『季刊作家』No12(1994.12月)

 

 

  

ぼくらの夏日記

 

 

8月4日(健太)

 

 ジジ! バア! 元気? スイスに着いて3日目だよ。ホテルに帰ってからがあんまり暇だから、日記を書くことにしたんだ、お兄ちゃんと二人でね。帰ったら見せてあげるね。

 ホテルのベッドの上で、ぼくがこの日記を書いてるのを見て、夏休みの宿題の絵日記を書いてるんだとオヤジは思ってるらしいんだ。でもこれは絵日記じゃないし、岡田先生になんか見せらんないよ。だって、これはオヤジ(おとうぱん、とこどもらしく呼んでやってるけどね)とママ(ママはママだね、やっぱ)のことだけを書いとくための日記なんだから。(ジジとバアだけには見せてやろうって、お兄ちゃんと決めたんだよ)

 ママがこの旅行の前にぼくとお兄ちゃんにだけこっそり教えてくれたんだけど、この旅行が済んでぼくら三人が日本に帰ったら、ママとオヤジはさよならするんだって、やっぱ。

「パパには、離婚のことをきみたちが知ってるの、内緒よ。旅行中、楽しく無邪気にしてあげるのよ。だって、パパはまだコドモなんだから」だってさ。

 知るも何も、一年も前からずっと喧嘩したり、「透明人間」したりしてきたじゃないか、二人とも。ぼくもお兄ちゃんも、ママとオヤジが「NとN」「SとS」なのわかってるのに、ぼくらが気付いてないと思ってるのオヤジだけだよ。それとも、ぼくらが気付いてない、とオヤジがかってにそう思い込みたいだけなのかなあ。いや、オヤジは鈍感だからな、ぼくらをこどもと思ってるみたい、やっぱ。

 きょうだって、ユングフラウヨッホに登る登山電車の中でやけに可愛い女の子を見付けたからそっちばかり見てたら、オヤジったら何を深読みしてんだか、「羨ましいか、健太。ママも一緒に来たかったんだけど、仕事を見付けるのにしょうがなかったんだよ。今度は四人で一緒に旅行しような」だってさ。その女の子が家族と一緒だったからだろうけど、オヤジはわかってないよ、まったく。

 あの時、ぼくはお兄ちゃんと賭をしてたんだ。お兄ちゃんはアメちゃんだって言うけど、ぼくはあれはイタ公だよっていうわけで、賭になったんだ。だって、確かさっき、電車に乗り込む時に「プレーゴ」とか言ってたもん。これはイタダキと思ったから、ぼくはお兄ちゃんの欲しがってる5マルクのコインを賭けたんだ。

「ねえ、おとうぱん、あの子たちさあ、どこの国の人?」 そう聞いたら、オヤジはいそいそとその子の方へ行って、その子の向かいに座ってるおじさんとごちゃごちゃしゃべって帰ってきた。どうせ片言の英語とフランス語とドイツ語とスペイン語と、それからイタリア語やらギリシア語やらを並べ立ててきたんだろう。ぼくらにそんなに気を使わなくってもいいのにね。無理して旅行を盛り上げようとして、オヤジったら、突然、陽気になるし、おしゃべりになるんだから。痛々しいね、まったく。父親ってのもしんどいもんだねってお兄ちゃんと目で話したもんだよ、あん時。

 あ、そう、そう、賭は当然ぼくの勝ちで、お兄ちゃんから『Jリーグ選手年鑑』をせしめたぞ。やったね! ………いっけね、これは「おや日記」だった。きょうはこれでおしまい。きょうはママに電話しなかったから、おや日記に書くことはなし。

 あ、それで、天気は晴れ過ぎの晴れ! でも、ユングフラウヨッホの頂上は雪ふりでした。ジジとバアにそっくりの雪だるまをお兄ちゃんと作ったよ。じゃね!

 

8月6日(浩之)

 

 くっそー、健太、知ってたのか。きったねぇーぞ。『Jリーグ選手年鑑』返せ!!!………ま、いいか。もうじき今年のが出るから。来月は誕生日だし、オヤジに買わせよう。それとも、このレポートのご褒美にジジとバアが買ってくれる?

