世はすべてこともなし
1. ことの起こり
とても静かで、静かすぎて目が覚めた。
なんか、すごくいいにおいがする――。
目を開くと、そこは暗くて広い場所。起き上がってあたりを見回したが全然見覚えがなかった。いい匂い、それはほのかな白檀の香りだったが、嗅ぎ慣れない匂いは、たとえいい匂いでも不安を誘った。まわりには誰もいない。知らない場所で一人ぼっちで寝ていたことに気がついて、とても怖くなった。寝ていたベッドはものすごく大きい。母を探しにいこうと思ってごそごそとベッドの隅まで移動して降りようとしたら、落ちた。そのベッドはかなり高さがあったのだ。
床に敷いてあるふわふわしたもののおかげで大して痛くはなかったけど、涙が出てきた。だって誰もいなくて寂しい。暗くて怖い。
ぐすん。ひっく。
「う…」
こわいよー。
「わああああああん」
かあちゃん、どこ?
「うわーーーーーーーーーーーーーーーん!!」
主の寝室で幼児がわんわん泣いているところを発見した闇の館の使用人は、あわてて執事にそのことを告げに行き、駆けつけた執事は主の不在と幼児の突然の出現を確認して首座に連絡したのだった。
出仕前であったジュリアスは闇の守護聖失踪を知らされて、行き先を宮殿から闇の館に変更した。到着するとすぐにクラヴィスの私室へと案内されて、突如出現したという幼児を目の当たりにすることとなった。見慣れない小さな生き物の姿に、ジュリアスの眉間に縦じわが寄る。黒髪の子どもは泣き疲れて侍女長に抱かれて眠ってしまっていた。寝顔は、記憶にある幼いクラヴィスのものと同じ。その小さな体に宿る闇のサクリアに、ジュリアスは安堵の息を吐き出した。実のところ対のサクリアの消失など微塵も感じていなかったので、多少の心配はしながらもどこかに大丈夫だという楽観があったのが裏書きされた形だ。
クラヴィスがいなくなったと聞いていたが強い闇のサクリアを感じる。これはクラヴィスのものに間違いない。ということは。
「その子ども……それはクラヴィスだ」
首座の言葉に、その場にいた館の者一同、硬直。
この幼児が? あのもの静かな、と言うよりは無口で目つきが悪くて威圧感のある大男がこの、わんわん泣き騒いだあげくすすり泣きながら寝入った子ども!?
しかも寝顔は天使のようにあどけなくかわいらしいときている。言われてみれば確かにつややかな黒髪はクラヴィス様と同じ。だけど、と半信半疑で言葉もなくジュリアスを凝視していた。
「私にはサクリアが感じ取れる。それにな、この顔は間違いなくクラヴィスの幼い頃のものだ」
光の守護聖は唯一クラヴィスの幼少時を知る人物だ。その彼が断言するのだから事実なのだろうと館の者たちは半分は安堵したものの、小さな子どもになってしまった主に困惑を深めるばかりである。そんな彼らとは違って、ジュリアスは明晰な頭脳ですぐさま考えをまとめてしまった。
クラヴィスが行方不明になったわけではなく、闇のサクリアにも問題はない。あとはこの幼児化がどうして起こったのかを突き止め、元に戻す方法を探せばよいだけだ。
常日頃から自分は冷静であると豪語し、アクシデント慣れしてもいらっしゃる首座様だけのことはある。ジュリアスの立てた方針が容易に実行可能なものであるかどうかはともかくとして、守護聖が幼児になってしまった怪現象にもあわてず騒がずずいぶんと簡単に結論を出すと、クラヴィスを連れて出仕しようと声をかけた。
「クラヴィス」
名を呼ばれて、侍女長に抱かれていたクラヴィスがもぞもぞと動く。うっすらと目を開きかけたがまた眠りに落ちていこうとする様子に、ジュリアスはもう一度呼んだ。
「クラヴィス!」
びくんとクラヴィスが動き、今度はしっかり目を開いた。目をこすりながら、誰に呼ばれたのかときょろきょろと辺りを見回して目の前の白い衣装の人を見上げると、光の守護聖の正装を身にまとい、まっすぐに自分を見下ろしているジュリアスと目が合った。
クラヴィスの口がへの字に曲がった、と思う間もなく「うわーーーーーーーーん」。盛大に泣き出した。泣く子も黙る鬼の首座と陰で呼ばれている男は、目の前で泣き叫ぶ幼児にどう対処したらよいかもわからず、ただおろおろと突っ立っていた。おろおろしているなんて誰にもわからないくらい、見たところ堂々と、というよりもむしろ傲然と。
大泣きする幼児を何とかあやして機嫌を直させてくれたのは、クラヴィスを抱いていたやや年配の侍女長だった。
「ジュリアス様、小さな子どもは驚きやすうございます。どうかあまり厳しく叱らないでくださいませ」とやんわり釘を刺されて、うむとうなずいたものの、これは思ったよりも深刻な事態かもしれぬと、闇の館からの緊急連絡以来初めて目の前が暗くなるのを覚えたのだった。
どうやら体だけが小さくなったのではないらしい。心も子どもなのか。私のこともわからぬようだし……どう接したらよいものか。
きれいに澄んだ大きな紫色の瞳にじっと見つめられると落ち着かない。
聖地に来たばかりの頃のクラヴィスもこんな目で私を見ていた。ただ、あの当時よりももっと幼いように思うが。はて、何歳くらいなのであろうか。
「クラヴィス、そなたは何歳だ?」
尋ねられた途端にまた大きな瞳が涙でうるんだ。ジュリアスは普通に尋ねただけだったが、幼子のほうは白くて金色で大きい人から話しかけられるだけで怖くてたまらないらしい。口がへの字になりかかったのを、あわてて侍女長がなだめた。
