パラレル聖地 -愛玩-



1. 素敵な思いつき

水の曜日の夜、鞍美須はぼんやりとテレビ画面を見ながらため息をついた。

あああ、人間などつまらぬな…。
いやなことばかりさせられて、叱られてばかりで、楽しいことなどひとつもない。……いや、珠里亜須に叱られるのは…ある意味快感であり、生き甲斐と言ってもよいかもしれぬが(うっとり)。
しかしたまには甘い声音で「鞍美須〜(はぁと)」と呼ばれて抱きしめられてかわいがられてみたいものだ…。

なんで鞍美須がそんなとんでもない妄想を募らせているのかと言えば、その日彼が見ていたテレビ番組に原因があった。『お前はペット』というドラマの中では若い男が年上の女性に拾われてペットとして同居を許され、かわいがられている。人間同士でありながら一方がペットになることによって生まれる、あたたかでどこか危うく不思議な関係は鞍美須を魅了した。

ああ私もあのように珠里亜須にかわいがられてみたい……。

この前だって大事な書類にインクのしみをつけた上に大穴を開けてしまって、珠里亜須にさんざんに叱られた。ぐうの音も出ないほどにこてんぱんに言われて、鞍美須はまたうっとりと瞑想に入ってしまって、そのことについても延々と説教をされた。それはそれで長時間珠里亜須を独り占めにできるすばらしい時間ではあった。しかし、思えば珠里亜須の優しい声など聞いた覚えがない。りりしい怒り顔も低く響く声も大好きだが、珠里亜須の他の面も見てみたい、それは珠里亜須大好き人間としては当然の願いだ。夢見る瞳になってほうぅっとため息なんかこぼしてみたりして、端から見れば何だか恋でもしているかのようだ。彼はただ、誰はばかることなくだらだら過ごせて飼い主に可愛がられるペット生活に憧れているだけなのだが。
現在の状況はと言えば、守護聖として聖地にあって生活の苦労は何ひとつとしてなく、流美映留に溺愛されて世話を焼かれ放題、好き勝手にだらだらしては大好きな珠里亜須に叱られる(それも快感)という毎日なのだから、彼の憧れているペット生活と大差はないような気もする。どうでもペットになるなら珠里亜須ではなく流美映留を飼い主に決めればいいのに、と思わないでもない。しかし流美映留に飼われる場合問題となるのは「珠里亜須にかわいがられたい」という願望だ。それが満たされないことが彼の現在の生活における致命的な欠陥であり、それを何とかすべく鞍美須は新たな行動を起こすことにした。改名の次の行動はペット志願だ。

よし、決めたぞ。私は珠里亜須のペットになる!!

