せつないふたりに50のお題



11. 紅茶

特に茶が好きなわけではない。
嫌いではないが好きでもない。食事のあとに一杯飲めばそれで十分、水分補給という目的のためならば、ゼフェルのようにペットボトルの水を飲むのであっても一向に構わない。そう思っているのだが、周囲はそんな私の気持ちなど斟酌してくれぬようだ。

ここ聖地では茶会が多い。女王や補佐官主催ともなると顔を出さねば何かとうるさいことを言う男がいるために、欠席することもままならぬ。正式の茶会でなくとも、なぜか守護聖には茶好きが多いためによく飲む羽目になる。
茶会であれば、茶を飲みながらの歓談が目的の集まりだから覚悟の上で臨む。そういう場であれば茶が出されるのは当然と諦めもついている。が、ことはそれほど簡単ではない。茶の大盤振る舞いがなされるのは何も茶会に限ったことではないのだ。
用事があって誰かの執務室に立ち寄れば必ずと言っていいほど「お茶を」と供され、無下に断るのも大人げないことだと黙って飲めば、茶が好きなのだと誤解されてますます飲む機会が増える。これを悪循環と呼ぶのか。嫌いではないが飲みたいとも思っておらぬものを再々飲まされることになるのには、いささか辟易している。

紅茶、ハーブティー、緑茶。コーヒー。これで良いではないか。
大まかな分類だけで十分に用は足りると思う私のほうが間違っているのかと思わされるような情熱で、それぞれの細かな違いについて語る者どもには閉口する。
いちいち名を挙げてどの茶葉が良いだの、どこ産のものがおいしいだのとかまびすしいが、そんな蘊蓄など興味のない私に覚えきれるものか。聞かせるだけ無駄というものだ。
と、口にしたところで状況は変わるまい。何しろそれを語ること自体が好きな輩だ。私が聞いていようがいまいが関係ないのだろう。ならば好きにさせておくまで。特に害があるわけでもないのだから私一人が聞き流していればそれで済む。

私の執務室の奥、控えの間には茶葉が幾種類かと茶器が用意されている。リュミエールがいつの間にか持ち込んでいたものだ。日頃はもっぱらリュミエールが私に茶を淹れるために使う。が、日々あれこれと聞かされれば、私も一通りの淹れ方くらいは知っている。
そして、たまに気が向けば自分で紅茶を淹れることもある。
ケトルに水を注ぎ、火にかける。その間にカップとポットを用意しておく。茶葉の容器を開けて、ティースプーンでひと掬い、ふた掬い。ふと思いついて、もうひと掬いをポットに入れ、カップをもう一組出した。
カップを温めるために、沸かした湯を注いでおき、ポットにもたっぷりと注ぐ。この茶葉を蒸らす時間は4分。ご丁寧に、リュミエールは砂時計もここに置いてあるので、それを使う。2分計が2回落ちきる時間、待つ。
途中でカップの湯は捨てておき、ポットをゆっくりと1〜2回まわして濃さを一定にしてから茶漉しを使ってカップに茶を注ぐ。二つのカップに、交互に。
その作業に没頭していると、執務室のほうに人の気配。耳になじんだ声が私を呼ぶ。
「クラヴィス、奥にいるのか」
ほら、ジュリアスがやってきた。首座殿にミルクティーを振舞うとしようか。

ジュリアスは世辞半分でか、常々「そなたが淹れてくれる紅茶が一番おいしい」と言う。私はジュリアス以外の相手に茶を淹れてやったことはない。自分で淹れるなどと誰かに言った覚えもない。ジュリアスとてそのようなことを吹聴する男ではないと思うのだが。
どこでどうしてこのことが洩れたものか、「紅茶を淹れるのがお上手だそうですね」などとリュミエールやルヴァから言われたときは返答に窮した。言葉では肯定も否定もしなかったが、どうやらそれは彼らの間では決定事項となったらしい。
こうした風評はどこからともなく伝わっていく。噂には尾ひれがつく。そんなわけで、闇の守護聖は茶が好きだ、と。ますます誤解されるのだ。
私は、特に茶が好きなわけではないというのに。


12. シーツ

夜、寝台に入る時が好きだ。
ぴんと張ったシーツの少し冷たい感触が、好きだ。
上掛けをめくり、シーツとの間に体を滑り込ませる。
体の下にあるさらりとしてきめの細かい織りの布地をそっと撫でる。
上から下へ、そしてまた上へと、てのひらをすべらせる。

