せつないふたりに50のお題



41. 唯一の居場所

ジュリアスがやってくるのはそう、例えば私の出した書類に不備があったのを見つけたとき。怒鳴り込んでくるのが面白くてときどきわざとやっているのを知っているのか。真面目に怒るお前の顔が見たくて、と言うよりは、お前を呼びたくてやっていることに気づいているのか。どちらにせよお前は私の思惑通りにやってきて、思い描いた通りに私に説教をして、一渉り吐き出してしまうと、少し疲れた顔をする。
そこを見計らって椅子に座らせて茶を淹れてやって、落ち着かせて、書類の訂正をして手渡すと、確認しながら諦めたような笑みを見せて嘆息と共に言う。
「最初からこうしておいてくれれば良いものを」
「ああ、そうだな」
だが完璧なものを提出してばかりでは、二人で茶を喫する暇さえないからな。
「そなたはいつも物分かりよくそうだなと同意しておいては、同じようなことを繰り返す。信用できぬ」
そうは言うが何日もの間ろくにお前の顔も見られないでは、生きている甲斐がない。このくらいは許してくれ。
人に眠りが必要なのと同じくらいに、私にはお前が必要なのだ。そしてお前にも私が。
こんなことをあからさまに口にしたら何と言って怒り出すかわかったものではないから、面と向かって言いはしないが、その程度の自惚れはかまわぬだろう? 現にお前は目に見えて寛いだ表情になった。私の隣はお前にとっても居心地が良いのだと、そう思わせておいてくれ。


42. 簡単

恋というのは思わぬところに落ちているものであるらしい。何がきっかけとなるかなんて、ほんとうにささいなことなのだ。それを身を以て思い知った光の守護聖なのである。「何でこんなことに」と歯がみしたい思いだが、いったんそうなってしまうと抗いようがなかった。抗おうとすることは即ち強く意識することに他ならない。どんどん泥沼へ入り込んでいく。

問題のその日、ジュリアスは珍しく執務開始時刻ぎりぎりに出仕した。オスカーとの打ち合わせに必要な書類に目を落としながら、急ぎ足で執務室へ向かっていた。当然ながらものすごく前方不注意モードだ。そしてお約束〜。
ドンッ☆
「うわっ」
何かにしたたかにぶつかり、反動でしりもちをつく。手にしていた書類があたりに散乱していくのをスローモーションの映像のように目の端で捉えながら。
「……大丈夫か」
目の前には黒衣、聞き慣れた声、目を上げるとクラヴィスが無表情に見下ろしていた。差し伸べられた手に目が吸い寄せられた。白い、しなやかな指。
「どうした。どこか痛めでもしたか」
ジュリアスが一向に立ち上がろうとしないので、少し心配になったものか、重ねて声がかけられた。もう一度見上げる。こころもち眉をひそめてジュリアスを凝視している顔が、美しかったのだ。
どきん。
これで簡単に恋する男の一丁上がり。
「すまぬ」
言いながら、差し出された手に自分の手を重ねて立とうとして、意外にあたたかな手に、今度はどきどきどきーん。ますますいけない。一気に恋は重症化した。
恋をするきっかけなんて、単純なものなのである。
「お前、本当に大丈夫か?」
いぶかしげにクラヴィスに尋ねられて「大事ない」とは答えたのだが。

何だか、少女が少年に恋する瞬間を素で体験してしまった光の守護聖ジュリアス25歳、性別男。最初は「まさか」と思った。
この私が恋を? それもよりによって……あのクラヴィスに!?
何がきっかけだったかと問われれば、思わず「面目ない」と呟いてうつむきたくなるような、そんなささいなことでしかない。こうなった以上もういっそ開き直って、さわやかな青春満開学園物的恋愛に突入か? でも男が男に恋してしまった時点で「さわやかさ」とは程遠いかもしれない。第一「青春なのだ!」って言い張るにも双方トウが立ちすぎている。ま、そんなこんなで悩み深い首座様なのであった。
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43. おきざり