そんなこと珠里亜須さまの同意もなしに勝手に決めていいのかしら、なんていう外野の懸念なんぞどこ吹く風と鞍美須は押しかけペットになることを決めたのだった。


明けて木の曜日。鞍美須は宮殿に着くと、珍しく朝一番に珠里亜須の執務室へと赴いた。
「鞍美須か、早いではないか。そなたもようやく守護聖として真面目に働く気になってくれたか。」
珠里亜須はうれしそうだ。それはそうだろう。ン十年もの間、光の守護聖を悩ませ続けた怠惰男が朝からいやに吹っ切れた顔をして現れたのだから。改名をして以来、珠里亜須としては心ひそかに好ましく思っている鞍美須だが、彼の怠惰にはほとほと手を焼いていた。それが今朝はこれまでとは違う。鞍美須のやる気というか、気迫のようなものを感じ取って、珠里亜須にはそれは好ましい変化と見えたのである。好ましく思う人物が好ましい変化を見せている、つまり好ましいの二乗だから、厳しい珠里亜須さまの顔だって自然とほころぶというものだ。
「で、何用だ?」
「お前のペットになる。」
はあ………………………?
ぴきん。音がしそうなほど見た目にも明らかに珠里亜須が固まった。何を言っているのかさっぱりわからない。
「………………いま………何と?」
「お前のペットになる。」
ペットと言ったか、この男。ペットとは、私の記憶に間違いがなければ……愛玩動物…のことであったな。
「つまりそなたが私の愛玩動物になる、と?」
鞍美須はにぃ〜〜〜〜っと笑った。かなり不気味だが、本人は愛想笑いのつもりである。珠里亜須相手に精いっぱい愛嬌を振りまいているのだ。
「ようやくわかってくれたか。」
「朝からばかげた冗談はやめぬか。」がっくり。
せっかく鞍美須のやる気を見たと思ったのに、また下らぬ冗談を言いに来ただけであったか、しかも朝っぱらから不気味な笑顔まで見せられては仕事の能率も下がる、と少々落ち込んだところへ、鞍美須のだめ押しが入った。
「…冗談でこのようなことを言っているのではない。私はお前に飼われたいのだ。」
珠里亜須、信じがたい発言に答えの返しようがなく無言。
「そういうことなのでな、よろしく頼む。」
沈黙を了解と取ったか、鞍美須は勝手に話を終わらせた。ペット志願の闇の守護聖はいやに高飛車な態度で飼い主に挨拶を済ませると、どこから取り出したものかクッションを二つ三つ珠里亜須の執務机脇のキャビネットのあたりに置き、ぽんぽんと軽く叩いて形を整えるとそこに居心地良く落ち着いてしまった。どうやらそこがペットな鞍美須のお気に入りの場所であるらしい。
「冗談で済ませることができるうちにそなたの執務室へ戻るがよい。」
なんだか冷たい声に鞍美須は目を上げる。ペットらしくニッコリ(ニンマリ?)笑って見せて、できることならしっぽふりふりだってしたい、という勢いで愛嬌を振りまいてみたが、珠里亜須の表情は硬い。一向にかわいがってくれる気配がない。それどころか周囲には暗雲立ちこめ、雷雲を呼び、今にも雷が落ちそうな気配だ。

なぜペットの私をかわいがってくれないのだ、珠里亜須は?

鞍美須は深遠な疑問を抱きながらも、すっくと立ち上がって自分のほうへずい、と一歩を踏み出した珠里亜須の神々しい姿にうっとりしていた。



2. 光の守護聖、怒る

いかに守護聖の執務室が無駄に広々としているとは言え、執務机からキャビネットまではごく近い。怒りに燃えた長身の珠里亜須が、その怒りにまかせて長い足で大またで歩けばあっという間にすぐそばに。鞍美須は、自分を踏み殺さんばかりの勢いでやってきて仁王立ちになった珠里亜須を見上げながら、どうも私が思っていたような展開にはならぬな、と興味深く続きを待った。

鞍美須の予測では、晴れてペットになった暁には、飼い主の珠里亜須はとてもとてもかわいがってくれるはずだった。仕事に厳しく、時として冷酷と思えるような処断も平然と下すその姿から彼を冷たい人間なのだと思う者も多い。が、長年の観察から鞍美須はそれが間違った見方であることを知っている。本当は珠里亜須は心優しく温かい人間だ。馬に注ぐ愛情ひとつをみても珠里亜須が情の深い質であることに疑いはないと鞍美須は思っている。たとえば瑠馬が好きな理由とか、たとえその情の深さが少しばかり妙な方向に発揮されることがあるにしても。
だから、同僚としてはダメ人間で叱られてばかりの鞍美須でも、ペットとしてそばに控えておとなしくしていれば「良い子だな」とほめてくれたり、時には遊んでくれたり(どんな遊びをするかは未知数だが、できれば遠くに投げたフリスビーを取ってこいとかいうのは勘弁して欲しいものだな、なんてことも先走って考えてたりする)、抱きついたら「よしよし」と抱き返して頭を撫でてくれたり、食事の時間になれば「鞍ちゃ〜ん」ととろけそうに甘い声で呼んでくれたり、これまでに経験のない楽しいことがいろいろとあるはずだったのだ。ところが珠里亜須の様子は、どうもそういった類のことをしてくれそうには見えない。じいっと見上げていると案の定、暗雲立ちこめる上空から珠里亜須の怒声が降ってきた。
「一体何を考えているのだッッ!!」
今はただ飼い主の出方を待っているだけ。特に何も考えていない、それが真相だ。だから無言を通した。クッションにもたれかかったまま見上げると、珠里亜須の額には無数の青筋、目は激烈な怒りを湛えて火を噴くよう、背後の雷雲の中ではぴかぴかと稲妻が光っている。おおすばらしい、ここまで怒ったのを見るのは初めてかもしれぬ、とそれはそれで鞍美須はご満悦だ。怒鳴りつけられたことは一向に気にならないらしい。それどころか、これまで知らなかった新しい珠里亜須を目の当たりにして自然と頬がゆるむ。すると。
「にやにやするのをやめぬか! そなたはそれほどに私を怒らせるのが楽しいか!」
「…ああ」
にやにやしているつもりなどない鞍美須は、その言われようは少々不満だったが、珠里亜須の新しい表情を知るのは楽しいので肯定した。鞍美須の簡潔にして正直な答えは、珠里亜須の怒りにさらなる可燃物を供給する結果となった。
「では充分に楽しんだのだな。お楽しみはこれで終わりだ。
さっさとそなたの執務室へ戻れ!!」