冷たかった布が私の体温を吸って
少しあたたまる。
愛撫を加えた肌がいっそう熱を帯びるように。
それにゆっくりと手を這わせながら、思うのだ。

あれの肌は、もっとしっとりとあたたかいのだろうか。
それともシーツに最初に触れたときのように、少し冷たく感じられるのだろうか。


13. 虹のように儚い

守護聖は皆それぞれ強烈な個性の持ち主で、「存在感がない」などという形容とは程遠い者ばかりだ。容姿が異なるのは当然として、身の回りに置くもの、身につけるもの、当人に付随するあらゆるものが自己をこれでもかと主張している。

これはある意味では仕方がないと言える。私に関して言えばむしろ意図的にそうしている部分もある。それぞれが司る力にふさわしいように民の目に映るということは、どうでもいいことのようで実は重要だ。現守護聖たちがそれぞれ司る力を聞かされて、なるほどとうなずかぬ者はそう多くはなかろう。
守護聖は神ではない。血肉を備えた、普通に泣きも笑いもする人間でしかない。が、ただの人でもない。
一般の人が持たぬ力を預かりそれを行使する身であるからには、守護聖の肩書きと共に民の目に触れる場では「らしくある」ことが大切だと私は考えている。

たとえばかの夢の守護聖ほどにきらびやかに身を飾ることが必要かと問われれば、即座に否と答えはするが、といって咎めるほどのことでもない。夢の守護聖らしく見え、なおかつ当人にとって自然な装いであるならば、それはそれで良い。
オスカー、燃え上がる炎のような、近寄りすぎれば焼き尽くされそうな熱を放つ男。リュミエール、優しくたおやかな佳人の如き容姿の男。ルヴァ、穏やかな風貌の、静かな物腰の賢者。年少の者たちはまだ人格形成の途上にあるが、それでも個性は顕著に現れている。
そしてクラヴィス。私の対である闇の守護聖は、まさに闇を体現しているかのような男だ。長身に長い黒髪、濃色の衣装、あれのイメージは黒であり闇であり、安らぎであり時に恐怖でもある。遠くからでもすぐにそれと見分けられるほどにくっきりとして、会議の席でもろくに発言もせぬわりには存在感がある。いや、あれを目に入れぬほうが無理というものか。
その上強烈な闇のオーラがあれの存在を際立たせている。くっきりと、闇を切り取ったようなその姿は、圧倒的な力に満ちている。武力としての力ではなく。存在そのものの力がある。
守護聖とはそうしたものだ。年齢や容貌や体格とは関係がない。一番若いマルセルであっても、やさしげな美貌のリュミエールであっても、やはりクラヴィスと同種の守護聖としての力が感じられる。

だが闇の館を訪れてクラヴィスと会ったときに、公の場で見るあれとのあまりの違いに驚かされることがある。
会う場所によって顔の造作が変わるわけもなく、私邸にいるからといってサクリアが消えてなくなるわけでもない。取り立ててどこが違っているということもないというのに。
ただ単に私人に立ち戻っているからか。執務服よりもずっと淡い色合いの服を着ていることがあるせいか。それが意外にもしっくりと良く似合って、違う人間であるかのようにこの目に映るのか。

館の庭に静かにたたずんでいるときなど木の精霊か何かのようで、呼び止めたいのにうかつに声をかけたらかき消えてしまいそうな。声をかけることすらはばかられるような、遠い、淡い、儚い存在に見えるときがある。空気に溶け入ってしまいそうに感じて、恐慌に襲われそうになる。

あれを包む大気の色が違う。
私を抱きしめてくれるはずの腕は、虚空に向かって伸ばされている。
瞳はどこか遠くを見ている。
心がこの場にない。
そんなときは近寄ることもならずクラヴィスの姿を目にしたその場に凍りついたまま、ただ息を呑んで見つめている。
消えないでくれと念じながら。

ふ、と空気が揺らめいて、突然に精霊はクラヴィスに戻る。そして私を振り返って微笑む。
「来たのか」と。
思わず駆け寄ってその胸に飛び込んで背に手を回して抱きしめる。
ここにいてくれる、それを確かめる。
そなたはまだ、私のものだ。


