羅 創刊号(1996年秋)

 

 

 

 

瘢 痕

 

 

「これは事故で切ったことになってるんで、先生、うちの奴には内緒ってことで頼みますよ」

 入院時の診察で左の上腕部にある手術痕のことを尋ねた時、浜野さんはその傷痕についてそんな風に言って、ぼくに対して守秘義務の遵守を求めた。切った傷を縫っただけではなく明らかに皮膚を切除して寄せてあるから、大きな痣でもあったのかなと思って軽く聞いただけなのに、実は若い時にイタズラした痕を取ってもらったのだと言う。女の子の名前でも彫ってあったらしい。

 誰でも他人には隠しておきたい脛の傷の一つくらいはあるものだ。

 そう言えば先月、開業している親元に戻って眼科医をやっている大学時代の親友から電話があり、俺について聞き合わせが来るかもしれないが、大学時代におたふく風邪をやったことは言わないでくれ、と言う。最初、何のことかわからなかったが、大人になってからのおたふく風邪は不妊の原因だからと、親しい同級生にそう電話して口止めしておくように両親に言われたそうだ。医学知識がこういう風な利用のされ方をするとは思いもよらなかった。

「まったく、田舎って奴は困ったもんだぜ」

 彼はそう言いながらも、そういう訳だからよろしくな、としっかり口止めして電話を切ったものだ。精子が元気かどうかを泌尿器科で調べてもらえばいいものをとも思ったが、それに抵抗があるのもわかる気がする。親にすれば、もしも結婚前の息子が無精子症と診断されたらという恐怖があるのだろうし、彼にすれば、検査用の精液を採取するために病院でマスターベイションをさせられることに照れ臭さがあるのだろう。

 浜野さんの話を聞いていると、ずいぶんと奥さんに気を使っているのがわかる。カルテのうしろに付いているナースの聞き取り欄を見ると、板前の浜野さんの奥さんは十五歳も年下の二十九歳である。ぼくの方から尋ねてもいないのに、浜野さんは、長くバツイチだったが昨年やっと再婚したばかりだとか、結婚して一年で胆石症の手術となったものだから隠していたようでバツが悪いとか、いろいろと周辺の事情を話してぼくに納得してもらおうとする。これは内緒に、とひとこと言ってくれれば、それでこちらは守秘義務を守るのだが……。

 浜野さんの胆嚢摘出術は予定どおりに済んで、抜糸も終わり、そろそろ退院を考えようかという、本人も家族もほっとしている時期だった。

 消灯前で、ぼくもそろそろ帰ろうかと医局を出ようとした矢先だった。浜野さんの奥さんがぼくを探していて、夕方からお腹が張ってしようがないから診てもらえないか、とナースステーションにやって来たと言う。

 外来受診の時から入院中にいたるまで、茶髪に赤爪の奥さんはたいてい浜野さんに付き添っている。ちょっと太めの体型と明るい性格で、ついこの間までヤンキーのねえちゃんだったようだが、今は派手派手のしっかり女房という印象を与えている。同じ病室の人の面倒を見てくれたり、掃除の小母ちゃんを手伝ったり、甲斐甲斐しく働いて病棟でも評判だ。

 ぼくが浜野さんのベッドサイドに行く度に、女性誌から目を上げては「先生若いな、独身か?」とか「先生、靴ぐらい磨いとき。足元見られるで」などと、奥さんから好きなように言われていたのだが、彼女の方ではぼくを「気やすいお友達」にしてしまっているらしい。

 病棟の診察室で横になってもらっているから、と準夜勤務のナースに教えられて、ぼくは人気のない診察室に向かった。どうせポテトチップスでも食べ過ぎたんじゃないの、とか考えながら。

 ついでだからと言って、付添い中の家族から診察を頼まれることは珍しいことではない。毎日のように顔を合わせていて気やすくなった医者に普段から気になっていた所を相談してみよう、と考えるらしいのだ。たいていはカルテも作らずに、ちょっと診てほしい、という感じで、手続きと費用の面倒さがないのが患者側の利点だが、こちらにすればタダで診察をしろということだからあまり本気にはなれないのが正直な所だ。

 案の定、浜野さんの奥さんは平気な顔でベッドに横になってぼくを待っていた。

「ごめん、先生、忙しいのに。前から時々こんな風に下腹が張って仕様がない時があるんよ」

「今は楽になった時かな? もっと痛んだりするの?」

 若い女性を診察する時にはいつもそうだが、こちらの恥ずかしさを悟られないようにわざとそうした医者口調で聞いてしまう。特に今は、消灯前で忙しいためにナースが付いてくれず、二人きりである。