昔まだ随分と若かった頃、緑の守護聖が花や木についてあれこれと語って聞かせてくれたものだ。紫陽花は印象深かったのでよく覚えている。花に見える部分は実は花ではないとか、土壌に含まれる成分により色が変わるのだとか聞いた。白っぽい色、濃いピンク、水色や青、紫がかった青、赤紫と多彩な色を見せてくれる紫陽花。中でもしっとりと濡れた青紫は、何とはなしにクラヴィスを想起させると常々思っていた。どこからこの連想が働くのかと考えてみれば、雨に打たれながら佇む姿を見たあの日からだった。

そぼ降る雨に覆いつくされて全てが無彩色に煙る風景の中、遠目に、悄然としているように見えた後姿。黄昏という時間帯がいっそうその印象を強めたものか。
思わず声を張って名を呼ぶとゆっくりと振り返りはしたものの、私であると見て取って視線をそらしてしまった。森の湖で女王候補からの伝言を正しく伝えないまま決裂して以来、可能な限り距離を保ったまま数週間が過ぎていた。このときも結局それ以上はかける言葉が見つからずその場から動こうとしない後姿をしばらく見続けたが、どう見ても背中が私を拒絶していて、黙って立ち去るしかなかった。悄然と、というのは私の受けた印象に過ぎぬ。実のところ何を思ってああしていたのか、わからずじまいだった。
この直後からクラヴィスはしばらく体調を崩して出仕してこなかった。復調して再び出仕するようになったクラヴィスに、たとえ聖地に流行り病のようなものはなくとも、過度に体を冷やせば体調を崩すのも当たり前だと言わずもがなな小言を言った。あれは言い返すでもなく無表情に聞き流していた。

あの女王試験から既に何年もが過ぎ去って、カティスはとうに聖地を去っている。そして今や新宇宙に新しい女王が君臨している。望むと望まざるとに関わらず、時は移り行く。新女王の意向で聖地の気候は穏やかなばかりではなくなった。今日も、嵐とまではいかぬがかなり強い雨が一日中降っていた。執務室の窓から眺めた外に紫陽花が見えた。
雨に濡れる紫陽花。
銀色の雨の中に佇むクラヴィス。
あの後姿を思い出して、それが頭から離れない。執務を終えて私邸に戻り、いったん眠りについたものの何となく胸騒ぎがして目が覚めた夜半。雨はまだ降り続けていた。昼間ほどひどい降りではない。小ぬか雨の中を、傘をさして外に出てみた。程なく雨の中を歩くクラヴィスを見つけて、私の気がかりはこれだったのだと、後を追いながら声をかけた。
「何をしている。濡れるぞ」
かなり長い時間をさ迷っていたものであろう、すでにぐっしょりと濡れそぼっている彼には今さらだとわかってはいたが、とっさに出たのはそんな言葉でしかなかった。昔も今も、私はクラヴィスに対してろくな言葉を言えたためしがない。ゆっくりと、振り返って私を映した瞳が濡れているように見えてどきりとした。
「…お前か」
大して意味のある言葉ではなかったが、返答があっただけましというものだ。時の流れは私たちの関係をも変えた。黙殺されたあの時とは確実に違ってきている。とにかく、こんなクラヴィスを一人にしておくことはできなかった。
「わざわざ雨の日に傘も持たずに歩き回ることはなかろう。以前にもそれで熱を出したではないか」
「そんなことが…あったか…?」
不確かな口ぶりでクラヴィスが言った。
何か妙だ。
大またで近づいて傘の中に引き入れた。アルコールの強い匂いがした。
「酔っているな」
「…酒になど酔うものか…」
ふらつきながら悪態をつく。確かに、どれほど強い酒を飲んでもクラヴィスは乱れることがないとジュリアスも知っていた。だが今の様子は尋常ではない。
「濡れたままでは体に悪いし、もう時間も遅い。とにかく私の館へ」
放っておけば雨に打たれたまま一晩中を戸外で過ごしそうなのを、打ち捨ててはおけない。腕を掴んで歩き出すと、足元が覚束ないながらも素直についてきた。

