小説書きさんに100のお題
6. リンゴ (04/03/31)
昼の休憩も終わろうかという頃合いに、リュミエールが闇の執務室を訪れた。
「りんご、か…」
つややかな大ぶりの果実を見てクラヴィスは低く言った。差し出された籐かごの中には、赤いリンゴがみっつ。
「ええ。箱いっぱいいただいたものですから、皆様にもおすそ分けをと思いましてお持ちしました。」
クラヴィスの眉宇がほんのわずか寄せられるのを見て取って、リュミエールは「りんごはお気に召しませんか」と尋ねた。果物類が好きではないとは聞いていなかったと思いながら。
「…嫌いではない。」
「ならばよろしゅうございました。お食べになるのでしたら、皮をむきますが。」
「今はよい。そこに置いていってくれぬか。」
執務机の一隅を示されて、リュミエールはそこにかごを置くとクラヴィスの前を辞した。静かに扉が閉じられるのと同時にため息を洩らす。
嫌いではない。それは嘘ではなかった。どちらかといえば好みの味だろう。しかし、リンゴの赤を見ると複雑な思いが去来する。
聖地に召される以前の生活では、リンゴは手の届かない高級品だった。市でうずたかく積み上げられ、庶民が気軽に買っていく果物もいろいろあり、クラヴィスもそうしたものを口にしなかったわけではない。けれどもリンゴはそういう品とは違っていた。遠い土地から運ばれてくる珍しい果物であったリンゴは、果物専門店でしか取り扱われていなかった。化粧箱に行儀よく並べられて店の中の目立つ場所に飾られたそれは金持ちが贈答品にするような高級な果物で、当然ながらクラヴィスや母が口にできるようなものではなかった。つやつやと赤く輝く実は、幼いクラヴィスの目に宝玉のように映った。単なる食べ物というより、もっと貴重な何かででもあるかのように、赤いリンゴは彼にとって特別なものだったのだ。
聖地に連れてこられて驚いたのは、自分が住むことになるという館ではそうした高価な果物が無造作にかごに入れられており、自由に食べていいのだと言われたことだった。リンゴだけではなくその他見たこともないような色鮮やかな果物がいくつも盛られたかごは、まだ幼い闇の守護聖への心遣いだった。闇の館のたたずまいは幼い子には重厚に過ぎるかもしれない。暗い館を恐がりはしないか、せめて明るい色の果物でも並べてみてはどうか。そういった配慮であったものらしい。
「ほしいときに召し上がっていいのですよ」と言われて、文字通り手の届く果物になったリンゴ。それは故郷の店で見た赤い宝玉と同じく真っ赤に熟れていて、クラヴィスの知らなかったよい匂いを放っていた。が、いつでも好きなときに丸かじりしてもいいと言われても、結局は手を出すことができないままだった。クラヴィスが決してかごから果物を取ろうとしないので、館の者はキャンディボックスを置いてみたり、クッキージャーを置いてみたり、いろいろと子どもの気を引きそうなものを並べたが、クラヴィスがそこから食べ物を手に取ることはなかった。小食な質であったために、しっかりと三度の食事が出て、しかもおやつの時間まである生活になった当時はそれ以上食べ物がほしくなかったということもあった。だがそれ以上に彼の心に影を落としていたのは、自分だけがそれを食べられる境遇になったことへの一種の罪悪感であったかもしれない。
フッ、暗い執務室で口元が歪む。それが今さらどうだというのか。あのかごから取ることはなかったが、きれいにむかれてデザート皿に盛られたリンゴは口にした。これはリンゴですよと言われて、あの輝かしい赤の中身が白っぽい果肉であったことにびっくりした覚えがある。おやつの時間には贅沢な焼き菓子が出されて、それも食べた。今ここでリンゴを口にすることをためらったところで、それが何になるだろう。
リュミエールが置いていったかごからひとつを手に取るとそのままかじってみる。甘酸っぱくさわやかな味が芳香とともに口に広がった。もう一口、二口と食べていると、ノックの音。入室をうながすとジュリアスが入ってきた。首座はリンゴにかじりついているクラヴィスに、目を見開いた。
「……何をしている。」
「りんごを食べている。」
「見ればわかる。なぜそのような行儀の悪い真似をしているのかと問うているのだ。」
「…リュミエールがくれたのでな…」
「答えになっておらぬ。」
