あ き ざ く ら
秋 桜

 

 

 

 

一、津山

 日本ではコスモスのことを、秋の桜と書くのだと話したのは、何年前の来日のときだったろうか。あれは確か、コスモスをあしらったわたしのスカーフを彼が日本的な優雅な柄だと賞めてくれた時だった。代わりに、ヘルベルトはわたしに、ネパールのカトマンドゥでは秋に桜が咲くのだと教えてくれた。まだ夫人が元気な頃、インドと中国を廻った際に、秋の桜に出会ったのだという。雨期あけの十月、厳しい冬の前の短い間だが、ヒマラヤの麓に華やかな花の季節が訪れるのだ、と。

 コスモスが咲き群れる頃、この津山という辺鄙な町に、ヘルベルトが一ヵ月間の集中講義に来るようになって、もう十二年になる。南ドイツの有名な合奏団の指揮者であり、定評のあるヴァイオリンのソリストでもある彼を、わたしたちの芸術大学に迎えることができるようになったのには二つの幸運が重なっている。
 ひとつは、これは幸運と言っては不謹慎だが、夫人の再発した乳癌の治療のことで彼が岡山を訪れたことであり、もうひとつは、北イタリアで毎年行なわれているヴァイオリン・コンクールに、その年の春、わたしたちの大学の出身者が、一位該当者なしの二位入賞を果たしたことだった。
 五十五歳の時に最初の手術をした夫人の乳癌は、それから今まで十四年間にわたって再発をくり返し、そのころには転移も起こしていて、脇の下にいくつもの腫瘍の塊を作っていたという。ミュンヒェンの大学病院では、鎮痛以外に根治的な処置はなく、癌のほうは放置するしかないと宣告されていた。その頃、彼の楽団が日本を公演して廻ることになり、その途中、ヘルベルトは夫人を伴って岡山の研究所を訪れた。彼の友人の外科医が、その研究所で試験的に使われていた新しい薬での治療を勧めてくれたからだった。
 ヘルベルトの岡山滞在が地方紙に載ると、国際的なコンクールでの入賞ということで気を良くしていた学長が動いて、日本各地で演奏会を催していたヘルベルトに懇請し、客員教授として毎年秋の集中講義を承諾してもらった。当時、三年間のヴィーン留学から帰国したばかりでピアノ科の非常勤講師になりたてのわたしが、その時も通訳として学長に同行して行った。それ以来、日本滞在中の彼の通訳はいつもわたしが受け持つことになったのだった。
 ヘルベルトも中国山地の中のこの小さな町を南ドイツに似ていると気に入ったようで、今年で一巡りの歴史を重ねるまでにこの公開レッスンは定着したものになった。在学生ばかりではなく、国内から多くの若いヴァイオリニストたちが、交通の便がいいとは言えないこの小さな町に、この時期、集まるようになってきている。
 もっとも、わたしは彼の様子から、一昨年には腰の骨にも転移してずっとベッドに臥しているという夫人との生活から解放される短い骨休めとして、彼がこの日本滞在を使って来たように思い做していた。そしてその故に、今年があるいは最後の来日になるのではないか、と内心わたしは残念に思っていた。と言うのも、この夏の終わりに送った恒例の集中講義を依頼する手紙に、彼は返信で夫人の逝去を知らせて来たからだった。
「十年余りの長く険しい苦しみの旅を全うし、この七月の二日に、カーリン・テレーザ・カルステンは静謐で清らかな永遠の眠りに就くことが許された」と、その手紙には綴られていた。几帳面な、あるいはわたしに読み易いようにと丁寧に綴ってくれる、いつもの彼の筆跡に乱れはなかった。そこに、試練に耐えているヘルベルトの深い悲しみをわたしは読み取ったものだった。
 十月二日から始まったプロフェッサー ヘルベルト・カルステンの集中講義と公開レッスンは、予定どおり昨日終了した。例年のように、受講者の一人一人に個別の具体的な注意を与え、レッスンを受けた誰もが大きな収穫を得て帰っていった。夫人を亡くして、あるいは気力の面で弱っているのではないか、というわたしのあらかじめの心配は幸い杞憂に終わった。
 そして彼の希望で、帰国までの一週間、わたしは彼を京都と伊勢に案内することになった。京都では修学院離宮から曼殊院、詩仙堂を廻るコースと龍安寺と金閣寺を、そして、伊勢では伊勢神宮の内宮と外宮をまわるだけというゆったりしたスケジュールとした。ヴァイオリンの指導をする時には勢いをさえ感じさせるようなヘルベルトではあったが、やはり、七十二歳という年齢を忘れるわけにはいかないとわたしは考えたのだ。
 午前七時すぎに濃い朝霧が垂れこめた津山の町をあとにして、ヘルベルトとわたしは津山線と新幹線を乗り継いで京都に到着した。彼にとっては七年ぶりの京都になる。