どかんと一発、大雷。でもやっぱり鞍美須は動じなかった。首座の威光に恐れ入る風もなく、珠里亜須を睨め上げた(←普通に「見た」だけなのに、ふてぶてしい態度であるために「睨め上げた」ように珠里亜須の目には映る)。自らペットになりに来たくせに相変わらず態度がでかい。これでは首座様にかわいがられるのは無理かもしれない。
「いや、今はお前を怒らせようと思ったわけではない。単に飼い主の様子を見ているだけなのだが。」
先ほどの大雷でかなりエネルギーを放出したらしく、珠里亜須はトーンをだいぶ下げて闇の守護聖を諭しにかかった。
「妙なことを言うでない。人が人のペットになれるはずがないではないか。」
だが昨日のテレビではやっていたのだとか、すごく楽しそうだったのだとかぶつぶつ口の中で言っていると、また叱責の声。
「言いたいことがあるならはっきり言わぬか!」
「……………………………………………」
「黙り込むな!」
どっかーん。二発目の雷が落ちた。不利になればだんまりを決め込むいつもの戦法に出た鞍美須は、珠里亜須が怒りにまかせて大爆発を起こし、噴火が次第に終息へと向かい休火山状態になるのをじっと待っていた。それこそ犬のように忠実に。忠犬ハチ公も裸足で逃げ出すような(って、犬は裸足なのが当たり前だけど)黒目がちの無垢な瞳に見つめられながらの罵詈雑言は、怒りに燃えた珠里亜須といえどもいささかやりにくい。言いたいことを一通り言い尽くしてしまうと諦めたように首を振った。

今の目つきは何だ? 鞍美須らしからぬ妙に素直な目で私を見るのが解せぬ。
また何かたくらんでいるのかもしれぬが…何やら疲れた…はぁぁ…。

「もうよい、とにかく自分の執務室へ戻れ。これから一日、仕事があるのだからな。」
「だが私はお前のペット」
「言うな! まだ私を怒らせるつもりか。」
と言いながらも、いい加減怒り疲れた珠里亜須は再度声を荒らげることはなかった。とにかく疲れ切っていたのだ。まだ朝だというのに一日中仕事で走り回ったかのような疲れを感じる。
ペット、か。もうどうでもよい、まともに鞍美須の相手をしていては疲れるばかりだ…。
「……ペットだとそなたが言い張るのならばそれもよかろう。だがそれならば飼い主の言うことは聞くものであろう?」
どうやら珠里亜須に自分がペットであることを認めてもらったらしい、では自分の部屋へ行けという飼い主の言葉には従っておこうと鞍美須は立ち上がった。ずっとそばにいられないのは寂しいが、きっと珠里亜須もまだペットを飼うことに慣れていなくて照れているだけなのだ。慣れればそばに置いてくれるに違いない、とか、自分ワールドに浸りきっている。ふふっ、という不気味な笑いのあと(←本人的にはかわいく笑っているつもり)、鞍美須は口を開いた。
「珠里ちゃん」
未だかつて彼をこんな風に呼んだ者はいない。幼かった頃の倉美須ですら、そんな呼び方はしなかった。省略形の名前+ちゃんという前代未聞の呼びかけに珠里亜須はぶっ飛びそうになったのだった。


