パラレル聖地 -愛玩-
6. がんばってお留守番
うまいこと雄火亜を丸め込んだ珠里亜須は、今度はそばで突っ立っていたペットに向き直った。
「そう言えば、ペンを貸してくれと申したな。」
「ああ」
「あいにくだが、私のものは貸せぬ。ペンは自分のものを使うことだ。書き癖がつくので貸し借りはしたくない。」
「………………………たくさん持っているくせに。けち。」
「けちで結構。早く取ってくるがよい。」
「もう昼になるし、そういうことならば署名は昼の休憩の後でする…」
ペンの一本くらい、かわいいペットに下げ渡してやろうとは思わないのだな、珠里亜須は。……はっ! ひょっとして、かわいがられていないのだろうか。もしかして、かわいくないのか私は?
しゅーーーーーん。
見るからに元気をなくしてどんよりしてしまった鞍美須だったが、珠里亜須は気にしないことにした。あまり真面目に相手をしているとまた疲れることは必定だからだ。今までの経験から適当にいなすのが鞍美須とのつきあい方の極意であるということを知っていながら、つい真剣に相手をしては疲れている珠里亜須、今日はもう鞍美須をかまうのはほどほどにしておこうと決めた。朝からさんざんに振り回されて、すでに気力・体力共に残りわずかだし。誰かに回復魔法をかけてほしいほどの疲れを感じている彼としては、午後からの仕事に備えて気力も体力も温存しておきたかった。
話が途切れたところで、筆頭守護聖が完全に二人の世界に浸っていた間ずっと控えていた炎の守護聖が負けてはならじと割って入った。
「…あのー…」
「ああ雄火亜、まだいたのか。」
珠里亜須は雄火亜の存在をすっかり忘れていたらしい。決して存在感の薄い方ではなく、場の中心でいることが多い雄火亜にとって、その場にいながら忘れ去られていたことはいささかショックだった。が、ふるふると頭を振って弱気を追い払うと、レディ相手の時のようなとっておきの笑顔で本来の目的を果たすべく口を開いた。
「ランチをご一緒にと思って伺ったのですが。」
「そうだな、行くとするか。…鞍美須、そなたはどうする?」
案外あっさりと珠里亜須はうなずいた。それは良かったのだが、鞍美須までくっついてくるのは誤算だ。雄火亜だって敬愛する首座と二人きりの世界を満喫したいのだ。
げっ。鞍美須さまもご一緒ですか、珠里亜須さま!?
「………………………私は行かぬ。」
相変わらず何やらすねすねモードに入っている鞍美須は、雄火亜にとっては願ったり叶ったりの返事をした。それを聞いた珠里亜須、妙にすねている鞍美須のことはもう放っておくことにした。
暗く沈んでいるのはどうせまた格好だけだ、気にすることはない。茶会にだって顔を出すことがまれな鞍美須だ。雄火亜も同席しての昼餉が嫌だというだけのことだろう。この上あれの機嫌をとったりして振り回されっぱなしでは首座の威厳が…。
ああだこうだと自分に言い訳をしているのは、多少良心が痛むからに違いない。
「では雄火亜、行くとしよう。」
やった! 珠里亜須さまお一人だ! 鞍美須さまについてこられたらどうしようかと思ったが、助かったぜ!