   

二、京都

 きょうはわたしにとって、わたしが生まれた日に次いで大きな意味のある日になるだろう。これまでの三十八年間のわたしの生をそのまますべて受け入れてもらえる、大きな大きな器が与えられたのだから。尊敬するヘルベルト・カルステンから、このわたしが結婚を申し込まれたのだ。
 京都に着いてからは、彼はむしろふさぎ込んでいるようにわたしには感じられた。半日ずつとはいえ、一ヵ月間の連日の講義でやはり疲れが蓄まっていたのだろうとも思い、あるいは、夫人と訪れたこともある古都の風景にかつての記憶を呼び覚まされて、感傷にひたっているのであろうかともわたしは考えていた。顔色も若々しく、足取りもしっかりした彼ではあったが、品位のある顔立ちとドイツ語の心地よい響きは、過去を現在に重ねての回想をこそ語るのにふさわしいようにわたしは思い描いていたのだ。
 しかし、それらはすべてわたしの勝手な思い込みだった。金閣寺からきぬかけの道を散策して訪れた龍安寺で、禅の思想の表象とされる石庭に小一時間も坐り尽くしていた間も、彼が考えていたのは過去ではなく現在だったのだ。そう、夫人との過去ではなくわたしとの現在についてであり、わたしとの未来の可能性についてなのだった。
「多くの時間、私は考えてきた。私は今まで自分に忠実に生きてきたし、これからもそうでありたいと願っている。私は私の希望をあなたに正直に話そうと思う。そして、それを受け入れてもらえるかどうかは、あなたに委ねたいと思う。もちろん、その権利はあなた自身のものなのだから」
 石庭のある方丈から出たあと、紅葉に包まれた鏡容池の回りを散策しながら彼がそう話し出した時、わたしは彼が偶然に知人を見付けてその方に話し掛けたのかと思った。彼がわたしに話すのにそれまでの軽い du ではなく、改まった感じの du で話したからである。
 お互いの気心が知れてきた十年前からは、講義以外の時にはヘルベルトとファースト・ネームで呼び、互いに du で話している。はじめは、音楽家として尊敬する彼をどうしても du などと軽々しくは呼べなかったものだ。それでも、当時六十を出たばかりの彼は精悍でさえあり、わたしは彼との年齢差をほとんど感じず、やがて自然に彼を du で呼び始めていた。
「講義の通訳や日本における私のパートナーとして、あなたはその職責を完全に果たして来た。如何だろうか、私があなたのその能力の一部だけでなく、あなたのすべてを認め、共に生きていきたいと願うのは、余りにばかげた老人の戯言と考えられるだろうか?」
 求婚されているのだということにしばらくしてわたしはやっと気付いた。それでも、そんなことはありえないという考えがすぐに浮かび、わたしの頭の中は混乱を極めて言葉を失っていた。
「日本においてだけではなく、私のいるすべての場所、すべての時に、あなたが私のパートナーであって欲しいと私は衷心から願っている。この私からの申し出について、貴重なあなたの時間を割いてよく考えてみてはもらえないだろうか?」
 それが彼からの求婚の言葉だった。
 自分の中心を失ってしまったようにその時のわたしは何も考えることができず、そのあと彼が何を話してくれたのか、今になっても思い返すことができない。ただ、「期待をもって君からの返事を待っていていいのか、あるいは即座に nein なのかを、サチコのいるこの日本を離れる日までに聞かせてもらえれば私の心臓が喜ぶだろう」と、普段の du に戻して言った時の彼の柔和な笑顔を覚えているばかりだ。

   