クラヴィスはかごからもうひとつを取るとジュリアスに放ってよこした。とっさにそれを受け止める。
「何のつもりだ。」
「せっかくだからお前も食べて行け。うまいぞ。」
「遠慮する。私のところへも同じものが届いているしな。」
ジュリアスは執務机まで来るとリンゴをかごに戻した。
「そうか。では…」
クラヴィスは小さなナイフで食べかけのリンゴを二つに切り分けると、まだ口をつけていない半分を手渡した。
「一人でひとつは多いと思っていたところだ。手伝ってくれ。」
「…執務中だというのに…」
ため息をつきながら、それでもジュリアスは書類を机に置き、リンゴを受け取った。
7. 負けられん (04/04/07)
このところオスカーとリュミエールが立ち話をしたり連れだって歩いている姿をよく見かけるようになって、守護聖も含めて宮殿中の者が首をひねっていた。炎の守護聖は光の守護聖と、そして水の守護聖は闇の守護聖とそれぞれ懇意にしていて、この組み合わせで見かけることは多いが、炎と水の取り合わせは珍しい。光と闇の守護聖に続いて先日この二人も女王に呼ばれたのだが、彼らもまた何があったのか口を閉ざしたままだ。
仲良くねと言われた当人たちがそのことについて何も言わぬ以上、ひそかにサポートを頼まれた自分たちがそれをばらしてしまうのは得策ではない、ということでオスカーもリュミエールも同意していた。
「それにしても…サポートと言ってもどうしたらよいのでしょうね。」
「俺もお手上げだ。そっと見守るくらいしかないんじゃないか。何か手出しをしたらヤブヘビって感じもするんでな。」
「その通りです。」
二人の間で交わされる会話は、同病相憐れむというか、傷をなめ合うと言ったらいいのか。互いの窮状をぼやき合うことに終始していた。
女王に呼び出されて以来、二人はそれぞれの敬愛する先輩の様子をそれまで以上に注意深く観察していた。そして気がついたのは、二人が仕事の面で対立することがあってもそれ以上ではなく、ときおり飛び交う嫌味や叱責は彼ら二人には挨拶代わりのようなもので、さほど深刻に受け止めるようなものではないということだった。ひどく仲が悪いというのは誤解だったかもしれないとわかれば、端からの口出しは余計なことに思えた。
「まさか、とは思うのですが…」
リュミエールの眉がくもり、言葉は途切れた。
「何だ? 最後まで言えよ。」
「大きな声では申せませんが、陛下が…その……退屈しのぎに我々守護聖のことをかまっている…などということは…」
オスカーは我が意を得たりと大きくうなずいた。
「それだ、リュミエール。俺もあのときそういう印象を受けた。だからジュリアス様とクラヴィス様のことも静観でいいんじゃないか?」
女王命令を無視する形になるのは少々心苦しいが、至高の存在となった少女の人となりをよく知る彼らはそう結論を出して右と左に別れたのだった。
*****
水の守護聖は例によって例の如く、闇の館を訪ねて休日の午後のひとときをクラヴィスと過ごしていた。以前はジュリアスのことは禁句と考えていて、こうした時に彼の名を出すことはなかった。しかしどうやらクラヴィスはジュリアスを嫌ってはいないらしいとわかったので、何となく心にかかっていた女王命令のこともあり、尋ねてみる気になった。
「あの、クラヴィス様。」
「ん?」
「ジュリアス様のことをどうお考えですか。」
「何だ、唐突に。」
「先日、陛下よりお話がありました。クラヴィス様とジュリアス様に仲良くしてもらいたいので、そのお手伝いをするようにとのことでした。」
リュミエールはいきなり核心に切り込んだ。クラヴィスは黙って聞いている。機嫌をそこねた様子はなかった。
「…で?」
「ですから、まずどういう感情をお持ちかを教えていただければ、私もお手伝いしやすいかと思いまして。」
「別に…手伝いなど必要としてはおらぬ。」
「と言いますと?」
ふぅ、とクラヴィスはため息をついた。
「あれはもともと陛下の勇み足というものだ。」
「クラヴィス様もお口の悪い。」
闇の守護聖はフッと小さく笑みを洩らした。
「そうか?」
「少なくともジュリアス様のお耳には入れられない言葉でしょうね。」
「…だから…あれのおらぬところで言っている。」
クラヴィスは遠くに送っていた視線を傍らの相手に戻した。
「お前は私とジュリアスの仲が悪いと思っているか。」