今回は雄火亜が心の中で勝利の雄叫びを上げつつ珠里亜須と共に執務室を出ていって、鞍美須は二人の後ろ姿を見送る羽目になった。無論のこと、雄火亜は珠里亜須には気づかれぬように鞍美須に勝ち誇った目を向けるのを忘れることはなかった。
さて、光の執務室にひとり取り残された鞍美須であったが、このままふてくされ続けるのは愛玩動物にはふさわしくない態度であろうな、と意外に前向きに考えていた。
やはりペットであるからには飼い主を癒す存在でなくてはならぬ。ここはやはり、力いっぱい飼い主への愛情表現をすることだ。私にだけは素の自分をさらけ出しても大丈夫だという安心感を与えなくてはならないのだ!←テレビドラマからの受け売り
小一時間後、珠里亜須が戻ってきた。扉を開けると同時に待ちかまえていた鞍美須に「珠里ちゃんお帰りっ!」飛びつかれて、珠里亜須は後ろざまに倒れた。当然その上には鞍美須が乗っかった状態だ。扉を開けるのと飛びつかれたのが同時だったので、倒れ込んだのは回廊側。時は昼の休憩時間。つまり。闇の守護聖に押し倒された首座がもがいているのがあたりを行き交う人々の目にさらされる結果となった。何しろ体格は互角、いやむしろ相手の方がやや大きい。そんなのにいきなり飛びつかれたらよろけて倒れるのも当然だ。
「鞍美須!」
叱責の声に、珠里亜須に乗っかったまましゅんとなってぼそぼそつぶやく鞍美須。
「お前が帰ってきたのがうれしかったのだ」
「だからといって、そのように大きななりで飛びついてきては危険ではないか」
「お前がいなくて寂しかったので、つい…」
「それより、早くどかぬか!」
人々の好奇の目が痛い。倒れたときにぶつけたひじや腰も痛いし、上にいる鞍美須も重い。ペットを押しのけた珠里亜須は素早く立ち上がると、黒い塊を自室に押し込みながら自らも入り、扉を閉め、ついでに衝動的に鍵までかけてようやく一息ついたのだった。
「『珠里ちゃん』と呼ばない約束ではなかったのか!?」
「そう堅いことを言うな。」
「人目のあるところでは絶対にそれを口にしてはならぬ!」
「…ならば…人目のないところで呼ぶのはよいのだな。(にまっ)
よし決めた。特に交換条件は出さぬ代わり、二人きりの時は珠里ちゃんと呼ばせてもらう。」
妙な条件を付けられるよりは数段いいかもしれないと思った珠里亜須は、うなずいた。
「二人きりならば……まあ良い。」
「そしてできれば私のことも鞍ちゃんと…」
「それは遠慮する。」
「相変わらず冷たいのだな……」うるうる。
「泣くなっ!! いい年をした大人がみっともないではないか。」
「だが」寂しかったんだもん。珠里亜須が雄火亜と行っちゃって、とっても寂しかったんだもん。一生懸命お留守番して、珠里亜須が帰ってきたのがうれしかったから歓迎しただけだもん。なのにそんな冷たいこと言わなくても…。
うるうるうるうるうるうるうるうるうるうるうるるるるる〜〜〜。
今にも涙がこぼれ落ちそう。
「あああっ!」
思わずハンカチで涙を拭ってやってしまう、意外に世話焼きな飼い主の珠里亜須さま。かわいがられていることを実感して、当然ペットな鞍美須は大喜びだ。また飛びついて(ただし今度は押し倒さないように加減して)、ほっぺたにちゅー、「珠里亜須、大好きだ」とやっている。
「しかしな、そのように寂しがるくらいなら、なぜ共に来なかった?」
口に出さなかった鞍美須の心の声は涙と共にしっかりと珠里亜須に伝わっていたらしい。今朝は「珠里亜須のそばにいたい」という気持ちを伝えることができなかったというのに、進歩したものだ。なんだか今回は以心伝心な二人である。飼い主とペットの間に強い絆ができつつあるのだろうか。
鞍美須は抱きついたまま珠里亜須を見る。至近距離で目と目が合った。
なぜと言われても……雄火亜がいたからな。珠里亜須は私ひとりのものだ。他の奴とシェアするなんて、とんでもない。
という内心の声は内心の声のまま口には出さず、珠里亜須に悟られるようなへまもせず(何しろポーカーフェイスは元より得意中の得意、伝えたいことだけを目で語る技を習得中)、押し黙ったまま。
「また何も言わぬ気か。言わなくともよいことは言って、尋ねたときにはだんまりでは私も困る。」
「もうよいではないか、済んだことなど。…それより、散歩に行こう。」
相変わらず抱きついたままの鞍美須は、およそ彼の日常からは考えられないことを提案したのだった。
7. 楽しいお散歩タイム
はい〜? いま何とおっしゃいました?
珠里亜須はふしぎなことを聞いて理解不能、不信感いっぱいですという目になった。鞍美須は、珠里亜須の首に回していた手を解くとぽんと肩に載せ、青い瞳を見つめながらもう一度かんで含めるように言った。
「さ・ん・ぽ だ、さんぽ。散歩に行こう。」
「…………そなたが?」
外出嫌いのそなたが散歩だと?