「この方はジュリアス様です。怖くはありませんから泣かないでくださいまし」
侍女長のフォローはフォローになっていなかった。実際問題ジュリアスの威圧感は半端ではない。同い年の子どもの頃ですらクラヴィスはジュリアスを怖がっていたくらいだ。大人になったジュリアスの怖さたるや、子どもの頃の比ではない。ましてや今の状況は、ジュリアス=立派な成人男子、クラヴィス=幼児。体格差・年齢差だけでも恐怖感をあおるには十分で、しかも聖地中の人の背筋をぴしっと伸ばさせるだけの威厳がある光の守護聖様相手に、今のクラヴィスはあまりにも小さくか弱く頼りない。怖くありませんよとやさしそうな女の人に言われたって、やっぱり怖い。けれども知らない人ばかりの中で最初に自分の名前を呼んでくれたのはこの怖い人だったので、どんなに怖くても離れるわけにはいかない、と幼児化した頭の中身ででき得る限り論理的にクラヴィスは考えていた。
なぜならば。自分を知っている人なら、かあちゃんのところにつれてってくれるかもしれないからだ。すっかりお子様化しているクラヴィスは、とにかく早くかあちゃんのところに帰りたかったのである。
2. 幼児の沈黙、首座の困惑
ジュリアスのところへ事態を知らせて判断を待つ間に、闇の館の執事は子ども用の服を外界から取り寄せる手配をしていた。寝室で大泣きしているのを発見されたとき、クラヴィスは何も着ていなかったのだ。大人だったクラヴィスが着ていた夜着はベッドから這い出すときにすっぽりと脱げてしまったものと思われた。
発見された段階では素性もわからなかった子どもだが、全裸のままで放置というわけにはいかない。そのあたりを探しても着ていたであろう服は見つからなくて、仕方がないので何か代わりのものをと思っても幼児サイズの服なんか闇の館にはない。もちろん他の守護聖の館や宮殿のどこを探したってそんなものは置いていないだろう。新たに取り寄せるしかなかったのである。しかし外界との時間の流れの差が幸いして、首座の到着直後の大泣きが少し落ち着いたクラヴィスが朝食を食べさせてもらっている間に、服や靴が届いた。間に合わせに大人用の大きなアンダーシャツを着せられていたクラヴィスは、身に合った子ども服に着替えさせてもらうと、ジュリアスに連れられて宮殿に行った。
光の守護聖が予定外にだいぶ遅れて出仕したというだけでもある意味で事件なのに、さらには幼児連れであるということで、宮殿内はひそやかに騒然としていた。「ひそやかに騒然」って変じゃない?と思われるかもしれない。正確に状況を説明すれば、ジュリアスの目の前では人々の様子に別段変わった点はなく静かでいつも通りと見えていながら、その背後では一斉に噂話に花を咲かせる者たちの群れができる、といった具合。
何しろ目の前で前代未聞の珍事件が起こっているのだ。紺色のTシャツ、白と紺の縦縞オーバーオール姿の小さな子どもが、首座のまとった正装をしっかりとつかんでちょこちょこと小走りでついていくなどという事態を誰が想像し得ただろうか。かといって光の守護聖になぜそういう事態になっているかを問いただせる者などいはしなかった。その結果、光の守護聖に敬意を表して常と変わりない挨拶を述べて二人を見送った後に、あれは一体どういうことだと背後でヒソヒソ声での大騒ぎになっていたのである。通り過ぎる場所すべてに嵐を巻き起こしながらジュリアスとクラヴィスは宮殿内を歩き、地の執務室へと向かった。クラヴィスの身に起こった異変の知らせを受けていたルヴァが二人を出迎えて、中へと招じ入れたのだった。ちなみに「光の守護聖が子連れ出勤」というニュースは彼らが地の執務室に入った後も宮殿中に広がり続けていた。
クラヴィスは、地の執務室でルヴァからの質問を受けることになった。大量の本が並んだ壁に作りつけの書棚や、あたりかまわず積み上げられている本の山をきょろきょろと見回していたクラヴィスは、「よく来てくれましたね、ジュリアス、クラヴィス」と、ほっこり笑顔を向けられて、ルヴァを見上げた。頭にぐるぐる、ふしぎなものを巻きつけている彼を目を丸くしてじーっと見ていると「これはまた、ずいぶんとかわいらしくなったものですね〜」と今のクラヴィスには意味不明のことを言われた。
「さあ、こちらにおすわりなさい」
地の守護聖は、どこからか引っ張り出してきたスツールにクラヴィスをすわらせて、目の前にしゃがむと愛想のよい笑顔で話しかけた。
「おはようございます、クラヴィス。私はルヴァといいます。あなたに少し聞きたいことがあるんですが、いいですかー?」
幼児はじっとルヴァを見つめたまま、こっくりとうなずいた。
「えーっと、まずですね、あなたは何歳なんですかー?」
人差し指と中指の2本を立てた小さな右手がルヴァの目の前にびっと突き出される。
「つまりあなたは2歳なのですね」
うなずくクラヴィス。他にもいろいろと質問をしたが、首を縦に振るか横に振るか傾げるか、すべてはボディランゲージで、言葉での返答は一切ない。つまりはイエスかノーかで答えられる程度の簡単な質問にしかまともな答えは返らず、地の守護聖の人当たりの良さと知性を以てしてもあまり実りある質疑応答とはならなかった。ルヴァはあちこちの引き出しをごそごそと探って棒つきキャンディーを見つけ出してクラヴィスに渡し、「ちょっとこれを食べて待っていてくださいね」と声をかけると、ジュリアスのほうに向き直った。「なぜそのようなものを執務室に置いているのだ」と言わんばかりの相手の目を見て、