三、伊勢

 夕暮ちかい伊勢神宮内宮は参拝客も疎らで、神域と呼ぶにふさわしく静まり返っている。海を見たいという彼の希望で、午前中、賢島まで足を伸ばしたせいで、二年前に新しくなったという伊勢神宮の宇治橋を渡る頃には、日はかなり西の森に近付いていた。
 龍安寺の池の端での求婚からここ二日間、そのことは話題には上らなかった。ヘルベルトは自分の体力を誇示するかのように精力的に街を巡った。彼にすれば、胸にあったものを話してしまってむしろ気が軽くなったのだろう。それに十一月に入ってからは、例年より寒かった十月の反動か、小春日和のよい天候が続いている。
 わたしは、と言えば、無論、即座の nein ではないものの、 ja と返事するまでに済ますべき多くのことがあるような思いに急き立てられていた。ひとつはもちろんわたし自身の覚悟を確かめることであったし、ひとつは周囲の人々、とりわけ母に今回のことをどう切り出すかという問題だった。
 ヘルベルトは朱に染まりつつある光の中に浮かび上がった宇治橋の美しさに感嘆の声を上げていた。檜特有の艶を帯びた勾欄が光を受けて、金色に、あるいは白金のように輝き伸びている。背景の森は深く闇に沈み、空は燃え上がらんばかりに紅を増していた。
 気が付くと、ヘルベルトが後からわたしの肩に両手を置き、西の方角を見つめている。夕日に照らされた彼の目が見ているのは、紅の空なのか、それとも沈潜する森の闇なのだろうか。・・・・・・ヘルベルトは孤独に耐えているのだ。しかも、その目は生への意志を剥出しにして輝いている。 その時わたしは、今まで見知ってきた日本の男たちとは違う、彼の強い生命力、生への執着に驚きさえ感じたものだ。

 その夜、わたしはホテルの部屋で母への手紙を書き、また、もう一人の肉親である横浜に住む兄と電話で話した。三歳の時に事故で父を失っているわたしにとって、六歳離れた兄は父のような存在でもあったのだ。
 母には今までの経緯を伝え、近いうちに相談に行くと書くに止めた。音楽について実に多くのことを教えてもらい尊敬してきた方、とは書いたものの、ヘルベルトの年齢を伏せたのはやはりそこにわたし自身のこだわりがあったのだろう。
 兄には隠さず彼の年齢も伝え、聞き役になってもらった。昔からわたし自身で決められない時には、兄に聞いてもらっているうちに自然と納得できる結論が出てくるのだった。兄は相変わらず率直で公平であったとわたしは思う。
「そうか。尊敬できて、金も名誉も、家柄まであるんだな。それで何の不足があるんだ。誰だって、生きてりゃ七十の爺さんになっちまうだろうが」
 兄はわたしのこだわりがどこにあるかを見て取っていた。
「でも、親子みたいだから・・・・」
「ばかをいえ。おまえの扁平な顔にゲルマンの血は一滴も流れちゃいねぇや、何が親子だ。いいじゃないか、親爺になってもらえば」
「ふざけないでよ。お母さんにどう言うのよ」
 それから兄はやっと真面目に話し始めた。いつもの兄のやり方だ。
「十五になりゃあ男と女だ、歳なんて関係ないぜ。問題はそんなことじゃないだろう。佐知子は今までなんで結婚しなかった。美人じゃないが、俺の基準から言ってもおまえはなかなかいい女だ。頭がいいし、勘も冴えてる。ピアノもできるし、言葉もできる」
「ありがたいと思っているわ」
「そんなことじゃない、今は」
 大学まで行けたのは看護婦をしていた母のおかげだが、ヴィーンに留学できたのは整形外科医になっていた兄からの送金のおかげだった。わたしの留学中、当直のアルバイトをずいぶんとしてお金を作ってくれたのを母から聞いたのは兄の結婚の時である。
「おまえプライドがあるだろう? いや、なけりゃ駄目なんだプライドは。つまらん謙遜はいらんよ」
「プライドが高かったから結婚できなかったって?」
「でもまあ、そういうことだろう。それでいいんだ。で、今度のドイツのおじさんは尊敬できて、言うことないんだな。そこでだ、おまえはそのプライド捨てて、そのおじさんに付いて行こうって訳か?」
「どういうこと?」
「要するにだな、おまえは相手を十分評価に値するから結婚しようというんだが、相手のドイツ人はおまえの何を評価して結婚する気になったんだ。それを考えたことはあるのか?」
 わたしは虚を衝かれた。わたしには答えが見つからない。ヘルベルトはわたしの何を評価してくれているというのだろう?
「嫌なことを言うが、俺は俗人だからな。ドイツではな、医者は余ってるんだが、看護婦が足りなくて韓国とかタイからずいぶん流れこんでるらしいんだ。医学雑誌で読んだんだがな。アジアの女は従順で言いなりになるから人気があるんだそうだ。おまえ、爺さんを看取るだけにドイツへ行く気はないだろう。行くんならプライドを持って行けよ。・・・・ま、急がずにいろいろ考えて返事することだな」
「じゃあ、兄さんは反対なのね」
 兄が積極的に賛成してくれなかったことにわたしは落胆した。しかし、従順さだけで選ばれたとすれば確かにわたしのプライドが許さない。
「そうは言わない、これはおまえのことだ。対等の夫婦として堂々とドイツに乗り込んでほしいとは思うが、並みの女みたいにプライドを捨てて好きな男にくっついていくのもいいさ。男と女は違うんだ。男は好かれないと駄目なんだ、いくらこっちが好きでもな。もっとも、そうじゃない奴もいて、そういうのはたいていふらふら生きてやがる」
(ふらふら生きることになる・・・・)
 わたしには自信がない。音楽性、教養、そして寛容さにおいても、わたしより優った女性がドイツの彼の回りにいないなどとはとても思えない。
「結婚するとなると雑音も聞こえてくるだろうけど、それを無視できるにはおまえにしっかりした自信がないとな」
 わたしもそれは考えていた。名誉と財産のある老人との結婚ということで、回りから悪意も混じった奇異な目で見られるのではないかと思いはした。しかし、そんなことは二人の関係がしっかりしていれば、と割り切っていたつもりだった。でも兄の言うとおり自分に本当に自信がなければ、たちどころに動揺してしまうだろう。
「乱暴なことを言った、すまん。俺は粗雑な男だからなぁ。自分の娘みたいな若い女を口説ける幸せな男に嫉妬してるだけかもしれんなぁ、俺は。女には女のものの見方があるんだろう。女の友達にも話を聞いてもらえよ。おふくろさんには最後でいいだろ。どっちに決めるにしても時間をかけるんだ。おまえのラスト・フライトになるかもしれんからなぁ。あ、ごめん。おまえ、まだ当分行けるぞ」
 最後は二人とも笑って電話を終えたが、わたしの気分は重かった。結婚とは、考えていた以上に厳しいものなのだ。自分で自分を審判すること。自分に自信がなければとてもヘルベルトに ja とは言えない。

