『季刊作家』No16(1995.12月)

 

 

  

 

晴れのちくもり、雨、あられ

 

一、

 

 こんなはずじゃなかったのになあ、とハンドルを右に左に忙しくきりながら、ぼくは先程から同じことばかり頭の中で繰り返していた。

 隣の助手席ではちょっと太めの珠美が、ヘルベルト・グレーネマイヤーとかいうドイツのロック歌手のテープをずっと聴いていて、うっとりとハモったりなどしている。後部座席の静香は深夜勤務に備えてか、しっかりと眠っているようだ。

 こちらは山肌にしがみついている曲がりくねって狭い道路にうんざりしているというのに、いい気なものだ。

 谷の両側面は弾力のある柔らかい紅や黄色の紅葉で埋まっている。車ごとこのまま落ちても、音もなく紅葉のクッションに吸い込まれていって、快い墜落感が楽しめるのではないかとさえ感じられる程だ。

 十八番目の短いトンネルが見えてきた。山脈と山脈の間を川がくねくねと流れ、一面に紅葉した山の中腹に通っている道から緑や青のその水面を見下ろせる。一車線の狭い道からは、ひとつカーブを曲がるたびに新しいカーブとその先の短いトンネルが視界に入ってくる。まだ早朝でバスや農作業の車と時々擦れ違うほかは通る車もほとんどいない。電車の駅やデパートと名の付くものがある大きな町まで出るのに、車で一時間はかかるたいへんな所に摩の山ホームはあるわけだ。もっともそうした地理的な条件だからこそ、募集のパンフにある「超俗の楽園、摩の山ホーム」の環境が維持されているのだが。

 

 学生時代、小児科での臨床実習でこどもの泣き声に辟易したぼくは医師国家試験に合格すると静かでのんびりできそうだという理由で老年科を選んだ。こどもは死なすとまずいけれども、老人は死ぬのが当たり前だから気が楽だな、という考えもあった。

 母校の附属病院での研修医生活は、臨床と研究、教育で多忙な先輩医師のペースに合わせるしかなくて、とても「静かでのんびり」とはいかない多忙な日々が続いている。そんな中で、これこそ老年科医師の本来の生活と思えるのがこの摩の山ホームでの当直だった。

 ぼくの大学の老年科はいくつかの病院を関連病院として持っていて、つまり医者の縄張りだが、この超高級老人ホームに附属しているクリニックもそのひとつだった。毎週火曜日だけは助手や講師の先生が担当したが、それ以外の日はぼくら研修医が順番に二十四時間ずつ当直室に詰めている。

 ここでの仕事は、朝9時に引継ぎをし、午前中の外来診療をこなすと、あとは当直室でテレビを観たり本を読んだりして時間を潰せばいいだけの、暇で楽なものだ。夜はしっかり眠れるし、急患など滅多にない。ぼくもここでは脳出血や心筋梗塞、喘息発作などの本物のエマージェンシーに出喰わしたことがまだなくて、実にのんびりしたものだ。それに、痴呆や重度の運動障害などで自立した生活ができなくなったら、介護を主としている隣り町の姉妹施設の方に移ってもらう規約になっているので、ここにいるのはぼくら研修医の言い方で言えば「ラクなお年寄り」だけなのだった。

 これこそが本来の老年科の医者の生活のはずなのだ、とぼくは思っている。あと少し研修医生活を我慢すれば、どこか郊外の老人病院に赴任して、ここと同じようにゆったりと流れていく時間の中で暮らしていけるだろう。若い間は向上心とか野心などといった「志」を抱くべきだという社会通念の善意の呪縛から自分を解放して、それこそ、老人たちに紛れ込んで静謐と安逸のうちに余生を送ることができるだろう。

 天才は自覚せずに天才をやってしまうものなのだろうけれど、その他の人間は五十歩百歩の凡人ばかり。ぼくがどうあがいたところで人類の歴史にぼくの足跡なんて残るはずがない。だったら、せいぜい楽して愉快にのんびりやろうじゃないか。これがぼくの哲学だ。中学時代に偉人の伝記を読み、高校に入って世界史を学んだ結果がぼくの今の哲学、人生観を作り上げている。

 世界を動かせた人間なんてほんの一握りだ。しかも能力とは関係なく出自で決まってしまうところも大きいようだし……。ま、確率的に見ても教師の息子という平凡な出自から見ても、ぼくの未来なんて知れている。現在までがハングリーじゃなかったんだから、這い上がろうなんてガツガツする意欲もないし。偉人伝も世界史も裏から学んだと言われるかも知れないが、個人の歴史なんてちっぽけなものだ。のんびりやるのが一番だ、やはり。

 それにしても、こんなはずじゃなかったのになあ。

 凡人には煩悩が付き纏うのがつらいところだ。何でこの珠美を助手席に乗せなきゃなんないんだ。

「明日は深夜勤務なんだけど、ちょっと荷物が多いの。ついででしょ、先生の車でホームまで送って。ダメ?」と昨晩甘えた声で電話してきたのは静香だったのに。

 そう、こんなはずじゃなかったのだ。まだ暗くて寒い中を午前六時過ぎに起きて、朝七時に看護婦寮に迎えに行った時、本命の静香が真っ赤なリュックや大きなスポーツバッグといった荷物を抱えて後部座席にさっさと乗り込んでしまい、ぼくの隣にBGM担当の珠美が乗ってきた時、すでにぼくはこの小旅行を後悔し始めたのだった。こんなはずじゃなかったのだ。先日の飲み会のあと朝まで付き合った静香と二人きりでのドライブのはずだったのだ。

 

「先生、横にいるのが静香じゃなくて、ブスのあたしなのが気に入らないんでしょう」

 浮かない顔のぼくの気配を感じ取って、珠美が声をかけてきた。

「そんなぁ。そんなこと考えてないよ。何言ってんだよ、馬鹿だなぁ」

 珠美には男女の関係に妙に鋭いところがある。

「いいの。無理しなくって。……先生、こないだ静香と寝たんだって?」

「な、何言ってんだよ、いきなり」

「いいんだって。静香に聞いたんだから、隠さなくっていいんだよ、先生」

「嘘つけ。そんなことがあるか。鎌を掛けるなよ」

 同じ研修医の金子が、前にこの手に引っ掛かって、外来の人妻ナースと送別会のあと、一回だけ遊んだのを白状させられたことがある。

「いいよ、別に。しらを切ったって、寮の子はみんな知ってるよ」

「ふん」

 いやいや、こんなことでぼろを出してはいけない。たとえ証拠写真を見せられても否認し続けること。それが金子の教訓だ。

「ブスだなんて、ご謙遜を。なかなか可愛いじゃないか珠美ちゃんも」

「あたしね、看学時代に男には懲りてるからね。自分には見る目がないってわかったから、三十で見合い結婚することに決めてるんだ。気を使ってくれなくたっていいんだよ、先生。ブスでもナースは結構売れ口あるんだから」

 あっけらかんとしているのは、やはりそれなりの過去があってのことなのだろう。やはりな、とぼくは思った。

「三十か? マルコーになるぜ、それって」

「大丈夫。体は鍛えてるからね、十は若い、って言われてるんだから。三十過ぎのお産だって平気だよ」

「男はもういい……か。えらく達観してるんだな」

「看学の時に付き合ってた子はさ、大阪の難波にあるブティックの店員やってたんだけどね。自分ではファッション・アドバイザーとか言ってたなあ、店員って言えばいいのに。その子とね、関係できたら急にその子の態度が変わったんだ。あたしをさ、自分の所有物と勘違いし始めたんだ。肩に腕まわしてくるでしょ。重いから止めて、って言うのに、どうして? とか言って、にこっとするんだよ。馬鹿だと思った。別れたのはね、……酔って、雨が降ってるから帰れないと電話してきたんだ。夜中の十二時をまわってるんだよ。電話を受けた寮の先輩には変な顔されるし、……。行かないとまた電話されそうで、傘を二本持って行ったわよ。二人で時々行ったスナックで酔い潰れた彼を連れて、傘があるのに、雨の中を二人ともずぶ濡れになって、彼のアパートに向かったのよ」

「優しいじゃないか、珠美くんは」

「そう、あたしは優しいの。……前髪が顔に貼り付いてうるさかった。彼は雨に濡れて、むっと男臭い匂いを出してるし、あたしの肩に廻した彼の腕が重く食い込んできてさ、……重く貼り付いてくるんだよ、彼という男がさ。この男の存在の欝陶しさったらなかった。気が付いたら、酔い潰れて寝込んじゃった彼を雨の中に突き放して、どんどんひとりで歩いてた。……あ、先生、こんな話、退屈?」

「いや、聞いてるよ」

「そいでさ、しばらく行って振り向いたら、彼が道端のジュースの自動販売機にもたれて、何かぶつぶつ言ってるの。あたしさ、もう終わりだな、って思った。……いや、もう止めよう、って決めたんだ、その時。あたしはあたし、誰のものでもないんだから、って」

「やるじゃないか、珠美くんも。惚れ直したねえ」

「うそばっかり。……夜は二人にしてあげるからね、心配しなくても」

「ば、ばかを言うな、ばかを。遊びに行くんじゃない。お互い、仕事だろうが、これは」

「それとも、深夜勤務のあと仮眠取らずに、また先生に送ってもらおうかなあ。帰りはあたしに運転させてくれる?後ろで二人にしてあげるから」

「いやだよ。珠美、免許取ったのこの夏なんだろ。この車まだローン払ってるんだからな」

 珠美も人との別れを経験していたのだった。失恋すると女は巨食傾向になるというから、珠美もその別れの前はスリムだったのかも知れない。

 ……それにしても、まったくもう、このくねくね道はどこまで続くんだろう。

「先生、いいこと教えてあげようか。静香にはねぇ、高校の時から付き合ってる許婚者がいるんだよ。……どう、驚いた?」

「キョコンシャ? ……いいなずけか?」

「じゃなくて、高校の時にフォール・イン・ラブな訳よ」

「ふーん、じゃあ、もうじき結婚するのか」

「うん、新卒の子が入ってくる来年四月に結婚して辞めるって。この間の誕生日のパーティの時言ってたよ。先生、聞いてなかった? 静香さぁ、でもさぁ、本当は先生のことが好きみたい」

「ん?」

 どうせ、珠美の勝手な話だろう。誘導尋問に違いない。その手に乗るか。

「山川さん知ってるでしょう、あたしたちの二年先輩なの。山川さんも寮なんだけどね、こないだ静香に相談されたって言ってたもん。こんなこと誰にも言えないって、静香ぼろぼろ泣きながら相談に来たんだって」

 ぼくは運転しながら、一瞬ハンドルを面舵いっぱいにしそうになった。白いガードが目の前に飛び込んできて、危うくガードを突き破って谷底の緑と青の川面に沈むところだった。三角関係の清算に心中、なんて真っ平だ。

「誰にも言えないことが、何で珠美に伝わってるんだよ。ウソを付くな、ウソを」

「先生、本当よ。静香を捨てないで。帰り道はずっと抱いてやってね。あたし、前しか見ないで運転するから。あたし、一度、左ハンドルを運転してみたかったんだ」

「おまえなぁ」

「うそうそ。静香が先生好きなのは本当だけど、結婚しようとか、愛人としてバンクされようなんて思ってないんじゃないかな。フレンドでいいんだと思うよ。あの子もああ見えて、結構遊んでるから。……あ、先生、あたしがこんなこと言ったの内緒よ」

「おまえらの内緒は、本人の前では言わないということだろ」

 まったく、最近の若い女ときたら、恥も外聞も考えずに誰彼かまわずあったことをしゃべるんだろうか。

 最後のカーブを回りきると摩の山ホームの威容が正面に見えてくる。週に一回の割りでここに通いだしてほぼ半年になるが、今でも谷に沿ってのくねくね道の最後に忽然と現われる要塞のような建物群には圧倒される。

 摩の山を背景にしての緩やかな傾斜地の中央に五階建ての住居棟が山腹から麓に十あまり階段状に並んでいる。それらの両端に共用棟があって、それぞれ西棟、東棟と呼ばれ、住居棟と連絡通路で結ばれている。東棟にはサロンとレストラン、喫茶室、ミニデパート、美理容室、管理事務室が入り、西棟には室内プールとジム、ビデオシアター、そしてぼくたちの詰めているクリニックが入っている。

 ここは大手の商社と生命保険会社、百貨店が共同出資して運営されているという。「関西一の規模と内容。高齢者向けリゾート感覚の最高級住宅。超俗の楽園」という歌い文句で五年前に開設された摩の山ホームはほぼ九割方の入居率で、まとまった資産を持てた比較的富裕な年金生活者が近畿一円から集まっている。

 

 

二、

 

