。血を見ると若い男はぶっ倒れるから、と言っていたのだ、たしか。

そうか、俺はぶっ倒れたのか、と思った。と、俺はいつもの俺に戻れた気がした。途切れていた記憶が埋められたように、ふっと腑に落ちた感じがしたのだ。

何かを喋ろうと、唾を飲んだら苦いような血の味がした。血が出ている!

「血が出てますよ、口の中。出血があるのに帰っていいんですか!」

俺は抗議口調になっていたが、努めて冷静に振る舞おうと考えていた。気を失った自分が情けなかったからだ。

「そう?」とつぶやくと、医者はもう一度俺の口の中に金属のヘラを突っ込んだ。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。これくらいは滲んで来るもんなんだよ。何しろ切りっぱなしで傷が剥き出しなんだから」

ええええっ、と俺はひっくり返るほど驚いた。口の中に傷がぱっくり口を開けていると言うのだ。そ、そんな、いつまた大出血が起きるかわからないじゃないか!

「切開して膿を出したからね、もう化膿巣は広がらないよ。あとは感染してダメになった組織と治っていこうとする組織がはっきり分かれてくるから。落ちるべき組織が落ちたら、すぐに肉で埋まっちゃうから心配ないよ」

「ソシキ?」

俺にはわからない言葉だった。ソシキという名前の薬が傷に塗ってあるんだろうか?

「筋肉組織とか、脳組織とか」

「あ、その組織ですか」と、俺は当然知っていたという顔をした。専門用語を使うな、と本当は強硬に抗議したかった。が、俺はぶっ倒れたのだ。ぶっ倒れた俺には抗議をする資格はないような気がした。

「明日も必ず来てね。傷の消毒をしないとぶり返すからね〜」という気楽な医者の声を後にしながら、俺は廊下の中央に引かれた緑の線を辿って病院の玄関ロビーに戻った。

 

会計の前で待つように耳鼻咽喉科の看護婦から聞いていた。会計を済ませないと薬はもらえないシステムになっているようだ。それはそうだろうな、と妙なことに俺は感心した。

会計の吊り下げ案内板の前には数十人の老若男女が待っていた。叫び声をあげる子どもや難聴のせいか大声で喋っている老人集団もあった。この喧騒の中でまた待たなければならないのか、と俺はその場に座り込みそうになった。もっとも、点滴が効いたのか膿を出したのが効いたのか、身体は来た時よりもはるかに楽になっていた。前のほうの椅子に座って隣の患者に話しかけている先程の癌女の姿が見えた時には、目が合わないように俺は急いで身体の向きを変えた。

やがて俺の名前が呼ばれた。三番の窓口から眼鏡をかけた若い女が俺の名前をもう一度甲高い声で呼んでいる。

「催促するように何度も呼んで病人を焦らせないでよ」と、俺は半ば睨むように窓口の女に伝えた。今は議論する体力的余裕も多少はあったのだ。

「はぁ? 呼ばれたのを聞き落とされる方がおられるので何度でもお呼びするのが親切かなぁと思ってるんですけどぉ」と、尻上がりの声で女はニコニコ顔のまま答えた。

俺は更に言いたいことはあったが、あまりに貧相な女の顔を見てバカバカしくなった。マニュアルどおりに目先の仕事を処理するのが精一杯という感じで、知性のかけらも感じさせない。もういい。とにかく、さっさとお金を払って薬をもらえばいいのだと思った。

「え〜っと、一万三千八百二十円です」

「えっ!」と、俺は焦った。一万円あれば十分だろうと考えて出て来たが、財布の中にそれだけのお金があっただろうか? それにしてもどうしてそんなに高いんだ、と俺は思った。が、俺はぶっ倒れた男なのだった。ぶっ倒れていた間に救急救命処置とかいうやつを受けたのかもしれないのだ。あのノドの痛みが嘘のように消えて、こうやって命があることを思えば、一万三千円余りの金額は安いものだった。そう納得した。むしろ、俺のこの命がたった一万三千円かよ、と不満さえ感じたくらいだ。

とは言え、財布の中にそれだけのお金は果たして入っているんだろうか? もしもお金が足りなかったら、俺はツケにしてくれるようにこの眼鏡女に卑屈に頼み込まなければならないんだろうか?