「まさかとは思うが、3歩だけ歩いて『さんぽだぞ、さんぽ♪』などと言うつもりではあるまいな?」
「下らぬシャレだ…。ああ、お前のシャレの良し悪しを評定している場合ではなかった。ペットは散歩に連れて行くものだと言っているのだ。」
と、珠里亜須の目の前で手をひらひらさせた。もしかしてそれって。
「手をつないで散歩に行きたい、と?」
「よくわかったな。さすが首座殿、シャレは下手だが物わかりは悪くないようだ。」にぃぃっ。
何しろ、飼い主の運動不足を解消してやるのもペットの大切な務めだからな。
どちらかと言えば運動不足は鞍美須さまの方じゃないのか、と突っ込んで差し上げたいところだが、あいにくとご本人さんはペットとしての使命感に燃えている。これでも珠里亜須の健康を心配しているつもりであるらしい。
いつも執務机にへばりついて書類の山に埋もれている珠里亜須は絶対に運動不足だから、この私が何が何でも散歩に連れ出して運動不足解消の一助となるのだ! こんなに飼い主の健康に気を配るなんて、ああ私は何と良いペットだ!!
「だから行こーよー、珠里ちゃん。」
またもや珠里亜須の首っ玉にかじりついての発言がこれである。精いっぱい甘えてみた、らしい(あ、頭痛が…)。
こ、こ奴……自分が大人だという自覚はないのか!? 大人で、守護聖だぞ。しかも年長の。筆頭の。もう少し威厳のある言動を心がけてもらいたいものだ!!
「ばかを申すな。もう昼の休憩時間も終わるというのに…」
「よいから行こうと言っている。」
珠里亜須に手を取ってもらうのを待っていてはいつまでも埒があかないと、鞍美須は首に回した手を放すと、自ら珠里亜須の手をつかみ、すたすたと光の執務室を出て宮殿の回廊を歩き、庭園の方へと向かったのだった。珠里亜須はといえば、ただ手を引かれるに任せていた。もう反論したり反撃したりするだけの何かは、珠里亜須の中のどこを探しても残っていなかったのである。
闇の守護聖は先に立って珠里亜須の手を引いて歩いていく。散歩に行きたがるペットに半ば引きずり出されるように出かける飼い主というのも世間ではありがちかもしれない。そして今の珠里亜須もまさにその状態にあると言えた。ただ、彼のペットが闇の守護聖である点が少々変わっているというだけだ。世間的にどう見えようとも、彼ら二人の間ではこれは「ペットの散歩」なのだ。
鞍美須は珠里亜須と手をつないだまま回廊を抜けて庭園へと向かった。宮殿の要所を固める衛兵は敬礼し、あたりを行き交う事務官や女官は静かに黙礼をして通り過ぎていくが、この二人の様子はどう見たって「光の守護聖がペットを散歩させている」とはとても思えず、興味津々で筆頭守護聖二人の様子をうかがっていたのだった。
人々の好奇の目にさらされながら公園までを歩くうち、聖地特有の明るい日差しに鞍美須は疲れを感じてきた。濃色の服は太陽エネルギーをしっかりと吸収してくれるので暑い。日が落ちてから歩き回ることはけっこう多い彼だが、昼日中から外に出ることは滅多にない。慣れない暑さにだんだんと歩く速度も鈍り、ついには立ち止まってしまった。
「…珠里亜須」
「何だ?」
「疲れた。」どよどよどよ〜〜〜〜ん。
だから言ったではないか。そもそもそなたが昼間に散歩に出ようなどと言うこと自体が間違っているのだ。
「仕方のない奴だな。しばらく休むとしよう。」
こくり、うなずく鞍美須。
「カフェテラスにでも行くか?」
すでに執務時間になっているが、ここまで来てしまったのだから茶の一杯でも飲んでから帰ろうか、と珠里亜須らしくないことを考えていたりするのは、ペット効果なのかもしれない。実際の話、現在のところ差し迫った危機があるわけでもなし、それほどがんがん仕事をしなくてもかまわない、ということもある。だが鞍美須は首を振った。そして曰く。
「もう歩けぬ。カフェテラスまで行くのは無理だ。そこで休みたい。」
と、遊歩道脇の芝生を指さしたのだった。
疲れたのでもう歩きたくないというのも嘘ではないのだが、実は鞍美須の脳裏にはドラマのワンシーンがくっきりと焼き付いている。ぜひマネをしたい一こまは、「芝生にマットを広げてお弁当を食べ、飼い主に膝枕をしてもらってお昼寝」、これである。お弁当はさすがに調達できなかったが、行楽用のマットはちゃんと持ってきている。何しろ最初に珠里亜須の執務室に押しかけたとき、クッションを3個も隠し持っていた鞍美須だ。たたんだマットなんかちょろいもんである。