3. 炎の守護聖、驚く

誰が珠里ちゃんだ!?
珠里亜須の恐慌をよそに、鞍美須は着々と自らの願望を満たしにかかっていた。
「私のことを愛称で呼んでもかまわぬぞ。鞍ちゃんなど、良いかと思うのだが…フッ…。それはともかく、お前の言うことを聞いて私の執務室に戻るとしよう。だがその前に」
おもむろに両手を珠里亜須の首に回すと、むぎゅっと抱きついたのだった。抱きつかれた光の守護聖、硬直している。その彼の耳元に甘い囁きが落ちてきた。
「ほめてくれ。」

はぁ〜?と思わず瑠馬のような声を出すところだったではないか。まるで何かの判じ物のようだ。ほめろって何をほめろと言うのか。第一なぜ鞍美須は抱きついてくるのだ?
それより……「珠里ちゃん」とは…「鞍ちゃん」とは…いったい何の冗談だ?

どう考えてみてもたちの悪い冗談のようにしか思えない鞍美須の言動に硬直したままの珠里亜須、頭の中だけは活発に活動中だ。ぐるんぐるんとどこかの海の大渦巻きのように疑問が渦を巻いている。

素直に飼い主の言うことを聞く私はよいペットだろう? だからほめてほしい。ドラマの中でペットの男が飼い主をちゃんづけで呼んでいたり、うれしいときには飼い主にじゃれついていたのを真似てみたかった、そんな鞍美須の気持ちなんか、テレビで連続ドラマを見るという習慣のない珠里亜須にはわかるはずがない。謎過ぎる鞍美須の言動に珠里亜須はひたすらに固まっているしか術がないのであった。
首っ玉に鞍美須をぶら下げたままの珠里亜須が困惑の極致にあったそのとき、執務室の扉がノックされて「おはようございます、珠里亜須さま」という声がした。雄火亜である。珠里亜須の有能な副官という立場にある彼は、毎朝まず首座の執務室を訪れて業務連絡や打ち合わせをすることにしている。珠里亜須はいつもの習慣でつい「どうぞ」と言ってしまった。だって珠里亜須はこれまで執務室にいるときに誰かの訪れを受けて「ちょっと待って今入られちゃ困るの」などという状況に陥ったことがなかった。首座の元へと訪れる者は皆それなりの必要があってのことだということはわかっている。だから誰が来たって条件反射的に「どうぞ」と言ってしまう。いつでも何にでもすぐに応じることができる態勢を整えておくのがモットーなのだ。
だけど今はちょっとどうかと思われる状況にあるのだった。当然ながら雄火亜の目の前にはしっかと抱き合う(?)筆頭守護聖二人の姿がさらされてしまう。入室を許可してしまってからあせってももう遅い。「失礼します」と入ってきた雄火亜は、そんなのあり得なーい! と叫びたくなるような状態でひっついている筆頭守護聖二人に目をむき、自分の方を向いていた珠里亜須の青い瞳とばっちり目が合ってしまって動揺を隠すことができない。
「……………珠里亜須さま? これは一体…どういう……?」
鞍美須が振り返る。とびっきりきれいだが少々意地悪く見える笑顔は、どことなく勝ち誇っているかのように雄火亜の目には映った。(そして実際の話、鞍美須は勝ち誇っていたのだった)
「…フッ…私は今日からこの珠里亜須の」
「黙れ鞍美須! …とにかくそなたは自分の執務室へ戻ることだ。」
こんな格好でいるのを見られたのはばつが悪いが、かと言って愛玩動物であるなどと公言されるのも何だかまずい気がして、あわてて鞍美須をさえぎった珠里亜須だった。鞍美須は抱きついたまま、何で言っちゃいけないの? という不満も露わに珠里亜須を見る。「いい加減にその手を放せ」と叱られてしぶしぶ離れると、流し目で珠里亜須を見て「照れずともよいのに」と薄く笑いつつ扉へと向かう。脇をすり抜けながら「ふふん!」と優越感に満ちた表情で炎の守護聖を見ていったので、雄火亜は非常に居心地の悪い思いをした。