「ときどき、甘いものがほしくなることがあるんです。チョコレートとか。今日は小さなクラヴィス向けのものがちょうど置いてあってよかったですよ」
と答えて、さらに話を続けた。
「クラヴィスはしゃべりませんねー。どうやら体も心もすっかり2歳当時に戻ってしまっているようです。こちらの言うことはある程度理解できるみたいですけど、難しいことはわからない様子です。2歳くらいの男の子ですと、あまり話すのが得意ではないのかもしれません。まあ、これまでの様子からすると話をしてくれたとしても込み入った話はできないでしょうしねー」
「そう言えば私もこの状態になってから声は一度も聞いていないな。……泣き声だけだ」
憮然と、ジュリアスは言った。何やら複雑な気持ちである。ルヴァに対しては、おびえる様子なく受け答えしているクラヴィス。自分は目が合っただけで泣かれたというのに。
「はあ、泣き声ですか」
「私を見たら泣いた」
ますます憮然と、ジュリアスは言った。
「あなたがいつもクラヴィスに対するような調子でこの子を見たら、それは怖かったかもしれませんねぇ」
ジュリアス、ちょっとショック。見ただけで泣くほどに私は恐ろしいのか……。
「まあそのー、小さい子にしてみたら見知らぬ大人ってだけで怖かったりするものですから」
「そういうものなのか?」
ええまあ、とルヴァは曖昧に笑った。
「だが怖がっているわりに私から離れぬのだ。宮殿へ連れてくるには好都合であったが……」
「クラヴィスも何となくあなたのことは覚えているって言うか、わかっているんじゃありませんかー?」
のんびりとルヴァに言われたが、離れようとしないくせに明らかに自分を怖がっている幼児に戸惑いを隠せない。
自慢じゃないがジュリアス様は幼児に対する接し方に関するノウハウ、ゼロ。一声かけるたびに泣かれて、泣きたいのはこちらの方だと思う。小さなクラヴィスなら泣いても誰かがあやしてくれるが、クラヴィスと同じかもしかしたらそれ以上に途方に暮れている自分は、たとえ泣いたって誰にも同情されない。別に泣くつもりはないけれど。それでも同じ筆頭守護聖でありながら、何だか自分ばかりが割を食っている気がする。
「とにかくですねー、あなたはなるべくクラヴィスには優しく話しかけるようにしてあげてくださいねー。大人の身長で、立ったままこの子を見下ろして話すのはよくありません。しゃがむか、クラヴィスを抱き上げるかして、目線をそろえて優しく話すようにしてください。笑顔ならなおけっこうです。それから難しい言い回しは厳禁です。2歳の子に難しいことを言ってもわかりませんからねー。叱りすぎもいけません。それから……」
「待ってくれ、ルヴァ」
ジュリアスはルヴァの言葉をさえぎった。
「あまりいろいろと一度に注意を受けても、できるかどうかわからぬぞ」
「んー、あなたがずっとこの子の面倒を見るというわけでもありませんしねえ。それじゃあ、とにかく話しかける時は気をつけてあげてくださいねー。くれぐれも、今のクラヴィスは大人ではないってことを忘れずに。普段どおりに話したら怖がっちゃいますからね」
スツールにちょこんとすわったままキャンディーを無心にしゃぶっているクラヴィス。そんな姿を見ながら「わかった、努力してみる」と自信なさげに答える首座の表情に、ルヴァは「小さなクラヴィスといい、ジュリアスのこんな顔といい、今日はずいぶんと珍しいものを見せてもらっちゃいましたねー」と心ひそかに楽しい思いをしていた。
3. 「パパ代わりになってくれない?」
何はともあれ女王陛下にご報告をと、ジュリアスとルヴァはクラヴィスを連れて謁見の間に行くことにした。ところが地の執務室を出ようとすると、クラヴィスがぐずり出した。この部屋を出るからと促してもスツールから降りようとせず、イヤイヤをするばかりである。
宮殿は広い。しかもジュリアスは歩くのが速い。地の執務室にたどり着くまで、幼児にとってはけっこうな距離をずっと小走りでついてきたので、クラヴィスはすっかり疲れていたのである。ジュリアスが立たせようと両脇の下に手を差し入れて椅子から下ろすと、今度は床に座り込んでしまった。
「どうしましたかー?」
ルヴァが優しく尋ねても相変わらず答えは返らない。歩きたくないクラヴィスは、その場に根が生えたように動こうとしなかった。
「困りましたねー。さっきまでいい子でアメをなめていたのに、何でご機嫌斜めになっちゃったんでしょうねー?」
ルヴァが抱き上げて連れていこうとすると、ますます激しく首を振ってジュリアスの方へと両腕を伸ばす。何しろ、ジュリアスは今のクラヴィスにとって命綱だ。他の人に抱かれてどこかジュリアスのいないところに連れていかれると、かあちゃんのところに帰ることができなくなってしまう。
「ジュリアスがいいんですかー?」
と尋ねられて、クラヴィスはようやく首を縦に振った。
「あなたに抱っこしてもらいたいそうですよ、ジュリアス」
お願いしますね〜、と幼児を手渡されたジュリアスは、おっかなびっくりといった様子でクラヴィスを受け取った。
「新生児じゃないですから、そんなに恐る恐る触らなくても大丈夫です」
ルヴァはくすくすと笑って、歩き出した。
「待ってくれ。私に……これを抱いていけと言うのか」
いつ泣き出すとも知れない、この未知の生き物を? 自分が?