自室に連れて入り浴室に押し込む。到底自分で自分の面倒を見られる状態になさそうなので、濡れた衣服を脱がせてやった。されるがままになっている相手に「何かあったか?」と尋ねると「眠れない」と小さな声で応えがあった。
「それで酒か」
「酒ではない。薬…」
明らかに酒の匂いもさせているということは、薬と酒を同時にやったということか。
「そうは言うが酒臭い。酒も飲んだであろう」
「さて、どうであったか…覚えておらぬ」
とろりとした瞳で見返されて、さらに言葉を重ねた。
「睡眠薬の類を飲んだのなら酒は飲むな。効き過ぎる。下手をすれば死ぬこともあるのだぞ」
クラヴィスらしからぬ酩酊ぶりの原因は、おそらく睡眠薬とアルコールの併用によるものだ。話しているうちにもまぶたが落ちてきそうになるので、あわてた。すっかり冷え切っている体を湯で温めてから寝かせようと思っていたがそれまで保ちそうになかった。こんな場所で裸で寝込まれては困る。濡れた髪と体をざっとバスタオルでぬぐってローブを着せ掛けた。
医師を呼ばねばならぬほどの状態ではないだろう。そうであればとっくに意識を失ってどこかで倒れていたはずだ。あとは摂取してしまった薬物が分解されるのを待つしかない。
引きずるようにして寝室まで連れて行くと、クラヴィスはベッドに倒れこんだ。腕を伸ばしてジュリアスの手を掴む。見上げてきた瞳がやはり濡れているように思えて、引かれるままにジュリアスもベッドに入る。光の化身を腕の中に抱き込みながら、クラヴィスは呟いた。
「カティスが逝った…」
ともすれば聞き逃しそうなほどに低い声を、ジュリアスはかろうじて聴き取った。
そうか、カティスが。
在りし日のことなど思って眠れぬまま薬に手を出したかと得心して、「観たのか」と尋ねてみたが聞こえるのはすでに寝息だけだった。
それはいつのことだったのか。何日も眠れなかったのかもしれぬ。私に向かって眠れないとこぼしたクラヴィスは今ようやく眠りの中。
吐き出して、少しは楽になれたか。
力の抜け始めた腕の中からすり抜けて、寝顔を眺めてみた。額に濡れた髪が張りついているのを払ってくちづける。ゆっくり眠れ。そう念じてもう一度クラヴィスの傍らに横になった。私もまた磊落な男の笑顔を思い出し、クラヴィスのせいで今宵はこちらが眠れなくなりそうだと思いながら目を閉じた。


44. ミステイク  -サイト開設二周年記念-

一つの数字についての疑問点を追及するうち熱くなり、結局のところその疑問点というのが自分の勘違いだということが明らかになって、言い争いの気分を引きずったままジュリアスはつい不貞腐れていい加減に謝ったのだ。
「はいはいすいませんでした」←そっぽ向いて、台詞棒読み状態
「…その言い方、わざと、か?」
「何がだ」
「お前な…謝る気など毛頭ないだろう」
「そのようなことはない。こうして謝っているではないか」
「それが謝る態度か」
「たまにはよかろう」
「何がたまには、だ。もともとお前が人に謝ることなどめったにないくせに」
「そなたと違って人に謝らねばならぬようなことはあまりしないのでな」
「口の減らぬ男だ」
「どちらが」
「お前に決まっていよう」
「……そう言えばそなたは、謝らなければならぬようなことをしでかしても謝らぬな」
「そうか?」
「そうだ。だいたいそなたは何ごとにおいてもいい加減すぎる」
「たとえば?」
「何か足りないものがあればすぐに私のところへやってきて、貸してくれといって持って行ったきりのものがどれほどあることか。鋏に計算機にペンにメモ用紙に……数え上げればきりがない。一向に返しにこないから仕方なく回収に行けば、まとめて返しては寄越すが感謝はおろか謝罪一つなしだ。本来は借りた者が返しに来るべきだとは思わぬのか」
「どういう経緯であれお前の手元に戻るのだ、問題ないではないか」
「だから、筋を通せと言っているのだ!」
「べきだの筋だのと、細かいことにいちいちうるさい男だ。お前の小言で耳にタコができる。見てみるか?」
「それは言葉の綾だろう! タコなどできるわけがない!」
いやみったらしく髪をかき上げて耳を見せようとするクラヴィスに、ジュリアスぶち切れ。
「そなたのそういうところが嫌いだ!」
「私はお前が好きだが…?」
「話をそらすな!」
「そらしてなどおらぬ。お前が好き嫌いのことを言い出したので、私もそれに答えたまでのこと」
「私が言った『嫌い』がそういう意味ではないことくらいわかるであろうに!」
「どういう『嫌い』だ」
「態度が嫌いだと言っただけで、そなた自身に対する好き嫌いは別の話だ」
「別の話、ということは、お前も私が好きだと取ってよいか」
「当たり前だ! 好きに決まっている!」
と、大声で宣言してふと我に返ったジュリアスは思った。そもそも、なぜこんな言い合いをしているのだったか。
「クラヴィス、私たちはなぜ言い争っているのだ?」
「首座殿の記憶力も相当にあやしいものだ。お前の勘違いが発端であろう」

