『じゅん文学37号』同人評シリーズG(2003年9月)

 

 

 

 

荒波洋太

『おも舵、取りかじ』(30号〜36号)を読む

 

 《話芸と文芸》

 

 

 

 もう二十年以上も前になるが、南ドイツのミッテンヴァルトという小さな村に三泊したことがある。十人あまりしか泊まれない小さなペンジオンには毎夏をそこで過ごすらしい常連の老人たちがのんびりと一日を楽しんでいた。労働からもお金の心配からも解放された年金生活者なのだろう。実に晴れ晴れとしたいい顔の老人たちだった。

朝、空いたテーブルに座って朝食を摂り始めると、後ろのテーブルから、よく響くアルトの声がする。抑揚も強弱も豊かなドイツ語の一人語りだ。

「マイン・マン・ハット……ゲシュトーベン(私の夫は……で死んだ)」とか「ヴェルト・クリーク(世界大戦)」など、私にもわかる単語が多くあり、しかも話すスピードがゆったりしているために、その語りの内容は私にも十分に理解できた。夫となった人とどうやって知り合ったのか、雨模様の中の結婚式は、最初の家の様子は、最初の子供は、二番目は、……最初の孫は、……。さらには、一番嬉しかったことは、一番悲しかったことは、一番誇りに思っていることは、一番楽しかった旅行は、……。

壁の飾りを見回す振りをしながら声の主のテーブルに目をやると、銀髪の二人の老夫人が食事を終えたテーブルにアルバムを広げているのだった。一人がアルバムのページを繰りながら自身の身の上話をしており、他方は聞き役に徹しているようだった。

それにしても、まるで自著を朗読しているかのように、つかえることも淀むこともなく緩急自在にメリハリ豊かに語っていくのには感心した。話芸と言っていい熟達の語りであった。ここまでになるには、人に語って聞かせるたびにアルバムの中の写真の選択や配列を幾度も変えて来たのだろう。彼女の過去のすべてが集約されたのがあのアルバムだった。相手を変えながら繰り返し繰り返し語られる中で、過去から後悔と憤怒が削ぎ落とされ、一方で、平凡がいつの間にか波乱万丈に置き換えられていく。フィクションが追加され、より劇的な構成となっていくのだろうなぁ、きっと。たぶんそうなのだろうが、それで悪いことなんて何もないじゃないか、と私は思ったものだ。「事実」など、彼女にとっても聞き手にとってもどれほどの価値があるものか。彼女は「過去を語っている現在」、その現在を生きている。その「今」にこそ意味を感じているのだから。

老いるというのも悪くないかも、と当時二十代後半に入ったばかりの私は思ったものである。

 

自分史本なるものがブームだそうだが、今まで何人かの方からそうした性格の著書をいただいたことがある。セピア色の写真が折り込んであったり、当時の新聞記事からの抜粋があったり、どれもなかなかの力作である。世相や風俗を知るだけでも私は興味を持って読むことができた。そして何より、自分史をまとめる作業を楽しんでいる作者の姿が彷彿と伝わってくるのが一番の味わいだった。

荒波洋太の『おも舵、取りかじ』は自分史そのものではないが、多分に自分史の要素が含まれている。つまり、荒波氏は大いに楽しんでこの航海記を書いている。そして作者が楽しんでいるのが読む側にも伝わってくる。文章の随所に遊び心が横溢しているからだ。だから読める。乱文も誤植も何のその、小さいことはさておいて、船はいいぞ、世界にはいろんな所があるぞ、それから変な奴もいっぱいいるぞ、……という怪しいオヤジ(失礼!)の繰り出す見聞譚に付き合っているうちにすっかりリラックスしている自分を見い出すわけだ。疲れた時にこういう読書はいい。今風に言えば、癒し系というのかな?

韓国では身の上話を「身世打鈴(シンセタリョン)」というそうである。身の上に起こったこと、見聞きしてきた世の中のこと、そうしたものが詰まっている自分を鈴に見立てて打ってみたら……、という譬えだろう。先人の知恵を感じさせる美しい言葉だ。

人にはそれぞれにしかない見聞や経験があり、誰もがひとつの物語を紡ぎ出せるものだ。世代が違えば受けた教育も経験した社会も著しく異なるから、違う世代の「身の上話」は本来はすべて興味深く聞けるはずだと思う。

ただ、語り手の資質により、聞き手の満足度は大きく異なるだろう。偏向した価値観ばかりを強調されれば聞き手は反発を覚えるだろうし、自己肯定のみを目的とする狭小な視野からの冗漫な語りであれば読者の失笑を買うだけだ。しかし、その反面、反発しながらも失笑しながらも、自分にはなかったしこれからもないであろう経験を持つ他者に対する嫉妬や羨望も読者は持つものである。そうした意味では、書く技術がなくても読者に何らかの印象は残せるものだ。しかし、……しかしである。作者に「書く技術」があれば、作者の個人的な経験を読者に疑似体験させることができる。読者は時には胸打たれ、涙も誘われるだろう。するとそれは、もはや作文ではなく立派な文芸となり、永く存在するに足る自分史文学になるのではないだろうか?  荒波氏の今後に期待したい。

 

 

 

 

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