 淡い靄を透かして樹齢何百年かの檜が並んでいる。その間の砂利道を心地よい踏み音を残して、何人ものジョギングの人々が走り去っていった。晩秋に近く、朝の冷気は彼らの吐く息を白く留めている。ヘルベルトとわたしは並んで小さな白い息を吐きながら、昨日行けなかった内宮の正殿への道を進んでいた。
 わたしは思い切って彼に尋ねた。兄が言うように、この一線を越えないとわたしは何を考えることもできず、自分を支えることもできないと感じたのだ。
「わたしの何があなたには必要なの。そして、わたしのどこをあなたは認めてくださったの。今までわたしはあなたの忠実な通訳であったとしか思えないのに」
 わたしはそう尋ねながら、言葉が微かに震えるのをどうしようもなかった。ヘルベルトが気分を害して、先日の申し出を取り下げるのではないかと思い、また、兄が心配したとおり、彼がわたしを従順な下女としか考えていなかった場合のわたし自身の挫折感が恐かったのだ。
「君のすべてだ、という答え方が私自身には一番ぴったりするのだが。しかし君に納得してもらえる答えを私は探さねばならないだろう。・・・・そう、まず一つは、君がすっかり自立した女性であることだ。自分の考えを持ち、自分の職責に最後まで責任を持とうとする人間だということだ」
 否定しようとするわたしを制して彼は続けた。
「まあ、聞きたまえ。このことを議論する必要はない。私が十年以上の間、君を見てきて私がそう判断したことなのだから。二つめの理由は、誤解を恐れずに言えば、君の若く健康な身体だ」
 成田や大阪の空港で、一年ぶりの彼を迎えたり、また、送る場面で、彼はわたしを抱きしめ、くちづけた。毎年のそのことがふっと浮かんだ。しかしそれは、ヴィーン留学中に誰かの家に招かれる度に経験してきてわたし自身慣れてしまっていることだ。
「身体が弱れば心も弱くなる。私が五十の私であれば、君に打ち明けるのにこれほど長くの時間、待つことはなかっただろう」
 ヘルベルトは立ち止まり、空を区切って高く伸びている巨木を見上げた。先の梢は上空の風にそよいでいるが、垂直に天に向かって伸びた幹は微動もせずに大地に深く根を下ろして立っている。
 彼にならって参道の檜を見上げながら、今までの三十八年間、わたしはいったい何をしてきたのだろうかという思いにわたしは捉われた。わたしは彼からすればまだまだ不完全な若木でしかないはずだ。一方、彼は澄んだ深い目で檜の太い幹を見上げて立っている。それはあたかも、深い年輪を内に刻んできた者同志が言葉を介さずに対話をしているかのような豊饒な時間に感じられた。その彼の斜め後から、彼の静かな横顔を見つめているうちに、胸の中に込み上げてくるひとつの感情にわたしは次第にひたされていった。並び立つ檜の巨木の列の中に佇むヘルベルトが、幾百年を超す古木に少しも見劣りすることなくそこに在るということに、わたしは圧倒され、感動をすら覚えていたのだ。
「老いると夜が恐くなる、とはよく言われることだ。妻が亡くなるまで、私はそんなことは感じなかった。たとえ死に近い姿で横たわっている妻ではあっても、すぐ傍に彼女の気配や寝息が感じられれば私はそれで豊かな眠りを得ることができたものだ。今は・・・・今の私は弱い心に陥っている。しかし、君と二人の生活が始まれば、私は以前の私に戻れると信じている」
 彼はそう言って、自身の弱さをもわたしに話した。しかしそこには同情を買おうという媚びもなく、諦めもなかった。彼はより良き生を求めている。そして、それをわたしと分かち合いたい、と言うのだ。
 わたしは彼の言葉を頭の中で幾度も反芻しながら、彼が見上げているその大木の木肌に掌を置いた。一晩冷気の中にあったのに、朝の光が差し込んでいるその樹皮は温かく、わたしにはそれが彼のぬくもりのように感じられた。彼はわたしを今まで見ていてくれて、一本の細い若木であるこのわたしを愛していると言ってくれているのである。
 兄が言うプライドといい、自信といい、それはすなわち、人より優れているということではないのだ。自分が自分を知っている、ということ。そして、相手が自分のことをありのまま正当に評価し、そのままの自分を認めていてくれる、と知ることなのだ。わたしは自分の中に、安らぎと言っていい、安堵の感情が広がっていくのがわかった。
 わたしがこだわった年齢のことなど何ほどのことだろう。ヘルベルトが彼の妻を送り、わたしが彼を送る。そしてわたしも誰かに送られて逝く。それでいいのではないだろうか。大事なことは、彼の手紙にあった「永遠の眠りに就くことが許される」その時までを、精一杯生きようとすることなのであろう。ヘルベルトがわたしに求めているのは、彼を看取ることなどではなく、彼の新しい旅、おそらくは終わりの旅になるであろうその旅程を、わたしとともに精一杯生きていきたいということなのだ。
 尊敬するヘルベルト・カルステンが、ほかでもないこのわたしを選んでくれたのである。何と名誉な、そして何と幸福なことだろう。
 高い鳴声に梢を見上げると、巣でもあるのか、大きな白い鳥が羽づくろいをし、遠くの一羽と鳴き交わしている。靄はもうすっかり晴れて、朝の光は砂利を敷きつめた広い参道を銀色に浮き上がらせていた。わたしは背筋を伸ばし、それからヘルベルトの腕をとると、参道の奥にある蒼古とした正殿へと再び歩を進めた。