珠里亜須の忠犬殿、いつもご苦労なことだ…。だが私は家来扱いのお前と違って、飼い主に愛されるペットになったのだからな、私の方が立場は上だ!!

筆頭守護聖の片割れが光の執務室を出ていきながら、そんな風に低レベルなライバル意識を燃やし、下らない優越感に浸って勝ち誇っていたなんて炎の守護聖は知る由もなかったのだが、何やらバカにされていることは敏感に感じ取り、「いつもながらいけすかない御仁だぜ」と心の中で舌打ちしていたのだった。
それにしても、今見たばかりのお二人の様子は……あれではまるで……。

一方、珠里亜須は去り際に鞍美須に言われた「照れずとも」という台詞に「誰が照れているというのだ!」といたく憤慨していた。しかし雄火亜が来ていることを思い出してこほんとひとつ咳払いをすると、仕事の話に移るべく彼に目を向けて、そして気づいた。何だか妙な目つきで見られている。まあそれも無理のない話ではあるな、と思いながらも光の守護聖らしく厳しい声で「何をじろじろ見ている」と言って相手をうろたえさせた。
先ほどは雄火亜の不意打ちに我にもなくあわててしまったが、考えてみれば特に隠し立てするようなことではなかった、と珠里亜須はわずかの間に態勢を立て直していたのだった。
なるほど鞍美須に抱きつかれたまま他の守護聖と顔を合わせるというのはあまり首座としての威厳があるとは言えなかったが、あれは鞍美須が勝手にしたことだ。認めるのはいささか不本意なことながら、私は単に鞍美須にからかわれた被害者にすぎないのだからな、うむ。
「いえあの…その」
忠実な副官は、あらぬ想像をしかけたのが後ろめたかったために口ごもる。
「はっきりせぬか。そなたらしくもない。…はっきりしないのはあれ一人だけでよい。」
「…鞍美須さまはこんな朝から何をしにいらしたのですか。」
偉いぞ俺、よくぞ気づいた。朝っぱらからあの方がここにいらっしゃるなんて異常事態だからな。
そのことをお尋ねしたって失礼には当たらんぞ。よっしゃー!!(心の中でガッツポーズ)
「ああ、またいつもの下らぬ冗談だ。私のペットになるのだなどと言ってな。」
と、指さされた先にはクッションが3個、床の上に転がっている。
「そこに居座ろうとするので闇の執務室に戻らせた。」
それでどうしてあんな風に抱きつくことになるんだよ、と雄火亜は思ったのだが、賢明にもそれは口には出さなかった。少なくとも彼の敬愛する首座が何やら妙な趣味に目覚めたというわけではなさそうだったので。
どうやらまた鞍美須さまにからかわれていたらしいな。あの方は仲はよくないくせになぜだか珠里亜須さまをかまうのがお好きなようなのが不思議だ。
「あとでクッションを届けてやらねば」なんて人の好いことを言っている首座に雄火亜はあきれた。
あ〜あ、何だかんだ言っても最近鞍美須さまに甘いんだからこの方は。いくらからかわれても懲りるってことがないようなのがこれまた不思議だぜ。



4. 闇の守護聖、尋常ならざる手段で我を通す

雄火亜との話が済むと、珠里亜須は鞍美須が放置していったクッションを抱えて隣室へと向かった。何もかもがきちんとしていなくては気が済まない珠里亜須としては、床にクッションが転がったままというのは我慢のならない状態だったのだ。闇の執務室の扉をノックをして「私だ鞍美須、入ってもよいか?」と声をかけると「かまわぬ」との答え。珠里亜須が扉を開けると、満面の笑みで鞍美須が出迎えた。
「お前は飼い主なのだから別に声などかけなくてもかまわぞ。」にーーーーーーーんまり。

