じゅん文学29号(2001年9月)

 

 

 

続・四行半診療録余滴シリーズ(6)

 

「先生、このカリウムの値ですが、本当にこの値でしたら生きていられないですよね? どうしましょう?」 

 そう訊ねてきたのは海田山恵センセだ。最近の研修医には粗雑な奴らが多いのだが、海田センセは長いストレートの髪が白衣の肩に流れるように広がっていて王朝風のみやびな雰囲気を持っている。関西にある医大の出身だから、あるいは京都の名のある家柄のお姫様なのかもしれない。背筋が通っていて姿勢がいいし、きれいな標準語の言葉遣いもまなざしも実に穏やかである。古文で習った、いと臈たし、ってところだ。

「それはどう考えたらいいのかな? 検査部に電話で確認してごらん」

 こちらまで言葉が上品になる。これが他の研修医だったら「何? そんなの検査部に確認するか患者さんに死んでもらうか、どっちかだろう。……どっちにする?」などとブラックジョークで返すのだが。 

「扁平苔癬(へんぺいたいせん)の磯与さんの調子が昨日から悪いので、今朝、採血してみたのですが」 

「磯与さんって、ああ、あの下半身に広がった扁苔の人だね」 

「先生、ヘンタイじゃなくて扁平苔癬です!」 

「あ、ごめんごめん。どうなの? 皮疹が広がって頭までヘンタイ、じゃなくて扁平苔癬になった?」 

「……」 

 海田センセには冗談は通じない。自分の受持ち患者を悪く言われたと取るようだ。急性肝炎は急肝だし、鉄欠乏性貧血は鉄欠なんだけどなぁ。

「ごめん。カリウムがいくつなんだって?……どれどれ」 

 まったく、お年頃のお姫様は扱いが難しい。聞けばカリウムが正常値の10倍近い値になっているという。本当にそんな高値だったら生きていられるわけがない。検査部の間違いに決まってるじゃないか。さっさと電話で確認しなよ、と言いたいが、ここはじっと我慢である。自分で考えさせるのがぼくの指導方針だ。 

「検査部の藤伊さんに電話してごらん。直ぐに来てくれるよ」 

 藤伊さんというのは検査部の技師長をしているおばちゃんだ。ぼくが研修医の頃にはずいぶんと搾られたものだ。検体の扱いが悪いの、検体を出す時間が非常識だのと、きっちりと躾られた。当時は明るくてキュートなお姐さんだったのでぼくら生意気な研修医も彼女からのクレームを素直に聞いたものである。あれから20年、ぼくは研修医の指導担当になって、技師長になった藤伊さんにしょっちゅう助けてもらっている。 

 藤伊さんに電話をしたら直ぐに来てくれるという。相変わらず仕事が速い。 

 まじめな海田山恵センセは受持ちの磯与さんがちゃんと生きているかどうか病室へ行って見てきたらしい。 

「お元気でした、とても。病人とは思えないくらい……」 

 海田センセが「とほほ」という顔で戻って来たところを見ると、扁苔の、じゃなくて扁平苔癬の磯与さんは赤くなった皮疹が痒くてベッドの上で剥き出しの下半身をボリボリと掻いていたんじゃないだろうか? 

 と、藤伊さんが来てくれた。今日はブラウスとイヤリング、白衣の胸ポケットのボールペンが赤色だ。何でも赤色はパワーがあるそうで、いつもどこかに赤色を身に付けている。先日の送別会では珍しく赤色がなかったので、赤は卒業ですか、と声を掛けたら「きょうは外から見えないところなの。……見たい?」と周囲にも聞こえる声で耳元で言われた。むむむ、最近はすっかりお笑い系だ。 

「あらぁ、素敵なお姫様ねぇ。先生が特別かわいがるわけよねぇ」 

「な、何言ってるんですか。研修医はみんなかわいいですよ、ぼく」 

 そうは言ったものの、本当かな、と、今まで指導した研修医の顔が浮かんだ。田堀、松川、田野、村岡、立安……ま、それなりに皆かわいい奴らだったな、……と思うことにした。それでなければやってられない。 