 さて、きょうは昼にゼンフをいっぱい付けたブルストを挟んだパンと1リットルのショッキーを健太と半分こした。食後はいつも通りアイスだけど、きょうはオヤジの機嫌がいいみたいで、「フュンフ、クーゲルン、ビッテ」と来たもんだ。5玉だぜ。日本じゃ絶対ないもんなこんなの。

 で、アイス食べながらグリュンデルヴァルトの街をぶらついてたら、ポストが開いてて、ママに電話しようってことになった。観光地のポストだけあって小さいけどいかしてる建物で、中で並んでる人の列には日本人もいた。いや、コリアーナかな? オヤジはすぐわかるって言うけど、ぼくはわかんない。別にキムチの匂いがするわけじゃないし。韓国の人はカメラぶらさげてんだよって健太は言うけど、ぼくらだってアメちゃんだって、カメラぶらさげたままでいることあるじゃないか。ま、鑑別法は、ハンネスが教えてくれた「目尻法」しかないな。上がってるのが中国人で、水平なのが韓国人、下がってたら日本人。でもさあ、ママだって目尻上がってること多いじゃないか。お化粧のせいだって言うけど、怒り過ぎるからだぜ、ぼくらとかオヤジをさ。

 ママ、やっぱり、ハンネスと暮らすのかなあ。結婚なんてもう真っ平だって言ってるけど、ハンネスと暮らすつもりなの見え見えじゃん。ま、どっちでもいいけど。家を出ちゃうんなら、もうぼくらと関係ないし。

 そいで、ママに電話したら、日本は夜の9時過ぎで、きょうは大阪の会社を回ってみたけど、あんまりいい返事もらえなかったみたい。ママはもう三十八だし、世間の風はオバサンには厳しいからなあ。オヤジはママに仕事が見つからないと自立できないから、家を出ていけないと読んでるようで、嬉しそうな顔をして「そう、残念だったね。ふーん、明日は神戸を? そう、しっかりな」なんて、顔が見えないもんだから、いい子ぶっちゃってさ。

 あ、そうそう、ハンネスで思い出したんだけど、ハンネスと朋子はデキテるよ、ジジ。こないだ、夏休みに入ってすぐの朝、前の芝生で引っ繰り返って本読んでたら二階のハンネスの部屋から朋子とハンネスが出てきて、すぐに向かいの朋子の部屋に入ってったの見たんだ。朝の8時過ぎ。ありゃ、朝帰りってやつだね。ぼくさあ、そん時読んでたのが吉行の『驟雨』で、その前に西鶴の『好色一代女』(現代語訳の方。ジジの書斎の版画のくねくね文字のやつは読めないよ、やっぱ)読んだばっかりだったからさあ、「あの朋子がぁ? ふーん、へえー」なあんて思わなかったよ。健太は、うっそー、とか言ってたけど。でもさあ、朋子も眼鏡とるとなかなかじゃん。いつもは、社会学の助教授です、なんていう学者そのものという顔して突っ張ってるけどさ。まだ三十代だって三年前から言い張ってるけど、眼鏡とった顔は………そうそ、前にバアが言ってたよね、「朋子はジジが好きなんだ。だから結婚しないでジジの研究室に残ったんだ」って。ジジが教授やってた時に朋子を講師にしてやったんだろ?

 でもさあ、なんで絵描きのオヤジとミーハーのママは結婚したんだ? ジジの退官記念の肖像画を描きにきたオヤジが気にいったから? でも、絵描きがお金持ちのわけないじゃん。お金がなきゃミーハーできるわけないのに、ママもどうかしてるよ。

 でもさ、朋子は今はハンネスに移っちゃったんだよね。女はだから嫌いなんだよ。いや、だから他人は嫌いなんだと言うべきかなあ。ぼくももうじき「精通をみる」お年頃になるんだけど、ぼくは性欲なんてないと思う。他人なんて期待できないもん。クラスの奴らはやたら保健室に行って、保健の麻美先生の身体をタッチしたりしてるけど、ぼくはいやだね。あいつらいつまでも「子ども」やってんだ。麻美先生がぼくにだけこっそり教えてくれたんだけど(そう言って、ほかの子にも教えてるんかも知れないけど)、マスターベイションのやり方だってぼくはもう習ったから、女なんていらないんだ、ぼく。