何と言うか、ヒジョーに気まずい間があって。

……そうだった。会議用の資料の中の、クラヴィスがまとめたレポート部分の数字が違っているのではないかと指摘したが結局は私の思い違いが判明した。その程度のことなど「勘違いしてすまなかった」と謝ってしまえばそれで済んだはずだった。だが相手がクラヴィスだったのが災いして、私は素直に謝罪を口にするきっかけを失ったまま、言い争いとなってしまったのだった。
つい、うっかり。自分たち以外にギャラリーがいることを失念して声高に言い争ったということに気がついて黙り込んでいるジュリアスに、クラヴィスが言った。
「思い出したか」
ああ、完璧に。そしてここが会議の席上であることも思い出した。私たちは他の守護聖の前でつまらぬ言い争いを続けていたのか。それも、私の勘違いのせいで。
「面目ない」
「これで関係修復は成ったということでよいな?」
「うむ。では会議を続けよう」
会議室の空気が目に見えて柔らかくなった。

勘違いだったとは言え、始まりは確かに職務上おろそかにはできない(とジュリアスが考えるのも当然の)ことだったのだ。ところがクラヴィスと言い合ううちに論点が大幅にずれまくりそれまくり何やら雲行きが怪しくなって、しまいには筆頭二人のあまりにも下らない言い争いになってしまったため、他のメンバーは口をさしはさむタイミングを逸して息を潜めて成り行きを見守っているしかなかった。延々と子どものけんか並みの低レベルな争いが続くかに見えたのが、意外にすんなりと収まったので皆一様にほっとしていた。この際筆頭守護聖たちが好きだの嫌いだの言い合っていたことは、見て見ぬふりに限る。幸いと言うべきか、ジュリアス自身何を叫んだか覚えていないようでもあったので。触らぬ神に祟りなし。

まーったく、ジュリアス野郎はムダにプライドがたけーのが困りモンだぜ。相手がクラヴィスだからよけーきまり悪かったんだろーけどよ。自分がわりーってわかってんなら、さっさとあやまっちまえっつーの。
とは、ゼフェルの心の声である。年少者にこんなことを思わせるなんて、年長者は範となるべきであるというのが持論の首座様もまだ青い。


45. 臆病

あの件をどうしたものか。

このところずーっと、何日もの間彼は迷っていた。迷いすぎてもう何が何だかわからなくなってきつつある。どうしても方向性を決めることができない。そんな自分が嫌で嫌で仕方がない。しかしいくら悩んでみても、決まらないものは決まらないのである。
この世に生を享けて推定25年、今初めて知るこの事実。
私がこれほどに優柔不断な人間であったとは……。

悩みの主は光の守護聖ジュリアス、「あの件」なる悩みの内容は「好きな人に告白すべきか否か」。
せめて相手が女王候補であってくれたなら。それならば、とにもかくにも相手は女性だ。ごく一般的な恋だ。まだ許せる。いや守護聖を束ねる立場である自分が女王候補を誘惑するかもしれない事態になることが許せるのではなくて、自分の心情及び信条的に。男が女性に恋をするのはいい。それだったらノーマル。だが私が好きになったのは……。
ここでいったん思考停止状態に陥る。その先を考えることを脳が拒否するのだ。考えなければ問題解決に至らないのはわかっているが、考えたくない。それに、考えるというよりは感情が先行している。
好きだ好きだ好きだ好きだ(これが無限に続く)。ああどうしよう。