 広い門を入ってすぐの芝生で大極拳か気功か知らないがゆったりした動きの運動をしている老人たちの一群に出会う。時刻はいつもどおり八時半を過ぎたところだ。

 吐く息が白いところを見ると、戸外はまだずいぶん寒いようだ。十一月も半ばを過ぎて、急に冷込みがきつくなっているが、ここは盆地だから夜間は一層冷えるのだろう。 大極拳の横を大きく迂回して管理事務室前で静香と珠美を降ろし、それからもう一度正門前を通って西棟にあるクリニックの裏に車を置いた。横には研修医仲間の玄の車が停めてあり、後部座席には大きなリュックやハイキングシューズ、いくつかの地図やカップ麺の箱などが無造作に入れてあるのが見えている。ドライブの途中で珠美があっさり白状したのだが、要するにぼくは、彼女らが当直明けの玄と摩の川渓谷のハイキングに行くための足代わりに使われた訳だ。

 玄は大学時代は山岳部にいたが、冬の剣岳に登った先輩が滑落して死んでからはピッケルの要らないハイキング登山しかしないことにしたという。韓国籍の彼にとっては親というのは絶対で、母親に泣いて止められれば逆らえないのだと言う。

 玄は山男らしくさっぱりしていて、ナースや患者たちの受けもいいし、ぼくら研修医仲間からも愛されている。医師免許を取ってから玄が勉強しているところをほとんど見たことがなく、暇を見付けては信州や山陰の山を歩いているようだ。医局で何を教えてやっても「ほう、そうか。おまえよく知ってるな」とこちらを気持ちよくさせてくれて、そのくせ、かなり頭がいいのだろうが、そうした耳学問だけで臨床の方も結構よくやっている。彼ののびのびした生き方は、ぼくなんかからすると理想的であり、羨ましくも感じられるのだった。

 当直室では玄が白地図にきょうのコースを書き入れているところだった。うーん、これで3キロか、とか何とかぶつぶつ言っている。

「よお、何かあったか、昨日?」

「オーネ、ベフント(所見なし)だ。あ、昨日の晩飯には松茸があったぞ。まあ、それくらいだな、事件は」

 しっかり眠れたのは玄の顔を見れば明らかだ。

「静香と珠美を連れて来てやったぞ。着替えたらこっちへ来るそうだ。両手に花で結構だな。どの辺を歩くんだ、きょうは?」

「お、そうか。そりゃ悪いな。きょうは摩の川の源流探しをしてみるつもりなんだ。地図だとこのラインを上がっていけばいいように思うんだがな」

 山男の無邪気な顔だ。ここでの当直時間中、彼女たちの体力や興味も考え合わせながらいろいろコースを検討して過ごしたらしい。

 ぼくは当直医用に届けられた篭いっぱいのりんごを一つつかんで丸かじりしながら、ここ数日の当直日誌をぱらぱらと見返した。三日前に当直した富士森が、午後十一時過ぎに「胸部不快感」の訴えでぼくらが「殿様」と呼んでいる酒井氏の心電図を取らされたりしているが、夜中に起こされた者はなく平和だったことがわかる。

「お待たせ。玄先生、これでいい?」

 派手な色のヤッケとリュックの登山スタイルに身を固めた珠美と静香がやって来て、薬品臭と男臭さの入り混じった当直室に原色の大きな花が開いた。

「二人とも派手やなあ。森でもよう目立っていいけど、そんな真っ赤なヤッケだとサカリのついた雄イノシシが突っ込んでくるで」

「うそ。それは牛でしょ」

「ははは、俺が雄イノシシや。気い付けや」

「沢田先生じゃあるまいし、玄先生は大丈夫よ。ねえ、静香?」

 珠美は意味ありげにぼくと静香を見比べる。嫌な奴だ。

「はは、沢田はあぶない、あぶない。こいつ学生の時から取っかえ引っかえだからな。なあ?」

「ウソを付くな、ウソを。玄だって……」

「俺は一人だけだ。あの子はいいなずけだからな。ま、あれこれ迷わなくて済むから気楽なもんだ。さて、じゃあ、あとは頼むわな」

 玄はまじめな顔になって、リュックなどを置いてある車の所へ出ていった。

「へーえ、玄先生にもいいなずけがいたんだ。私失恋しちゃったわ」

 珠美はテレビや週刊誌、碁盤、パソコンなどが雑然と並んでいる当直室の室内をおもしろそうに見回していたが、静香に意味ありげにウインクすると玄のあとを追って出ていった。

 やっと、静香と二人きりになれたわけだ。ぼくは今朝のドライブで珠美から聞いて気になっていたことを急いで切りだした。

「静香にも婚約者がいるんだって? 珠美が言ってたけど。……こないだ、ぼく、悪いことしたかな?」

「あれはわたしが望んだの。わたしあの頃、何が何だかわからなくなっちゃって」

「だいぶ酔ってたもんな、静香」

「そうじゃなくて、わたし自分の生き方これでいいのか、わからなくなったから、それで……」

「それで? それでぼくと寝たのか? どうして?」

「もういいんです。わたし自身の問題ですから。……玄先生が山はいいぞ、って。何も考えずに歩いて、帰ったら何も考えずに仕事をして、ぐっすり眠って……。とにかく先生は何も悪くないの。もう忘れて下さい」

 静香はそう言い捨てると大きなリュックを肩に掛けて当直室から出ていった。新しいトレッキング・シューズが堅い音をたてている。

 よくわからないが他人が口を出して解決するようなことではないようだ。あの晩も二次会の乗りで互いに遊んだだけで、好きだとか愛しているとか、儀礼的な古風なことを言った訳でもない。ぼくもそうだが、やはり静香にしてみても、一度寝たぐらいでは互いに他人でしかないはずなのだ。あるいは、ぼくと関係ができてから婚約を後悔しているのかな、とも思ったが、それはぼくの思い上りだろう。セックスなんて気の合う者同志で楽しむスポーツみたいなものだし。

 とにかく、考えてもどうしようもないことは考えない。事実を突き付けられて初めて考え始めるのが医者になってからのぼくの生き方だ。静香の問題は静香が自分で考えるしかない。ぼくにも火の粉が掛かってくれば、その時は逃げずに正面から応じていけば、それがフェアな生き方だろう。それまでは目の前のことから片付けていくのが実際的な生活の知恵というものだ。

 ぼくは当直医用に差し入れられた朝食を平らげると、白衣を引っ掛けて午前中の外来に向かうことにした。糊の効いた白衣に腕を通しながら窓から空を見上げると、早朝アパートを出発した時は冷凍庫のように寒かったのが、気持ちの良い秋空の色になっている。珠美とのドライブはちょっとハズレだったが、まずまず順調な一日のスタートである。

 

  

三、

 

 外来の前のゆったりしたソファーにはもう十人ほどが座って待っていた。高血圧症や糖尿病などの常連さんに水泳の前に寄った健康チェックの人たちだ。それに、そろそろ朝晩はかなり寒くなってきたから、気管支炎を持病に持っている老人の受診も増えてくるだろう。

 毎朝一番に受診する患者は決まっていた。軽い高血圧傾向のある64歳のドイチェ夫人である。いつも銀髪をすっきりまとめていて、小さな顔の横には日替わりのイヤリングが控えめに揺れている。生き生きとして知的に見える未亡人である。純粋な京女だそうだが、ぼくら研修医の間では彼女をドイチェ夫人と呼んでいた。

「……そうなのよ、先生もご存じでしょ、精養亭。ズッペはこの辺りだと京都の精養亭が一番ね。ここの料理人は魚の扱いはいいんだけれど、ズッペがへたなのよ。主人がいる時はいつも……」

 ああそうですか、ズッペねえ。精養亭ねえ。まったくあそこのは結構ですなあ、とでも言えばいいのだろうか。食事は進みますか、とでも尋ねようものなら、ズッペは、ヴァインは、クーヘンは……と、いちいちドイツ語を振り回す。数年前に肺癌で死んだ彼女の亭主がぼくらの大学の文学部名誉教授で、彼女もドイツでの生活を経験しているために名詞だけはかなりのドイツ語が操れるのだ。医者はドイツ語ができるはずと思い込んでいるのだろう。

 子供がいないために老人ホームに移る場合が多いのだが、彼女の場合も子供はなく、教授夫人という肩書きが邪魔をしたのか親しい友人もなかったためホームに移ることにしたらしい。そもそも彼女が亭主の死後の生活の場としてこのホームを選んだのは、近畿圏ではここが最も高額の「アルテスハイム(高齢者住宅)」で、違う「クラッセ(階層)」と一緒になる危険がないためであり、食堂と「キャフェ」が一流ホテルと提携していること、ホーム内の「クリニーク」が大学病院と直結しているから安心できること、という老後生活の三要素、つまり医・食・住の必要条件を満たしているからだと言う。

 価値判断というか生き方からすると、まあ一言で言って小憎らしいバアサンなのだが、ぼくら若い医者の間でのドイチェ夫人の評判は良かった。毎朝一番に血圧を測ってもらいに受診して、いつも帰りぎわにチップを渡してくれる。額は五百円に過ぎないが、いつもぴかぴかの五百円玉で、しかも渡すタイミング、渡し方が絶妙で、まるでマジックのようにスマートなのがこのバアサンを憎めないものにしていた。

 もう一人、朝一番で受診する常連がいた。酒井慶宣というたいそうな名前の紳士である。ぼくら研修医は「酒井の殿様」と呼んでいる。このホームの経営母体である商社の専務をした後に監査役を二年勤めてリタイアしたというが、名前の通りどこかの大名の末裔で元華族、学習院卒ということだ。

 こうした情報は看護婦のおばちゃん達がどこかから仕入れてきては、誰かに話したくてたまらないのか、その都度ぼくら無抵抗な若い医者が聞き役にされるのだった。もっとも、誰かが「……らしい」と言っただけのことが「……だそうだ」と伝わるため、後でそれがガセネタだったことが露見することも多く、ドイチェ夫人にしても酒井の殿様にしても、死んで遺族が現われるまで正体はわからないのではあったが。

 とにかく、臨床経験を積むというよりはいろんな人物を見て、社会の仕組みの裏表、世間の常識非常識について学ぶことの方が多い貴重なバイトだった。しかも、月に四、五回当たるここの当直から得られるお金だけで優雅な独身生活を送れるのだから、ぼくら老年科の研修医の言い方で言えば、ドイチェ夫人も酒井の殿様もすべてここの「お年寄り様」は「おじいさま様、おばあさま様」なのである。

 結局、午前中に二十六名の受診があったが、たいした症例はなくて、ちょっと手間取ったのは最後に診た遠藤さんという八十歳になったばかりの元気な女性だけだった。時々こちらをひやっとさせるような症状を訴えてきて、前に二度ほど大学病院でMRIを撮ったのだが、さしたることもなく動脈硬化症に使う気休め程度の薬と総合ビタミン剤を出したことがある程度の患者だ。きょうの訴えは飛蚊症だった。

「……そうなのよ。蚊じゃないんだけど小さな光の粒がいくつもいくつも出てきてね、窓も机もちゃんと見えてるのに、その上に重なってどんどん増えて飛び交ってるのよ」

「蛍ですね、まるで。風流ですねえ、遠藤さんは」

 つまらぬ相鎚を入れたのが失敗だった。彼女の昔話を誘発してしまったのだ。こうなると三十分は覚悟するしかない。

「先生、今は秋ですよ。まったく近頃の人は蛍も知らないんだから、かわいそうだねえ。私が娘の時分は……」で始まった独演会は、最後はいつもの次のような決まりの繰り言だ。

「私がぼけた真似してたらうまく行く思うてやってたら、本当にぼけてしまいましてなあ。先生、歳とったらあかんなあ。……そやけど、子供のために働いたんと違いますえ。自分のために働いて、自分のために子育てしたんや。今、自分のために信仰持って、喜捨をして何がおかしいのえ。私は死ぬまで自分の好きにさしてもらいます。私は間違ってえへん。そうですやろ、先生?」

 新興宗教にでも肩入れしているのを息子から意見されているのだろう。息子と嫁に啖呵を切っているのだが、面と向かって実際には言えないからこういう時に言い放ってすっきりしたいのだろう、と秋山講師がカルテにメモしていた。そうなのかも知れない。いい聞き役になること、「受容」し、ひとまず「支持」してあげるのが老年科診療の基本である。相続額が減る息子さんたちには申し訳ないが、ここは、なるほど、なるほどと頷いておくしかない。

 宗教に生きている時間というのは、言わばお話の世界で生きることだろう。その世界で生きるトレーニングを積んで優しくなる信心もあるだろうし、その世界で鍛えられて命知らずの非情の戦士になる場合もあるようだ。本来閉じているべき宗教のお話世界からはみ出して、宗教の世界と継目なく繋がったものとして現実世界の中で生き始めると、いろいろ現実世界と軋轢が生じて来るわけだ。遠藤さんも公務員として働いていた時は宗教とは話の世界、とその限界をわきまえていたはずだ。たぶんかなりのしっかり者であったはずの遠藤さんなのに、加齢とともに理性の衰えが来るというのは悲しいことだな、とぼくは思った。