「何か問題がありますかー?」
大泣きされた記憶も生々しいジュリアスは、できればそんな役目は遠慮したい。
「泣かれたら困る」
「でもクラヴィスのご指名はあなたなんですから。とにかく行きましょう。先程事務官を行かせたので、女王陛下がお待ちかもしれませんしねー」
女王陛下を無駄に待たせるなんてことは、ジュリアスの忠誠心が許さない。仕方なく、クラヴィスを抱いたままジュリアスもまた足を踏み出したのだった。
知らせを受けたアンジェリークはロザリアを従えて待ち構えていた。女王陛下は首座の経過説明なんかろくに聞こうともせずに大はしゃぎ。彼女の関心のすべては小さなクラヴィスに注がれている。
「きゃーーーっ!! かっわいーーー!! ねえロザリア見て見て! クラヴィスってば超かわいいッ!! お人形さんみたい!!」
オーバーオールを着せられたクラヴィスの黒髪は首の辺りまでの長さのおかっぱに近いスタイルで、深紫の大きな瞳があどけなく見上げる様は女の子のように愛らしい。それを見て女王陛下は興奮の極致にあった。女王陛下といえども年齢から言えばまだ女子高生の少女で、一般的に少女というものは小さいものや可愛らしいものが大好きだから、好みにぴったりだったのだろう。この年齢層の女の子すべてが赤ちゃんや幼児を好むかと言えばそれはわからないが、少なくとも陛下はそうだった。「もっとレースとかフリルとかリボンとかがいっぱいついたかわいいお洋服着せてあげたら、きっと似合うのに」と、闇の館の執事が取り寄せた服にちょっぴり不満を表明しつつも、表情はとてもにこやかだ。
一方、ピンクのドレス姿の女王を見上げたクラヴィスのほうは、「かあちゃんじゃない…」とがっかりしていた。初めてジュリアスを見たときのように泣き出しはしなかったが、女王の前にひざまずいているジュリアスの腕にぎゅっとしがみつく。何だかよくわからない大騒ぎをしている全然知らない女の人よりは、どんなに怖くても最初に名前を呼んでくれたジュリアスのほうがましといったところだろうか。
「陛下、そのように大声を出されてはこれがおびえます」
「ごめんなさーい。つい興奮しちゃって。だってだって私、前からあなたたちの子どもの頃の姿が見たかったんですもの〜!」
「陛下、そのことですが」
「なあに?」
「クラヴィスが子どもになったのは、陛下のお力によるものでしょうか」
「えー? 何のこと? 私何もしてないわよ」
「以前、私たちの子どもの頃の写真が見たいと仰せでしたが、お断りしたということがございました」
「そうね。そんなもの見て何になるのかって見せてくれなくて、ジュリアスのけちって思ったもん」
「これはあくまでも仮定の話ですが、写真が見られないならば時を戻してしまおうと思われたとか。そういうことはございませんか」
「……やーね。いくら私でも、そんな無茶なことはしないわよ」
女王を見上げる青い瞳は、あくまで澄んで美しい。アンジェリークは何もかも見透かしているようなこの目に弱かった。思えば女王候補になったばかりの頃は、怖くて目も合わせられなかったのだ。
今は大分慣れたけど。でもやっぱり、こんな目で見られちゃうと隠せないわね。
「ちょっとだけ、思ってみたりもしたけど」
ふうと息を吐き出して、しぶしぶ認めた。ジュリアスは女王の言葉に、ごくごく控えめに嘆息を洩らした。
「なるほどそういう経緯があったわけですか。陛下のお力は強大ですからね〜」
ルヴァはうんうんとうなずいている。アンジェリークはあわてて首を振った。
「だけど、わざとそんなことしないってば! できませんって。ただ、小さい頃のジュリアスとクラヴィスってきっとかわいいだろうから見たいなーって思ったのよ、ものすごーく見たいなーーーーって。でも実際に小さくしちゃおうなんて思ってなかったわよ。それは本当」
「ジュリアスも私も、陛下が故意にクラヴィスを子どもに戻したと思っているわけではありませんよ。でも無意識下のことであっても、有り余る力が何らかの作用を及ぼしてクラヴィスがこうなったと考えられなくもありませんからね〜。他にこれといった原因も見当たりませんし。というより、陛下のお力が関係しているのでもなければこんなことは不可能ではないでしょうかねー」
「クラヴィスに起こった異変は、やはり陛下のご意思が関係しているのではないかと思われます。何とかクラヴィスを元に戻してやってはいただけませんか。このままでは仕事にも支障をきたします」
「むり。絶対に、むりったらむり!! もしも私のせいだったとしても、どうやったのかわかんないんだもん。私、ただ『見たい』って思っただけだから」
「それでしたらー、陛下が『十分に見た、満足だ』とお思いになれば、クラヴィスが元に戻る可能性が高いということですね〜」
「ええそうね。しばらくこのかわいいクラヴィスと遊べば♪」にっこり。
「陛下、守護聖は陛下の遊び相手でもおもちゃでもありません!」
ロザリアがぴしりと言った。