なぜ決めることができないかといえば、怖いからだ。
まず第一に、好きな相手に拒否されることを思うと怖い。一方的に恋に落ちるのは簡単だったが、その恋を成就させるのは何と困難なことか。
何しろ相手が悪すぎる。告白前から玉砕は必至であると思える。と言うよりはもはやそれは決定事項だ。仕事仲間で幼なじみで、ずっと仲が悪くて(ここ、大分ネック)、しかも男(ここ、決定的)。だったら言わずにいるほうがプライドが傷つかなくて済む、かもしれない。
ジュリアス的には命よりも大事かもしれないプライドをかなぐり捨てて「好きなんです!」と告白して、あの男に鼻で笑われて「私は違うな」なんて言われた日には、穴があったら入りたいどころの騒ぎではない。飛空都市の底を突き抜けるぐらいの穴を掘って身を投げたって追いつかないくらい傷つくに決まっている。恋の成就を夢見るには最高に絶望的な男を好きになって、告白した挙句に振られるなんて。みっともなさ過ぎる。ならば言わずにおこう。

と、いったんは決心してみても、また心は揺らぎだす。

もしも。万が一、百万が一にもあり得ぬことだとは思うが、告白して受け入れられたと仮定してみれば。それはとてもとてもとてもとても(以下無限に続く)嬉しいことに違いない。ってゆーか、嬉しさのあまり死ねるかもしれない。ってゆーか、そのくらい、好き。などと考えてしまって。
顔、まっか。
そして、百万分の一に賭けて打ち明けてその告白が奇跡的に受け入れられた後にどうなるのか、想像が追いつかない。その先には何が待っているのだろう。
好きだと言って、もしも「私もお前が好きだ」と言ってもらえたら。
恋愛経験ゼロのジュリアスは、これ以上ないほどものすごい未知の領域に踏み込むことになる。たとえ推定百万分の一以下の確率であっても、それも怖い。というのが第二の「怖い」。

やはり言わずにおくのが得策か。
それにしても、どういう展開であれ怖いなどと……この臆病者が!
と自分をののしって、そんな個人的事情なんかよりもずっと差し迫った内容ばかりの書類の山と取り組み始めるというのがここ最近のパターンだ。
そうしたわけで、ジュリアスの恋の行く末がどうなるのか、全然見えない。
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46. 托す

聖地に来るときに私が手にしていたのは、水晶球ひとつ。母が私に持たせてくれたものだった。占い姫であった母も、祖母から受け継いだのだと言っていた。
本来ならば私に渡されるべきものではなかった。占いは男の仕事ではなかったからだ。水晶球は一族の占い姫が持つべき道具だ。だが母は「クラヴィスは特別だから」と言って私に持たせた。

とくべつって何?

お前は霊力が強いの。私が何も教えなくてもお前は視てしまう。それをほったらかしにするのは、とても危なくてよくないこと。

ぼくがわるい子だってこと?

お前は悪くない。ただ、力を持っているだけ。だから普通なら次の占い姫になる子だけに教えることを、お前には教えてきた。一番大事なことはもう教えてあるから大丈夫。お前がこれから行く聖地というところは霊的な守りも強い場所だから、何も心配しなくていいのよ。
力があるのは悪いことじゃないから怖がらないで。正しく使えば、それは善いものになる。まちがった使い方をしたら、悪いものになる。使い方を間違えなければいいってことを忘れないで。

…かあさんはいっしょに行かないの?

そう。お前は一人で行くの。かあさんに会いたくなったら、その水晶球から見ることができるから。

母の言ったことは嘘ではなかった。私は水晶球を通して母の姿を見ることができた。
見知らぬ赤子を抱いている母、私の妹であろうその子が成長し占い姫となり、母は老い、そして姿を消すまで。
いくら母のことを念じて映し出そうとしても水晶球にその像を結ばなくなったとき、私は悟った。母はもういなくなってしまったのだ。
私が聖地に来て一年と経たぬ間のことだった。私はさほど大きくなっていないのに、母と妹の上にはどんどん時が流れて、妹は大人になり、私が別れたときの母の年を越え、母は亡くなった。

私だけが取り残される。
何のために母は私に水晶球を托したのか。こんな光景を見せるためか。
その頃は本当にそのように感じて、やりきれなかった。あんなに愛していた母に、私を愛してくれた母に、恨みに近い気持ちすら抱いた。