 

 午前中の外来を終えてしまえば、もう当直の仕事の八割方は済ませたようなものだ。あとはポケットベルを持ってさえいれば広い敷地内のどこにいてもいいことになっている。もっとも、泳いではいけないのとビデオシアターは遠慮するように、という規則はあるのだが。

 急患に水着で駆け付けては様にならないのはわかるが、ビデオシアターがどうしていけないのかぼくにはわからない。金子は非番の若いナースと暗いところでいちゃつく恐れがあるからだろうと言うし、玄は映画見てたら熟睡するからに決まっとると言う。あるおばちゃんナースによれば、二年前に「すけべジジイ」の北川氏が若い当直医や事務の男どもを集めて、いかがわしいテープを観ていたのが露見してひと悶着あったからだという。

 北川氏というのはぼくの当直の時にも一度、朝方に尿閉で受診した前立腺肥大症を持った「評論家」である。あるいは「講釈師」とも呼ばれている。小さな出版社を経営していたインテリなのだが、とにかく多弁である。「多情多弁の大正ロマン」と自称するくらいだから自覚しているようだが、歳とともにリビドーが上がってきて困っていると自分で豪語している通り、擦れ違いざまに胸やお尻を触るなどナースに悪戯をするのでクリニックでも時々困らせられている患者だ。

 ぼくが当直の時は「うーん、もうあかん。破裂しそうや」と脂汗をかいて朝の六時前にナースステーションに来たのだが、あいにく深夜勤務が若いナースのペアで、ぼくが起こされて導尿させられる羽目になったのだった。おばちゃんナースだと「導尿しときましたよ」と朝に事後報告が来るだけで助かるのだが、若いナースは、まず、してくれない。確かに、膀胱という体内に管を突っ込む医療行為なのだから医師しかしてはいけないのではあるが、……ま、要するにじいさんの使い古しの中古品(骨董品?)のペニスなど触りたくもないということだろう。

 この北川氏のことをぼくがしっかり記憶しているのにはこれ以外にひとつの理由がある。北川氏が大学時代の法医学の教授とそっくりなことだ。顔はそっくりという程でもないのだが、口調といい、言い回しといい、表情といい、兄弟じゃないかと思うほどなのである。

 ぼくが学部一回生の系統解剖の実習が始まったばかりの時期だった。法医学講堂の外壁に取り付けられている「解剖中」の赤ランプが回っていたのに出くわして、ぼくらウブで真面目な(と言うか、単に好奇心が強かっただけの)同級生数人で恐る恐る法医学解剖室へ見学に入ったことがあった。

 解剖室の入り口にどういう死体なのか概略を書いたメモが置いてあるのだが、それによれば「三十一歳、女性。発見者によれば死後十時間ほどして、階段の下に倒れているのを発見された」というものだった。

「三十一歳、女性」で生唾を飲んだ記憶がある。たとえ死体であっても「三十一歳、女性」は「三十一歳、女性」である。二十歳過ぎのぼくらは一様に軽い興奮状態で部屋に入ったように覚えている。そして、階段教室になっている法医学解剖室に入室するといきなり、生々しい成熟した女性の完全な裸体が横たわっているのに直面して、ぼくは激しく感動してしまったのだった。

 ステンレスの解剖台に白い裸体が浮かんでいるように見えた。見事だった。このまま永久に不変であるのなら、これこそ完成された芸術だとさえ感じたものだ。解剖実習での、鼻を突く臭いの薬品で固定されてなめし革のようになっている老人たちの遺体とは月とスッポンである。

 ぼくがそんな芸術的感興に耽っている時に、北川氏に似た法医学の教授が現われたのだった。銀髪に緑色の手術着が、とても知的でよく似合っていた。

「きょうはお客さんが多いな。君たち、学部一回生か? そうか。どうや、このホトケさんは何で死んだと思う? どうや、君?」

 当てられた誰かが「頭を打ったから……ですか」と、答え方がわからないという風に返事をした。

「頭打ったら死ぬか。そうか。頭打ったら何で死ぬんや?痛いからか? どうや、君は?」

 うしろにいたぼくが当てられて、しどろもどろに答えたのだが、頓珍漢な答だった。ぼくが、頭蓋骨か頚椎が折れているんじゃないですか、と言ったところ、「骨が折れたら死ぬんか?」と教授に突っ込まれて、「中で血がたくさん出たのかも」と答えて、「血が出たら死ぬんか? 何でや?」とさらに質問されて誰も答えられなかった記憶がある。

 しかし、何といっても忘れられないのは、執刀前の教授の言葉だ。大げさな言い方だが、自然科学の方法論を教わった最初のカルチャー・ショックだったと思う。

「さて、外表の計測が済んだから、解剖に入るわな。……まずすることは、……」と間を置いて、そのシルバーグレイの教授はニヤリと笑い、「死んでるかどうか、まず確かめることやね」と続けた。

 一瞬の間があって、学生全員が爆笑した。しかしすぐに、これはたいへんなことを指摘しているとぼくらは気が付いた。自明だ、などという思い込みはせずに、自分の目で見て考えろ、ということだ。まだ脳死や臓器移植、安楽死があまり問題になっていない時分のことである。

「生きてる人間を解剖したらあかん。合法的に生きてる人間にメスを入れていいのは、病気を治す気がある時だけや。外科医が言うほど治らへんけどなあ。ま、治らんでもとにかく、治す気さえあれば切ってもよろしいということになっとる。それがお医者はんということや」

 膝ががくがくするほど感動した。目の前の教授の存在感の迫力に感動したのも無論だが、自分がそうしたすごい職業を選び取ったのだということにも、自己満足ではあるが自分自身で感動していたように思い出される。そして不思議とその時には既に、目の前の女性の蒼白な裸体を冷静に見始めていた。それは一人の医学者の誕生と言ってよかったように思う。

 もっとも、それからあと医師免許を取るまでには、札幌での無茶苦茶な心臓移植の内幕や大戦中の捕虜に対する生体実験の歴史なども知ったから、あの時の法医学の教授の言葉、「生きている人間を切っていいのは病気を治す気がある時だけ」というのも、また違って聞こえて来たりもするのだが。

 

 

四、

 

 東棟にあるレストランはホテルが入っていて、品数も多くなかなかうまい。ホテルと違うのは値段がかなり安いことと、一品ごとにカロリーと塩分の量が表示してあることだ。入居者は月々かなりの管理料を払っているのだから食事もただにしてよさそうなものだが、利用者負担という理由以上に、お金の出入を老人自身で管理することで社会性、自立性を失わせないように、との配慮からだという。レストランも美容室もミニデパートにしても、ここの中では現金は使われなくて、すべて写真入りの個人カードで清算するシステムになっているから、俗世間でのようなお金にまつわるトラブルも起こらないようだ。

 当直医の特権でぼくらは何をどれだけ頼んで食べても、当直医の検食欄にサインするだけでいいことになっている。特別に職員用のコーナーは設けていないから、時には食べていて患者に掴まったりする。先月には糖尿病患者の佐藤氏の近くに座ってしまい、食事療法の指導をさせられるはめになったのだが、その時はだんだん人が集まってきてミニ講演会になってしまった。その時、ぼくはまだほとんど食べていないところで、目の前に造り盛り合わせ、てんぷら盛り合わせ、鱸のムニエル、海の幸のサラダ、スパゲッティ・ミートソース、なめこ汁、茶碗蒸し、ライス、そして杏仁豆腐、季節の果物とコーラを並べていたのだが、感心したような呆れたような顔で老人たちから見られて死ぬほど恥ずかしかったことを覚えている。まったく、タダほど高いものはないようだ。

 きょうは飛蚊症の遠藤さんの昔話とぼやきに三十分付き合ったせいで外来の終わったのが一時をまわり、レストランはピークを過ぎていて、空いているテーブルもいくつか見える。事務の若い子がかたまっている大きなテーブルの手前に空いたテーブルを見付けたのでそこに向かっていると、「まあま、沢田センセ。こちらにいらっしゃいませよ」と聞き覚えのあるアルトで呼ばれた。大久保嬢である。ここの入居者で、無論、ばあさんなのだが、ぼくら当直医やナースは「大久保嬢」と呼んでいる。関西に本社がある大手企業の創業者社長だった人の娘で、婚約者が戦死したために今まで独身で来たという話だった。社長を継いだ弟と遺産分けで喧嘩して芦屋のお屋敷に居られなくなった、という話も聞いた。話の出所はすべておばちゃんナースたちである。まあ確かに大久保嬢を見ていると、威風堂々、資産家のお嬢様がそのまま歳を食ったように見えるのだから、噂というのも遠からず当たっているのだろう。

 呼ばれてしまった以上、大久保嬢たちの座っているテーブルに付くしかない。何しろ明日の朝までは「勤務中」なのだ。これも仕事と考えるべきなのだろう、やはり。

 テーブルには大久保嬢のほかには、知らない顔が一人とくだんの北川氏が座っている。三人とも食事はほぼ終わりかけで、昼だというのに北川氏はやや赤い顔をして熱燗をちびちび舐めている。

 北川氏はここの入所者に個人史の出版を持ち掛けては息子に引き継いだ自分の会社に斡旋しているという噂だ。大久保嬢たちも波瀾万丈の個人史をまとめるように口説かれているのかも知れない。

「沢田センセ。お見掛けしませんでしたけれどご病気か何か? センセはまだお若いからご病気じゃございませんでしょうけど」

「はあ、お会いしませんでしたね、そう言えば。だいたい週に一度は来てるんですが」

「まあ、それは失礼しまして。またお寄りしなきゃいけませんわね。ホホホ」

「いえいえ、病院なんて来てもらわない方がぼくは嬉しいんですから。……あ、いえ、もちろん、何か調子が悪ければ早めに来て頂く方がいいんですよ、もちろん」

 さぼりたがっているように聞こえてはたいへんだから、ぼくはせいぜい真面目で熱心な医者を繕った。

 注文を取りにきたので、ぼくはテーブルに並べられている三人の食べかけの品を見回しながら、鰻丼とてんぷらの盛り合わせ、野菜サラダ、それに松茸のホイル焼きも忘れずオーダーした。てんぷらはぼくの好物である。タダだと思ってたくさん注文するのはちょっと下品かな、とはいつも思うのだが、ここは若さの特権である。

「それだけ喰っとったら病気にならんわ。先生、若いなあ。羨ましいわ。わしなんか見てみなはれ、鰻半分食べたらもうあかん。胃が人の半分しかないんやからなあ」

「いつ切られたんです?」

「もうじき十年ですわ。癌やったらしいけど、もう無罪放免でっしゃろ?」

 北川氏のカルテをちらっと思い浮べた。そう言えば、「前立腺肥大症」の上に「胃部切術後」と「慢性肝炎」があったようだ。胃をいじってあるのに、鰻みたいな脂っこいものを食べてもいいんだろうか? 少し顔が赤いのは肝炎のせいか、酒のせいか? 