「でもどうやったらクラヴィスが元に戻るかわからないんだし、戻る可能性のあることなら試してみるべきじゃない?」
「そうですねー。そういう単純なことで戻ってくれればいいんですけどねー」
「そう言えば…」
女王がふと思いついたというように言い出した。何か打開策を思いつかれたのか、と皆が女王を見つめる中、陛下はいたずらっぽく目をきらきらさせて仰せになった。
「ジュリアスが隠し子連れてきたって宮殿中で噂になってるわよ」
ごほっ。ジュリアス、あまりのことに何も飲んでいないのにむせちゃったりなんかして。
「陛下……」
言葉を失ってそれ以上何も言えないジュリアスを前に、女王はにっこり笑った。
「大丈夫、今回のことはちゃんと正式な文書で通達出しますから。……でも、その噂ちょっと面白いわよね! ジュリアスがクラヴィスのパパなんて!! ついでだから、このままクラヴィスのパパ代わりになってくれない?」
パパ。何でも面白がるこの女王陛下にかかっては首座の威厳も何もあったものではない。ジュリアスががっくりしているそばでは、ルヴァがクラヴィスと話をしていた。
「クラヴィス、あなたはこの女の人としばらく遊んでいてくれますか?」
ルヴァに問われたクラヴィスはふるふると首を振った。
かあちゃんとこにかえりたい。
じわりとまた涙がにじむ。
「あららークラヴィス、私嫌われちゃったのかなー」
その様子を見ていたアンジェリークは、クラヴィスに泣かれそうになって、ずいぶんとがっかりした様子ですっかりしょげてしまった。彼女の現在の職業は宇宙を統べる女王だが、実は将来の夢は保母さんっていうくらいに子ども好きなのだ。声をかけられたクラヴィスは大きな瞳でじっと女王の顔を見ていたが、ジュリアスにしがみついていた腕を放すとてけてけと女王のいるところまで階段を上がって、女王の手に小さな手を重ねた。じっと見上げる。アンジェリークは満面の笑みになった。
「やさしいのね。私のことなぐさめてくれるつもり?」
抱き上げて、「クラヴィスは小さくてもちゃーんと守護聖なのね」と頭をなでた。
「ここで私と遊ぶ?」
その言葉に、クラヴィスの大きな目が「えっ!?」とばかりにさらに大きく見開かれた。
この人のとこに置いてかれるの?
ジュリアスが行っちゃったら、だれがかあちゃんとこにつれてってくれるの?
クラヴィスは女王陛下に抱かれたまま、ジュリアスを振り返った。眉が八の字になっている。おそろしく情けない顔をしている小さなクラヴィスを見て、かわいいとかかわいそうとか守ってやらなくてはとかその他諸々いろんな気持ちが一気にこみ上げて、一瞬胸が詰まるような気がした首座様。動揺を紛らわせようとこほんとひとつ咳払いをした。
「しばらくのことだ。陛下に遊んでいただいたらどうなのだ? 後で私が迎えに来る」
ジュリアスは自分をここに置き去りにするつもりはないらしいと少し安心して、クラヴィスはうなずいた。どんなに怖い人でも、何が何でもジュリアスから離れるわけには行かないのだ。なにしろクラヴィスには「かあちゃんのところにかえる」という大きな目的があるのだから。
うなずいたもののまだ不安そうな顔をしているクラヴィスに、必ず迎えに来ると約束して、ジュリアスはルヴァと連れ立って謁見の間を退出した。
4. こわくない
ジュリアスは女王の手にクラヴィスを預けると急いで執務室に戻り、本来クラヴィスのところへ回されるはずだった書類に目を通して他の急ぎの用事やら雑務やらを済ませてから、昼前にはクラヴィスを引き取りに女王のところへと向かった。言語によるコミュニケーションのできない未知の生き物のことを考えると、思わず知らずため息が出る。ずっとアンジェリークに預けていられるものならば楽なのだが、そうはいかなかった。女王にもいろいろと大切な仕事があり、一日中子どもと遊んでいられるほど暇ではないことをジュリアスはよく知っている。いくらアンジェリークがそれを望んでいるからといって無制限に遊び相手を務めてもらうわけにはいかないのだ。女王陛下はクラヴィスの子守という大義名分を得て、存分に遊んでいらっしゃることであろうなと危惧しながら、ジュリアスは女王の下へと向かっていた。
案の定、ジュリアスが女王の控えの間に招じ入れられたときには、ロザリアが見守る中アンジェリークが馬になってのおうまさんごっこの真っ最中だった。どこから調達してきたものか、えんじ色のジャージの上下にきっちりと身を包んで。女王陛下が馬のマネをして守護聖を背中に乗せて床をはい回っている姿に、ジュリアスは立ちくらみを起こしそうになった。クラヴィスは機嫌よくきゃっきゃと笑い声を立てている。
「陛下、何をなさっておられるのですか」
「見てわかんない? 遊んでるに決まってるじゃない。ジュリアスったら迎えに来るの早すぎ。せっかく面白かったのに。ねえクラヴィス?」
背中に乗せている幼児を振り返ってアンジェリークは言った。その言葉にこっくりとうなずいたものの、クラヴィスはアンジェリークの背から滑り降りてジュリアスのところへ走っていった。