 まじめな海田センセはおじさんおばさんのしょうもない会話には関心を示さない。と言うか、無駄口をたたかず、俗な話には無関心なのが彼女の上品なところだ。 

「このカリウムの値は?……信じてよろしいのでしょうか? このままでしたら点滴のオーダーを変更しないといけないのですが?」 

 淡々と穏やかないつもの顔だ。あとは主治医である彼女に任せてみよう。 

「え〜っと、あら、本当にこんな値だったら死んじゃってるわねぇ。あ、まただわ、これも……」 

「どうなんでしょう?」 

「ごめんなさいね。これ、新人さんがやったんだけど機械に移す時に変なことしたみたい。すぐにやり直すからちょっとだけ待ってくださいね」 

 研修医もそうだが、臨床検査やナースの新人さんもいろいろやってくれる。年度初めは要注意だ。 

「藤伊さんもたいへんですね。新人教育は疲れますよねぇ、まったく」 

 海田センセにも聞こえるようにそう言ったのだが、彼女は自分のことを言われているとは気付かないようだ。本当に幸せなお姫様!  

 30分も経たないうちに藤伊さんが新人君を連れて謝りに来た。測り直した値はまともな数字で海田山恵センセはホッとしたようだ。 

「すみませ〜ん。慣れへんから」 

 ほほぉ、検査の新人君は大阪の子みたいだ。これだけ方言を剥き出しにする若い人も珍しい。 

「君、大阪? ふーん、うちの海田先生も関西だよ。ね、センセ?」 

「あ、いえ、私は……」 

「どこ? ぼくなぁ岸和田の北の忠岡やねん。センセェは大阪市内か?」 

「えっ、わたしは……。私は高石市の南で……」 

「何や、それやったらすぐ近くやんか。高師浜のへんちゃう? ぼく、高校は岸高やで。センセェは?」 

「えっ、私も岸高!」 

「おおっ、何や先輩か。岸高から医者になるなんて賢いねんなぁ」 

「ちゃうちゃう、そんなことあらへんわ。女のくせに浪人してぇ言うて親に泣かれてんよ」 

 おおっ、標準語でない海田センセは初めてだ。驚いた。ふーん、大阪弁(岸和田弁?)か。京都のお姫様ではなく、ぼくたち下々の者に近いお育ちだったようだ。やれやれ。 

「海田センセ、後輩君が来てよかったどすな」 

 ぼくもふざけて関西弁を使ってみる。 

「先生、ちゃうちゃう。そんなん言わへんわ。なぁ?」 

 急に打ち解けて、生き生きした顔になっている。今までの澄ましたお顔は何だったのだろう? 

「京都やったら、何とかどす、って言うんちゃう? けど、京都の言葉、なにゆうてるんやろね。上品ぶっててなぁ」 

「ほんまや。澄ました顔してあんな変な言葉言いたないわ」 

 あららら、1時間前までのあの上品でみやびな海田山恵センセは何処に行ったの? ぼくのお姫様は……。 

「センセェ、晩御飯行かへん? もう6時過ぎやで。それとも彼氏いるん?」 

「そんなんおらへんわ」 

「こっちでたこ焼きの店、見つけたんや。知ってる?」 

「え、え〜、どこどこ? 行こ行こ。……あのぅ、先生、ちょっと食事に出てきてもよろしいでしょうか?」 

「はぁ? ああ、食事ね。たこ焼きでしょ、たこ焼。いいねぇ、海田センセの関西弁」 

 海田センセはすっかり赤い顔になってしまった。

「たこ焼き買って来てくれる? ぼくも食べてみたいから」 

「はい。……じゃなくて、ええよ。 せんせと準夜のナースの分、買うて来ます。せんせのおごりで!」 

 海田山恵センセはにっこりと実にいい顔を見せると検査部の新人君と早口の関西弁でしゃべりながら出かけて行った。すっかり水を得た魚だ。これでつまらぬ鎧が脱げたようだ。やはり自然体がいい、自然体が。

医者なんて澄ました顔でやれる仕事ではない。様々な場所に暮すいろいろな人が居る、ということ。人々の生活についての想像力がなければいい医療なんてできはしないのだ。たとえば、熱発して受診してきたのが授乳している若い母親なのに、「十分な睡眠を」などと教科書的な説明をしても現実は難しいだろう。足の弱った老人に、「歩かなきゃもっと弱っちゃうよ」と言うだけでは誰が老人の散歩に付き添うというのだろう。そこまで踏み込まないままに建前だけを説明して終わる医療は虚しい。医師は医師である前に地に足をつけた生活人でなければならないのだ。 

そのためにも普通にするのが一番だよ、海田センセ。ばしばしの大阪弁でいいんだよ、先は長いんだからね! 

 

 

 

TOP PAGE