 ぼくは北川氏のやや赤い顔を見ながら、法医学の教授の顔を思い出したりする一方で、胃洗浄のやり方を思い出したり、肝性昏睡の治療って何だったかな、などと医学知識の復習をしてしまう。まだまだ実戦を積んでいないだけに、当直というのは不安がいっぱいなのである。

「ところで、沢田センセはどうお思いになる? 私が間違っているかしら」

「は、はあ?」

 どうも、ぼくが来るまで三人は議論をしていたらしい。多弁の北川氏と豪放磊落とでも言えそうな大久保嬢の意見が食い違ってやっかいなことになりかけだったようだ。えらいところに出喰わしてしまった。

「大久保はん、そりゃあかん。沢田先生は若いエリートや。努力に価値があるかどうかなんて関係のない所で今までたいした苦労もなしにスイスイ生きてきた人や。努力の果てに功成り名を遂げたプロフェッサー日置と一緒にしたらあかんで。ぼくが言うてるのんはぼくらみたいな歳になった場合の話や」

 スイスイなどと勝手なことを言うな、とは思ったが、とにかく二人の話を総合すれば、ぼくの斜め向かいの席に座っている元大学教授の日置氏に北川氏が自伝の執筆を勧めたところ日置氏に固辞されたのだが、その理由が「学問的な業績は論文に纏めてあり、今新たに稿を起こすに値するようなものを自分は持ち合わせていない」であることに対して、北川氏は「成果は書かれたかも知れないが、そこにいたる発想、思考法をいかにして獲得していったか、という優れた個人の努力の過程こそ書かれるべき価値があるのだ」と反論したものであるらしい。要するに注文が取れれば嬉しいんと違う? と、北川氏に聞きたいところだが、じっと我慢である。

 比較的ハイソサエティーのインテリ層が入居しているだけあって、こうした議論は珍しいことではない。しかも経験に裏打ちされたと自負している論客が多いだけに議論は延々と続くことが多く、終息するのはどちらかが体力的に議論に疲れ果てた時である場合が多いのが、ここでの議論の特徴だろう。何度か議論に巻き込まれたことがあるが、聞くだけの立場の老人たちは、論理の組立よりは、むしろ、話し方の立派さ、自信にあふれた口調の見栄えの良し悪しで判断するところがあるように思う。ネクタイの趣味の良し悪しで女性票が決まると豪語した、ある政治家のその不遜な発言にも残念ながら一理はあるわけだ。

 大久保嬢はどうかと聞けば、以外に月並みだった。

「センセ、いかが? 成功談ばっかりじゃなくて、人生に失敗した人の話だっていいわよね。失敗談の方がかえって参考になるかも知れない」

「そんなことあるかいな。そりゃあ人の失敗を見て、それに比べりゃ、って自分を慰めてるだけやないか。何でも書けばいいてなもんやないで」

 北川氏はさすがプロだけあって、書かれたものがある程度は人に受け入れられるように、という売れ筋を考えているのだろう。確かに凡人の世間話などわざわざ読もうとは思わない。

「それじゃ、私にも書けって言われたのはおかしいじゃありませんの。私は人生に失敗したオールドミスでしかないのに!」

 大久保嬢は人生に成功した老学者の日置氏と挑発してきた評論家の北川氏を交互に睨み付けてそう言うと、同情を求めて回りに視線を這わせた。

 ぼくは、と言えば、数年前に還暦を越した大久保嬢が今だに自身を「オールドミス」と呼んだことに奇妙な感慨を抱いていた。いくつになっても女なのだなあ、と。なるほど、ミスの自覚がなければこのような化粧はできないのかも知れない。ここではたいていの老人が老臭を消そうと淡い香りのコロンを使っているようだが、大久保嬢はいつもきっちりと化粧をしていて、香水を使っている。体格、姿勢、表情、性格のどれをとっても堂々としていて、自分をはっきり主張する彼女には、それがまたとても似合って見えるのだった。

 努力ねえ、……努力なんかどうでもいい、結果がすべてに決まってるじゃない、とぼくは思うのだが、上の世代には通じないだろう。確かにぼくもやる時はやったものの、総じて言えば生まれ付きの能力に寄り掛かっている部分がほとんどだろう。頭のいい親たちだったからぼくはそこそこやっただけで医者になれたが、生れ付きのこの顔、この声だからアイドル歌手にはなれなかった訳だ。努力はいつか必ず報われるというのは、小学校長の式辞か少年漫画の中でしか通用しないんじゃないのかな。しかし、ここは元教育者がうようよしているのだ。うかつなことは言えない。ここでは見物する側でいるのが無難というものだ。

 じっと聞いていたプロフェッサー日置が口を開いた。

「学術論文もそうだが、とにかく安易に出版物が出される風潮に私は反対なのだ。私は研究者としてしか存在しなかった。研究成果以外の足跡を残したいとも思わない。役者ではないのだから私の顔も忘れられていいし、私の生い立ちなどどうでもいいことだ」

「まあ、それじゃ、何一つ足跡を残せなかった者はどうなりますの?」

「どうって、黙り通して死んでいくしかないんでっしゃろなあ、やっぱり。ねえ、日置先生?」

「ひどいことを!」

 大久保嬢は大柄の鮮やかなハンカチを目に当てている。感情失禁のきらいがあるようだ。目の回りが黒くなっている。化粧を直した方がいいのに、と思うが、無論、口には出せない。大久保嬢は凡人の肩を持っているが、大久保嬢自身凡人じゃないじゃないか、とぼくは思った。元・良家の子女のセンチメンタルな情動に過ぎない。

「選挙権はありまっせ。投票してたら、ちゃんとその人の足跡、存在意義は残っていきまんがな。お金も知識も、何にも元手はいらん。平等にみんなの足跡が残るんや。民主主義っちゅうやっちゃ」

 北川氏もなかなか鋭いことを言う、とぼくは思った。それに、確かに北川氏の言う通りだろう。ほとんどの凡人にも平等に保障された自己表現の場が選挙、とはなかなか穿った物言いである。

 相応の努力なくして成功はありえないし、成功しないことには努力があったかどうかなんて誰も問題にしない。書き残すに値するのはやはりそれなりの特筆すべきものを残し得た人物だけだろう。ぼくもそう思う。

「私の一生って何だったんでしょうねえ、センセ」

 大久保嬢の呼んだセンセは日置氏ではなくぼくである。ぼくに何を言えというのか。日置氏も北川氏も理知の人だが、ぼくには情の人であって欲しいという訳だろうか。

 ぼくは自分が凡人であり、何らの足跡も残さず死んでいくと思っており、それでいいと思っていることを話した。「何や、沢田先生も今はやりのモラトリアムの人種かいな。そりゃあかんで。インテリの一種の衒いやね。そんなん考えが甘い。死ぬ時期が近づいてきたら、じたばたするのん今から目に見えとるわ。アホクサ」

 評論家の北川氏が即座にぼくの「哲学」を罵倒した。ぼくもムキになるところがある。

「ぼくらの世代は北川さんみたいにそんなに哲学しないんですよ。テレビとパソコンのゲームがあったら何時間でもハッピーでいられるんですから。生活だってコンビニは年中あいてるし。とにかくこのまま心地よければいいし、この先も現在程度の心地よさは維持できそうだ、ってわかってますからね」

 ぼくもここで話を止めておけばよかったのだ。北川氏の「アホクサ」にむっと来たせいで余分な本音まで口走ってしまったのだった。

「酒もたばこも好きにやりゃいいんですよ。別に、長く生きりゃいいってもんじゃないですからね。危険率を知った上で本人が決めればいいことで、医者がどうこう言うことじゃないんですよね、本当は。ぼくだってきょうの朝ここへ来る途中で川に落ちて死んでたかも知れないんだし、自分が気を付けてたって、対向車が当たって来たら一巻の終わりですからね。不可抗力の危険がこれだけ多い世相でしょう? 生きてる間はハッピーに、という今時の若い奴らの気持ちはわかりますよ。必死の努力はしないけれど、そこそこで生きていけるように自分に見合ったそこそこの努力はしてますよ。よほどの馬鹿以外はね。そこそこ、がぼくの場合は医者になることだった、ということですよ。だけど、北川さん、スイスイで医者になれるほど甘くはないですよ、さすがに」

 ぼくが大学に入った時、クラスに同じようなことを考えているのがあまりに多いのに驚いたものだった。世のため、人のため、などと言う奴はひとりもいなかった。多くの同級生は、医学部に入ったことで自分のエリート性が確認できたことだけで満足していた。医者という職業についても、割りの良さそうな仕事、という捉え方だった。ぼくはのんびりしたくて老年科を選んだが、夜に起こされないから皮膚科を選んだのもいたし、開業し易いというだけの理由で耳鼻科や眼科を選んだ者も多かったし、何もしなくていいと言われて精神科に入ったおかしなのもいた。それに、病人なんか見たくもないと豪語して厚生省に入ったのまでいたのだ。

「そこそこ、なんて言って、お医者さまにはなれませんでしょう。人の命を預かるんですから、さぞ難しい勉強をされて来たんでしょう。そんなに謙遜されなくても……」

 大久保さん、謙遜なんかじゃありませんよ、と喉まで出掛かったが、ちょっとしゃべり過ぎだと気付いてぼくは黙ることにした。

「沢田先生は人の死をどう考えているのかね?」

 元教授の日置氏に正面からそう尋ねられて、ぼくはまずいことになったと思った。日置氏からすれば、ぼくなどまだ学生みたいなものだ。実際、一年前には医学部の学生として口頭試問を受けて冷汗をかいていたのだから。

「医者にとっての死は、死亡判定の基準を満たしている状態、としか言えません」

 ぼくは質問をはぐらかすつもりもあって、まるで口頭試問に答えてでもいるかのような無味乾燥の返答をした。日置氏の右の口元に時々微かな痙攣が走っている。神経質なインテリだ。怒らせると恐そうだ。マズイな……。ぼくはちょっと緊張した。

「それでは、先生の母上の死と他人であるぼくの死とは一緒ですか? 医師として死を捉えているそうだけれども」

「医師としては、ま、一緒です、理論的には」

「理論的には? ……先生は理論的に生きているのかね?ぼくは人間的に生きているつもりなのだが」

 日置氏はじっとこちらの目を見据えながら畳み掛けてくる。口元の痙攣がやや強くなっている。マズイ。ぼくはとにかくこの議論から逃げておこうと思った。

「訂正します。母が死んでみないとわかりません。これが正確な答えです。正直言えば、考えた事がないんです、人の死、なんて」

 日置氏はじっとこちらを見つめていたが、ふっと身を引くと大学での講義でもするように、静かな目で話を続けた。外に向けた関心を引っ込めて、再び自分の世界に戻ったかのようだ。

「理論は重要です、確かに。だが、理論を適用するときに必要なものがある。想像力です。それと、批判力です。患者が苦しんでいる時、どうしてあげればいいんだろうと思うこと。患者が死んだ時、その子供はどう思うだろう、妻はどう思うだろう。それが想像できないようでは人の死など虫けらの死に等しくなってしまう。そんな価値のないもののためにあなたは働いているのか? 人の命に保たせるだけの価値がないとすれば医療というものは成立しないのではないか? それで行けば、人間のあらゆる営為など存在意義がない。人間の生存そのものが無価値無意味ということに帰納されるでしょう。……そんな馬鹿なことはない。心身の苦痛からの解放のために医療は必要であり、人の死にはそれぞれ重大な意味がある。そのことが実感として納得できるために、大切な者を失った時の気持ち、あるいは何かを欲しいと切実に願った時の気持ちを持続しておく必要があるのです。それが想像力です。違いますか?」

「教条的!」と、即座にぼくの頭の中で反論が作られた。思考回路に自己防衛反射が作られているようだ。これがぼくら「マークシート入試」世代の特徴かも知れない。しかし大学の医学部でぼくらが学んだ医学教育なんて、人間という小さな生体の中の細かな組織、微小な細胞のことしか相手にしていない。人間の皮膚からほんの少しも出ていない。社会のことなんて何も考えさせられたことはない。だから「医師対患者の関係」とか「インフォームド・コンセント」とかいう言葉も医師にとっては患者との会話の中での飾りでしかないわけだ。

 そもそもぼくらより若い世代は世のため、人のため、なんて考えて生きてはいない。自分の果たす労働に価値があるかどうかに関係なく、労働に対して一定の代価が受け取れて、それが自分のそこそこの生活を維持してくれればいい。価値のないことでも、あるいは負の価値であるとしても、代価がありそれがペイすれば、ぼくら若い世代は何だってやってのけるだろう、とぼくは反論したいと思った。が、止めた。所詮、世代が違うのだ。いつもどおり、素直に丸く見せておくのが賢いスマートなやり方だ。

 ぼくは言葉は返さずに、頷いて、御説ごもっとも、と恭順の意を表わした。

「マニュアル世代やからなあ、近頃の若い人は。画龍点晴を欠くって奴やね。いや、仏造って魂入れず、か」

 にやにやしながら北川氏がぼくの顔を見た。

「沢田先生はまだ二十代やろ。マークシート世代の理論武装なんかちょろいもんや。知識のあやとりやからなあ、まるで。……ま、それでも看取ってもらうのんは沢田先生かも知れんからな、よろしゅう頼んまっせ、とお願いしとくしかないわな、日置先生。ぼくらは所詮肉と脂肪の塊や。しかも半分死にかけや。沢田先生にしてみたら、ぼくら老人はどいつもこいつも、脳死の判定条件を満たしたら、ほなサイナラ、てなもんでしょう」

 あっさり言われてしまうと、ぼくは何とも返しようがない。今まで、人の死、なんて考えたことがあっただろうか。肉親の死に立ち会ったことは記憶にはない。死、と言えば、病院のベッドでの「予期された死」ばかりだ。病状から死が切迫している場合はもちろん、老人たちはすべて死が「予期されている」のだから、驚きもない。人間的に結び付きのあった人はないし、ぼくは患者とのそうした結び付きを煩わしいものとして避けても来たのだし。

 ただ、こんなぼくでも半年間の臨床経験で考えたことはある。かっこよく言えば、医療の限界ってのは医療機器とか医療技術の限界じゃなくて、医療をする人々が人間の心を見なくなる時じゃないか、ということだ。