さて、鞍美須は芝生に入ると持参のマットをどびららら〜〜〜っと開いて敷き、その上に座った。「お前も座るがよい」なんて言って、自分の横を指し示している。珠里亜須は、鞍美須とは別種の疲れを感じていたので思わずそこに座り込んだ。ふぅ、と息を吐き出すと、疲れた声で珠里亜須は言った。
「そなた、用意がいいな。」
「だろう?」
鞍美須、得意満面。まるでほめられて嬉しくてたまらない子どものような顔に、珠里亜須は脱力した。別にほめたつもりではなかったのに、鞍美須の笑顔に毒気を抜かれ、挙げ句あろうことかあるまいことか、「ペットになった鞍美須は……もしかしたら、ちょっとだけ、かわいいかも」なんて思ってしまい、そう思ってしまったことでますます脱力感に見舞われた。
このように大きな男がかわいいことなどあるものか! 第一鞍美須はいつも職務怠慢で、ぼんやりで、そのくせ偉そうで、人を小ばかにしたように笑って、良いところなどひとつもない……ことはないな。何しろ鞍美須だ。名前が良いではないか。
いや、名前だけではないぞ。何だかんだ言っても、守護聖として求められている仕事を完全に放棄してしまうことはない。それに、たまには頼りになることがないでもない。ときどきは優しい場合もあるし…かわいいかどうかはともかく……はっ、何を考えているのだ私は!? どうかしている。疲れているからいらぬことを考えたりするのだ…。
8. 光の守護聖の初体験
二人並んでレジャーマットに腰を下ろして陽光を浴びながら、ぽつりと鞍美須が言った。
「良い天気だな、珠里亜須。」
それに対して、しばらく芝生で並んで座っているうちにすっかりくつろいだ気分になってしまった珠里亜須から、彼にしてはどこか間延びした言葉が返る。
「ああ…そうだな。」
「ここで食事をすればさぞかし気持ちが良かろうな。」
と、さんさんと光の降り注ぐ公園の青々とした芝生の上で、鞍美須が彼らしからぬ発言をした途端。
ぐぅっ。
不穏な音がした。鞍美須の腹部から。これって、もしかして腹の虫?? 食事、という言葉に触発されたのだろうか。
それにしても、だめじゃん鞍美須さま。ネオロマンス界の住人であるあなたは、腹の虫なんかには黙っててもらわなくてはいけないのに。いやそれどころか、腹の虫を飼っていること自体、許せないものがある。
といった天の嘆きの声をよそに、鞍美須の腹の虫は再度しっかりと存在を主張したのだった。
ぐううううううっ。
こちらもネオロマンス界の住人である珠里亜須、聞き慣れない音にしばし首を傾げていたが、やがて胸落ちしたように大きくうなずくと、おもむろに尋ねた。
「……鞍美須、そなたもしかして……空腹か?」
「そう言えば昼を食べそこねたような…。」
「食べたかどうかくらい覚えているであろう。食べたのか食べなかったのか、はっきりせぬか。」
「…………食べてはおらぬ。」
「これだからそなたは。食事はきちんと摂るものだ。そのようないい加減な食生活だから顔色が悪いのではないか?」
「別に…一食抜いたとてそれで死ぬわけでもなし…」
めんどくさそうに言いながらも、珠里亜須が心配してくれるのがうれしい鞍美須である。
「食は大切だぞ。自分の体のことではないか。自己管理ができないようでは困る。」
「だが…お前が雄火亜と行ってしまったのでいろいろと考えてしまってな…」
食事のことなどすっかり忘れていたのだ、と言われて、珠里亜須の心に少しばかりの罪悪感が芽生えた。もともと鞍美須を置いて二人で食事に出ることに後ろめたさを感じていたということもある。鞍美須が昼を抜くことになったのは私のせいだな、では私が何とかしてやらねば! と責任感がめらめらと燃え上がった。
「ここで少し待っていてくれ。宮殿の厨房は遠いゆえ、カフェテラスで何か用意してもらおう。」
「食事の回数が足りないからと言ってどうということもなかろう…」
「だが私はそなたの飼い主だからな。食事にも気を配ってやるべきだったのだ。私に任せるが良い。」
もともと責任感の塊のような珠里亜須である。半ばごり押しで居着かれたペットとは言え、ペットであると彼自身が認めてしまった以上は放っておけないものらしい。珠里亜須は立ち上がるとカフェテラスへと向かおうとした。…が、覚えのあるぐんと引っ張られる感触に振り返ると鞍美須に正装のすそに近いあたりをつかまれていた。この手を放してなるものかとばかり、しっかりと握りしめられている。そんなにぎゅっと握ったらしわになりそうってほどに力がこもっているのが見て取れた。珠里亜須、ため息。
「何か言いたいことでもあるのか。」
「食事よりもお前がそばにいてくれる方が良い。」うるっ。
あっこら、たかがそれだけのことで瞳を潤ませたりするな、いい年をした大人が!