 俺は内心ドキドキしながら財布の中を探った。一万円札のほかに何枚かの千円札が見えた。心臓がドキドキ鳴った。またまたぶっ倒れるんじゃないかと心配になったほどだ。そして、千円札が五枚入っているのを確認できた時は嬉しさに思わず顔がほころんだ。今日の中で一番に嬉しかったことだった。ついてる! お金というのはありがたいものだと心の底から思った。

「やはりこの世の中、カネだなぁ」と、ふざけて悪ぶって言ってみた。で、虚しくなった。何て自分は小心者のおバカなんだろうと悲しくなった。あとは薬を受け取って帰るだけだ、と俺は自分に言い聞かせた。何も考えなくていい。俺は病人なんだ。何も考えずに薬を飲んで寝ていればいいんだ。

会計を済ませた俺は薬局の前の長椅子に座った。目の前に大きな電光掲示板があって薬のできた番号が表示されるようになっていた。俺は334番だった。惜しい。もう少し早ければ333番だった。会計のあの眼鏡女は俺に333番をくれようとして急かしたのだろうか、とふと思った。が、そんなバカなことがあるはずはない。これはパチンコじゃないんだ。俺は力なく自分を笑った。

それにしても、俺が病院に来たのは十時だったから順番はちょうど真中くらいだろう。この病院には一日に七百人もの患者が来るんだろうか。俺の一万三千円は多い目として、一人あたり一万円なら今日だけでこの病院は七百万円も儲かったのか、と俺は驚いた。いや、入院している患者もいるのだから儲けはもっと多いだろう。一千万か二千万はあるのかもしれない。二千万円と言えば、俺の給料の数年分だ。俺があくせくと働いて五年間で稼ぐお金をこの病院はたったの一日で稼いでしまうのだ。俺はため息が出た。情けなかった。俺の働きなんて何とちっぽけなことなんだろう。

と、電光掲示板に焦点が合うと、そこにオレンジ色の334番があった。俺の薬ができあがったようだった。同時に、俺は二千万円の話をすっかり忘れた。とにかく今はノドの薬のほうが俺には貴重なのだ。

薬局の薬を渡すカウンターにも大きな文字で注意書きがあり、「お薬についてのどんなに小さなご質問でも遠慮なくご質問ください。私たち薬剤師が親切にご説明いたします」とあった。しつこいくらいに親切な病院だった。

俺の名前を確認して薬を渡してくれた白衣の女を見て俺は驚いた。嬉しい驚きだ。薬を渡してくれた薬剤師は新患受付にいた女よりもはるかに美人だった。細い体型でインテリっぽい顔立ち、それにアイロンの効いた白衣がばっちり似合っていた。

「これが抗生物質で、細菌を抑えてくれます。なお、下痢や湿疹などの副作用が出るようでしたら、いったんお薬は止めていただいて直ぐに主治医にご相談ください」

「主治医じゃなくて、あなたに相談したい」というセリフが直ぐに浮かんだが、ノドの炎症のせいか、美人を前にして上がってしまったからか、声にはならなかった。

「うがいは適宜なさってください」

テキギ? 俺の知らない言葉だった。

「テキギって、どうするんですか?」と、俺は薬剤師の白衣の胸元のVゾーンを見つめながら質問した。白衣の下のレモン色のニットの服はぴったりしていて胸のふくらみがくっきりと見えている。

 いい病院だと思った。診察の最後にこんなにも素晴らしい職員を配置して、患者に元気と希望を与えてくれるなんて!

「えっ? 適当でいいってことなんですけど。ノドが気になったらうがいをしてくださいね」

「昨日からずっとノドがおかしいんで来たんです。ずっと気になってるんですけど……ずっとうがいをし続けるわけですか?」

「あらっ」と、その薬剤師はつぶやいて、「ちょっと待ってください」と言うと、そのまま奥に引っ込んでしまった。代わって硬い表情の初老の男が出て来た。枯れ木のようにやせ細っていて、髪は不自然なまでに真っ黒で、染めているのが明らかだった。

「どのようなご質問でしょうか? うがいの仕方について、とお聞きしましたが?」

薬剤部長というプレートが胸にあった。俺は年上の男がもっとも苦手だ。俺は早々に切り上げることにした。

「いえ、一日に何回くらいしたらいいのかなぁ、と思っただけなんですが」

その薬剤部長の初老男から、細菌の繁殖がどうの、有効濃度がどうのという、専門用語だらけの難解で退屈な説明を五分間ばかり聞かされて、それで俺はやっと放免になった。デザートのレモンシャーベットのあとに不意に魚の干物を口いっぱいに押し込まれたような気分だった。

 

病院の玄関を出ながら俺の気持ちは複雑だった。が、ともかくもノドの痛みはずいぶん楽になったし、薬も受け取って、あとは家で寝るだけだ。考えようによっては、久しぶりに充実した半日だったと言えるだろう。普段のダラダラとした仕事の時間とは違って、自分が自分のために自分の時間を使った充実感があったのだ。

おれは病院の正門を出ながら、たまには病院も悪くないな、とつぶやくと帰りのバスを待つために道路の反対側のバス停に向かった。横断歩道を渡って、病院のそっけない白い建物を見返すと、明日からしばらくはここに通うことになると思って、ちょっと愛着さえ感じた。

 

と、後ろから聞いたことのある声がした。

「あら、さっきのにいちゃんやないの。どうやった? 食道やった? 喉頭やった? ふふふ。ところで、あんた、昨日の晩の話まだやったなぁ。あのな、ダーリンとなぁ、……」

あぁぁぁぁ、俺はやはり病院は嫌いだぁ!

(了)

 

 

 

 

 

 

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