 癌の末期とか、どう考えてももうじき命が消えていくという時に、肉親や友人ではなく、なぜ白衣の群れと医療機器に取り囲まれなければならないのか? 親しい人の声ではなく、なぜ、ハート・モニターやレスピレーターの単調な音しか聞けないのか? たまに聞こえてくる人間の声さえも、血圧値や血液ガスのデータをひとごととして話し合う医師やナースのものでしかない。

 延命って何だろうと思う。医師やナースが寄ってたかって、どれだけ長く患者の心臓を動かせるか競っている「延命ゲーム」でしかないんじゃないかという気がするのだ。死んでしまえば、ほなサイナラ、か……。

「そんな、そんなひどいこと考えてませんよ。北川さんは口が悪いなあ」

 ぼくはここらで切り上げたいと思って、すでに運ばれてきていた鰻を口に頬張った。空腹が癒されていく。

「病気がある以上は医者は要るし、泥棒がおる以上は警察が要る。変な奴が元首になる国がある以上は、軍事力も要るわな、やっぱり。ここは平和やから、治安維持がどうの自衛隊がどうのはピンと来んやろけどな。ここにおるのは片足突っ込んだ年寄ばっかりなんやから、死ぬとはどういうことか、ちょっとは考えてみなはれ、沢田先生」

 酒のせいもあるのだろうが、北川氏の目は少し充血していて、すっかり「据わっている」のがわかる。

『ブリキの太鼓』じゃないけど、ぼくは自分の意志で二十歳の時点で成長を止めたんです、とも言えないし、エヘヘヘ、とごまかす訳にもいかないようだ。まいった。真面目に考えだしたら、「そこそこで生きる」ことに満足している現在の自分に疑問を持つことになるだろう、きっと。それが欝陶しくて思考を自己規制しているのがぼくらの世代なのだが。そうした小賢しさが古い世代のインテリには不快に映るのだろう。それもわかるけれど、これは自己防衛だからしょうがないんだよなあ、とぼくは思ってしまう。 それより、今は食事である。鰻が冷めていく。てんぷらがまずくなる。花より団子、腹が減っては議論はできぬ、である。

「わかりました。勉強させていただきます。……ところでこの松茸は、やはり韓国産ですかね? 結構いい香りしてますが」

 ぼくはホイルを開いて、中の小振りの松茸の匂いを楽しんでから口に運んだ。自腹を切ってまで食べたいとは思わない贅沢品である。

「生きるとは食べることと見付けたり、てなもんやな。沢田先生の食べっぷり見てたら、確かに、死なんて他人事なんやろなと思ってまうな。ああ、アホクサイやら羨ましいやら」

 マジメな話はどうやら終わりになったようで、松茸は中国から来ているという話になり、大久保嬢が万里の長城を歩いた時の話になり、中国のトイレの話になり、アジアでの食中毒の話になり、肝炎の話になり、北川氏の顔色の話になり、酒は百薬の長かという話になり、メキシコの酒と泡盛とどちらが強いかという話になり、……ま、言ってみればサロンにふさわしい話題で座が盛り上がって、老人たちはそれぞれ満足して午睡のために自室へ戻って行ったのである。ああ、やれやれ。

 

  

五、

 

 夕方から雨になった。霧のような細かい雨が降っている。テレビの予報で明日の朝にかけて下り坂とは言っていたが、予想よりも早く降り出したようだ。珠美と静香から連絡がないということは、彼女たちはまだ山から戻っていないようだ。ヤッケも着ていたし、玄がいっしょだから心配はないだろうが、早く戻ればいいのに、とぼんやり考えながらぼくは夕方からはずっと当直室に詰めていた。

 昼に懲りて、夕食はレストランに電話を入れて当直室まで運んでもらった。松茸の土瓶蒸しを注文してしまったのだが、もしかすると、レストランの人に笑われているかも知れない。しかし、こんな時にでも食べておかないと今度いつ口に入るかわからないのだ。フォアグラもここで初めて口にしたし、亀のスープもいつか試してみるつもりだ。

 午後八時過ぎ。満腹になって、ベッドに引っ繰り返ってテレビを観ていた。ワンパターンの時代劇が始まったので、ちょうどチャンネルをいじくっていた時に電話のベルが鳴った。たいした事は起きないはず、と思ってはいても、やはり、当直中の電話のベルにはドキリとさせられる。

 受話器からは主任のきりっとした声が聞こえてきた。そばに患者が聞いている時の声である。ちなみに、この主任はカラオケが趣味で、若いドクターとのデュエットに生き甲斐を感じている現役のオールドミスである。

「沢田先生、お一人お願いします。眠れないそうですので」

 きょうの準夜は主任とパート・ナースのおばちゃんペアだ。たいていのことは電話での指示だけで処理してくれるはずなのだが、「眠剤あげといてよろしいでしょうか?」ではないところをみると、新患なのだろう。ぼくは白衣を引っ掛けて外来に向かうことにした。

 驚いたことに、不眠の患者は先程の厳格な人格者、元大学教授の日置氏だった。さらに驚いたことに、彼はかなりの睡眠薬中毒なのだった。今までぼくの当直日にたまたま当たらなかっただけで、カルテを見ると週に二三回は不眠を訴えて睡眠剤をもらっているようだ。おばちゃん看護婦がわざわざ当直医を呼ぶということは、一筋縄ではいかない患者だということのようだ。

 医学的には無論、薬物中毒という程の量ではないのだが、彼の訴え方は、やはり「中毒」と言ってよいものだった。昼間の寡黙なインテリと目の前の神経質に口角を大きく痙攣させている姿とはあまりに落差があり過ぎるのだ。よく見ると、こめかみに磁気治療の丸いテープを貼っている。衿のくしゃくしゃになったパジャマの上からガウンを引っ掛けた姿で、足元は靴下を履かずに古い革靴を引っ掛けて来ている。政府の諮問委員会の委員をしたり、旧帝国大学の文学部長を歴任した学者とはとても思えない。そこらのご隠居の爺さんである。

 言わば二重人格である。それがぼくを愕然とさせた。

「睡眠薬を……。湿度が高くなると顔面痙攣がひどくなるんでね。眠れんのだよ。ううう……いつものでいいから、四錠、……四錠もらえないかね? うう……二錠では全く効かない」

「顔面痙攣は痛いんですか?」

 正直言ってこれだけ強く痙攣する症例は見たことがないので、痛いのであれば睡眠剤ではなく鎮痛剤を出そうと思ったのだ。

「いや、痙攣はいいんだ。いつもの睡眠薬を……うう、息苦しいんだ。頭も重い。……すぐに四錠。いつものだ、カルテを見ればすぐわかるんじゃないのか。そこに書いてあるだろう!……ううう。四錠だ、すぐに!」

 日置氏は興奮してきた様子で、目を見開いて大きな息をしている。左右の瞳孔の大きさが違うようだが、気のせいだろうか? ヤバそうだな、と直感したぼくはいつもどおりの処方でごまかすことにした。ぼくが倍量にしたせいで昏睡にでも陥ってくれては困るのだ。そもそも、睡眠できなくて死んだ者などいない。不眠を訴える患者も昼には眠っている場合が多いのだから、職業を持たない日置氏には昼間に眠ってもらうことにする。

「薬に慣れてしまうとますます効かなくなりますからね。きょうのところは無理に眠ろうとはされずに、……体を横にしているだけでもずいぶん疲れは取れるんですから、気を楽にのんびり構えてみてはどうです? ま、二錠出しておきますから」

 通常の患者であれば、多少の不満は抱いても医師の勧めに露骨な反論はしないものだが、日置氏は違っていた。目が焦点を失ってくるや、次第に息が大きく早くなり、視線は次第に上に向いていき、ついには黒目が上瞼の中に没してしまった。と、同時に顎が、頭全体が、そして上体が、がくんがくんと揺れだしたかと思うと、全身に痙攣が走ってビクンビクンと引き付けを起こしてしまったのだ。

 介助していた二人のナースがまたかという顔をして横のベッドに日置氏を引き摺り起して横たえた。こういう時おばちゃんナースは助かる。若いナースだと、驚いてしまってぼくら医者の指示を待つだけで何もしてはくれないからだ。

 ほんの十秒も経っただろうか? 黒目はまだ上を向いたままだが、全身の痙攣は次第に納まってきている。ショック状態に進んでいない以上、今は何もすることがない。待つしかない。

 ぼくがさらに驚いたことには、日置氏が興奮して失神するのはしょっちゅうで、これで今月は二回目だとパートのおばちゃんナースが小声で教えてくれた。

「このあいだは尿失禁はするは、意識が戻ってからは大声で泣かれるは、……そりゃもう、たいへんでしたよ」

 見ている間に日置氏は意識が戻って来たようで、浅く早い息をしながら探るように天井を見回している。大声で泣きそうには今のところ見えない。

「どうですか、気分は? だいぶ休まれましたから、朝まで眠らなくてもいいくらいですよ、日置さん。でもまあ、特別に二錠だけ出しときますから、部屋に戻られてぐっすり寝てくれますか? よく効きますよ」

 日置氏はむっくり起き上がると、どこまで記憶があるのか知らないが、昼のインテリの顔に戻って不機嫌そうな顔のまま、一言もなく診察室を出ていった。果たして自室で眠れるのだろうか? 夜はまだこれからなのだが。

 診察室のブラインドの間から外を覗くと、山中の闇の深さの手前に、数十メートル離れた坂の下にある正門や所々に立っているオレンジ色の外灯が雨で霞んで、いかにも寒そうに見える。確かに眠れないままにこの底無しの闇と向き合って朝を待つしかないとすれば、気がおかしくなるようにも思えてくる。日置氏は想像力と批判力が大切だと言っていたが、彼は深くて長い闇の時間と対面しては、毎晩、その想像力を持て余しているという訳なのだろうか?

 うーん、確かにぼくには想像力が不足していたようだ。人には昼の顔と夜の顔があるということ。意識的な善悪の使い分けなどというちゃちな分別ではなく、人には自分でもコントロールできないもうひとつの顔があるもののようである。

 おばちゃんナースたちの世間話(今日は芸能界のスキャンダルの話だった。)に付き合っていて、ふと時計を見たら十時近くになっていた。静香と珠美はまだだろうか? 強くはないようだがずっと雨が降り続いている。雨宿りをしているのか、夜と雨とで足場が悪くて下山に苦労しているのだろうか?

 十一時を回っても戻らないようなら、何か事故かも知れない。警察に連絡しないとマズイだろうが、どうなるんだろう? あまり大事件にして、あとで玄が教授から叱られるようなことになっても困るし、ここは朝まで待った方が……いや、深夜勤務の二人が来ないことになったら、それはもう大事件に決まっている。やはり、もうしばらく待っても戻って来なかったら、……と、ぼくは闇に沈む緑と青の深い谷を思い浮べては、最悪の場合も考えて落ち着けなかった。想像力はないのだが、こうした低レベルの妄想はいくらでも広がっていく。

 このぼくも、他人が被害者となって日常性という奴が崩れていくことに快感を感じる困った人種の一員に過ぎないようだ。庶民という人種である。

 我ながら無関心・無責任でひどい奴だな、などと思いながら、「友人の談話」の文面も考えたし、「変わり果てた姿」の静香との対面シーンも想定していろいろと演出を思い悩んでみたりもしていたのだった。……ぼくらの世代は現実とテレビの中の世界との境目があやふやになっている。誰もがあっと驚く事件など、もう起きないのではなかろうか? すべて予期されており、疑似体験されており、「卒業」してしまっているのだから。

 しかし、やはりと言うか、残念ながらと言うか、事件は起きなかった。玄と静香、珠美の三人は十一時前に戻って来た。……テレビドラマではないのだ、現実は。摩ノ山は冬の剣岳ではない。単なるこの里の裏山に過ぎない訳だ。 静香が斜面で滑って足首を捻挫したために早めに山を下りることにしたものの、雨が降りだしたので、里に下りてから農機具置場の小屋や老夫婦が住む農家など、所々で雨宿りしながらゆっくり戻って来たのだという。玄はぼくに事情を話しながら、静香の左の足首に湿布を貼り、弾力包帯で関節をほぼ固定するようにぐるぐる巻きにした。ぼくは自分では包帯など巻いたことがなかったから、玄の手慣れた処置に驚いた。聞けば、登山部で覚えたのだという。

「応急処置だからな、これ。明日、整形外科で靭帯のチェックはしてもらっといた方がいいぞ」

「ありがとう、先生。すごいねえ、玄先生、何でもできるんだ」

 痛む足で歩き疲れてぐったりしている静香の代わりに、珠美が答えた。主任たちおばちゃんナースも、日頃は老年科の飄々とした「口だけ」の医者しか見ていないために、玄のてきぱきした処置が新鮮に映るらしい。器用だねえ、とか、老年科の医者にしとくのはもったいない、だとか好きなことを言っている。