「すぐに戻る。そしてそなたが食べ終わるまでここにいる。だから放せ。」
「雄火亜と出かけている間、ずっと待っていたのだ、これ以上待つのはいやだ。」うるうるうる。
あああッ、また!! 泣くな鞍美須!!
「私にはそなたに食べさせる責任がある。疲れていてカフェテラスまでは歩けないのであろう? ここで待っているのだ、よいな。」
「すぐに…戻ってきてくれるのだな?」うるるるるる〜〜〜。
「約束する。私は約束を破ったりしないことを知っていよう?」
言われて鞍美須は服をつかんだ手を放して、「早く帰ってきてくれ」と潤んだ瞳で珠里亜須を見つめた。
「あ…ああ。」
何やらうろたえ気味に答えながらその涙を拭けとハンカチを手渡すと、珠里亜須はそそくさとその場を後にした。
なぜうろたえる? 私は常に冷静なはずだ。
しかし珠里亜須さまも自覚していらっしゃるとおり、彼はすっかりうろたえていた。すがるような目で自分を見た鞍美須。あれはあのように頼りない風情だったろうか…。
そして、すっかり忘れていた昔の倉美須を思い出す。
聖地に来たばかりの頃の倉美須は、憂いを帯びた瞳で儚げな少女のような風情で、見知らぬ大人に囲まれておびえているようだった。守護聖であるのならばもっと堂々とせよ、と歯がゆく思う反面、この者は私が導き守ってやらねばならぬと思ったものだった。それがいつのまにやらすっかりふてぶてしく成長して今のような有様となったのだが、実はあれは変わってはいなかったのか?
昔の倉美須の面影は、彼の責任感ばかりか保護欲までそそった。鞍美須には知られているように、実はけっこう情の深い世話焼きさんなのである、この首座様は。本人にそのつもりはなくても、だんだんと鞍美須の思うつぼにはまってきてしまった珠里亜須。
とにかく、昔のことなどあれこれと考えながら珠里亜須はカフェテラスへと急ぎ、「軽い食事の持ち帰りはできるか?」と尋ねてカフェテラス従業員を恐慌に陥らせた。
だって。とっくに執務は始まっているはずの時刻である。そこへ、仕事一途なはずの光の守護聖御自ら現れて、テイクアウトのご希望である。
「あの…こちらで召し上がってはいかがですか。」
「持ち帰ることはできぬか?」
「お持ち帰りいただけないということではございません。ですが、ここまでいらっしゃったのでしたら召し上がって行かれてはと思いまして。できたての方がおいしゅうございますし。」
まさか首座がわざわざ他人の食事を調達に来たとは思いも寄らない従業員は、親切心からそんなことを言った。
「いや、別の場所で食すのでな…」
鞍美須の昼食であるとは何となく言いにくくて言葉を濁す首座に従業員は首を傾げつつ、「ではクラブハウスサンドイッチなどはいかがでしょう」と提案した。珠里亜須は少し考える。
クラブハウスサンドイッチ…それならば確かあれの苦手な食材も入っておらぬな…ふむ。
で、「それはよいかもしれぬ」との仰せだったので「一人前でよろしいのですね? では急いでご用意いたしますので、こちらにおかけになってお待ちください」と手近な座席へと案内したのだった。
「ああそれから、紅茶も所望したい。飲み物の持ち帰りというのは無理であろうか。」
「もちろんご用意はできます。しかし、お申しつけいただいたらどこへなりとお運びいたしますのに…」
「それには及ばぬ。私でも持ち運びができるようにしてもらえれば、それでよい。」
光の守護聖様はお一人でピクニックでもなさるのだろうか、とカフェテラス従業員一同が何となく浮き足立って、椅子に腰掛けて待っている珠里亜須をこそこそとうかがい見たりなんかしたが、なぜ彼が一人でカフェテラスまでやってきてテイクアウトを頼んだのか、わかる者は誰一人としてなかった。
一方、珠里亜須が食料を調達しに行っている間、鞍美須はゴキゲンで待っていた。何しろ、自分で用意しなくても珠里亜須自らが公園でのピクニック用のお弁当を持ってきてくれるというのだ。彼の夢であった「公園でお弁当」である。まさか叶うとは思っていなかった夢が珠里亜須のおかげで実現しようとしている。ちゃんと食べ終わるまでそばにいてくれるって言うし。