 あれ、ぼく何の話してたっけ? そう、ハンネスは朋子ともできてるからさあ、ママは振られちゃうってこと。

 ハンネス、前に言ってたよ、ハンネスの部屋でパーティやった時さ、ぼくがマルガレッテとペトラを間違えた時にね。

「ヒロユキはドイツのオバサンを見分けられないだろ? ぼくはニホンの女の人、みんな同じに見える。みんなツルンとした顔して、同じ化粧して、ブランドの服着てる。………それに、ぼくがウインクするとみんな付いてくる。ハーハハハハハ、ハーハハハハハハハハ」

 ジジとバアはママの本当の親なんだから、ちょっと言ってやった方がいいよ。何事も勉強だけどさ、失恋なんて、中学か高校の時に済ましといてもらいたいよ。オヤジとママに別れられると、やっぱ、ぼくら困るんだよ。名前変わったりすると、自分を考える時のキーワード、と言うか自己認識の記号が変わるってことで、混乱しちゃうんだよな。それに、転校だっていやだ。健太は岡田先生が気に入ってるからなんだけど、ぼくは、自分を凡人として周囲に認識させるための演技をまた新しい環境でやんなきゃいけないの面倒なんだよ。世俗にまみれて生きるしかない以上、凡愚を演じるのは天才の宿命だ、ってジジは言うけど、疲れるだろ、やっぱ。ぼくもジジくらいの秀才止まりだったらよかったのにな。(でも、ジジも二十歳までは天才だったんだろ。バアから聞いたよ)

 疲れたから、きょうはこれまで。昨日からヴェンゲン泊りだよ。ここをステーションにしてあと四日、ハイキングでもしながらのんびりしようって。オヤジ、ちょっと元気になったかな。ママに仕事が見つかってないからだろうし、ママとの諍いのない静かな日々が続いているからかな。

 じゃ、グーテ・ナハト! おやすみ。

 

8月11日(健太)

 

 きょうはフュッセンだよ。ノイシュバンシュタイン城も向かいのシュバンシュタイン城も見てきたよ。遠くから見ると、かっこいいけど、中に入ると、たいしたことなかった。壁にずっと絵が描いてあるけど、安っぽいよ。バアの油絵の方が、うーんとうまいよ。オヤジも誉めてたよ、なんとかの手習いにしちゃあ、おばあさまは筋がいいって。(あ、年寄りはつけあがるから、この事言っちゃいけないんだった)

 バア、元気? ぼく、お城の帰りの坂道でさ、馬車引いてる馬のウンコを踏んじゃったんだ。お兄ちゃんもオヤジも自分できれいにしろって言うんだ。ちぇ、冷たいなあ、男たちって。ママやバアだったら、手伝ってくれるのにな。だからさ、やっぱり、ママとオヤジが離婚するの、ぼくは反対だよ。女の自立か何か知らないけど、ぼくとお兄ちゃんが自立するまでは親の責任をちゃんと果たすべきだよ、ね?、ジジ。ママがいっつも言うんだぜ、責任って。

 きょうママに絵はがき書いといたよ。

「オヤジは楽しそうにしてます。お城の中の洞窟の部屋で大げさに驚いて見せたりして、無邪気でかわいいじゃないか。ママといい凸凹コンビだと思うよ。 こども一同」

 おもてはルードヴィヒ王の肖像画なんだけど、オヤジに似てるんだ、その顔。逆効果だったかな、あの絵はがきでママに出したの。でも、ルードヴィヒにしても、オヤジにしても、自分の世界にのめり込み過ぎなのは同じだよね。 オヤジは二三日前から元気になってきて、放牧されてる牛をデッサンしたり、ディルンドゥルを着たおばさんにモデルになってもらって水彩のスケッチしたりしてる。仕事じゃなくて「離婚前旅行」だっつうのにね。へへへ、「離婚前旅行」っての、朋子おばちゃんに教えてもらったんだ。あのさ、朋子おばちゃんにはとぼけといたからね。