「勤務は無理だねえ。私はどうせ朝まで帰らないから仮眠室にいるし、何かあったら起こしてくれたらいいよ。この足じゃ歩くの良くないから」

 主任がそう言ってくれて、深夜勤務は元気な珠美がひとりで起きていることになり、静香と主任は仮眠室で待機することになった。玄は明日、大学の方の点滴当番で朝七時には大学病院に出なければならないから、と雨の中を車で帰って行った。

 正直言って、ほんの二時間前までは、静香と二人きりになれるチャンスがあればもう一度何かが起きる期待もないではなかったのだが、足首の捻挫と主任の居残りですべての望みが消えた。こんなはずじゃなかった、などと言っても徒労である。一切の色気抜きで、あとは仕事をするのみだ。そう決意したぼくは、大きなあくびをして当直室へと戻って行った。

  

 

六、

 

 元船医の五十嵐さんがスコッチを一本ぶらさげて当直室にやって来たのは、それから数分後だった。引退したとはいえ、医師同志ということで、時々、当直室の若い医者と話をしにくる常連である。おもしろい人なのだが、正直言って、ちょっと迷惑な珍客である。

「よっ、きょうは沢田先生か。ちょっと寝酒、付き合ってくれや」

「今ひとり診察して来ましてね、疲れましたよ。今飲んだら完全に寝ちゃいますからね、止めときますよ、ぼくは」 当直だから飲酒などとんでもないのだが、ビールを一缶ぐらいなら、というのは常識になっている。

「そりゃ繁盛で結構、結構」

 五十嵐さんは自分で持ってきた小振りのグラスに並々とスコッチを注ぐと、一気に飲み干した。強い酒の正しい飲み方を知っている。通の酒飲みである。

「これはなあ、昔は日本に入っとらんかったんや。最初にこのスコッチ飲んだのはな、昭和三十五年やったなあ。横浜から出て、フィリピンで砂糖を積み込んでニューヨークに運んだ時やった。ハワイに寄ったすぐあとですごい時化に会ってな、小出しにしてる棚の薬品瓶がほとんど棚の柵を飛び越えて落ちてしもうてなあ。濡れたロープで足を切ったいう船員と転倒したパーサーが額割ってしもうて……。それでこの酒で消毒したんや。消毒言うより、麻酔代わりやな。リドカインは見つかったんやけど、注射器がカステンごとふっ飛んだからなあ。まだ揺れが続いとる中で、二人の傷縫うたんや」

「えー、無麻酔ですか? 野戦病院ですね、まるで」

「そや、時化の時の船の中いうたら戦場や。凪いどる時はあんなええとこないけどなあ」

 五十嵐氏は結婚前の昭和三十年代を船医で暮らしたという。大きな貨物船だから沈む危険などはないそうだが、一度出ると一、二ヵ月は何もない海の上だったから、性格も生き方もすっかり変わってしまったという。

「五十嵐先生はインターンをされたから内科も外科もできるんでしょうけど、ぼくら卒業と同時に老年科に入っちゃったから、傷ひとつ縫ったことないんですよ。包帯の巻き方も知らないし、とても船医は勤まりませんよ」

「縫ったこともないんか? そりゃひどい」

「若くて体力があるだけですよ、ぼくら。大学病院だとどうしても先輩と較べられちゃうでしょ。病棟で患者持ってますけどね、ぼくらを素通りして、患者はみんなライターの先生に相談するんですよね」

「そりゃ、しゃあないわな。医学なんて、経験の学問やからな」

 五十嵐氏は一人でぐいぐいグラスを空けている。指先に振顫が認められるがだいじょうぶかな? そう言えば左足を引き気味に歩いてたみたいだったが。

「若い医者だけど一生懸命やってくれてる、と思われてるだろうと自分では思ってたんですがね、患者や家族はそんなことまったく考えてないんですよね。今の治療でいいのか? もっと効く痛み止めはあるんじゃないだろうか? 経験のある医師はもっといろんなやり方を知ってるんじゃないだろうか? こんな若い医者になんか頼ってられない。……どうも、そう思うんですね。しかも、ぼくらから考えても、残念ながらそれは当たっている。熱意はあってもピントはずれだったり、知識が不足していたり、針一本刺すにしても技術がまずかったり、とね」

「はーは、はっ、はっ、はっ。そんなもん当たり前じゃ。免許もろうてすぐにいろいろできる方が気色悪いわ。沢田先生はまだ、丁稚や。丁稚がいやなら、徒弟や。十年辛抱し。はーは、はっ、はっ、はっ」

 五十嵐氏は糖尿病もあるし、高血圧で降圧剤も飲んでいるし、いつ心電図を取っても期外収縮が頻発している立派な患者なのだが、たばこは日に二箱、酒はこの調子で、まったく節制する気がない。初めて診察する医者は誰もが、彼が医者だというので遠慮しながらもきつく自制を勧めるのだが、言わば確信犯であることがわかると、逆に、こういう患者もいいな、と妙な共感を抱いてしまうのである。 薬を飲むだけならたやすいが、旨いものは食うな、禁酒禁煙しろ、などとできんことを言うな、と五十嵐氏に言われると、もっともな意見に思われて来るのだから、彼の人徳というべきだろうか。

「それからなあ、航海が終わるちょっと前にな、オートクレーブは壊れるわ、消毒薬は底をつくわでな、マッチで針先を焼いて滅菌したこともあるで。糸がなくてスチュワード、厨房のことや、スチュワードの若いのに料理に使うタコ糸持って来さしてな、その太いやつで足の傷縫うたったこともある。無茶苦茶やな、今から思うたら。それでもちゃーんと傷はくっついたで」

「うーん、そんなんありですか?」

「おう、何でもありや。縫わんとな、目の前で血い吹いとんのやから」

 ぼくにはとてもできない修羅場である。

「下級船員には悪いのもおってなあ、寄港先で女を調達して来よんのや。酒場で知り合うたホステスを船の中見せたるとか言うて、そのまま船の底に閉じ込めてな。出航したらひと月ふた月やろ、若い奴ら我慢できんからな。女廻して、ま、レイプやな。楽しむだけ楽しんで、女がごちゃごちゃ言うたら海にポイや。ひどいもんや。港の女が一人くらい消えても誰も探したりせんかった時代や。どや、想像も付かんやろ」

「そんな。船長とか知らないんですか? 先生も知ってたんでしょう?」

「言えるかいな、そんなこと。あっちの方が数も多いし、腕っ節も気性も全然違うんや。前科者もいるしな。言うたら、こっちが海にポイやがな」

 うーん。絶句、である。そういう時代もあったのか、という感じだ。今はそんな無茶苦茶は通らんやろけどな、と五十嵐氏は言うのだが、どうなんだろう。

「わしらはな、船長とか機関長、一等航海士は上級船員ゆうてな、ハワイでもニューヨークでも着岸したら海運会社の駐在員が接待してくれて、女も当てごうてくれるからいいんやが、下の若い者はな、自分で処理するしかない訳や。そりゃつらいもんがあるわいな。先生もまだ若いからわかるやろう?」

「は、はあ」

「先生は誰か決まったおひとがおるんか?」

 急に真面目な顔をされて、おひと、と言われて、一瞬意味がわからなかった。

「は? ……いえ、当分独身のつもりです。まだ医者になったばかりで、半人前ですから」

「そうか。頼まれとるんやがな。誰か知らんか、結婚したがっとるの。医者でなくてもいいんやけどな」

 同級生はほとんど独身だが、結婚など話題にも出ない。若い看護婦にちやほやされて、患者からは先生、先生と崇め奉られて、言ってみれば酩酊状態な訳で、異性に関してもそういう桎梏というか足枷を自ら求める訳がない。

「そうか。……実はわしの娘なんや。戸籍には入っとらんがな。わしも先が見えて来たからな。金はいっぱい付けるから誰かおらんかなあ」

「どこにおられるんですか?」

「横浜や。横浜の女に生ませた子やけどな、母親にそっくりの別嬪や。今、女優やっとる」

 女優と聞いて、ぼくもちょっと気になりだした。女優を妻にするなんてなかなかトレンディじゃないか。たしか十年ほど先輩に、タカラジェンヌを嫁さんにした人がいて、結構いいポストに付けたのは嫁さんの力だという噂を聞いたことがある。

「名前なんて言うんです? 芸名でしょうけど」

「女優ゆうてもなあ、大部屋に毛が生えたくらいのもんらしいな。先生、テレビ見んかったか? 今日も時代劇に出とったんやが、土左衛門の役やっとった。その前はやくざの情婦や」

 うーん。ぼくとは住む世界が違うようである。

「女優さんも不規則でたいへんな仕事なんでしょうね? 時々、会われるんですか?」

「土左衛門の役の時は夜中やったらしいな。出る時はいつも電話して来てくれるんや。時代劇はギャラがいいからな、たまに大阪で会うとわしの方がおごられたりや」

「へーえ」

「まあ、固定給ゆうのがないからな。時間給にしたらいいけど、退職金はないし、怪我したらパーやしな。……でも、ま、好きなことするのが一番や。大きい事務所に入っとるから、看板のスター俳優に役付いたら娘らもセットで売り込んでくれるんで結構仕事はあるみたいやな」

「それじゃ、結婚なんかする気ないんと違いますか?」

「本人は、いい人がいたら見合いしたい、といつも言うとる。そろそろ先が見えて来とるんと違うかな。それに、やっぱり人並みのことがしてみたいんやろな。……母親には悪いことをした……」

 弱気になった五十嵐氏は何杯目かのスコッチをぐいっとあおると、ブラインドの隙間から窓の結露を拭い、真っ暗な外に目を凝らした。

「もう冬やなあ。今度の正月で淳子は三十三や。いい娘なんやがなあ。そうか、おらんか」

 五十嵐氏はしばらくじっと外を見詰めていたが、急に立ち上がると、邪魔したね、の一言を残して部屋へ戻って行った。アルコールが回っているのか足元が少し危なげだが、船医の生活で揺れには強いのだろうとぼくは勝手なことを思いながら、彼を見送った。

 自分自身のことは達観していても、なかなか俗世と完全には縁を切れないもののようだ。幾つになっても、生きていくというのは辛いことなのだろう。

 時計を見ると午前一時半を回っている。朝まで七時間はゆっくり眠れる時刻である。ぼくは部屋の明かりを消すと、ベッドに潜りこんだ。今晩は女優と結婚した船医になった夢でも見ようか、と思いながら。

 

 

七、

 

 熟睡していた。始め電話の音で目覚めた時、この夜中に何という非常識な奴だろうと怒りが湧いたくらいである。自分が当直をしていることを完全に忘れていた。時計は午前五時二十分。時計の横に掛かった白衣を見て、やっと当直中なのを思い出した。当然、怒る筋合いはなく、ただちに起きて働くしかない訳だ。……しかし、やはり眠い。それにしても何という時間だ。

 ぼくは大きくあくびをするとベッドのすぐ横にある受話器に手を伸ばした。

 受話器を取ると珠美からだった。ぼそっと、すぐにドイチェ夫人の部屋に来てほしいという。こんな時間に呼ぶんだから緊急に違いない。ぼくはドイチェ夫人の部屋番号を聞くと当直室を飛び出した。暖房の効いた当直室から出ると、廊下はまるで冷蔵庫のようだった。きっと、戸外は冷凍庫だろう。霜月と言うだけあって、深夜は初冬と言っていいほどに冷え込んでいる。窓から見える摩の山のあたりは、雲が垂れ篭めているのだろうか、月も見えず真っ暗で、雨の音が微かに聞こえて来るだけの空虚な空間だ。

 ドイチェ夫人に何事だろう? けさは血圧もいい値だったし、顔色も良かったはずだが。ほかにこれといって持病はないはずだし、たいした既往症もなかったように覚えているのだが、……いや、老人はすべて紙の小舟で死の海を漂っているようなもの、というある講師の言葉をぼくは思い出した。そして、とにかく何事であろうと決して驚くまいと思った。珠美の手前、戸惑いや自信のない態度は禁物だ。玄のてきぱきとした手際に感心していた珠美の顔や修羅場をくぐってきた五十嵐氏の髭面を思い起しながら、ぼくは医者だ、何でも診てやろう、などと訳のわからない決意を固めていた。珠美に掛かったらどんな噂を広められるか知れたものではないのだから。

 ぼくは白衣のポケットの聴診器をしっかり握り締めて三棟の二階にあるドイチェ夫人の部屋に急いだ。

 ドイチェ夫人の部屋に入ってまず驚いたのは、強い香水の匂いと、夫人の頭がいつもの美しく結い上がった銀髪ではなく、薄汚れて見える灰色の髪が薄く乗っかっているだけだったことだ。