珠里亜須もようやく私を愛玩してくれる気持ちになったらしい。
ああ、ペットとはよいものだな…。
さっき泣きそうになっていたのは演技だったのか、はたまた単に気持ちの切り替えが早いだけなのか。とにかく、気分は最高! な鞍美須なのであった。
9. うきうきわくわく、お弁当
うきうきと鞍美須が待っているところへ、紙袋をぶら下げた珠里亜須が戻ってきた。中にはサンドイッチとフレンチフライのセットとふた付きの紙コップ入りのアイスティーが入っている。これまで珠里亜須は利用したことがなかったが、嵐泥など、よくふた付き紙コップ入りのコーラのテイクアウトを利用している。
「待たせたな。」
「いや、さほどでもない。」にこにこ。
何だか妙に笑顔がさわやかな鞍美須である。何しろ待っている時間すら楽しんだのだ。うれしいことを待っている時間というのは、それ自体が楽しい。鞍美須はこれほどに楽しい待ち時間を経験したことはなかった。
いやに愛想のいいペットに驚きながら、珠里亜須は紙袋の中身を広げ始めた。さすがに聖地のカフェテラス謹製、光の守護聖様お持ち帰り特別パックだけのことはある。サンドイッチには高級な材料がたっぷりと使われ、付け合わせのフレンチフライどっちゃり、添付のケチャップもいっぱい、Lサイズのカップにアイスティーがあふれんばかり、おまけにお手拭き用ウェットティッシュや紙ナプキンもたくさんある。なんか、気合いが入ってる感じなのだった。
「これはおいしそうだが…少し量が多くはないか?」
「カフェの者は『一人前』と確認していたはずなのだが…」
二人前はたっぷりありそうなそのセットに首を傾げる珠里亜須に対し、「たくさんあるのだから一緒に食べよう♪」台詞に音符つきで、鞍美須はますますご機嫌になった。
「だが私はもうすでに昼餉は済ませたので、空腹ではないからな。」
「堅いことを言うな。この際空腹かどうかは関係ない。せっかくこのように気持ちの良い日に公園に来ているのだから、少しくらいよいではないか。それに一人で食べていても寂しい。せっかくお前と一緒に来たのだから、共に食べたいのだが。」
すでにお腹がいっぱいの珠里亜須は困惑顔。
「そのようなことを言い出すくらいなら、なぜ私たちと共に行かなかったのだ。」
言われて鞍美須、どよーーーーーーーん。
「だって…」雄火亜と一緒なんていやだったんだもん。
「だってもかってもあるものか。そもそも、そなたが共に行くのを拒んだのがいけないのではないか。」
「…そのように怒らなくても…。せっかく楽しかったのに。」うるうるうるっ。
どうも、相当に涙腺がゆるんでいる闇の守護聖である。今日はいつになく感情の起伏の激しい日で、喜んだり悲しんだり忙しい。そして珠里亜須はと言えば、鞍美須の涙に弱いらしくまたおろおろとあわてだして、「私は怒ったわけではない」と取り繕い、「本当に?」と潤んだ瞳に見上げられて「ああ本当だとも!」と力強くうなずき、「ならば共に食べてくれるか?(うるるるるるっ)」と問われて売り言葉に買い言葉で(ん?)、「もちろんだ! 食べればよいのであろう、だから泣くなッ」とほとんど悲鳴のような声を上げて、鞍美須の涙を阻止しようと必死になるのだった。
「では一緒に食べてくれるのだな(にぃぃぃぃぃぃっ)」と、鞍美須の満面の笑みで上記の騒動が収まったところで、二人は付属のウェットティッシュで手を拭いた。サンドイッチを一つつまみ上げて口に運ぶ鞍美須。
にこにこにこ。うれしそうである。
もそもそもそ。食べている。
が、どうもその食べ方が、良く言えばマイペース、もっとはっきり言えばのろくさしているのが珠里亜須の気に入らない。一緒に食べると宣言した手前、自分もフレンチフライをつまみながら鞍美須が食べるのを見るともなしに眺めていたのだが、見れば見るほどいらいらが募ってくる。