14. 撫でる

目を閉じてしばらくすると
眠ったと思ってか
優しく触れてくる
ためらいがちに
頬を撫で、指先で眉を、まぶたを、鼻を、唇をたどり
髪をそっと撫でてときに髪の間に指を入れて梳き下ろし
背中をゆっくりと、てのひらで撫で下ろし撫で上げ
しばらくそれを続けている
背中があたたかくなる
眠気が差してくる
だがまだ眠りはしない

そんな風に思うさま私に触れて
満足したように吐息を洩らすと
私の体に手を回して
眠りに落ちる
じきに規則正しい寝息が聞こえ始める

今宵の眠りは安らかなものなのだ、と。
それを確かめて
私もまた、眠りに落ちる
陽光を紡ぎ上げたような髪を撫でながら


15. 映画

会議以外の守護聖全員の集まりっていうと、せいぜいがお茶会か食事会、だよねぇ……。
たまには何か違ったコトしてもいいんじゃないかな。
ってゆーか、したいよね。よーし、やっちゃえやっちゃえ!

夢の守護聖から、守護聖たち全員に招待状が届けられた。曰く。
「来週の土の曜日と日の曜日の2日間ぶっ続けで映画鑑賞会するから、ぜひ来てよね〜☆
あ、会場は私の館のシアタールーム。パーティルームに立食スタイルで食事も飲み物も用意するし、映画にあきたら好きなものつまみながら雑談ってカンジで、どう? もちろんお泊り大歓迎。
たまにはみんなでぱーっとハメはずして遊ぼ☆」
ざっとそういった内容の招待で、上映予定のプログラムも添えられており、それによると土の曜日午前10時から日の曜日の夕方まで、計20本の映画を連続上映。だから好きなときに好きな映画をどうぞ、という主旨であった。
オリヴィエ作成のプログラムを見ると、映画の内容は年少の守護聖に見せて差し支えない範囲で、最新のSFからロマンチックな恋愛もの、サスペンス、ファンタジー、ナンセンスなギャグ満載のコメディ、文芸大作、歴史ものと多岐にわたっている。

この招待状が守護聖たちに届いてからというもの、彼らの間はその話で持ちきりである。少なくとも、一部では。
やはり、と言うべきか楽しみにしているのが明らかなのは年少者たち。新宇宙に移行して落ち着いた現在はとかく暇を持て余しがちなのである。聖地には若者の心を捉えるような刺激的な娯楽施設など存在しない。普段の休日はそれぞれの趣味に没頭したり、時に誘い合って遊んだりしているものの、変わったイベントがあるとなればわくわくしてしまう。
オリヴィエの館のシアタールームはさすがに映画館には及ばないもののかなり凝った設備で、そこの巨大画面で映画を見て、食べて飲んでお泊りして大騒ぎ、という企画は十分に魅力的であり彼らの心を大いに浮き立たせた。
オスカーは「酒もあるんだろうな」と確かめて、「もっちろん!」という答えに満足し、夜を徹して飲むことのほうを期待しているきらいはあるものの楽しみにしているには違いなかったし、同じ中堅組のリュミエールも珍しい企画に、「観たことのない映画を鑑賞させていただけるのは、楽しみですね」とうれしそうだ。
ルヴァは「いやー、すごいすごいと聞いていたファンタジー映画、まだ観ていなかったんですよ〜。これが上映予定に入っているのはうれしいことです。興味があったので私もDVDを取り寄せていたのですが、これを観るとなると一気に3時間もつぶれてしまうと思うと、ついつい手元の本を優先してしまいましてね。こういう企画でもないとなかなか観られないかもしれませんから、いい機会を作っていただいて感謝しています〜」と興奮気味にオリヴィエに礼を述べたほどだった。
そして、ある意味で動向が一番注目されるのが筆頭守護聖たち。そのような催しは遠慮する、と言い出しそうなのがこの二人だったからだ。彼らが果たしてオリヴィエの招待を受けるのか。結果からいえば、二人とも案外あっさりと応じた。

「観たいものだけを観るのでもかまわぬと言うのだな?」
「もちろん好きにしてもらってかまわないよ。泊まって騒ぐってのは無理でも、できればどっちか一日でいいから、ゆっくりしてってほしいってのがホントのトコだけど」
「わかった。では土の曜日にでも寄らせてもらおう」
と、ジュリアスの確約を取り付け、クラヴィスのほうも似たような問答の後あっさりと招待を受けるとの言葉を引き出した。