母にはそんなつもりはなかったのだと、成長するにつれて思うようになった。私を聖地に送り出すときにいろいろと説明は受けただろうが、「時の流れが違う」ことは母には実感されていなかったに違いない。ただ、母の元を離れて寂しがるであろう息子の慰めになるのならと、水晶球を渡してくれたのだろうと今は信じている。
そして母のおかげで人生の早い段階で無常ということを知ることができたのは、闇の守護聖としての私への何よりの贈り物となってくれた。
肉親の死を乗り越えた後は、一つを除いて何も怖くなくなった。

聖地と外界とに引き離されるときは、永遠の別れ。あの一年にも満たなかった時間が、切実さを持ってそれを教えてくれた。
ジュリアス、お前と離れないためにどうしたらよいのか、その手立てが未だ見つけられないでいる。


47. 「おいで」

「おいで」
そう呼ぶと、離れていてもあれの体が強張るのがわかる。大方また怒っているのだろう。

「猫でも呼んでいるつもりか」
「私は幼児ではない」

きっとまた、そんなことを言い出すに違いない。
「私のほうが年は上だ」、これもいつもの台詞。これまで幾度聞かされたことか。

聖地入りしたのが早いお前のほうが本来はずっと年が上だ、などということは改めて言われずともわかっている。
お前はそこまで私の物覚えが悪いとでも思っているのか。
だが何かと不満を言いながらも、結局はお前は私のところまでやってきて、寄り添ってくる。
肩を抱いても顔だけはそっぽを向いたまま。

くちづけを贈る場所は唇だけとは限らない。
黄金の髪をかき上げて耳の後ろに唇を寄せれば、ひくりと身じろぎする様がかわいい。
そうやって弱い部分を私に向けているのはわざとではないかと勘繰りたくもなる。
何しろ毎度のことだ。
学習能力がない。そう思いながら唇で触れ、舌でつつき、愛していると囁く。
唇を首筋からのど元へと滑らせて、そして夜着の合わせを開いて鎖骨をなぞる。
お前が声を上げるまで、あと少し。


+ + +


甘い声で呼ばれると、それだけで全身が溶けてしまうような心地がする。
だから近づきたくない。けれども触れたい。
おいで、という甘い誘惑に乗ったらどこへ連れて行かれるのか、私は知っている。
それを望む私がいる。
おいそれと誘いに乗ってたまるかと意地を張りたい私もいる。
だが結局は私を呼ぶ声には抗えず、どこまでも行くことになる。
行く先は天の高みか、それとも地の底か。
どこであってもかまわない、そなたと行くならば。


48. 寂しいということ

かつての私は何を考えていたのだったか。
周囲の何もかもが灰色にくすんで何かに心を動かされることなど絶えてなく、生きているとも死んでいるともつかぬ淀んだ時間の中で願っていたのは、解放されること。
聖地から解放されるには、サクリアがこの身より離れればよい。だがこれは人の力でどうこうできる範疇にない事象だ。一定量を使えばなくなるという性質のものでもなく、いつその時が訪れるかは予測できぬ。体が使い物にならなくなれば自然と離れていくものであるらしいが、だからと言って自ら死を選ぶほどには死に価値を感じなかった。どうせ私が生きようが死のうが、勝手に時は流れ淡々と過ぎて行くのだ。この先のどこかで必ず解放はある。それを知っていたから、待っていた。

この地に連れてこられてまず絶望を知り、次に希望を見て、失望、諦念を経て私はすべての感情を捨てた。
音に意味を見い出すことも止めた。
そして世界は色を失くした。



呼吸も満足にできぬような閉塞感の中で
日を、年を、数えることも忘れて、ただ待っていた
待っていたものが何であったのかさえ忘れるほどに待って、それでも待ち続けた
自分でもわからない何かを
お前が、
心を捕えていたタールのような闇を裂いて、そこから私を引きずり出すまで

最初は何が起こっているのか、わからなかった
誰かが私に向かって何か話している
とうの昔に他人の言葉を言葉として聴き取ろうという努力は放棄していた
だがその時は聞かねばならぬと思ったのだ
普段耳にする音とは違う熱がこもっているように感じられたがゆえに
その言葉に耳を傾けた
私を覆う闇を引き裂くナイフは、お前の最後の一言だった
「そなたが好きだ」

その瞬間、周囲に光があふれた

ああ、私も。
私もお前が好きだ
真に私が待っていたのはお前だった
腕を伸ばして光を抱きしめて、深く息を吸い込んだ
息苦しかったのが嘘のように楽に呼吸ができることに驚き
私を捕えていた闇の正体を知った