 夫人は窓の横の椅子に深くもたれて座っていて、焦点を結ばないまま視線を窓の外の深い闇に向けていた。ガウンを羽織った胸は薄くて普段の生気は微塵もなく、まるで乾燥し切った老婆の彫像が置いてあるようにすら見受けられた。香水の立ち篭めているのが全く不似合いに思われる。 あの銀髪の鬘はどこかな、と自分の目が自然に方々を探しているのに気付いて、なぜか、不謹慎な、と思ったのは今にすれば不思議である。

 そして珠美の立っている横のベッドには、見覚えのある老人が裸のまま目を閉じて静かに横たわっていた。酒井の殿様である。三日前に胸部不快感で心臓をチェックしてたな、とその時すぐに思い出したのは、未婚のぼくなりに想像をたくましくしたからだろう。大学の老年科病棟でも患者同志の「夜の交際」はしばしば話題になるのである。

 珠美が、ぼそりと「亡くなってます。……たぶん」とぼくに伝えた。「たぶん」というのは、死の判定をしていいのは医師だけだからという遠慮からで、彼が死んでしまっているのは明らかのようだった。

「五階の酒井さんです。散歩中に立ち寄られたところ急に苦しまれたのでベッドに休ませてあげたそうです」

 全く信じていないという口調で珠美がそう報告した。ぼくもその説明を全く信用していないまま「ああ、そう」と答え、すっかり冷たくなっている酒井の殿様の瞳孔と脈を確認してから「午前五時三十五分……ということにしようか」と珠美に目配せした。互いにややこしいことは無しにしてあっさり処理しようや、という意味である。

 自室での死亡なら、ぼくの死亡診断書で済むが、他人の私室での死亡となれば警察に連絡した上で検視、死体検案書ということになるはずだ、とぼくは考えた。下手をすれば死因不明ということで司法解剖に回されることになるかも知れない。

 ストレッチャーを持ってくるように珠美に指示してから、ぼくは深く考えもせずにドイチェ夫人に、あとはこっちでするから休んでもらっていい、と言ったのだが、彼女のベッドは遺体が占拠しているのであった。

 微かな声が聞こえた。ドイチェ夫人だった。

「おまえは女やない、って言われたんですのよ、私」

 ずっと一言もなかったドイチェ夫人だった。視線は外に向けたままで焦点も定まっていない。

「夫が、……おまえはもう女やないんやから、って。子宮取ったら女やないって。悪気はなかったんでしょうけど、一度だけだったけど、そう言いましてね。それから私はずっとひとり。夫が亡くなった時も悲しくなかった。寂しくなかった。……酒井さんは優しい方。本当に優しいお方でしたよ……」

 こちらからは見えないが、夫人はあるいは涙を流しているのかも知れない。枯れたように見える身体から搾りだして泣いているのだろうか、ますます乾燥し切ってしまうのに、とぼくは不謹慎な想像をしてしまった。

 闇と対面しているドイチェ夫人をそのままにして、ぼくと珠美で酒井氏をストレッチャーに乗せて彼の部屋に移送した。その際、彼のパジャマとガウンが夫人の部屋のソファに掛けてあったのを一緒に持ち帰ったのだが、ぼくがそれを取り上げた時、ソファの足元に夫人の鬘が転がっているのを見付けた。何でこんな所に鳥の巣が、と一瞬思ったものだが、紛れもなくそれは夫人の被り物だった。ぼくは鬘を拾い上げると、そっとサイドテーブルの上に置き、何も言わずに珠美とストレッチャーを押して部屋を出た。

 同じ三棟の五階にある酒井氏の部屋にストレッチャーを入れてしまうまで、幸い誰にも出会わなかった。二階の廊下で誰かに会ってしまえば酒井氏の客死を公にするしかないと考えていたし、エレベーターを降りた五階で見つかったのなら診察室から運んだと見てくれるはず、とぼくは読んでいた。それで、二階のエレベーターに無事乗り込んだ時には、やれやれこれで死亡診断書一枚書くだけで済みそうだぞ、と肩から力が抜けた。

 酒井氏のガウンのポケットに彼の部屋の鍵が入っていたので、事務当直も呼ばずに済んだ。事務当直のおじさんは倒産した中小企業の社長だった人で、町工場で工員と一緒に働いていたのか筋骨逞しい五十前の人だ。今でも住み込みのここの収入のほとんどを元の従業員に送金しているという噂だった。とてもいい人なのだが、今の事態を事実を曲げて処理してくれそうもない実直な人なのだ。

 珠美と二人で彼のベッドに遺体を移し終えた時、二人とも緊張がすっかり取れて、全く同時に、ふーと大きな息を吐いたものだ。

 珠美がにっと笑って、「これで完全犯罪ですね」などと不気味なことを言うものだから、まるでぼくが医療過誤で人を死なせたかのように錯覚させられるところだった。冗談じゃない。ぼくは酒井氏の名誉とドイチェ夫人の秘密を守ってやっているのだ。……いや、正直言えば、邪魔臭いことは避けて通りたいという自分自身のためでしかないのだが、ま、これですべての関係者が丸く納まるのだから、ぼくの判断は人助けの善行と言うべきだろう。

 珠美が死後の処置をするのをぼんやり見ながら、ぼくはこれからの段取りを考えた。

 家族に連絡がついたとしても、到着までの二、三時間はやはり誰かが傍に付いている必要があるだろう。そのことを珠美に言うと、ドイチェ夫人の所に出る時にナースコールの番を静香に頼んできたから、彼女が起きているはずだと言う。主任の顔も思い浮かんだが、ここは気心の知れた静香の方があとあといいだろうとぼくは考えた。別に罪を犯している訳ではないのに、珠美の「完全犯罪ですね」が効いている。

 ナースステーションの静香に連絡して、珠美と代わってもらうことにする。電話の最後に「足、まだ痛いんだろう? ゆっくりでいいよ」と付け加えられたのは、我ながらスマートだった。すっかり落ち着いた証拠だ。

 落ち着いてみると、部屋の壁には幼いこどもの写真やこどもが描いたらしい絵が十枚以上も額に入れられて飾られている。孫からのプレゼントなのだろう。良家で育ち、大企業に勤め、高級なホームで快適な老後を送り、妻には先立たれたものの子供や孫に恵まれ、最後は腹上死である。男冥利に尽きる、と言うべきだろう。

 遺族への連絡などのために珠美がナースステーションへ戻って行ったあと、暖房の効いた個室に死体と二人きりというのも息が詰まるので廊下に出てみる。東の空が微かに赤みを帯びている。廊下の窓を開けると、寒いというよりは、凍える程だ。

 六時を回っているから起き出している老人たちも多いだろうが、入居者の死亡や転出の報せは掲示板に小さく張り出すだけと決まっているから、今は黙っていてもいい。あとは事務的に処理するだけだ。

  

 

八、

 

 左足を引き気味にして静香がやって来たのはすぐだった。白衣の上からモヘアのピンクのカーディガンを引っ掛けている。一瞬妙な気がしたが、考えてみれば別にお通夜の客ではないのだからピンクがいけないはずはない。静香には「自室で急性心不全により死亡」ということにしてある。計画では、あとは静香に任せて当直室に戻るはずだったのだが、ピンクのカーディガンの静香を見て気が変わった。すっかり朝になってしまって目が醒めたせいもあるが、静香にひとりで酒井氏の遺体に付いていろと言うのは酷な気がし出したからだ。

「ぼくも残るから、家族が来るまで付いてて欲しいんだけどな」

「急でしたね? 心臓でしょうか?」

「珠美が見た時はもう冷たくなってたらしいんだ。三日前に受診して心電図も取ってるんだけど、その時は何も出てなくてね。今朝は心電図もないからなあ……。解剖しないと確実な所はわかんないだろうけど。狭心症もなかったし、心電図上は心臓には問題はなかったんだけどね、……年寄りは難しいよ。いつ死んでもおかしくないんだからなあ、まったく」

 自分でも言い訳じみていると思う。いつ死んでもおかしくない、とも言えるが、六十年、七十年ずっと生きてこられた人間がそうそう理由もなくころっと死ぬものか、とも思う。

 ぼくが「命なんてわかんないものだねえ」などと、気恥ずかしくなるようなセリフを口走ったあと、静香が相談があるのだが、と切り出した話に、ぼくはまたまた動転してしまったのだった。

「実はね、……わたし妊娠してるんです」

 そんな、あの時は避妊もしたし……と、ぼくはすぐに自分のことが頭に浮かんだのだが、それと同時に静香は先を続けた。

「彼は堕ろせ、って。結婚が春なのに、かっこが悪いって。……二人の子供なのに、半年早過ぎたというだけで、そんなのひどいでしょ。里が鳥取の田舎なもんだから、世間体ばっかり気にして、わたしのお腹の中の命のことは考えてくれないの。結婚したらたくさん産めるんだから、って言うのよ。今、わたしのお腹の中で生きているっていうのに。わたしわからなくなっちゃった。彼のことやさしい人だと思ってたけど、やさしいなんてうそなのよ。女の子の前でいい格好してるだけなのよね。そういう男だったんだ、って思い出したら結婚が嫌になって来て。でも、この子の父親は彼だし……」

 ぼくはこうしたシビアな相談を聞かされたことは初めてだからどう答えていいのかわからなかった。

「妊娠は確かなの? 受診した?」

「うん、市販のテストで。それに自分でわかるもん、ああ、あの時だ、って。……助産婦やってる先輩に相談したら、どっちにするにしても、あと三週間のうちに決めた方がいい、って」

「結構多いんだろ、大きいお腹で結婚式する人。強行突破しちゃえよ。男なんて結局流れにくっ付いて行くしかなくなるんだから」

「彼は頑固だから。……仮にこのまま産んだとしたら、きっと彼にしこりが残るから」

「堕ろしたら静香にしこりが残るんだろ? そんなの、八方うまく、なんて無理じゃないか。彼はそのことわかってるんだろ。駄々っ子じゃないか、まるで。……あ、ごめんな」

 ひどい言い方になってしまったが、確かに男にはこの手の駄々っ子が多いように思われてしようがない。痛いからすぐに治せと言いながら、切らなきゃ無理だと言うと、切るのは痛いから切らずに治せ、という類の非論理を口走るだけで、自分では何も選び取ろうとしない。昼に北川氏に言われてしまったが、ぼくらモラトリアム世代は、いざ難問にぶつかったらすぐに馬脚を現してしまう浅はかな存在なのだろうか? 

「それにね、わたしも、産まない方がいいかなって思う時があるし、困っちゃった」

「もう十年は遊びたいってんだろ。若いナースはよく飲むからなあ。珠美は高齢出産になる直前まで遊ぶそうだぜ。主任とよくカラオケ行ってるみたいだな」

「そんなんじゃない。もう遊びはいいの。……私の弟、口唇裂の手術してるの。私の子供が口唇裂になる確率あるでしょ、そんな大きくはないけど。だけど、弟見てると、しんどいことあるようだし、母親もずいぶん苦労したみたいだから、そういう子の親として」

「弟さんのことは考えなくてもいいんじゃないのか? 数パーセント以下だろ。要は二人の関係だよな」

 人生相談なんてぼくの柄ではない。当事者が解決していくしかないのが人生だ。ぼくの役割は良い聞き手になることだろう。

「父の方の伯母が一人いたんだけど、若い時に結婚してすぐに離縁っていうの? 家に戻って来たの。それでわたしの父が結婚した時に実家を出て、同じように三十過ぎで独身だった女学校の友達と二人で家を借りたんだって。その友達の方はこどもの時にテーベー(結核)だったんだろうね、身体が弱かったもんだから結婚できなかったらしいんだけど。ずっと一緒だったんだけど、五十歳頃かな、わたしが中学に入る頃だから、その友達と別れて大阪に出たの。女二人の生活だったんだけど、十年以上一緒にいると、いろんなことが積もり積もってくるんだって。わたしが大阪の看護学校に入る時に伯母さんに保証人になってもらったから、何度か行ったことがあるの。今は小さいアパートに住んでいて、近くの中小企業の社長さんの家に通いでお手伝いさんに行ってるわ。……その伯母さんがね、女同士も駄目だって。ひとりを通すか、また駄目かも知れないけどやっぱり男の人と暮らすかだって。二、三回失敗したっていいから、まず結婚してごらんって伯母さん言うんだ。一度だけだとか、この人しかいないとか決め込まずに、変な言い方だけど、まず一度やってごらんって。駄目なら駄目でいい。ひとりを通す覚悟ができるか、また違う人と暮らすにしても前よりは賢くなってるからって」

「へーえ、すごい伯母さんだな。その伯母さん今はひとりなのか?」

「ひとりで暮らしてるけど、男の人はいるみたい。結構幸せそうだし。……女同志は駄目だって。上っ面だから何も残らないって。男の人とだったら、つらいこともあるけどいいこともあるからって」