さて。土の曜日になり、まず年少組が9時半ごろからわーっと押し寄せ、リュミエール、オスカー、ルヴァといった面々がそろって、首尾よく第一作目の上映が始まった。連続上映というのが売りのこの企画だったが、オリヴィエは食事の時間帯には比較的人気の低そうなものを持ってくるようプログラムを組んでいた。最初の上映予定作品は最新のSF映画、その次の時間帯である昼12時〜2時前に上映することになっていたのは、古典的文学作品から題材をとった、身分違いで引き裂かれて生きることを余儀なくされる恋人たちの悲恋ものという、オリヴィエの基準からは比較的どうでもいいような映画を流すことにしていた。彼の思惑通りに1本目の上映が済むと来ていた全員がパーティルームに集って、今しがた上映されたばかりの映画のことなどを語りつつ好きな料理を手に取っていた。くだけた雰囲気であちこちで話が弾み、オスカーとランディが映画の戦闘シーンの再現を始め、と座が大いに盛り上がっていた頃。
ジュリアスが、続いてクラヴィスが来たと使用人に耳打ちされたオリヴィエは、二人が部屋に入ってくるのを待ち構えていたのだが一向にパーティルームに姿を現さないため、まさかと思いながらシアタールームをのぞきに行ってみたところ、筆頭守護聖二人は並んで画面を見ていた。
映画鑑賞会っていう触れ込みで招いたからかな。二人ともアタマ固いよね。
にしても、おっどろいた。この二人っていつも喧嘩してるわけじゃないんだ。
というよりか案外仲いいんじゃ……?
思いながら、みんな今パーティルームにいるよと声をかけようと近づきかけて、立ち止まる。

どちらかといえば退屈な、ゆっくりと話の進む、と言うよりは、じれったいくらいに話が進まない、身分違いに泣く二人の忍ぶ恋の様を淡々と追う内容の映画に、ジュリアスとクラヴィスは静かに見入っていた。
と、クラヴィスがジュリアスの耳元に唇を寄せて何ごとかをささやいたようだった。ジュリアスは軽くうなずき、クラヴィスはまた姿勢を正して上映中の映画に視線を戻す。オリヴィエも画面に目をやった。薄紅の花びらが雪のように舞い散る風景の中に、恋人たちの黒いシルエットが浮かんでいる。
そのまま、画面にも、画面に見入る二人にも大きな動きは見られない。
静謐。その言葉がこれほど似合う二人を知らなかった。穏やかで静かなたたずまいに、なぜだか声をかけてはいけないような気がして、オリヴィエはそっとシアタールームの扉を閉じ、パーティの喧騒へと戻って行った。


16. ノスタルジー

私が通う大学は主星の首都にある。1000年近くに及ぶという古い歴史のある大学で、創立当時は郊外にあったものが時の流れと共に膨張した首都圏のほぼ中心部に位置するようになったものであろう。言わば首都の一等地とも言える場所に広大な敷地を持つこの大学は、これまでに幾度か移転の話が持ち上がったこともあったらしい。しかし主星の中枢にいる人々の多くはこの大学の出身者であり、母校の移転話が浮上するたびに反対する彼らの運動が功を奏して、創立当時の面影を残したまま現在に至っている。そして今では大学関係者ではない人々の間でも、歴史的建造物ともいえる初期の校舎などがそっくり残っているのはむしろ価値のあることと考えられており、移転という計画が実現することは今後もまずないと思われる。

慣れるまでしばらくの間は聴講生として通おうかとも考えていたが、自分の年齢を考えてなるべく早く学位や必要な資格を取りたかったこともあり、社会人入試を経て現在は正規の学生として通学している。学生たちの多くは私より十ほど年齢が下になるが、いったん社会に出てから学び舎へと戻ってきた者も少なくはない。私一人だけが変り種というわけではないので、若い学生たちも普通に接してくれるのがありがたい。
住まいを定める際に当面は寮生活をするという選択肢もあったのだが、これは合わぬかもしれぬと思って諦めた。そういう経験がないので入ってみたいという気持ちは大いにあったのだが、いろいろと考え合わせると実現は難しかった。卒業後も首都で働こうと思っているので家を持つのも悪くはなかろうと思い、結局はいわゆるマンションというものを購入した。24階建ての最上階で、そこそこ広さがあり、眺めも良いのが気に入ったのでそこに決めた。
マンションは駅まで徒歩3分と近く、駅周辺にはデパートをはじめいろいろな店が揃っており、暮らすのに不自由はない。駅からは電車で10分ほどで大学のある町に着く。学生街だけあってこの駅周辺には古書店の類が充実しており、安く食事ができる店が数多くあり、少ないながら友人もでき、生活はなかなか快適だ。