そなたの満面の笑みを見る日が来ようとは…。

不思議な感慨に浸りながら珠里亜須は「まだそのようなことを言っているのか。…ほら、忘れ物だ」とクッションを手渡そうとした。鞍美須は少しすねた顔になる。
「また後でそちらに行くからこれはお前の部屋に置いておいてくれ。」
「断る。」

がびーーーん。せっかく居心地がいいようにクッションを整えたのに返しに来るなんて、ひっどーーい!! 私はペットなのに。お前のそばにいたいのだ。

という目で珠里亜須を見たが、飼い主は一向に表情を和らげてはくれず、クッションを差し出されてつい受け取ってしまった。珠里亜須はこれで用は済んだと言わんばかり。
「さて、私は執務室に戻るが、そなたもきちんと励めよ。」
かわいがってくれるはずと思い込んでいた鞍美須としては、期待はずれもいいところだ。

仕事しろって言いに来るなんてあんまりではないか。せめて頭をなでてやろうとか、そういう優しい気持ちはないのか。これではいつもと変わらない。ペットに仕事をさせるなど聞いたこともない。私はペットだ。愛玩動物なのだ。愛玩してくれねば、すねるぞ。

「ペットは仕事などしないものだ…」
「では言わせてもらうが。そなたが私のペットであると言い張るのならば、私はそなたの飼い主だ、その点は間違いないな? (鞍美須うなずく)
うむ。では命令だ。執務時間はきちんと仕事をせよ。でなければペットだと認めてもやらぬ。私の言いつけを聞かぬようなペットは放逐する。」
あら、なんて冷たいお言葉。ペットだと認めてくれないなんて。放逐、だなんて。鞍美須、悲しくなって目がうるうるしかかって(何しろ気分はペットの犬っころなので、いつもと感情の表出の仕方が違うらしい)、珠里亜須をあわてさせた。
「何も涙ぐまずともよいではないか。」
「だが…」飼い主に見捨てられそうで悲しいんだもん。うるうるうるうるうるうる。
クッションを抱きしめて目をうるうるさせている鞍美須は哀れを誘った。
「うわぁあ泣くなッッッ! わかったわかった。そなたは私のペットだと認めよう。だから最低限の執務はするように。」
「…お前のそばで仕事をしてもよいか?」うるるっ。
だって寂しいんだもん、というオーラが立ち上っている。はぁ、珠里亜須はため息をついた。執務さえきちんとするのなら、どこでやっても同じことだな、と半ばやけくそになって「かまわぬ、どこなりと好きな場所でするがよい」と答えた。鞍美須は抱えていたクッションを放り出すと、珠里亜須に飛びついてほっぺたにむちゅっとキスをしたのだった。
「珠里亜須、大好きだ。」
普段の首座様だったらぴきーーんと固まるところだが、今朝からのとんでもない事態の連続にもう感受性はすり切れ怒る気力も使い果たして、無感動に陥っている。大好きだって言われようがキスされようが、そんなのもーどーでもいいや状態。ついでと言っちゃなんだが、大好きだと言われて珠里亜須はぽろりと事実を告げた。
「ああ、私もそなたが好きだ。」
いささか投げやり気味なつぶやきだったが、これは鞍美須をものすごく喜ばせて、おまけのちゅーをさらに三つほどむちゅむちゅむちゅっと進呈された。

珠里亜須に好きと言ってもらえるなんて、他の誰も経験がないはずだ! 昔から好かれている瑠馬だって、腰巾着の雄火亜だって、珠里亜須からこうまでストレートに好きと表明されたことなどあるはずがない! 私が一番だ!! ああペットになる決心をしてよかった…。

相変わらず無感動状態の珠里亜須、鞍美須のなすがまま。頬になま暖かい感触を感じながらじっとコトが済むのを待ち、ペットの興奮状態もどうやら収まったようだと見て取るとため息をこぼすように問いかけた。
「これで気が済んだか?」
こくこくとうなずく鞍美須に「では行くぞ」と声をかけると、闇の執務室を出た。ところが、背後からぐんと引っ張られる感触。振り返ると鞍美須が正装のドレープをしっかとつかんでいた。自分の服をつかんでいる鞍美須の手を見、そして相手の顔に目を移すと「にまっ♪」と笑われた。

うう、この笑顔はやはり不気味だ。何をたくらんでいる!?