 静香はこうして話しながら自分の中を整理しているのだろう。ぼくは今まで人に相談したという記憶がない。妙なプライドがあって、自分を誰にも曝け出すということができないのだ。あけっぴろげな静香や珠美たちが羨ましい気もする。

「彼は頑固だけど、根っ子の所はふわふわした人間なの。父親なんて無理だなあ、って思うのよ。軽いのは良き隣人だけど、私は二人でいると暖かくなれるひとりの人が欲しい。彼はハズレだけど、もしかしたら生まれてくる子と二人なら生きて行けるかなあって……」

「だけど、未婚の母になる覚悟があるのか? たいへんだろ、それって?」

 静香が思い詰めていたことにぼくは全く気付いていなかった。モラトリアム、なんて言ってられない選択を静香は迫られていたのだ。

「玄先生がね、自分は母ひとり子ひとりで育ったけど、幸せだったって。高校の時に自分でさんざん考えて戸籍の名前を使いだした時だって、お母さん、何も言わずに玄先生の考えを一緒に喜んでくれたって。……玄先生は自分を大事にしたら自ずと道は決まってくるもんだって。家族は多いほうが楽しいだろうけど、とも言ってくれた」

 こうして相談されて、ぼくは自分が何て頼りないふらふらした人間なんだろうと思い知らされた。玄の今までの生活は聞いたことがなかったが、寡黙な彼は今までどれだけの選択を迫られてきたのだろう。そして自分で選び取って自分の歴史を作ってきた彼は、今もどれだけのものを背負って生きているのだろう。

「私ね、玄先生みたいに強くないし賢くもないから、困ってたんです」

 外はすっかり明るくなっていた。雨も止んだようだ。白い布を掛けた酒井氏の遺体の上に、晩秋の朝の光が差し込んでいる。

「ぼくなんか、何の役にも立たないな。静香、自分ではどうするつもりなんだ、今の考えでは?」

「わたしね、ここで働くようになってから、ずいぶん優しくなったの。前は彼みたいにふらふらしてたし、看護婦の仕事も先生たちの介助くらいにしか思ってなかった。だけどね、ここでいろんなお年寄り見てきて、優しくなったの。戦争のあと、がむしゃらに生きてきて、ここに来てやっと一息入れてるって感じがするの。みんなお金持ちだし、元気な人ばかりだけど、惚けちゃうお年寄りとはまた違った辛さがあるんだろうな、って思うの。……わたしね、優しくなろうって決めたの。そりゃあ、気恥ずかしいわよ、博愛とか、献身とかね。でも、ごちゃごちゃ言うより、わたしは人間を愛し、病める人々に尽くしていくんだっていうのが、逆にぴったりするの。わたしは愛に生きるんだってね。人に言うことじゃないの。自分でそう自分に言い聞かせるのよ。心優しく、勇気あれって」

 ぼくは一言も言葉が出てこなかった。静香の言葉は本物だった。彼女はもう自分で自分の生き方を捉まえ始めている。

 北川氏の言った「知識のあやとり」という言葉が思い出された。痛烈だった。ぼくの哲学など、ふらふらしていて現実の裏付けのない「知識のあやとり」に過ぎないのだ。ぼくの方こそ、未解答の問題をたくさん抱えている。

「山道を下りながらね、玄先生と話してたら、だんだんはっきりしてきたの。わたしは自分の子供を殺す訳にはいかない。わたしが必要とするのは、養ってくれる人ではなくて、一緒にいて心が暖かくなってくる人だって」

「そうか、すごいな、未婚の母か。……あ、ごめん、嫌な言い方だよな。だけど、何とかなるのか、生活の方は?」「結婚するつもりで貯金してたし、どこに勤めるにしてもたいていの病院は保育所もちゃんとしてるから。それに、寮のみんなにも助けてもらえそうだし」

「ぼくも手伝うよ。何ができるかわかんないけどな」

「えへへ、実はね、玄先生に相談して、こうしようっていうのは自分の中でだいたい決まったんだけど、まだ、お腹の中でしょ、赤ちゃん。彼にさよなら言ったら、ひとりになってしまって寂しいなあって思うだろうなって。わたし、弱くて寂しがり屋だから。寂しい時、先生付き合ってくれると嬉しいなあって、それで、こんなこと話しちゃった。迷惑?」

「うーん」

 ぼくは何と答えていいのかわからない。ちょっとしたカルチャーショックだ。先程からの静香はぼくよりずっとしっかりしていて、自立していく女を感じたけれども、それとは別に、やはりセックスフレンドは必要だからぼくに付き合えと言う。ぼくはセックスなどスポーツだと言いながら、実際の所は、愛とか恋とかがあって、その延長上にセックスとか結婚とかがあるものと漠然と信じ込んでいたのだが……。ほんの三、四歳の違いのはずなのに、静香の世代とはもう考え方が違うようだ。

 確かに行為と愛情は別なのだろう。人間性という美化の仮面を外したら、セックスなんて生殖という本能的な行為でしかないのだから。男は快楽だからする。女は苦痛だがされることで男との関係を確かめる。もしも男女ともに痛いだけだったら、愛があっても抱き合ったりしないだろう。性愛などそんなものである。

 珠美から電話が入って、家族がこちらに向かっているから、死亡診断書を今のうちに書いておいて欲しいという。それからね、と珠美は続けた。

「先生、あのね、酒井さん定年のあと、奥さんに離婚されちゃったんだって。連絡先は次男さんの所になってたわ。優しいお父さんですね、って言ったら、息子さんがね、妻に去られたら男は優しくなるしかないですよ、だって」

 外からはわからないものだ。おっとり見えるけれども、酒井氏もやはり企業戦士だったのだろうか? 離婚されて初めて本当の優しさを知り、ドイチェ夫人を識って初めて酒井氏は幸せになれたのかも知れないのだ。まったく、ぼくにはわからない世界がまだまだあったようだ。

 日勤のナースもやがて来る時間である。

 酒井氏の遺体に目をやって、あとしばらく頼むね、と静香に声を掛けて、ぼくは一階に戻ろうとした。その時、静香もすっと立ち上がって、ぼくを抱いた。あっという間のことだった。静香の髪は柑橘類のいい香りがする。

「先生、いい人だね。先生と玄先生、わたし大好き」

「そう? うーん、……ありがとう、と言うべきなんだろうな、こういう場合」

 静香の頭越しに酒井氏の遺体の輪郭が見えている。腕の中の静香は温かくて生きているが、向こうの酒井氏は冷たく死んでいる訳だ。ピンクのカーディガン越しに感じる静香のからだは柔らかくて温かく、爽やかな香りもして気持ちがいい。生きてるってのはいいなあ、とぼくは素直に思った。

 死亡判定を済ましたら、ほなサイナラ、てなもんや、という北川氏のセリフが聞こえた。自分のために生きて来たんや。死ぬまで好きにさしてもらいます、と言う遠藤のばあさんの宣言も聞こえる。私みたいなオールドミスは……という大久保嬢の泣き声もする。四錠、四錠すぐにくれんかね、と怒ったような震えた声で叫んでいるのは日置氏だ。いい娘なんやがなあ、と残念そうな五十嵐氏のため息も聞こえてくる。……静香に抱き締められながら、ぼくはいろんな思いの中でしばらく立ち尽くしていた。

 

  

九、

 

 ぼくは静香との世代の違いを改めて確認しながら、酒井氏の部屋を出た。狐につままれたような、という言葉が頭に浮かんだ。

 エレベーターに乗ってからぼくはドイチェ夫人のことを思い出した。酒井氏を運び出す時、彫像のようだった夫人は、その後ひとりでどうしただろうか。

 二階の廊下を夫人の部屋まで向かう間、血圧の高い夫人を興奮させないためにも酒井氏のことは触れずにおこうと考えた。「心配いりませんよ。うまく処理しましたからね」と伝えた方がいいだろうか、いや、何も触れずに「あれから眠れましたか?」と慰めるだけがいいだろう、とか、ぼくなりにいろいろ思いを巡らしてみた。夫人にすれば、恋人、あるいは一番の友人を亡くした訳だから、気を落しているはずだ。やはりここは、月並みだが「寂しくなりましたね」と言うのが、一番ふさわしいだろう。

 ドアホンを押すと、「どなた?」という塞いだ声が聞こえた。ドイチェ夫人は今の今まで、あの窓際の椅子に座って酒井氏の追想に耽っていたのだろう。恋に歳などないからなあ、とぼくはつぶやいた。ドイチェ夫人を若々しく見せていたのも酒井氏との恋のなせる業だったのだ。寂しいんだろうなあ、きっと。

 ぼくの声を聞くとすぐに、夫人がドアを大きく開けてくれた。先程と違って、朝日がずっとこちらまで差し込んでいて部屋全体が明るく輝いており、有線のクラシックも流れている。奥の部屋の、酒井氏の寝かされていたベッドはシーツも羽毛布団も除けられていてマットレスが剥出しになっている。

 そして驚いたことに、美しく結いあげた銀髪のドイチェ夫人はトルコ石の鮮やかなイヤリングを付けて、実ににこやかにぼくを迎え入れてくれたのだった。

「まあ、先生、ちょうど今からクリニークに、と思ってましたのよ。今朝はぐっすり眠れましたから、きっと高くはないはずですわ」

 夫人はそう言いながら、ぼくの白衣のポケットに五百円玉を二枚、一枚ではなく二枚すっと滑り落とすと、血圧を計ってほしいというようににこやかな顔で左の腕を差し出して来たのだった。

 ぼくは返す言葉もなく、まじまじと夫人の顔と鬘とイヤリングを代わる代わる見つめた。

 ぼくにはわからない。静香といい、ドイチェ夫人といい、女は皆、手に負えない魔物のように思えてくるのだった。……見るべき程のものは見てしまったはずだったのに、精神的には二十歳で十分に成長してしまっていたはずだったのに。わからない。昨日からぼくの頭の中には、理解のできないこと、わからないこと、知らなかったこと、逃げられないこと、信じられないこと、うんざりするほど色々な火の粉が降り掛かってきたのだった。

 逃げられない。もう逃げ回っていても無駄だ。雨、あられのように、奇問、難問はあちらから降り掛かってくるのが生きていくということなのだ。ならば、目を逸らさずに目の前の問題からひとつずつ答えを考えていくしかないのだ、と思った。よし、とぼくは自分を小さく閉じ込めていた自分の小市民性から自分を解き放した。考えたとおり、思ったとおり、感じたままに、素直に自由に、とぼくは呪文のように頭の中で繰り返した。

 ぼくは白衣のポケットからぴかぴかの五百円玉を二つ取り出すと、それをドイチェ夫人の手に返した。

「酒井さんは五階の部屋です。深夜勤務明けのナースが付いていますが、友達だったのなら一緒にいてあげてはどうですか?」

 ぼくは思い切ってそう言うと、そのまま階段を下りて当直室に戻った。階段の降り口で夫人の当惑し切った悲しそうな表情がちらっと見えた時には、これでよかったのかな、と一瞬思ったが、ぼくはもう迷ったりはしなかった。

 これでいいのだ。夫人も酒井氏の死をきちんと正面から見つめた方がいい。仮に、彼女にそれができないとしても、ぼくが夫人の現実逃避に手を貸すのは止めよう。

 真っすぐ前を見て当直室への廊下を歩いている時、廊下の屋根でパンパンパンパンという、突然の元気のいい音がした。

 窓から外を見ると、それはあられだった。

 明るい空から何かの啓示のように、それは気持ちよく実に元気な音をたてて降ってきていた。よし、これでいい、とぼくはつぶやいた。そう、これでいいのだ。

 ぼくは当直室に戻ると、当直日誌を開いた。もうじき今日の当直当番の金子がやって来るはずだ。ぼくは長かった二十四時間の記憶をたどりながら、丁寧な字で日誌を記入した。これが昨日から今まで、ぼくの関わった人々の歴史なのだ、というつもりで。

 

 11月24日(金) 晴れのちくもり、雨、あられ
 

  外来受診/遠藤氏/飛蚊症の訴え。観察のみ。

  午後9時/日置氏/不眠を訴えて受診。眠剤投与。

  午前5時35分/酒井氏/死亡確認。急性心不全によると考えられる。

   ほか、特変なし。

 

 書いてしまえばこれだけのことなのだ。しかし、この紙面の裏には様々の小さな事件が蠢いていた訳だ。あるいは突飛な事件など何もなかったのかも知れない。生きていることそのことが、当人にとっては事件の連続に違いないのだから。それが生きているということ、生きていくということなのだ、とぼくは思った。

 面を上げると、すでにあられは止んでいて、音もなくこの冬初めての雪が摩ノ山の里に降り始めていた。

 

 

 

 

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