お前を待っていたこの長い時間ずっと……私は寂しかったのだ。


49. 口うつし

愛している
私もだ

二人の唇が触れ合う距離で交わす睦言の甘さは天上の酒
私の中の愛と注がれた愛が一つに溶けて
体中を染めていく

口うつしで伝える愛は
胸の奥から湧き上がる気持ちがじかに心に届くような気がして
同じ言葉をあきもせずに繰り返す

まるで他の言葉を知らぬ人のように
他の感情を知らぬ人のように
愛だけを糧に生きる人のように


50. ここに在る  -2007クラヴィス様ご生誕記念-

少し昔話でもするか。私が聖地に来る前のことだ…。
母は強いひとだった。立派な父の名に恥じぬよう胸を張って生きよ、と私に言った。どう立派であったのか、日頃は多くを語ってくれなかったが。聖地に来てだいぶ成長してから知ったことだが…父は多くの小国を従えて帝国を築いた王であったらしい。これから語って聞かせるのは聖地で手に入る限りの資料を読み、母の話や私自身の記憶から見えた昔話だ…。


母は流れる民の一人で、占いの能力に特に長けていた。流れる民の多くは特殊な能力を持っていた。それゆえに住まいを定めぬようになったとも言われていた。ひとところに定住して王国の民となった場合、その能力ゆえに軍事的に使われることを嫌ったのだ。だから我々の一族は遙かな昔から流れる民として暮らしてきた。時代が下るにつれ能力を隠して芸人の集団のように装うようにもなった。そのように暮らしていても極秘裏に狩られて捕まり、軍事利用される者もいたのだが。まだ世は戦国とも言えるような時期であったからな。

市の立つ町々を渡り歩き、そこで…いわば「芸」をして見せて日々の糧を得る…そうした暮らしをするから、王権の下にある民からは一段下のものだと見なされていた。それは単に蔑まれるというのとも違う。流れる民は、王国の民からは畏怖され、同時に侮蔑を受けるという不可解な位置づけにあった。
畏怖は、伝説にある特殊な能力のために、蔑みは、王国の保護から外れた流れ者であるがために。いや、もしかしたら人に畏怖される特殊な能力ゆえに、同時に蔑みを受けることになったのかもしれぬ。異界のものとして。人は理解できないものを恐れるものだ。その恐れを蔑みに転化させてから、我等の能力を利用しようとした、といったところか。…怖がっているばかりでは利用などできぬゆえ…。

両親の出会いはとある強国の王都であった。母は商売のため仲間と共に束の間王都で過ごすことになったのだ。王の凱旋祝いがあって、大きな市が立つためだった。そういう場では占い師もマジシャンも曲芸師も歓迎されるからな。我々の一族はそれぞれの能力を生かして、占い、手品、曲芸などをして生計を立てていた。
評判の占い師で、若く美しい娘だった母のところへ、王が身分を隠して未来を占ってもらいに来た。そこで王に見初められたのだ。母は結局一族を離れて王の元へ引き取られていき、私が生まれた。だが父には正妃があって、我ら母子のことを快くは思っていなかった。そして王がまた遠征に出かけた留守の間に私たちを亡き者にしようとしたため、母は私を連れて逃げたのだ。
ひとたび流れる民の中へと紛れてしまえば、見つけ出すのは困難だ。再び一族の元へ戻って、町から町へ流れ歩く生活を始めた母は、その時すでに黒服の男たちがいずれは私を連れに来ることを知っていたのだろう。男たちが正妃の手のものだと信じていた母は、その未来を回避しようと道を探っていたのではないかと思う。…が、結局母の元を訪れた黒服の男たちに私を託すこととなった。それは聖地からの使者だったのだから。水晶球は全てを語るわけではない。遠見しただけでは男たちの正体もわからなかったに違いない。主星に存在するという聖地までは、正妃の手の者も追ってくることはない。父やその周辺について、私が多少なりとも事情を聞かされたのは、母と別れる前日のことだった。これでお前は安全だと母は別れ際に言った。