だがその疑念を口にするまでもなく相手は望みを述べた。
「手をつないでほしいのだ。」にいいいいぃぃっ。

へっ!? 手をつなぐ?

ここは回廊だ。執務室と違っていつ誰が通るともわからない場所だ。そのような場所でしてよいことと悪いことがあるだろう!という憤りに、珠里亜須はそれまでかぶっていた無感動の殻をバリバリと破られて叱りつけた。
「何を言うか。宮殿の中でなぜそのようなことをせねばならぬのだ!」
だってペットだもん。さすがに首輪とリードはいくら私でもごめん被りたいが、手をつなぐくらいよいではないか。
服をつかんだ手は放したものの、その手を無言で突き出す鞍美須。
自分のほうへ向けられた鞍美須の手を茫然と見つめる珠里亜須。
闇の執務室の前でしばし二人は固まっていた。

差し出された手など振り払って歩き出せばよいではないか。……だがまた先ほどのように泣かれそうになっても困る。仮にも闇の守護聖たる者に人目のある場所で泣かれては…あまりにも情けない。

そろそろ執務を始める時刻だ。回廊に人も行き交い始めている。早く何とか事態を収めねば、と焦りが募って、珠里亜須は相変わらず突き出されたままの手をがしっと握ると、鞍美須を引きずるようにして足早に光の執務室へと向かった。いったんは闇の執務室に返したはずだったのに、結局は鞍美須もクッションも光の執務室に居座ることになってしまった。それも、光の守護聖公認で。どうも珠里亜須は強引に出られると弱いところがあるようだ。