   

四、本島

 伊勢から名古屋に出たヘルベルトとわたしは、二日後に大阪空港で再会する約束をして、そこでいったん別れた。彼は東京に旧知の友人を訪ねる約束があり、わたしは今回のことで母に会う必要があったからである。
 名古屋から新幹線に乗り、岡山で瀬戸大橋線に乗り換えて大橋を渡る時、昼間であればわたしの生まれた本島が間近に見渡せる。香川県丸亀市に属する本島は、瀬戸内海に散らばる塩飽諸島の中にあって、かつての塩飽水軍の本拠地があった島である。岡山側の下津井港から船で三十分足らず、四国の丸亀港からでも三十分で渡れる。兄もわたしも高校は本島の泊の港からフェリーに乗って、対岸の丸亀市内に通っていたものだ。
 すっかり暗くなって、わたしが木鳥神社そばの自宅に着いた時、母はまだ戻っていなかった。岡山大学附属病院の本島分院に長く勤めていて、婦長で定年を迎えたあとも、若い人がいないために嘱託で外来を助けている。今年で六十八になるはずだ。
 何年前の夏だったか、帰省した時に母の髪を見て驚いたのを覚えている。婦長として気を張って働いていた頃は髪を染めていて、いつも艶々とした黒髪で颯爽として見えたものだ。それが三ヵ月ぶりに帰省してみると、母の髪は一本残らず完全に白くなっていた。染めるのを止めたと言う。それと同時に化粧も止めて、乳液ぐらいしか使っていないと言っていた。最近では母の銀髪にも慣れたが、その頃から母の老いが急に進んでいるような気がする。
 母は買物をしてきたと言って、まもなく自転車で帰ってきた。左の中指と薬指に包帯を巻いている。
「どうしたんな、その指?」
「梨ん皮ぁ剥いとって、切ってしもた。前から指が痺れるけん、内科で調べてもろたら糖尿じゃ言われたんじゃがな。薬も飲まにゃいけんと。こん歳になったらなぁ」
 兄もわたしも、母と話す時は今でも讃岐の言葉が混じる。
「手紙、けさ来たんじゃあ。ドイツ人と結婚するて、ドイツに住むんな?」
 母はヴィーンにわたしが留学できることになった時にはむしろ喜んでくれて、病院中にも触れ廻ったものだが、今回は、帰ってこない渡欧の話に気がすすまないようだ。それに婦長として張りのある生活をしていた頃とは違って、老いの一人暮らしがこたえているのかもしれない。兄が五十歳になったら、島に戻るか島を引き払って一緒に横浜で住むということに兄と母との間では決まっているのだが、今の母の様子を見ていると、それまで一人にはしておけないようにわたしは感じた。
「そうすりゃ、ええがな。女は嫁に行くもんやして。便利になったけん、東京やら岡山も、ドイツも一緒やけんなぁ」
 わたしが返事にためらっていると、母は急に元気のある声でそう言ってくれた。
「見てごんな。こんまい鯛買うてきたけん、祝いしよなぁ」
 そうした母のやさしさが嬉しくて、その晩はヘルベルトについての話は出せなかった。
 兄が東京の大学に入ってから、中学、高校と六年間をこの家でわたしと母は、それこそ姉妹のように賑やかに暮らしたものだった。あの頃母を支えていたのは、自慢の息子である兄が期待どおりに大きく成長して医師への道に進んだことだった。本島の市役所支所に勤めていた父が出張先で事故死したあと、再婚せずに二人の子どもを育ててきたのは母の意地というものだったのだろう。それが兄の大学合格以来、母の生き方から肩を怒らせていたようなところが取れて、わたしにはただただやさしい母だった。
 思えば、わたしが芸大に入って津山に出てからの二十年間を、母はこの島で一人で送ってきたのだ。そうした母を置いて、津山などよりはるかに遠いドイツへ旅立とうとしている自分が、ずいぶんと非情な、親不孝の娘と思えてくる。母のものの見方からすれば、早く結婚して安心させるほうが孝行なのだと自分に言い訳をしてみたりもするのだが、母の指の包帯に目が行くと母の老いが痛ましく感じられて、自分で自分が責められるのだった。