「……たぶん、非常によろしいとは言えないかと。けれどもひどく険悪でもないようにお見受けします。」
「ならばそれでよいではないか。案ずるな。我らもだてに年を重ねてはおらぬ。陛下の意に添うよう、ある程度のことはしようとジュリアスとも話がついている。」
「さようでございましたか。安堵いたしました。」
心底ほっとした風に微笑むリュミエールに、クラヴィスは何か優しい調べでも聴かせてもらえないか、とハープを演奏してくれるようにうながして、目を閉じた。
*****
翌日、宮殿でリュミエールがオスカーを呼び止めた。
「ああ、オスカー。実は昨日、クラヴィス様にジュリアス様のことをお尋ねしてみたのです。」
「何だと? お二人の関係についてはノータッチってことじゃなかったのか。」
「別に、そのようにあなたとお約束した覚えはありませんからね。それに私が何かをしたということではなく、単にお尋ねしただけですから。クラヴィス様は案ずるなとおっしゃってくださいましたので、あなたにもそのことをお伝えしたくて。」
にっこり、笑みを浮かべて会釈をし、リュミエールは去っていった。残された炎の守護聖は、拳を握りしめる。
「優しい顔で俺と話を合わせておいて、裏では一人で動く、か。だから俺はあいつが気にくわないんだ! あんな奴には負けられん!」
炎の守護聖、妙な具合に負けん気を燃やして、さらに力を込めて拳を握った。
8. うさぎ (04/04/09)
うさぎはなあ、坊主、ひとりぼっちにしておくとさびしがって死んじまうんだよ。夜の街の片隅で、小さな生き物を売っていた男はそう言った。だからつがいで売っているんだ、と。
「死ぬってなあに?」
「触ってみろよ。」
男はクラヴィスに小さなうさぎを抱かせてくれた。柔らかな感触と温もりと、生の証である鼓動までもが伝わってくる。
「あったかい…」
「だろ? そいつは生きてるからな。死んだら、冷たく固く、動かなくなるんだ。」
「ひとりぼっちだと冷たくなっちゃうの? ほんとに?」
「ほんとかどうかは知らねぇ。俺はいつもたくさん連れ歩いてるんでな。ひとりぼっちにしたことがねえんだよ。」
「だったらおじちゃんのうさぎはぜったいに死なないね。」
男は笑った。クラヴィスも笑ってうさぎを返し、じゃあねと手を振った。母とともに占いの仕事をしての帰り道、出会ったその男と再び会うことはなかった。男の言葉だけが幼い心に残った。
聖地に連れてこられてまず感じたのは、圧倒的な孤独。その頃は孤独という言葉も知らなかった。だが心の底から寂しいと思ったのは初めてだった。美しい聖地の中の、自分は異分子だった。孤独の冷気は彼を押し包み心を冷やし、そこから体も冷たくなってくる気がした。こういうことか、とあの男の言ったことがわかった。
さびしいと死んじゃうってほんとかもしれない。
うさぎじゃなくても、ひとりぼっちでさびしいと死んじゃうかもしれない。
ぼくもこのまま冷たくなって、動かなくなっちゃうのかもしれない。
けれども聖地にはジュリアスがいた。初めて彼を見たとき、聖画から抜け出してきた天使のような姿に息を呑んだ。彼はきつい目で自分を見て、忘れられない言葉を投げつけてきた…。
後になって、ジュリアスは自分よりも前に聖地に連れてこられて、大人の中でずっとひとりぼっちだったと知った。お前もさびしいうさぎだったのだとわかった。そのようなことをお前に言ったら怒るかもしれぬが…。
しかし今にして思う。お前と出会えたのは、おそらくは良いことだったのだろう。うさぎは2匹になって私たちは死なずに済んだからな。
私が生をつないだことに価値があったかどうかはともかく、困難な時代にお前という守護聖の長を得たことは、この宇宙にとっては僥倖であったに違いない。
9. モノ (04/04/14)
人に寿命があるように、生き物に寿命があるように、ものにも寿命がある。
人が作ったものであっても、それが作られた目的のために働ける間は、命があると言えよう。
たとえば、衣服。
たとえば、書籍。
たとえば、工具、乗り物、家屋、調理器具。
例を挙げればきりがない。
では、芸術作品はどうか。
何かの用に供するために作られるのではないそれらには命がないのか。
そのようなはずはない。
人の魂の輝きの結晶であるものが、命を持たぬなどということは断じてない。
それでは、土塊は?
