ペンネームのことなど

 

 

 ものを書くのが楽しみになったのは、高校の夏休みの宿題で『川端康成の作品と私』というような小評論文を書いて、それが現代国語の先生にとても誉められたことからのような気がします。その時は無論、本名で書いたわけです。ペンネームを使った最初は、18歳の時にZ会という大学受験の通信添削講座を受けていたのですが、その会報に投稿が載った時に使ったものになるでしょう。

「飄々と流る我が身に追い風の 比叡おろしと名にし負う 山を下りくる北風に 篭もる下宿や四畳半 襖下張り綻びて 通う寒気に身も凍え 潜る炬燵は独り身の 火の気なきこそ哀れなり 云々」という西鶴調の戯文だったのですが、ペンネームは文中から《比叡おろし》を使っています。ペンネームというよりは、ハンドル・ネームというべきでしょうか。

 大学に入って数人の友人と『修羅賦』(眠るシュラフのしゃれ)という同人誌を出す時に、初めて本気でペンネームを考えました。その同人誌は、手書き原稿をコピーして(日焼けして次第に字が薄れていく青刷りコピー)ホッチキスで留めただけの限定百部の自己満足的な小誌だったのですが、各自いろいろなペンネームを考えたものです。最も新鮮な才能があると私が密かに尊敬していたM氏は《Amoeba》で、最も信頼できる誠実な人格者T氏は《無視界飛行士》というのを使っていました。私はその時には《伊坂 力》というのを使っています。それは、伊坂 力、つまりISAKA TIKARAを逆から読むと私の本名になるところから、私の表現した作品が私という人間を映し出す鏡像となるように、という気持ちを込めて付けたのでした。・・・・無論、「鏡像」などとかっこいい理屈を付けたのはあとからのことで、当時は単に言葉遊びをしたに過ぎないでしょう。その頃読んだポーとか『テスト氏』などの影響だと思うのですが、「宝造る所」とか「切り身くるむ衣」「四季にそこの魚」あるいは「朝から石切り臼繰る(ASAKARA ISIKIRI USUKURU)」など、意味不明の語呂遊びが、当時の手帳の余白に漢字とローマ字で書き留めてあったりもするのです。

 大学の教養部時代に『修羅賦(しゅらふ)』を何号か出しましたが、専門過程に入りやがて医師になってからは小説は読むだけのものになっていました。そこそこ真面目な私は医師としての最初の10年ほどを「徒弟時代」と割り切った訳です。それが、医師としての生活10年目に3週間の入院をしていろいろなことを考えました。現実生活はともかく、精神生活もこのまま医師の仕事だけで生きて行けるのだろうか、と。……そしてその結果として、30代の半ばから再び小説を書き始めたのです。

 最初に入った同人誌『季刊作家』で小説を発表する際に、《伊坂 力》を《猪坂 力》に換えてみたのは、重箱読みだったのを訓読みに統一しようと思っただけで深い意味はありませんでした。こじつければ、「猪が坂を走り下りるような力のあるものを書こう」となるのですが。また、「諍い(いさかい)の力」で《諍 力》も考えましたが、冗談が過ぎるとさすがにこれは自重しました。諍いの力がある、などというのはあまりにも作者本人に近過ぎて自分ながら笑ってしまったからです。

 『季刊作家』には6年間ほどいたのですが、その間、『おだわら文芸』にも作品を掲載したり、『VIKING』の会員として例会記を何回か担当したり、楽しく遊ばせていただきました。そして、98年に縁あって現在所属している『じゅん文学』の同人に移りました。その際にペンネームを《井坂ちから》と改めました。まあ所詮は仮名なんだとは言っても、これは芸名でもあり、場合によっては商品名ともなるわけですから、客受けする芸名、覚えられ易い商品名を付けるのも大切なことなのだろうと考えたわけです。

 しかし、そんなことより私自身にとっては、鏡に映す自分自身を《猪坂 力》と突っ張ってみるか《伊坂 力》と原点に戻すか、あるいは《井坂ちから》と素直に流すかの違いは大きいのです。井、意、医、偉、威、………萎?……うーむ、私を映し出すぴったりのシャレた字はないものでしょうか?

 30代半ばに書くことを再開してからというもの、「生きる薬」としての「小説を書くこと」を手放せなくなりました。小説作品は哲学書のように思索の結果が反映される場とも言えますが、落語が話芸と言われ愛されるように、文章で読者を楽しませる芸でもあると考えています。読者に最後まで一気に読ませるだけの文章力があれば、それは文に芸がある「文芸」であり、読み終えて何らかの印象が残せれば文に学ぶものがあった「文学」なのだろうと思います。文芸として、あるいは文学として、楽しんでいただければ幸いです。

貴重なお時間を私の小説を読むことに割いていただきありがとうございます。

 

 

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