クッションを抱えた闇の守護聖が光の守護聖に手を引かれて歩いていたという信じられない現象の目撃談は、その日のうちに宮殿中に広まったのだった。



5. 炎の守護聖、衝撃的な発言を聞く

昼前、雄火亜は光の執務室を訪れた。彼は毎日、ランチをご一緒にいかがですか、と必ず声をかけに来るのだ。何たって心から敬愛する首座である。執務に対する姿勢、趣味のあれこれについての造詣の深さ、人柄、どこを取っても一点非の打ち所もない。そんな彼と言葉を交わしながら食事をするのは雄火亜にとって得るところの大きい有意義な時間なのである。ところがその日は見慣れないものを珠里亜須のそば近くに発見して、めまいを感じながら「珠里亜須さま…」とつぶやいた。
「何だ?」
平然と目を上げる首座。彼の執務机脇のキャビネットには大きな黒い塊がひっついていた。部屋中がまばゆい光に満たされた光の執務室に似合わない黒い塊はもちろん珠里亜須のペット、鞍美須である。
「あの……そこにいらっしゃるの、鞍美須さまですよね?」
「他の誰だと言うのだ。」
「なぜここにいらっしゃるのですか?」
しかも床に。ペットって……マジだったのか、鞍美須さまは!?
「ここでなくては執務ができぬと言うのでな…」ため息。
確かに、暗色のクッションを背にキャビネットにもたれかかって彼なりに居心地のよい状態になっているらしい鞍美須は、書類を手にしていた。それまで雄火亜の存在を完全無視していたペットは、書類から目を離してちろりんと闖入者をながめた。
うっ、ヤな目つきで見ないでくださいよ〜鞍美須さま〜。何なんですか一体。
ゆらり、立ち上がった鞍美須に何かされるのではないかと一瞬身を引きかけたが、闇の守護聖は「お前など眼中にないのだ、フン!」といった様子で珠里亜須に話しかけた。
「この書類に署名をするゆえ、ペンを貸してくれ…珠里ちゃん」にやり。
今聞いたの、俺の聞き違いだよな絶対。ははは…俺の耳がおかしかっただけだ……珠里ちゃん……あり得ん!!
ところが、聞き違いであるという雄火亜の心の中のフォローを台なしにするかのように、それまで平然とした顔をしていた珠里亜須がおたおたし始めた。
今朝方一度呼んだきり、そのような呼び方はしなかったくせに。なぜ雄火亜のいる今、わざわざ 珠里ちゃん と呼ぶのだ、そなたはっ!!
「その呼び方はやめぬか!! 気色の悪いッ!!」
「なぜそのように嫌がるのだ、珠里ちゃん。」
げっ。また 珠里ちゃん とおっしゃったよな。鞍美須さまは確かに珠里ちゃんと口になさったよな。
うわああああああああああっっ!! 悪夢だあああッ!!
雄火亜が頭を抱えて現実を拒否しているそばでは、ちゃん付けに関する問答が続いていた。
「自分だけが珠里ちゃんと呼ばれるのが不満か?」
「そういう問題ではない!」
ふふっと笑うと、鞍美須は珠里亜須の返答など耳に入らなかったかのように続けた。
「だから、お前も私を鞍ちゃんと呼んでもよいと言ったではないか。」
「鞍…ちゃん………それだけは勘弁してくれ…」がっくり。
「『だけ』? では『珠里ちゃん』はオッケーか?」にっ。
「無論それもならぬ! ならぬと言ったらならぬ!」
「では…飼い主の意見を容れて、ちゃん付けは勘弁してやろう。その代わり…」にーーーーーっ。
珠里亜須、ごくりとつばを飲み込む。
「…何だ?」
「……………………………………………………………………」
じらされて、珠里亜須は気が気ではない。
「要求があるなら早く言わぬか!!」
「何を要求するか、考えていなかった…」にへらっ。
がくーーーーーっ。何なのだ、こ奴は! 交換条件を持ち出すなら先にその条件を考えておかぬか! まったくもって手ぬるい! そのようなことだから、職務怠慢だと言うのだ!
珠里亜須さま、論点がずれてます…。

とにかく、ちゃん付けはやめる、その代わりの何かについてはこれから考える、ということで話はついた。別に、他に何かを聞き入れてやらなければいけない義理はないし、飼い主の言うことを聞けの一言で済むと思うのだが、万が一にもまた人前で「珠里ちゃん」なんて呼ばれたら死にそうな気分になるので、何かと引き替えにその危険がなくなるのならまあよい、と考えた結果だった。
で、残るはその場にいて「珠里ちゃん」を聞いてしまった生き証人である雄火亜対策。彼はずっと現実逃避したままだった。先ほど聞いた「珠里ちゃん」がよほど衝撃的だったものと見える。目の前で手を振ってみても焦点が合ってない。珠里亜須は雄火亜の頬を軽くぴたぴたと叩いた。ようやく雄火亜が現実へと戻ってくる。
「珠里亜須…さま…?」
何かものすごーーーーーーく、いや〜な気持ちになる言葉を聞いたような…。
「どうした雄火亜、寝ぼけているのか?」
珠里亜須の厳しい声に、ようやく雄火亜の頭の回転数が普通に戻りつつあった。
「いえ……すみません珠里亜須さま、少々疲れているのかもしれません。…でもあの…先ほど鞍美須さまが珠里亜須さまのことを……」
「鞍美須がどうした。」
威圧感のある首座の一喝に、雄火亜は「いえっ、何でもありません!」とぶんぶんと首を振った。
「夢でも見たのか? おかしな奴だ。」
やはりな。さっきのは絶対に何かの間違いだぜ。珠里亜須さまだって普通にしていらっしゃるじゃないか、ははははは。
鞍美須さまがここにいらっしゃるのはともかくとして、珠里ちゃんは絶対にない!!
さすがに年の功、珠里亜須は雄火亜の混乱を利用して、まんまと「珠里ちゃん事件」はなかったことにしてしまった。




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