「健ちゃんとこ、離婚するんだって?」とかさ、鎌かけられちゃったんだけど、さあね、って。朋子おばちゃんは結婚してないから、人が結婚に失敗するの嬉しいみたいだね。自分の兄貴が振られようとしてるのに、薄情な妹を持ったもんだよ、オヤジも。

 オヤジは女運が悪いんだって。おばちゃん言ってたよ。ネクラの母親に育てられて、超優等生の妹と較べられて育って、気の強い奥さんにもらわれたんだから、ってさ。

 ジジ、オヤジの味方になってやろうよ。

 あ、ここでお兄ちゃんに代わるね。オヤジが呼んでるんだ。頭洗わなきゃだめだって。お風呂は日本の方がいいよ。温泉に行こうね、ジジ、帰ったら。じゃ!

 

8月13日(浩之)

 

 ジジ、バア、きょうは最低の日だったよ。ねえ、いま何時だと思う? 午前2時前。それもハンブルク行きの夜行列車の中だぜ。

 それもこれも、健太とオヤジのせい! 誰だれのせい、って言うなってママは言うけど、やっぱ、きょうの失態はオヤジのせいだよ。

 フュッセンからアウクスブルクへ出るのに、オヤジったらよく確かめもしないで、禁煙車の一等車ならどこでもいいとか言って乗ったらさ、ぼくらの乗った車両は途中の駅で違う電車にくっつけられちゃってさ、とんでもない所へ行くとこだったんだ。途中で気付いて車掌さんに教えてもらって乗り換えることになったんだけど、そのドイツ語の25を52とオヤジが間違って聞いて、25分のインターシティーに乗り遅れてさ、結局アウクスブルクに着いたのが昼過ぎでさ、最低なのは、アウクスブルクで何かの見本市やってる最中でホテルが全然空いてないってんだ。でもさ、隣の町に行けば何とかなるってインフォマツィオンのおばさんに言われたんで安心しちゃってお城行って遊んだんだ。そいで早めの晩御飯食べて、さあ隣町に行こうってんで駅に着いたらさ、……もう、最低だよ。健太のやつ、お城の井戸の部屋かお城の前のレストランにリュックを忘れたって言うんで大騒ぎだよ。パスポートと宝物のコイン入れが入ってるっていうから、探すしかないよ。それでタクシーでお城に戻ったら、もう閉まっててさ、健太は塀を乗り越えて取ってくるって言うけど、見つかったら銃殺だぞっておどかしたら泣き出しちゃうし、オヤジは唇噛んだままお城の塔を見上げて何か考えてるかっこしたままなんだ。どうせ何にも考えてないのわかってるけど、オヤジにもプライドあるから、待っててやるっきゃないしさ。ぼく参っちゃったよ、もう。

 それからうんざりするほどすったもんだがあってさ、こうやって夜行でハンブルクへ行くことになったんだ。へとへとだよ、もう。ママがオヤジのこと頼りないと思うの無理ないよ、まったく。(もちろんママには可愛げがないからお互い様だけどね)

 ま、とにかく健太のリュックはお城の向かいのアイス屋さんのベンチで見つかって、パスポートもコイン入れも無事だったし、こうやって夜行列車だけどねぐらも確保できたんだけどさ。

 健太はコイン入れが出て来たもんだから嬉しくってさ、今もそれを枕にしてコンパートメントの向かい側に犬みたいに丸くなって寝てるよ。オヤジはパスポートの再発行なんて邪魔くさそうなことをせずに済んだのがよっぽど嬉しかったみたいでさ、「やった、出て来たなぁ、健太。ここはキリスト教の国だからなぁ」だってさ。何言ってんだか、まったく。馬鹿な親を持つと子供も苦労するよ。

 あ、もう寝なきゃ。オヤジもさっきから情けない顔して寝ちゃったし。……寝てる顔はジジがやっぱり一番だよ。寝たままいつ死んでもいいっていうかっこいい顔だね。目の前のオヤジなんてさ、口開けててさ、このまま死んじゃさまになんないよ。たるみきっててさ、新進芸術家のデスマスクなんてもんじゃないね、これって。

 明日というか、今日はハンブルクで動物園だってさ。この歳になって、動物園なんてね。ま、オヤジと健太に付き合ってやるよ。じゃ、チュース!