私がこの大学を気に入っている一番の理由は、落ち着いた空気だ。大学というところは若い学生の活気に満ちている。が、古い歴史を刻み込んだ建物や庭は穏やかに若者たちを包んでそこに在り、私にとっては郷愁をそそるものだ。古ければ良いというものでもなかろうが私には居心地が良い。この大学がここに大学として存在した千年という時は、人の寿命と比べれば悠久にも近いものがある。若い息吹と、古いものとが同居する場所。そう、聖地を思い出させる何かが、ここにはある。
住まいとしているマンションは近代的で便利な機器にあふれセキュリティは万全だ。部屋の内装は私の好みに合わせて家具も気に入ったものを揃えて落ち着ける空間となっている。信頼のおける業者の紹介で来てくれている通いの家政婦に家事一切を任せており、ここでの暮らしは快適そのものではあるのだが。やはり私は古い人間であるらしい。古いものに心惹かれ、その中でようやく真に落ち着くことができる。都会の真ん中にある新しいマンションに居を定めたのは早まったかもしれぬな、とも思う。24階という高さとペアガラスとに阻まれて通りの喧騒も届かぬ住まいだが、私にはもっと静かな場所にある古い館のほうが合っているような気がする。どこか郊外にそういった館の出物がないか、不動産業者を当たってみようか……。

その日の講義がすべて終わると、学内の図書館へと向かう。閲覧室を見渡すと黒髪の男が頬杖をつきながら本のページをめくっているのが見えた。まっすぐそこまで歩を進める。
「終わったのか」
男は視線を本に落したまま、問う。
「ああ、今日はもう終わりだ」
では帰るか、と立ち上がると男はようやく私と目を合わせて、微笑む。それは何年も前から、あの懐かしい地にいたときから変わらぬ笑顔だ。私の一番大切なものはここにある、これまで同様これからもずっと。そのことに改めて感謝の念を抱く。

結局のところどこで暮らそうとさして問題はないのだ。
この男さえいてくれるのならば。


17. こぼれるもの

とある事実に気がついてからというもの、極力会うことを避けてきた。同席しなければならない会議の場でも決してそちらは見ないように細心の注意を払った。それはもう避けるなどという生易しいレベルではなく、みごとなまでの完全無視である。急に自分に対する態度の変わった首座のことを相手が不審に思うのは至極当然のことであった。
何しろ毎日のように執務室へとやってきて小言を言っていた首座が、ある日を境にぴたりと姿を見せなくなった。それどころか同じ会議に出ていながら上述の如く顔を見ようともしない。これまでずっと首座に対してそうした態度を取ってきたのはむしろ自分のほうだったので、余計にはっきりとそれがわかる。こちらがそっぽを向くまでもなく相手が目もくれないという前代未聞の事態に、クラヴィスは動揺した。

ジュリアスが自分を見ていないときにはひそかに様子をうかがい、自分に視線が向けられそうだと思うや否や知らぬふり。目を伏せ、顔をそむけ、あらぬ方を見る。無論首座はそれをそのままに放置するような男ではなく、用があればクラヴィスの態度などお構いなしに「話がある。こちらを向かぬか」とうるさく言ってくるのが常であったものが突然見向きもされなくなって、不安になった。どんな態度を取ろうがジュリアスが完全に自分を見限ることはないと高をくくっていたクラヴィスにとって、この事態はまさに晴天の霹靂だったのだ。あんなにジュリアスのことが気になって仕方がなかったくせに。長年の関係を今さら変えようという気概などさらさらなく、ジュリアスから逆襲を受けることなど考えもせず漫然と彼をないがしろにする態度を取り続けた結果がこれかと思うと、自分のうかつさが悔やまれてならない。
やりすぎて、嫌われたか……。
つまらぬ意地など張らずに好きだと伝えるべきであったのかもしれぬ。