ええい、もっとてきぱきせぬか。なぜそなたはこのように動作がゆったりしているのだ! ←お上品な光の守護聖様は「のろま」という罵り言葉を知らないらしい
やっとこさ鞍美須がひとつを食べ終えたところで、思わずサンドイッチに手を伸ばした珠里亜須、それを鞍美須の目の前に突き出した。
「早く食べぬか!」
ぱくり。鞍美須はそれにかぶりついた。
「はい、お口あーんして」とは言ってくれなかったけど、珠里亜須はペットに手ずから食べさせてくれる気になったらしい、私は果報者だ、と喜んでいる鞍美須である。珠里亜須としてはそんなつもりではなかった。差し出したサンドイッチを手にとって食べるものとばかり思っていたのに、いきなり口に入れられるという予想外の行動に出られて、珠里亜須は眩暈を感じた。
「…自分で食べぬか。」
サンドイッチをくわえたまま、「え?」という目で珠里亜須を見る鞍美須。その表情がなんかもう、強烈にまぬけで笑いがこみ上げた。ひとたび笑ってしまったら、いらいらしていた自分のことも笑い飛ばせる気分になった。
そうだな、この午後はペットにつき合うのも悪くはない。幸い急ぎの仕事も入ってはおらぬしな…。
根が仕事人間の珠里亜須は、すっかりペットになってしまった鞍美須の面倒を見るためにここにいることを約束したものの、早く執務室に戻らなくてはという気持ちをぬぐい去ることができなかったのだが、開き直ると心にも余裕が出て、鞍美須がゆっくり食べているのも気にならなくなった。
一口分をかじり取った鞍美須、咀嚼しながら「お前が食べさせてくれるのかと思ってうれしかったのに」と、目を伏せてしゅんとしている。何だかかわいそうになってしまったが、場所が場所だ。
どうせ食べ終わるまでここにいるのだ、食べさせてやっても別にかまわぬのだがな…。しかし。
「まあその…ここは人目もある、時間をかけてもよいから自分で食べることだ。」
「人目なぞ気にするほどのものではない。」
そなたは気にならぬかもしれぬが、私は気にするのだ!
午後の公園は人気は少ないが、全くの無人というわけでもない。公共スペースだから、誰が来るともわからない。大人として、守護聖として、節度を保つべきであろう! というのは珠里亜須としては譲れないポイントなのだった。
10. 闇の守護聖、うろたえる
相変わらずもそもそのそのそとサンドイッチやフレンチフライを食べていた鞍美須だったが、「のどが渇いた…」と言い出した。
「ああそれならば、ここにアイスティーがあるではないか。」
と、Lサイズのカップを手渡す珠里亜須。透明な薄いプラスチックのふたがついた紙製のそれは、二人が初めて遭遇する代物だった。紙袋に包まれたストローと、ガムシロップとミルクが添えられている。それらを前に二人は顔を見合わせた。
「どうやって飲めばよいのだ?」
「この私としたことが。使い方を聞いてこなかったのは失態であったかもしれぬ。だが、特に難しく考えることもなかろう。ふたを外して飲めばよいのではないか?」
ふたに開いている小さな穴の用途なんか、珠里亜須さまも鞍美須さまもご存じない。
がさごそがさごそ。ふたを外し、取り出したストローを突っ込んで、鞍美須は一口すすった。
「甘味が少しほしいところだ……これを入れればよいのか。」
少しの間持っていてくれ、と珠里亜須に紙コップを渡すと、シロップとミルクの小さな容器をつまみ上げる。これまたお初にお目にかかる物体で、どう使えばいいのかよくわからない。守護聖様方の古風で優雅なお茶の時間には、そういう庶民的なものは使われないからだ。うーーん、と考え込んだ鞍美須の手元をのぞき込んだ珠里亜須、「貸してみろ」と紙コップとそれらを交換し、小さな容器の飛び出ている部分をぷちっと折ってふたを開け、カップに注いだ。
「これでよかろう。」←ちょっぴり得意そう
「ああなるほど、そのようにすればよかったのか。」
ストローでぐるぐるかき混ぜながら、さすがに私の飼い主だけのことはある、珠里亜須は賢い、と鞍美須尊敬のまなざし。日頃小ばかにしたような目ばかりを向けられていた珠里亜須は、なんかくすぐったい気分である。
