『じゅん文学33号』同人評シリーズ@(2002年9月)

 

 

堀田明日香
『私はサボテンになりたい。』(32号)を読む

  《言葉の威力と言葉の無力》

 

 

 

 

『私はサボテンになりたい。』という題名。

 サボテンって何? 何の表象?

 すると最初から7行目に「サボテンって、人間の気持ちが理解できる植物なんでしょう?」……つまり、この題は「私は人間の気持ちが理解できる人になりたい」ということ。ちょっと唐突な題名だけに、サボテンの意味を早めにフォローするのは大事なことだ。手堅いね。

 同人誌には、まだ自分の頭の中にしかない物語に酔ってしまって読者をないがしろにする書き手がいるよね。「自分のために書いている」って言う誰かさんへ。年後の自分も読者だよ。年後に読み返して自分で自分がわからないなんて哀し過ぎるし、そんなんだったら書き残す意味ないじゃん。堀田明日香は自分のために書いている。でも、書かれたものが結果として共感してくれる読者と何年かあとの自分のためにあることも予感して書いている……んじゃないかな?

 

 堀田明日香は率直だ。物語の最初のページでテーマをエイッとこちらに投げ込んでくる。これは人間を描こうとする物語だ。純文学だ。最初のページでぼくはすぐにグイッと捉まれる。寝転んで読んでいいお手軽『四行半』シリーズなどとは違う。座り直す。堀田明日香とまっすぐに向き合う。

「人間」って誰かな? 「私」自身? 親しい他人? それともけなげに生きているすべての人々?……ともかくも人間の気持ちがわかる自分になりたい。そういう自分でありたい。そうした若々しい希求が率直に出される。そう堀田明日香はいつも直球だ。

 小説は意思表明でもある。

 かくありたい私、かくあって欲しい世界、そのためにもかくありたい私、……絶えることのないそうした考え・思い・願いの繰り返しで人は成長していく。

 あき子ちゃんが精神病院に行くと言う。過去の失われた記憶を取り戻すのだと言う。

「もう駄目なの。でも、このままでも駄目なの。がんばりすぎてもいけないし、でもやっぱりがんばらなきゃ、落ちていくばかりなの。……」と。

 かくありたい自分を意識している時、人はいつも立ち止まる。

「……よくて悪いんじゃないかな。答えはいつもふたつ。対極にあるから」

 ふたつの答えのどちらかを捨てれば生きるのなんて簡単だ。成長を止めたオトナはさっさとどちらかを捨てて身軽になって生きている。でも、と「私」は立ち止まる。カヨもあき子ちゃんもだ。

 いろいろな考え、一途な思い、様々な願い。たくさんのモノが外からどんどん流れ込み、内側でも新たな思いがどんどん生まれ続けている。脹らんで脹らんで圧力鍋状態だ。だから

「心に風穴をあけて、風通しをよくして、いろんなものを押し流すの。そしていろんなものを受け入れたいの」と。小器用に現実と折合いを付けるのではなく、安易に要領に走るのでもなく……。若いってスゴイね!

 

 たしかに「言葉」は厄介だ。

「誰にでも通じ合えるわけでもなく、伝えたくても伝わらないのに、時々、通じ合えるときがある」……そう、たしかにそのとおりだね。

「なにも言わなくていい! 私には聞こえている。……」とカヨが言うとき、「言葉を使わずに気持ちを伝える手段が存在する」のも確かだけれど、「いわなきゃ…いってくれなきゃわかんないことだってあるよ…」という「私」の声も真実だ。そう、「いってくれなきゃわかんない」時の方がぼくの経験では切実だ。言葉で伝えなければわからない大事なことってたくさんある。

 だから、最後から4行目にある「あき子ちゃん、電話をくれてありがとう」は万感を込めての「ありがとう」だ。ここまで読み進んでどんなあき子ちゃんなのかを読み取った読者は、そうであるあき子ちゃんが「私」にくれた電話の重みがわかるだろう。そして、あき子ちゃんの言葉になっていない言葉を読み取って言葉に残した「私」、あるいはこの物語でもって読者に伝えようとする堀田明日香の言葉のまっすぐな力にも感動するんじゃないか?

 

 堀田明日香は成長している。

「言葉」の持つ威力と無力の両方に気付き始めている。

 すべてのものごとについて存在する対極にある「ふたつの答え」を受け止めながら、言葉の威力と無力の両方と格闘する堀田明日香はただ者ではないと思う。いや、『じゅん文学』の若い書き手はみんなただ者じゃないよ。自分を若いと思う人、ガンバレ!

 

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