けれども私は守護聖の何たるかも知らなかったし、聖地も女王のことも何も知らぬままに母の元から引き離されたのがただ悲しかった。水晶球は懐かしい人の姿を映し出してくれる…だから手元から離すことができなかった。
母は何よりも誰よりも私を愛してくれた。生活は楽ではなかったが、私は母がいてくれればそれで幸せだった。赤子の頃に別れた父のことは…顔すら覚えておらぬゆえ懐かしむという感情は持ちようもない。特に怨んでもおらぬ。どのような人物であったのか、会ってみたかったとは思うが…。


彼が辺境の星に住む流浪の民であったことは薄々知ってはいた。が、本人の口から直接聞かされたのは初めてだ。それを話して聞かせたクラヴィスは「まるで三文小説だろう? 辺境の星の昔のことゆえ資料も多くない。かなりの部分、推測も混じっているしな」と苦笑したが、ジュリアスは黙って首を振った。
幼かった頃にときどき腹を立てて「そのようなものばかり見て!」と水晶球を片時も手元から放そうとしないクラヴィスに対して声を荒らげた。それについての謝罪の言葉を口にしかけて、今更過ぎて何をどう謝ったらいいのかもわからずただ沈黙していた。

母から譲られたという水晶球をクラヴィスが大切にすることを否定するつもりはなかった。彼にとって大切なものであることは理解していた。ただジュリアスの性格からしてみれば、暗い部屋で水晶球ばかりをのぞき込むクラヴィスは不健康に見えたのだ。幼いジュリアスはそのクラヴィスに苛立った。クラヴィスにとって唯一大切なもの、そして過去へとつながるよすがである水晶球は無意識の憎悪の対象となった。
本当はクラヴィスが憎かったわけではない。水晶球が憎かったわけでもない。ただ…思い出にばかり縋らず、もっと目の前の現実を見てほしかったのだ、私は。聖地に、宇宙に、そして……私に目を向けてほしかった。

両親と離れて聖地に来るのは私にとっては理の当然のことで、疑問すら抱かなかった。疑問を抱く前に「そういうものだ」と信じていた。その点私の親たちは実にうまくやってくれたと思う。彼らの心情は、今となっては知る由もない。だから想像するしかない。二人は私をとても愛してくれていて、私がなるべく苦しまないように振舞ってくれていたのだ、と。人の親というものは子を何よりも愛すると聞く。何よりも誰よりも愛するわが子を手放さなくてはならない状況にあって、人はどう動くのか。私が同じ立場だったとして、私はどうするだろうか。……ここで、私は推測しようのない問題とぶつかる。今の私には当時の彼らと心情を重ねられるだけの人生経験がない。
今の立場で知ることの出来る事柄は多い。普通の人間ならば到底知り得ないようなことも、日々情報として伝わってくる。だがそれらは情報であって、私自身の体験ではないのだ。

物思いに沈み込んだジュリアスを引き戻す声。
「そのように考え込むな。真実かどうかも定かではない、ただの…昔話だ。話して聞かせたのは、お前にそのような顔をさせるためではない。…お前は私を愛しているか?」
「ああ、誰よりも」
「私を愛してくれた母は亡くなって久しい。が…私は新しい愛を見つけた。…お前は?」
「私は……」
ジュリアスは眉を寄せた。
「誰からも愛された記憶がない。そなたの母御のようには誰も私を愛してくれなかった」
その言葉は発した者にも聞いた者にも痛かった。だが、と彼は続けた。
「そなたは私を愛してくれているのだろう?」
「無論だ。…それにな、お前が親に愛されていなかったはずはないと私は思う」
「慰めてくれずともよい。わかってはいるのだ。ただ……私はそなたのようには愛されなかった、それだけだ」
「では私が…お前の親たちがお前に注ぎたかった愛の分まで愛するから…」
ジュリアスは心地よさそうにクラヴィスの胸に頭を寄せる。あたたかい、という呟きにクラヴィスは目を細めた。

心地よい。人の肌の温もりも、愛の言葉も。
確かに生きている心臓の鼓動も。
とくんとくんという規則正しい音を聞きながらジュリアスは眠りに落ちる。
そしてクラヴィスは柔らかい金髪を撫でながら眠りに落ちる。

少し肌寒い聖地の夜、ふたりの居場所は互いの腕の中。
ひとりでは寒い夜もふたりなら暖かい。

いつまで続く幸福かはわからぬが、少なくとも今はこうして――二人ここに在る。





■BLUE ROSE■