端から見れば、たかがテイクアウトの飲み物ひとつにいやに時間を取られているのはどっちも何やらずれている、ということには二人そろってとんと気づいていないのだった。
アイスティーを少し飲んでから、そう言えば珠里亜須も塩味のポテトを食していたのであったな、のどが渇いているかもしれぬと鞍美須は「お前も飲むか?」とカップを渡した。「ああ、どうも」と受け取った珠里亜須は少しアイスティーをすすると、ため息。いくらフレンチフライをつまみながらでも、待ち時間の長さには変わりがない。鞍美須は彼なりに一生懸命食べているので常に口は食べ物でふさがっており、話し相手にもならない。まあもともと無口な鞍美須のことではあるし、しかもたまに口を利いてみたところで珠里亜須とは徹底的に話が合わないときているから、話し相手としてはあまり期待できないところではあったが。
カップを渡してからまたサンドイッチだフレンチフライだといろいろと口に入れていた鞍美須、ふと珠里亜須を見ると、アイスティーを飲んでいた。
ん? あれは私の飲んでいたものだな。ストローも私の使っていたもので……それはもしや……噂に聞く間接キッスという状態なのではないだろうか。
「間接キッス」なんて、ほとんど死語って気がする。「キッス」だし。「ふっる〜」とバカにされても仕方がないかもしれないが、前時代の遺物である守護聖様のボキャブラリーがいささか古くてもそこは大目に見ていただきたい。というような注釈はさておき、間接キッスに狼狽する鞍美須さまにカメラを戻すと。
かあああああっっっ!!
鞍美須が、らしくもなく真っ赤になっている。何の気なしに渡したカップだったが、自分が口をつけたストローを珠里亜須が使っている!! という事態に脳が一気に沸騰した。「(間接)キッス」からの連想で昔見たことがある艶夢を思い出してしまったのである。おそろしく純情な鞍美須さまに書き手も少しうろたえているが、もっと驚いたのは珠里亜須。目が合うや否や頬を紅潮させた鞍美須に、目をぱちくりさせた。
「どうしたのだ一体?」
「いやいやいやいや、何でもないのだ!」
言いながらももぞもぞと腰をずらして離れていく鞍美須に不審が募り、「どうしたと言うのだ、赤い顔をして熱でもあるのか」と近寄ってくるものだから、鞍美須はますます困って後ずさり続け、ついにレジャーマットの端まで追い込まれた。
「よせっ! 珠里亜須!!」
よせ、とはどういうことだ。私は何もしていないではないか。
涙目で後ずさる鞍美須に、何だか自分がいじめているような気分にさせられ、釈然としない珠里亜須である。
「何でもない。熱もない。だから私に近寄るなっ!!」
自分から抱きついたりほっぺたにちゅーしたりするのは全然平気なくせに、なぜだか相手の方から近づかれたり自分の使ったストローを使っているのを見るだけで狼狽しまくるとはこれいかに。純情青年の心の内は珠里亜須さまじゃなくても理解できない。
とにかく、何が何やらわからないものの、自分が近寄るのがよくないらしいと珠里亜須は座っていた場所に戻った。「まったく、何を考えているのかわからぬ」とひとりごちながら。
見ようによっては、珠里亜須に迫られる(!)という途方もなく幸せな体験だったはずなのに、妙なことを考えたせいでその幸せを満喫できなかった鞍美須、ぶんぶんと頭を振って脳内にあふれた艶夢の残像を何とか振り払い、珠里亜須の手から取り戻した冷たいアイスティーをぢゅぢゅぢゅぢゅぢゅーっと飲んで気持ちを落ち着けようとし、「ああっ! またもや間接キッスになってしまったッッッ!!」とさらにおろおろして激しくむせて、苦しさのあまり間接キッスのことは失念して、せき込んでいるところを珠里亜須に背中をさすってもらってようやく落ち着いた。何ともお騒がせな闇の守護聖様だ。気の毒に、珠里亜須も手のかかる人物に飼い主に選ばれたものである。