かあちゃんとこにつれてってくれるのかな。
そう思ったクラヴィスは、ジュリアスの手をつかむとぐいぐいと引っ張って部屋から出ようとした。
「クラヴィス、陛下にお礼を申し上げてからだ。ずっと遊んでいただいたのだろう?」
ジュリアスを見上げて、アンジェリークを振り返って見て、クラヴィスは床に座り込んでいるアンジェリークのところに戻った。首に抱きついて女王陛下の頬にキスをして、それからとことことロザリアの方に行き、こちらにもキスをして、ジュリアスの元に駆け戻っていく。その姿を見ていたアンジェリークは、
「ふぅん……クラヴィス、ジュリアスのこと好きなんだ」
小首をかしげて言った。その言葉に、ジュリアスの足元まで来ていたクラヴィスは固まった。ジュリアスのことが好きなわけじゃない。と言うよりは怖い。
でも早くかあちゃんとこにかえりたいから。こわいけどがまん。
と背の高いその人を見上げながら思ったちょうどそのとき、ジュリアスが笑った。それはもう、信じられないくらいに優しい顔で。
小さなクラヴィスが自分のほうへ駆けてきたとき、ふしぎな感動を覚えたジュリアスは、クラヴィスと目が合った途端に自分でも気づかずに笑顔になって、思わず手を差し伸べていた。
あ…。こわくないや。
自分を抱き上げようと伸ばされた両腕に素直に抱き取られながら、クラヴィスは何だかとても安心して、いい気持ちになった。
こわいとおもってた人、こわくない。ジュリアスやさしい。
ジュリアスに抱かれて宮殿の長い回廊を行くうちに、遊び疲れていたクラヴィスはうとうとしていた。しっかりと大きな存在に守られている安心感と、あたたかさとが心地よかった。
女王のところから引き取ってきてすぐに昼の休憩時間に入ったので、ジュリアスは女官の手を借りてクラヴィスに食事をさせてから闇の館に送り返そうとした。このまま宮殿に留め置いても、今のクラヴィスは役立たず以外の何ものでもないからだ。ところが、クラヴィスは頑として首を縦に振らず、ジュリアスの服を握り締めて放さない。
「なぜそのようにわがままを言うのか。館に帰ったほうが遊んでくれる者もいようし、そなたのためだと思うのだが。私も、他の者たちもみな仕事がある。そなたの相手ばかりはできぬぞ」
ルヴァに言われたとおり、抱き上げて話しかけてみた。難しいことを言ってもわかりませんよとルヴァに注意は受けていたが、この年頃の子がどの程度まで話を理解できるのかはジュリアスのあずかり知るところではない。大人と話すのと大差ない話し方で話すしかなかった。
そしてクラヴィスはといえば、ジュリアスに話しかけられても泣かなくはなったが、相変わらず無言の行を続けていた。何とか早くかあちゃんのところへ連れて行ってもらいたい。だから絶対にジュリアスからは離れるもんかと、何と言われても首を縦に振ることはなかった。一言もしゃべらず口をつぐみ、ジュリアスの服をしっかりとつかんだままだった。ジュリアスから離れたらかあちゃんとこには帰れないと思い込んでいるクラヴィスのほうも必死なのだ。
何度か言い方を変えて話しかけてみたが、クラヴィスはじっと見つめるばかりでまったく返答をしないので、ついにジュリアスも諦めた。あどけなく可愛らしい、気弱そうな外見からは想像できぬような頑固さだと少しおかしく思いながら。
仕方なくその日は光の守護聖がそのまま子守役に就任の運びとなった。テレパシーなんていう気の利いたものは持たない光の守護聖は、いくら見つめられたところで「かあちゃんとこにつれてってほしい」と思っているクラヴィスの気持ちがわかるはずもなく、自分にひっついたまま離れないこの幼児を当面どうするかという問題に頭を悩ませるばかりである。
大人のそなたもなかなかに扱いにくいところがあるが、このように幼いときからすでにその萌芽があったとは。人の性格の基本というものは変わらぬものなのであろうか。
その日の午後、守護聖たちは急な招集を受けた。闇の守護聖幼児化対策会議のためである。クラヴィスがこの先も連日宮殿にいすわるつもりであるならば、それなりの対応策を講じなくてはならない。
闇の守護聖が子どもになってしまったことはすでに宮殿内各部署に連絡が回っており、守護聖たちの手元にも正式な書類が届いていた。が、ルヴァ以外の守護聖はこの会議で初めて子どもになったクラヴィスを目の当たりにしたわけで、当然ながらひと騒動が起こった。会議室でジュリアスの膝の上に黒髪の幼児がちょこんとすわって、自分を抱いている人を見上げては金の髪を引っ張ったり顔に手を伸ばして触れてみたり服の飾りをいじってみたりしている姿に皆一瞬唖然とした。その幼児がクラヴィスだと頭ではわかっていても、いつもの彼とのあまりの違いにまず驚き、幼児の行為を容認している首座にも驚いていた。最初の驚きが去って、「わー本当だったんですねー」などと言いながらマルセルやランディがクラヴィスの頭をなでにきたり、「私にも抱かせてください」とリュミエールが母性(?)を発揮したりという一連の手続きを経た後、会議はようやく本題に入った。