 午前八時。朝の陽がやわらかい。窓からの景色もなつかしい以前のままだ。寂れたような閑かな畑の向こうに瀬戸内の海が光り、吸い込まれるような秋の空が島を包んでいる。
 土曜日で病院のない母と、買物がてら自転車で島を巡った。夏には帰らなかったからこの正月以来になる。港や勤番所などの観光コースに近いところはいいが、裏は寂れる一方だという。車の通る道から外れると所々に廃屋も見られる。
「国際的な音楽家ってぇ、年中、外国ばっかり出とん?」
「ほとんどヨーロッパ。日本にも毎年十月に来るんや」
「そうな」
 母の顔が一瞬明るくなった。やはり母は寂しいのだ。そのあと、ヘルベルトと暮らすことになる南ドイツの小さな町のことや、彼から聞いた再統一以後のドイツの暮らしのことなどをわたしが話し、母は嬉しそうに、そうな、そうな、と頷いていた。
 十一月に入ってからこちらでも晴れた日が続いているという。母に合わせて自転車をゆっくり走らせていると、先日からの張り詰めていた気持ちが次第に弛んで身体が解き放たれたようだ。それは学生時代、期末の考査を終えての帰省の度に感じてきた、あの緊張のあとの解放感に似ていた。しかし、わたしは母にまだ話していないことがあるのをすっかり忘れていたのである。
 昼前に家に戻って、昼食をいっしょにとっていた。
 手紙には書いておいたのだが、亡くなった彼の夫人が乳癌だったことを話していた。十年以上も苦しんだ果てに、今年の夏に亡くなったことをわたしが言うと、
「そうな、いくつやったん?」と、母はなにげなくわたしに尋ねた。
 わたしは、一瞬、言葉につまり、それから下を向いたまま、ぼそりと答えた。
「六十九」
 母からの返事がない。わたしは、気持ちの昂ぶりを必死に抑えながら、一気に続けた。
「お母さんと同じくらいじゃねぇ。ヘルベルトは、今年七十二歳。ドイツ人で姿勢がいいけん、見た目は六十くらいじゃけど、年寄は年寄じゃねぇ」
 そう言ってしまうと、自分の目蓋がなぜか熱くなっている。自分に自信があれば年齢の差のことなど、そう自分に言い聞かせながら、母にまで無理に心を張り通すことはない、というもうひとつの声も聞こえてくる。
 しかし、母の返事は意外だった。思いもしなかった言葉にわたしは気持ちが弛んで、涙を落としていた。
「そうな。もう、孫は無理やなぁ」
 兄のところは結婚十年で、子どもがいない。二十年間、一人で暮らしてきた母は、兄やわたしが母の孫を連れて、正月やお盆にこの本島に帰ってきてくれることを夢に見ていたのである。
 こちらを向いたまま静かに話しているらしい母の顔が見られなくて、わたしは俯いたまま、いくつもいくつも、涙がわたしの頬を伝って膝に落ちていくのを見ていた。
「ええ人ね? ほいじゃ、佐知子も幸せになるんなぁ」
 わたしは母の膝に泣き崩れていた。母にすまないとも思い、ヘルベルトのことを母が、いい人ね、と言ってくれたことが嬉しかった。そして、こんなにもいい母を置いて、ドイツに渡ろうとしている自分がなんともやるせないのだった。
 母は、わたしが子どもの時になりたいと言ったことのある仕事を順に挙げて、やっぱり最初の希望どおりになった、と笑った。
「そうな、佐知子も花嫁さんになるんな」
 母の膝の上でそうやって髪を撫でられていると、子どもの頃のようだ。母にとってはわたしはいつまでも子どものままなのだろうか。
 今、母の老いを兄に任せて、わたしはヘルベルトの老いを送ろうとしている。これでいいのだろうか。いや、これでいいのだ、とわたしは思った。伊勢神宮の参道で感じた思いが、また、蘇ってくる。ヘルベルトが彼の妻を送り、わたしが彼を送る。わたしの父は母に送られ、そして母は兄たちに送られて逝く。それでいいのだ。それでいいのではないだろうか。子どものない兄たちも、そしてわたしも、どこかで縁のできる誰かに送られて逝くだろう。それでいいのだ、それでいいのだ、とわたしは幾度も心の中で繰り返した。そして、母の膝の温もりを頬に感じながら、いつの頃かわたしは心地よい午睡に落ちていった。

   