ジュリアスがクラヴィスを無視し始めて幾日か過ぎてからのこと。王立研究院でたまたまジュリアスに出会ったときも、このところの例に漏れず相手は避けようとしていた。不安と苛立ちとが嵩じていい加減腹も立っていたので呼び止めた。自分の態度が悪かったという自覚も後悔も十分にあったが、何も言わずただ無視し続ける今のジュリアスは、彼らしくない。どうしても彼の口から納得の行く答えを聞きたかった。
ところが呼び止めた声すらも黙殺された。ジュリアスに自分の姿が見えていないはずがない。呼んだ声が聞こえないはずがない。それなのに、これ見よがしに踵を返された。もう我慢ならない。急に態度の変わった理由を今日こそは尋ねようと、ジュリアスを追った。
逃げられる、追いかける、追い詰める。
人があまり来ない隅に追い詰めて肩をつかむ。瞬時に相手の体が強張ったのがわかった。触れられるのがそこまで厭わしいのか、そう思うと腹が立った。クラヴィスの手から逃れようと体をよじり、無理やりに自分のほうに向けさせてもなお顔をそむけたままなのが怒りに火を注いだ。
「最近のお前はどうしたというのだ」
「何が」
相変わらず顔をそむけたままジュリアスは短く答えた。クラヴィスは声を荒らげはしない。だが怒りが熱波を伴って吹きつけてくるような気さえする。
「私を避けている」
そのようなことはないと言い返したかったが、とてもそうは言えなかった。クラヴィスと顔を合わせないようにしてきたのは事実だった。返答が沈黙であることから、クラヴィスは冷たく笑った。
「やはりな。何が気に入らぬ」
気に入らないなんて、とんでもない。
ジュリアスは首を振った。
「気に入らぬことがあれば、いつものように言えばよかろう」
また首を振る。
「首座殿は私などとは口をきくのもお嫌でいらっしゃるらしい」
皮肉たっぷりに言われてもただ首を振るしかなかった。
目を合わせられない。声も出せない。胸が詰まって何も言えない。
「私のことが嫌いならばそう言え。今のような態度を続けられるのはうんざりだ」
嫌いだから、ではなくて、好きだから。好きすぎるから。
その気持ちがあふれて、勘の鋭いクラヴィスに悟られるのが怖いから。
「なぜ何も言わぬ!」
両腕をつかまれ低い声ながら脅しつけるように言われて、思わず下を向く。
嫌いな相手と顔を合わせずに済んで、むしろせいせいしているのではないのか。
何がクラヴィスの逆鱗に触れたのか。
クラヴィスがここまで怒る理由がわからなかった。しかし、沈黙を通すことでさらに怒らせるくらいなら、とジュリアスは顔を上げた。
「……嫌いだ、などということは、ない……」
本心を隠してなおかつ嘘ではない言葉をようやくのことで絞り出した。久しぶりに間近で見たクラヴィスの顔がとても真剣で、冷静でなどいられない。たったそれだけを言う間にも見る見る赤くなる。これほどに怒っているクラヴィスを見たのはいつ以来だったろうか。怒っている顔さえもきれいで、自分に向けられた怒りの強さにおびえながらも見とれてしまった。ジュリアスの顔がぱっと紅潮する様を目の前で見ていたクラヴィスの怒りは一気に静まり、そして狼狽もした。
どうした? 何だと言うのだ?
気づけばつかんだ腕は小刻みに震えている。一瞬だけ自分を見つめ返した瞳が何かの感情を映して、逸らされた。
「お前……」
ジュリアスの心に納まりきらなかった想いはこぼれて、クラヴィスの心に届いた。
好きだ、好きだ、好きだ……。
なぜだかジュリアスの気持ちがわかってしまった。青い瞳が、全身が、ただその一言だけを語りかける。それがクラヴィスを後押しした。

今言わねばきっと私は一生後悔する。

人が通らぬのを幸いと抱きしめて、同じ気持ちを言葉にして返した。
「好きだ」
愛しく思う心とは裏腹な態度ばかりを取り続けたばかりに失ったかもしれないと恐れていたクラヴィスの口からは、自然とその言葉が出ていた。
「お前が、好きだ」
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18. 髪の毛