いかにクラヴィスが怠慢だと言われていたからといって、仕事がなかったわけではない。クラヴィスの担当とされているものについては、支障が起きない程度にはきちんとこなしていた。それを他の守護聖たちに適当に割り振り、さらには宮殿に仕える者たちにクラヴィスを任せきりにするのはあまり良策ではないというジュリアスの考えから、クラヴィスが宮殿にいる間の子守も守護聖8人に適宜割り振られることになった。
「お言葉ですがジュリアス様、なぜ俺たちが子守をしなくてはならないのですか。というよりも、その状態のクラヴィス様は執務室にいらっしゃっても仕事にはならないと思いますが」
もともとクラヴィスと相性が悪いオスカーとしては、そんな相手の子守なんか金輪際したくはないところである。
ジュリアスは、今度は机に身を乗り出して手近な紙に落書きをしている幼児に目を落とすとため息をついた。
「無論私もそう思ってこれに言って聞かせたのだが、どうでも宮殿にいるつもりらしい。言葉を発しないので理由はわからぬのだが……。とにかくクラヴィスが頑としてここを動かぬ以上は、それを前提に対策を立てる必要があると考えた。これだけ幼いと、いろいろと心配な面がある。自邸にいる間はまだよいとしても、多くの人間が出入りする宮殿や他の場所ではな。
宮殿に勤める者は皆身元のしっかりした、信頼できる者ばかりだ。だがわずか2歳の守護聖の相手をしてやり、なおかつ完璧に守り通せる者という基準では選ばれておらぬ。誘拐される危険性を考えれば信頼できる年長者の目が必要だ。信頼という観点からすれば常に守護聖の誰かと共にあることが望ましいと考えるが、どうか。時にオスカー、そなたなどは理想的だと思うのだが?」
「いえ俺は。護衛についてはご期待に沿う自信がありますが、幼児の相手となりますと守備範囲外です。保父としての訓練は受けておりませんから」
強さを司る守護聖にも弱点はあるのだ。腰が引けている。そんな中、クラヴィスの世話係を自他共に認めるリュミエールが名乗り出て、「あの、僭越ながら私がすべてのお世話をさせていただきたく思います」とまで言い切ったのだが、リュミエールにだって仕事はある。いつ元に戻るかもわからぬのに、何日もの間ずっとクラヴィスにかかりきりというわけにも行かぬだろうとジュリアスに言われて、しぶしぶローテーションを組むことに賛同したのだった。
守護聖にはそれぞれ仕事がある。よって執務時間内は当番の守護聖の執務室に保育コーナーを作り、クラヴィスの世話は基本的には女官に任せる、ただし当番の守護聖は必ず執務室でクラヴィスを見守り、出かけるときには常に同行すること。
そんな条件で日替わりで面倒を見ることになった守護聖の面々は、会議の終了を告げられて、予想外の事態にある者はわくわくし、またある者はため息をつきながら解散したのだった。
5. 子守効果
クラヴィスが幼児化した翌日、すなわち子守ローテーション1日目。この日はランディが子守役となっていた。
相変わらずジュリアスから離れたがらないクラヴィスだったが、光の執務室の場所を教えていつ来ても良いと言い聞かせ、何とか風の執務室に送り込むことに成功した。ランディは小さい子と遊ぶのは久しぶりだと張り切っているし、マルセルは小さなクラヴィスが見たくてそわそわしてしょっちゅうのぞきに来るし、ゼフェルはゼフェルで、ランディ野郎はでーじょーぶか、なんて口には出さないけれど気にして、いつになく何回も顔を出す。ランディの執務室には世話係とされた女官も控えていたのだが、彼女の出番はあまりないくらいに、少年たちはクラヴィスの面倒をよく見た。
遊んでもらっている最中に時々「ジュリアス、いなくなってないかな」と不安になるのか、クラヴィスは三人組のうちの誰かをひっぱって光の執務室にやってくるが、ジュリアスがちゃんとそこにいることを確かめれば満足するようだった。結局その日は、年少組三人が代るがわるクラヴィスと遊んでやりながら無事に過ぎた。
そして2日目、リュミエール。
水の守護聖はまるで母のようにきめ細かな気配りで世話をして、たいそうクラヴィスに気に入られ、さらにこの日もマルセルはクラヴィスと遊びたくて、水の執務室をしょっちゅう訪れていた。クラヴィスは、ときおりリュミエールをひっぱって光の執務室に現れるが、少しの間ジュリアスに抱かれて何かしら話しかけてもらい、リュミエールの部屋へ戻れと言われれば大人しく戻って行った。
相変わらずクラヴィスは話さない。だが何もしゃべらない代わりに、今はまだジュリアスはかあちゃんのところへつれてってくれないらしいと感じていても、泣いて騒ぐこともなかった。眠いときにぐずる程度で、誰かにかまってもらっていれば機嫌よくしているクラヴィスに、子守ローテーション作戦はどうやら成功のようだとジュリアスを安堵させた。母親代わりの優しい人に見守られながらマルセルや女官と楽しく遊び、この日も大過なく過ぎた。