「寝られん程やないけど、一晩中ずっと気になることもあるんよ。今はだいぶ落ち着いたけど。えーと、この辺からこう下に向かって……」

 奥さんはそう言いながら、さっさと服を緩めて、目も醒めるような真っ赤の下着を上下に掻き分けると、下腹部をぐいっと出し、その中心からやや左側を指先で示した。レースをたっぷりあしらってある絹の赤い下着と、そこからちょっと顔をのぞかせている恥毛がどうも気になる。

 肉感的な女性の診察では、時に挑発的な視線で見上げられるので若い医者としてはたじたじとしてしまう事があるのは事実だ。その時も、呼吸の乱れを自覚したぼくは、困ったな、誰かナースが介助に来てくれないかな、という風に視線を泳がした。役得とは言え、若い人妻と二人っきりで夜中にこんな事をしていてもいいんだろうか?

 おやっと思ったのは、女盛りの眩しい下腹部にうっすらと手術の痕が見えたことだ。臍のしたから恥毛の上端近くまで、新しくはない瘢痕がピンク色を帯びた銀色に光って走っている。この瘢痕のおかげで医者の目に戻れた訳で、内心、ぼくはほっとした。

 なるほど、腸をいじった事があるのなら軽い腸捻転みたいなことが慢性的に起こっているのだなと、まずぼくは考えた。その一方で、「慎重に慎重に、即断は誤診の元」という教授の口癖を思い返して、遠慮がちに、そっと、浜野さんの奥さんの腹部をあちこち触りながら、頭の中で鑑別診断を進めていった。学生時代にくどい程たたき込まれた医者の常識、つまり「女を診たら妊娠と思え」から始まって「若い女の腹痛は子宮外妊娠か卵巣嚢腫茎捻転を疑え」とかの格言を順に思い出している。

「月経はどう? 順調かな?」

 やはり、女は妊娠の有無のチェックからだ。結婚して一年だからやはりこの面から詰めていかなくては……。

「そっちの方は変わりないんよ。悪いもんも食べてへんのになあ」

「お腹の手術はいつ? 盲腸をこじらせて腹膜炎やっちゃったんだね?」

 急性虫垂炎から腹膜炎を併発したんだろうと思ったぼくは何気なくそう聞いたのだが、奥さんの顔は急に緊張したものになった。

「先生、この傷のこと、あの人には内緒にしといて」

「内緒って、……知ってるんでしょ、もちろん?」

「ええ、傷は知ってるけど。……」

 ふっと、ぼくはおかしくなった。浜野さんは刺青を取った痕を伏せて欲しいと言ったが、夫婦揃って互いに秘密をこしらえている訳だ。元ヤンキーのねえちゃんに秘密なんて要らないんと違う? ……そうだ、両方を知ったぼくが取り持って、互いにつまらない気を使わずに済むようにしてあげようか、と考え付いた。これは名案である。

「どうしたんです? 食べ過ぎてお腹が破裂したんじゃないでしょうね、まさか?」

 ぼくはちょっとにこやかな顔で、つまらない秘密は無しにした方がいいですよ、と言ったのだった。今にして思えば、ぼくは随分と鈍感な人間だった。誰にも脛に傷はあるだろうが、隠している傷が自分にもあるからこそ、他人の生活や気持ちに対する想像力が働いて人情の機微もわかろうというものなのだ。それが優しさというものだろう。やはり触れてはならない他人の領域はあるのである。

「夫婦なんだからお互いに秘密は作らない方がいいんじゃないのかなあ? ぼくにはよくわからないけど」

 独身で恋愛経験もないぼくは、その時、無邪気にそう言ってしまったのだった。

 奥さんは診察台に横になって赤爪の両手でお腹を押さえたままぼんやり天井を見ていたが、しばらくしてからポトリと言葉を産み落とした。いつもの蓮っ葉な口調ではなく、すっかり改まった言い方で、本当に、体の中にずっと寝かしてきた言葉を産み落とすように言ったのだった。

「やっぱり主人には言えないんよね。……これは、高校やめる前にね、好きだった子とその連れに姦られちゃって。……子宮外妊娠の手術の痕」

 恥ずかしいことだが白状すれば、その時までぼくは女の人を「人間」としてはまったく見ていなくて、「女」としてだけ見ていたのだった。頭の中は、ぼくも浜野さんの奥さんをレイプした男の子たちの同類でしかなかった訳である。浜野夫妻のそれぞれの秘密について、守秘義務を堅く守ったことは言うまでもない。

 自分で自分がちょっとは見えるようになった、そのきっかけとなった忘れられない夜のことである。

 

 

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