クラヴィスが出してきた書類に不備があった。能力がないのならばともかく、できるくせに嫌がらせのようにこういうことをするのは相変わらずだと思うとため息が出た。訂正箇所に付箋を付けて闇の執務室に差し戻そうとしたが、どうせ隣の部屋なのだし時間にも余裕があった。そこでそのままそれを持って隣室へと向かった。
「私だ、入るぞ」と声をかけて執務室に入ると、珍しくクラヴィスは何か別の書類を処理している最中だった。たまにはそういう日もあるのだなと思いながら「こちらの書類の訂正も頼みたい」と言うと少し待っていてほしいと言われた。本来ならばこのようなミスをする男ではない。ひとこと言ってやるべきだとは思ったが、小言も言い飽きた。言ったところでクラヴィスのこういう態度は変わるまい、そう思うといつもと同じ言葉を繰り返す気にもなれぬ。

手が空くまで待つつもりでその場に立っていると、クラヴィスは目を上げて「首座殿を立たせているのは申し訳ない。そこの長椅子にでもかけて待っていてくれ」などと言う。この男でも私に気を遣うことがあるのかと少しおかしかった。用があれば立ち寄る闇の執務室だが、今日のように些細な不備の手直し程度のことばかりなので、座って待つなどということはもしかしたら初めてかもしれなかった。とりあえず「そうさせてもらおう」と答えて腰を下ろした。
ゆったりとすわってみて、ここには人を寛がせる空気があると改めて感じた。安らぎを司る者の執務室だけあって、居心地は悪くない。クラヴィスが書類に何か書き込んでいるのを眺めながら、無意識の動作で左手で長椅子に張られた滑らかな布の手触りを楽しんでいると、指先に何かが絡まった。手を見る。それは白っぽい、長い髪の毛だった。明らかにクラヴィスの髪ではない。ろうそくに照らされた薄明かりの中では色がはっきりしないが、おそらくは水の守護聖の。金髪のオリヴィエやマルセルのものである可能性もあるが、真っ先に脳裏に浮かんだのはあのリュミエールの優しい微笑だった。

リュミエールはクラヴィスに気に入られている。ここで過ごす時間は私よりもずっと長いはずだ。日々清掃する者が入るといっても、細い髪の一本や二本が残っていたところで何の不思議もない。そこに残されていた髪に、自分よりもずっとクラヴィスと親しい間柄にあるリュミエールの姿を垣間見た気がした。

私が、リュミエールのような清楚で涼やかな容姿であったなら。
静かな声、優しい微笑で心を解く術を持っていたなら。
そうしたら私はクラヴィスのそば近くにいることができたのだろうか。

およそ他人を羨んだ覚えなどないが、今この瞬間、私はリュミエールのことを羨んでいるのだと、これが羨望ということなのだと知った。

人を羨んだところで、何も変わらぬ。私は私でしかない。

ばかばかしい。そう思おうとするそばから、もやもやと心に影が差す。
「済まぬがもう時間がない。付箋を付けた箇所を訂正して、至急私のところへ回してくれ」
我ながら唐突と思える動作で立ち上がり、執務机に持参した書類を置くとクラヴィスの顔を見ることなく私はそこから逃げた。
きっと今の私はひどい顔をしているに違いない。クラヴィスにこんな私を見られたくない。
消えたい。
生まれて初めて心からそう願った。

羨望、それだけならばまだしも、私の抱いていたもうひとつの感情は、醜い嫉妬だったから。


19. 通り雨  -サイト開設一周年記念-

ぽつりと顔に当たった水滴に、頭上を仰いだ。
梢から透けて見える空は黒に近い灰色で、どうやら雨雲が広がっているらしい。夕方が近いとは言えいやに暗くなるのが早いとは思ったが、とひとり苦笑いする。雨滴は木立に阻まれ、最初はぱらぱらと当たる程度だったのが、雨脚が激しくなって木の葉がすっかり濡れてしまうと、葉から雨粒よりもずっと大きな水滴がばらばら落ちかかってきた。そして、稲光と雷鳴。聖地では珍しい雷雨だった。
参ったな。しばらく動かぬほうが良いか。
木の下にいると落雷に遭うかもしれないという知識はあったが、林の中である。どちらへ走ってもあたりは木ばかりなのだから同じこと、まさかここで雷に打たれて死ぬこともあるまいとその場にとどまって雨のやむのを待つことにした。

それは土の曜日の午後のこと。ジュリアスはその日王立研究院での仕事があるとかで、夕方まで体が空かない。二人で過ごすはずだった休日の予定がぽっかりと空いてしまったのは癪だった。が、その代わりゆっくりと朝寝を楽しんで、午後もだいぶ遅くなってから館を出た。散歩ついでに光の館へ向かおうとしていたのだが思わぬ雨に見舞われた。ジュリアスとは夕食を共にする約束をしている。