そして3日目、オスカーの日。朝一番にクラヴィスはジュリアスに連れられて炎の執務室を訪れた。
炎の守護聖は会議の際、守護聖が回り持ちでクラヴィスの相手をすることにはっきりと難色を示した唯一の人物である。
「ああこれは、ジュリアス様、クラヴィス様」
「今日はそなたの番であったな。よろしく頼む。クラヴィスの相手は女官に任せて、そなたは執務を続けていてよい。ただクラヴィスを置いて執務室を出たりはするな。常にそなたの目の届く範囲に置くように。注意点はそれだけだ」
元々この二人の相性がよくないこともあり、ジュリアスも多少の懸念を抱いていたものらしい。基本的には女官任せでかまわないと改めて告げて、念押しするかのように注意点を挙げ、幼児をオスカーの手に委ねた。
「かしこまりました。では……クラヴィス様、こちらへ」
執務室の一角が臨時の保育室のようになっている。道路や町の絵がプリントされた小さなカーペットが敷かれて、自動車やら積み木やらブロックやらぬいぐるみやらが入った箱が一つ。画用紙やクレヨン、あとは絵本が何冊か。そして本日の保育係の女官が一人。
「よろしいですかクラヴィス様。この女官があなたの世話係です。おもちゃがありますし、この人と遊んでいてください。俺はこちらで仕事をしています。用があったらお呼びください」
およそ2歳児に話しかける口調ではない。他の人間にはけっこうくだけた口調で話すオスカーも、相手がクラヴィスであるとなるとどうしても丁寧な言葉遣いになってしまう。2歳児がどこまで理解したかはわからなかったが、とにかくクラヴィスがおとなしくカーペットに座り込んで遊び始めたので、オスカーは自分の仕事に戻った。
ところが1時間もしないうちにクラヴィスはおもちゃにすっかり飽きてしまったようだった。女官が簡単な手遊びやら何やらで気を引いているが、もぞもぞと落ち着かない。ついには女官の「お待ちください」という声も聞かずに、クラヴィスのためのコーナーから出て執務机までやってきて、オスカーの手元をのぞきこむ始末。
「どうなさいました?」
オスカーがペンを置いて尋ねると、一緒に来てくれという仕草をする。
そう言えば、子どもの姿になってから一言もしゃべらないとジュリアス様がおっしゃっていたな。
何が望みなのか、行動から推し量るしかない。静かに座って遊んでいるばかりで、飽きてしまったのか。
「俺と遊びたいんですか?」
無言で引っ張るクラヴィスに、ではと立ち上がった。
世話係としてついている女官に「クラヴィス様と何をして遊んでいた?」と尋ねると、「積み木と車で遊んで、あとは絵本など読み聞かせを」との答えだった。昨日までは少年たちが遊んでくれていたが、遠慮からかオスカーの執務室には彼らは姿を現さない。小さな男の子なのだから、大人のクラヴィスとは違って長い間じっとしてはいられないのもうなずける。女官と話している間、クラヴィスはものめずらしそうにオスカーの帯剣のさやに触れていた。それに気づいて、オスカーは教えた。
「これは大剣です。中身はよく切れて危ないのであなたにお見せするわけには参りません」
どうやら怖いもののようだと悟って、こぼれ落ちそうに大きな瞳でオスカーを見上げながらあわてて小さな手を引っ込める仕草がかわいくて、オスカーの顔には自然と微笑が浮かんだ。
「ちゃんとさやに入っているから大丈夫ですよ。……そうだ、剣術ごっこをしてみますか?」
首をかしげたクラヴィスに、こうするんですと聖地新聞を取ってきて、丸めて棒状にしたものを渡した。自分も一本を持つと「これで打ち合うのですよ」と教えて、構えの姿勢をとった。
片隅だけが保育コーナーだったはずなのに、いつの間にか炎の執務室全体が遊び場と化していた。オスカーはクラヴィスの相手をしてやりながら、自分の子どもの頃のことを思い出していた。兄弟や友達と馬を駆って草原を走り、剣術の鍛錬に明け暮れた日々。その始まりは、こんなふうにおもちゃの剣を使った剣術ごっこだった。すぐに飽きるか、めんどくさがってやめてしまうかと思った小さなクラヴィスは、オスカーのそんな思惑に反して何度でも挑んでくる。
普段見せるあの虚無的な顔は長い聖地暮らしにうんざりしているだけで、この方の魂は実は案外熱いのかもしれん。
それは新たな発見だった。
新聞の剣で打ち合ったり、高い高いや肩車をしてやったりしているうちに、何だかすっかり打ち解けた仲になり、言葉はないものの笑みを交わすようになった頃。ランディが書類を持ってやってきた。クラヴィスを肩車してやっているオスカーを見て、ランディは目を丸くした。
「オスカー様……」
「ランディか。書類は机に置いてくれ。俺がそいつをチェックしている間、ちょっとクラヴィスと遊んでいてやってくれないか」
いつの間にやらクラヴィスを呼ぶときの敬称まで外れている。それは、闇の守護聖に対するこれまでの苦手意識や距離感が一掃された証でもあった。