石ころは?
自然に存在する、無生物は?
一般的には生き物と見なされない、人の役に立つとは見えないそれらには、命はないのか。
私はそうは思わぬ。女王陛下の統べるこの宇宙に存在するすべてに、存在する意味がある。命がある。
この宇宙に在るすべてのものに、光の祝福あれ。
10. 間に合わない (04/04/14)
なぜそう思ったのだったか。何に間に合わないのか。
ただ、焦燥だけがあった。
間に合わない。
間に合わない。
その絶望と焦燥を胸に、それでも走り続けた。
目覚めたジュリアスの体は汗に濡れ、今しがたの夢に動悸していた。
ただ闇雲に走っていた。何か大切なもののために。
*****
そなたなど認めない。
幼いクラヴィスに初めて会ったとき、やはり幼かった私が叫んだ言葉。
感情の爆発を人にぶつけたのはあのときが最初で……最後だったかもしれぬ。
もろに浴びせられたあれは、さぞいやな思いをしたであろう。私は突然の別離に動転していて、その場に居合わせたクラヴィスに当たったのだ。…そう、あれは八つ当たりだったと私は知っている。己が悲しいからといってそれを他人にぶつけて良い道理はない。それも、何の関係もない者に。
あの方が聖地を去られたのはクラヴィスのせいではない。落ち着いてから思い返せばそれは明らかなことだった。
自分のしでかしたことに気づいて、幾度か謝罪と和解を試みた。あれこれと誘ってみた。だが、答えは「いやだ」「行きたくない」「したくない」の一点張りだった。いつしか私は諦めてしまった。クラヴィスとは仲良くできぬのだと。
私の言葉は、個人的な親しみのこもらぬ事務連絡か苛立ちを込めた叱責ばかりとなり、対するあれの答えは常に否定的なものだった。
幼い頃は拒絶、無視、黙殺であり、長じてはそれに嫌味、冷笑、皮肉、揶揄が加わった。
それでも私はクラヴィスが嫌いではない。むしろ、親しくなりたい、心の奥底ではずっとそう思ってきたのではなかったか。それなのに私たちはおよそ会話とは言えないようなやり方でしか会話ができなくなってしまっていた。
陛下のおかげで始まった、クラヴィス言うところの「なかよしごっこ」は、ひそかに私が待ち望んでいたものなのかもしれぬ。
すっかり諦めていた。親しくなりたいと願った頃があったことすら忘れていた。陛下のお言葉に、今さら仲良くなどできようはずがないと最初は思った。もう間に合わぬ、と。
しかし変えたいという気持ちがある限り、間に合わないなどということはないのかもしれぬ。いや、間に合わないことはない。他のことであればそう言い切るに違いない。
我が身に関してだけは同じことが言えない私は臆病なのだ。クラヴィスとの関係が完全に決裂することを見るのが怖さに、間に合わぬと思い込もうとしていた。何をしても無駄なのだと諦めたつもりになっていた。何もしなければこれ以上悪くなることはない、どうせ無駄なのだ、もう何もするまい。そうやって私は自らの心の声に耳をふさぎ、ついにはその存在を忘れた…。
己の怯懦に気づかせてくださった陛下に感謝する。たとえそれが…陛下におかれては退屈しのぎの遊びとして思いつかれたことであったにしても、だ。
至高の存在を、心の中でとは言えその御名でお呼びする不敬を許し給え。
アンジェリーク、我が敬愛する女王陛下。旧弊にあえぐ聖地に刷新の風を起こし、女王候補であられた頃から、硬直した私の考え方を幾度となく改めさせてくださる。やはりあなたは我々が女王と仰ぐにふさわしい方であった。
ジュリアスはベッドから出ると宮殿の方角に向かってひざまずき、深く礼をとった。