 

8月14日(健太)

 

 ジジ、バア、すっごく楽しかったよ、今日! ハーゲンベック・ツォーは世界で最初の動物園なんだって。お兄ちゃん、日記ではかっこ付けてるけど、「おっ、すっげー。何だこいつ、これでも猿の仲間かよ」なんて、すごーくハイだったんだから。所詮こどもだよ、お兄ちゃんは。波があるもんね、天才の時と子供やってる時と。使い分けてる、なんて自分で言ってるうちは凡人なんだってジジ言ってたよね。お兄ちゃん、普通にしてるほうが楽なのに、って思うけどな、ぼくなんか。ま、お兄ちゃんが自分で気付くしかないよね。

 オヤジがさ、堀の向こうのライオンの群れを見てさ、「こども産んじゃったら、夫婦なんてつながりないんだよなぁ、動物の世界って」なんて、ぼそっとつぶやいてたよ。ねえ、ジジ、「夫婦のつながり」って何? 朋子とハンネスみたいにベタベタくっついてること? ぼくいやだよ、女なんか。(ママやバアは別だよ)

 こないだのファミリーの会でクラスの女の子と踊らされたけどさ、ぼくら男の子はさ、「汚ねー」とか「女がうつって、オチンチンが落ちるー」とか言って、手握ったりしなかったもんね。女の子だってさ、「汗臭い」とか「爪が黒い」とか言って、男のこと嫌いだって言うし。

 あ、バア、こっそり教えてあげようか。お兄ちゃん、女は嫌いだって言ってるでしょ。でもね、ときどき女の子からかわいい封筒の手紙もらってるんだぜ。それをさ、こっそり読んでんの。ぼくが部屋に入ったらさ、あわてて本にはさんだりしてるけどさ、あんな紙に手紙書くの女の子だけだもん、すぐばれちゃうよ。かっこ付けちゃってさ、お兄ちゃんも普通の子なんだよね、きっと。えへへ。

 あれっ、ぼく動物園のこと書いとこうと思ったのに。ま、いいや。いっぱい写真とったから、帰ってから一緒に見ようね! ママと違ってオヤジはアイスもコーラも好きなだけ買っていいって言うし、とにかく今日は、ウキウキ、の一日でした。ヤッホー!

 

8月18日(浩之)

 

 ジジ、バア、今はフランクフルト空港だよ。やっと帰れる、って昨日は思ってたけど、空港で荷物預けちゃったらさ、急に寂しくなっちゃってさ、このままもっともっと遊んでいたいと思っちゃった。日本に帰ってもさ、ママの不機嫌な顔が待ってるんだもんな。そりゃぼくらにはニコニコして見せるけどさ、相手がオヤジになると、病人みたいな顔して口きかないだろ。子供が心を痛めてるってのにさ、困った親たちだよ、まったく。

 こないだから健太と相談したんだ。ママとオヤジが別に暮らすとしたら、ぼくたちはどうするかって。それで、結論だけど、ぼくらが大学に入るまではジジとバアのところに置いてくれない? 頼りないオヤジはお金もないから、あてになんないし、ママなんてどうせハンネスにもふられてまた別の男友達を探すんだろうしね。二人とも、親は失格だろ。頼れるのジジとバアしかないんだ。

 健太は皿洗いと庭の水撒きはするって言うし、ぼくは「平家物語」の朗読とか、バアのカンバスやイーゼル運んだりするし、それに、二人の老後はぼくが見てあげるつもりだからね。