五、終章

 きょうも穏やかな日和りになった。岡山駅のホームで買った新聞を見ていると、桜の写真がカラーで大きく出ている。先日来の暖かさに、和歌山県の紀伊田辺という町の桜が、一本、花開いたという。わたしはヘルベルトから聞いたことのある、ヒマラヤの麓の秋の桜を思い出した。新聞の桜は疎らに咲いているだけで華やかさはないのだが、花のひとつひとつは春の桜と同じく、清楚な姿でフィルムに納められている。
 心地よい秋の陽が差し込む新幹線の車内で、桜の花の載った新聞を広げたまま、わたしはこの一週間を陶然と振り返った。それから、きのうの母の言葉を思い出したのだった。
 母は病院で多くの老いを見ている。老いるということは恐いことだと母は言う。性格もわがままになるし、昔の思い出の中に帰っていく人も多い、と。
「わたしは、お父さん亡うなってから一人でやってきた。可愛げのない女じゃ、言われてきたことじゃろと思う。それが良かったんかどうか、わからん。じゃけん、佐知子は・・・・ま、これはひとりごとじゃけん」
「六十も七十も、男ん人は男じゃけん・・・・」
 どういう話の流れで出てきた話だったか、きのうの母の様々な言葉が次から次と浮かんでくる。
 母はヘルベルトの老いに直面するであろうわたしを心配しているのだった。しかしわたしは、社会の仕組みが日本とは根本的に違って、おとな中心の社会であるドイツに住むことで、そうした老いの問題にあまり心配は持っていない。ヘルベルトは言っていた。「老いや病は私が闘うものであり、医師や看護婦がその闘いを手伝ってくれるだろう。私は君に、そうした仕事を求めてはいない。私は君に、私の妻になってくれるようお願いしている」と。
 今年の集中講義の最後の講演で、音楽と演奏者としての生活について話した時に、ヘルベルトは老いについて、こう語っていた。音楽家にも訪れる老いは、目を背けて遣り過ごすものではなく、人の生活における最後の時期のひとつの特性として見つめていかなければならないものだ、と。
 そう、年齢はヘルベルトのもつ特性の一つに過ぎないのだ。わたしはヘルベルトという大きな器に包まれているようなものなのだろう。伊勢での二日目の夜、ヘルベルトの胸に初めて抱かれながら、彼の話すドイツ語をまるで音楽の旋律のように聞き惚れていた自分を思い出す。あの夜、彼は大切な宝物でも抱きかかえるように、わたしを包み込んでくれたのである。
 その一夜が明けて、名古屋へ向かう近鉄電車の中で、彼は、結婚してカナダにいるという一人娘との関係から、住居の所有関係、資産のこと、現在の年金などの所得額、宗教、思想信条にいたるまでをわたしに細かく説明した。
「妻が亡くなってからはこのヴァイオリンが一番の財産だったが、これからはサチコが一番だ」
 いたずらっぽく、そう言うヘルベルトの笑顔が嬉しかった。彼は剛直な音楽家ではあったが、誠実であり、また純真でさえあったのだ。
「人は、自分で自らの生を狭めようとは考えないものだ。私も君が自らの生を拡げ、展望あるものとする決意を持っていることと信じている。そして私との生活が君のその展望に沿っていて、それを認めた上で私の申し出を受け入れてくれることを私は希望する。私は君の人生の成功のために、すべての、実利的なことに限ってではなく、すべての努力を惜しまないことをここに誓いたいと思う」
 この数日でわたしを取り巻く一切が、以前とは変わって見えていた。今までは自分の前をいつもどおりの時間が通り過ぎていただけだったのが、今は、時間の流れの中にわたし自身が、自分の目的地を持って漕ぎ出したように感じられるのだ。今までの三十八年間は、すべて、今の自分のための準備期間だったのだとわたしは思った。