 ぼくは大学はスイスかドイツにする。日本人がいないって、こんなにすっきりしたことないもん。自分ひとりでいられて、天才だってこと隠す必要もないし、他人と自分がきっちり別れてるでしょ。日本だとさ、近所のおばさんとか同級生とか、他人なのにさ、勝手にぼくの中に踏み込んでくる感じなんだもん。だからさ、大学出て、そこの研究所に残ってさ、ジジと同じ社会学の研究していくつもりなんだ。ジジとバアもこっちに来てもらってさ、本物のアルプスのふもとの山荘にでも住んでもらって。お金はジジの年金があるでしょ。ぼくも自分の分くらいは研究所からもらえるからさ。

 健太はやっぱり日本に残ってラーメン屋さんをするってさ。あいつラーメン大好きだからなあ。ドイツにだって中国料理店があるじゃないかって言ったんだけど、だめだって。ドイツのお金だとお釣りがわかんなくなるって言うんだ。すぐ慣れるのにね。

 あ、そろそろゲートに入ろうってさ。いやだなあ、帰るの。ジジとバアには会いたいけど、ママとオヤジの不機嫌な顔見たくないしなあ。あーあ、気分重いよ、ぼく。

 

8月X日(健太)

 

 18日なのか19日なのかよくわかんないんだ。飛行機の中だから、時間なんて関係ないもんね。時間止まってるよ、今。映画が終わって暗いままなんだけど、ぼくぜんぜん眠くない。オヤジは映画の途中から寝ちゃったし、お兄ちゃんはコックピット見てくるとか言って、日本人のスチュワーデスさんに連れてってもらって行ったまま。

 ぼくはいいんだ。コックピットは飛行機に乗るたび行ってるけど、おもしろくないもん。別に触れるわけじゃないし、自動操縦だからパイロットのおじさんたちものんびりお茶飲んでるだけで、かっこいい訳じゃないし。これKLMだから、バッジも絵はがきも前の時にもらってもう持ってるし。

 何かわかんないけど、さっきから涙が出てしょうがないんだ。バア、ぼく寂しいんだ。オヤジは自分の世界に閉じこもっちゃってるし、ママは好きなようにしてるし、お兄ちゃんはぼくより先に大人になっちゃうし、ぼくはひとりぼっちなんだ。お兄ちゃんには日本でなきゃいやだ、って言ったけど、ラーメン屋さんはドイツでもイタリアでもどこでもいいんだ。みんなでいられるんなら、どこでもいいんだよ。

 カウンターにジジ、バア、オヤジ、ママ、それとお兄ちゃんが並んでて、白いエプロンのぼくが大盛りのラーメンをみんなの前に順に出していくんだ。そうだ、朋子おばちゃんや岡田先生、ハンネスたちもいるといいなあ。湯気の向こうに、みんなのニコニコした顔が見えて、「うん、うまいうまい」って、みんな言ってくれて、お兄ちゃんも「おっ、健太、こりゃウメー」とか言っておかわりしてくれるんだ。ぼくはさ、みんなのそんな顔を見てるのがとっても嬉しくてさ、汗だらけの顔をタオルで拭きながら、みんなのおかわりをどんどんどんどん作っていくんだ。そして、みんなは幸せそうに、ちゅるちゅるやって何杯も何杯も食べていくんだ。「雨ニモ敗ケズ」の人みたいに、「そんなラーメン屋さんにぼくはなりたい」んだ。

 あ、お兄ちゃんが帰ってきた。ぼく明るい顔しなきゃね。ぼくが頑張らないと、うちの家族はみんなバラバラになっちゃうもんね。ジジ、バア、お願いだから、ぼくたちを助けてください。ぼくはオヤジも好きだし、ママも大好きだし、お兄ちゃんだって尊敬してて大好きなんだ。バラバラなんて絶対いやだよ。

 人それぞれの人生があるってジジは言ってたけど、それはおとなになったらでしょ。ぼくら子供はおとな次第じゃないか。ママも責任を果たしてほしいし、親父はもっとみんなのことを考えてほしい。ね、ジジとバアから一度でいいから、話してみてください。お願いします。ぼくも思いっきり明るい顔して、みんなで暮らそう、って言うからさ。じゃ、あと六時間くらいで日本のはずだから、その時これを渡すね。

 お願いします。助けてください、ジジ、バア!

 

(おしまい)

 

 

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