 大阪空港の国内線の出口でわたしはヘルベルトを待っていた。羽田から彼が乗ってくる便が着いて、次々と搭乗客が吐き出されてくる。母がわたしたちの結婚を喜んでくれたとわたしは彼に早く告げたい。そして、彼からの求婚に改めてわたしは ja と返事をしたいのだ。
 しかし、しばらくして降りてくる人の波がすっかり退いた時、わたしはその場に呆然と立ち尽くした。ヘルベルトが降りてきていないのである。
 東京で何があったのだろう。あれは一時の気紛れだったといって、ドイツへ帰ってしまったのだろうか。それとも、彼の身体に何か変調が起きたとでもいうのだろうか。わたしは焦り、それが怒りに近い感情に変わっていくのをわたしはどうしようもなかった。わたしをさんざん悩ませ、母にもつらい思いをさせたのに、いったいこれはどうしたということだろう。
 しかし冷静になってみれば、ヘルベルトに悪意など考えられない以上、こうして彼を待ち続けるしかないのだ、とわたしは思った。
 しだいに白くなっていく頭の中で、秋に花が咲いたという桜の木が思い浮かんだ。新聞で見た寂しい桜ではなく、満開の花の重みに枝が垂れるほどの勢いのある桜。そして、その花の下に蒼白な顔で横たわるヘルベルトの幻影が現われ、消えてくれない。血の気が失せて白く乾いたその肌はヘルベルトの老いをいやが上にもわたしに押しつけてくる。・・・・しかし、わたしは不思議と寂しいとは感じなかった。そこにヘルベルトがいるのである。たとえ彼の身体がこの世界から消えてしまったとしても、彼を愛し、彼に愛された記憶を、わたしの心の中に彼はしっかりと残していってくれたのだ。
 かつてない、不思議な、喜びであった。
 これでわたしは生きられる、とわたしは思った。ヘルベルトと出会うために、三十八年間のわたしの人生があったのだと、改めてそう思った。もう、年齢も、名誉も、資産も、何もかもがどうでもいいことなのだった。
 わたしはヘルベルトが欲しい。そう、わたしはヘルベルトが欲しいだけなのだ、と思った。すると、涙が止めようもなく溢れてきた。ヘルベルトを愛しいと思った。生きていて欲しいと、わたしは初めて自分ではない何かに祈った。ひとりの人を、これほど愛しいと思ったことは今までなかった。この涙が最後の一滴まで落ちてしまって、この目が干上がるまで、わたしはここにこうして彼を待っていようと思った。
 と、その時、わたしの目の前にぼやけた顔が笑って立っていた。
「道草を食っていたら逆に遅れたようだ。ひとつ前の便で着いていたんだよ、早くサチコに会いたくてね」
 その顔は懐かしいドイツ語で、いたずらっぽく、そう話した。
(生きていた。よかった)
 わたしは小さく日本語で「ばか」とつぶやくと、涙も拭かずにその顔に向かって抱きついていった。

(了)

『季刊作家』No7(1993.9月)

 

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