長くは降るまいという読み通りに、激しい驟雨はすぐに止んだ。ところが、とんだ目に遭ったと歩き出そうとしたところ、濡れた下草に足を滑らせた。転びそうになって体勢を立て直そうとして、足首を妙な具合にひねったらしく、ひどく痛む。
この足では歩いて帰るのは無理だと自力で帰ることは早々に諦め、その場に腰を下ろした。下生えが濡れていても、すでに服は濡れておりどの道同じことなので、気にせずすわった。痛む足首を見てみると、少し腫れてきているようだった。捻挫しているのは明らかだ。クラヴィスはため息をついた。
素直に転んですり傷を作るのと、捻挫するのと、怪我の程度はどちらが軽く済んだだろうか。
ここにいることになるべく早く気づいてほしいものだが……。
聖地内の林で遭難、か。たまにはそれも面白いかもしれぬ。
のんびりとそんなことを思って、手近な木に背を預け、目を閉じた。


すっかり暗くなった数時間後。ジュリアスは林の中で木にもたれたまま眠っているクラヴィスを発見した。夕食を共にと約束していたのにクラヴィスが現れなかったので、まず闇の館へと問い合わせ、主はすでに出かけているとの回答にあわてて探しに出たのだった。闇のサクリアの気配を探れば居場所の見当はすぐにつく。馬でその場所へとやってきたら当の相手は眠っていた。肩に手をかけると、濡れていて冷たい。よく見れば髪も、着ているもの全体も濡れているようだった。
「クラヴィス」
腕を組んで眠っていた男はその声にはっとしたように顔を上げる。馬を引いて立ち、自分を見下ろしているジュリアスと目が合った。
「…遅い」
たった一言。来るのが当たり前のようになじる口調で言われて、ジュリアスは苦笑した。
「勝手な男だ。……どうしたのだ? 濡れたままで寝ていては体を壊すぞ」
「雨に遭ってな。足を痛めた」
そう言ってから、ふるりと震える。濡れた髪や服がすっかり体温を奪っていた。
「さすがに冷えた」
続いて小さくくしゃみ。ジュリアスは眉をひそめた。
「言わぬことではない。急いで帰ろう。立てるか?」
こんなことならタオルを持ってくるのだったと言いながらクラヴィスの手を取って立ち上がらせて馬に乗せた。
「着ているものが濡れているのではあまり役には立たぬかもしれぬが、とりあえずこれを羽織っておけ」とマントを手渡し、自らは馬を引いて歩き出す。長衣を着ているクラヴィスは横乗りをしていた。
優美な女性の横乗りならば絵になるが、男がこれではな。
「……乗馬服でも着て出るのであった」
いかにも嫌そうにため息が落ちた。ジュリアスは見上げると、微笑した。
「美女のような風情で、濡れた髪がなかなかに扇情的だ」
「お前…面白がっているだろう」
「いや。そなたが体調を崩さぬかと心配している」
とてもそうは思えぬ、クラヴィスはつぶやいて、もうひとつくしゃみをした。


20. コーヒーショップ

店に足を踏み入れかけたところ、後ろから袖を引かれた。振り返ると困惑の色を浮かべて青い瞳が見つめている。
「ここに入るのか?」
「少し休もう」
「目的のものは見たのだし……」
「せっかく出てきたのだ、たまには良かろう。お前はこういう店に入ったことがないだろう? 普段しないことをしてみるのも悪くないと思うが」
「だが……」
まだためらいを捨てきれない様子でいるジュリアスの手をつかむと、さっさと店に入った。

聖地は日の曜日。ジュリアスはクラヴィスに半ば強引に外界へと連れ出されたのだった。主星で開催中の美術展を見に行こうと誘われて、手回しよくカジュアルな服まで用意されていて、拒みきれなかった。二人で出かける、それも自分たちを知らない者ばかりがいるところへというのは、美術展を抜きにしても十分に魅力的な誘いだった。人目を気にせずにクラヴィスと行動できる、その誘惑に勝てず、ジュリアスはうなずいた。

目当ての美術展を堪能してから通りに出たときに、ジュリアスが何気なく言ったのだ。「少しのどが渇いたな」と。そして二人は今、コーヒーショップにいる。それはチェーンのコーヒー店で、まず飲み物を買ってから席につくタイプの店だ。甘い菓子類や調理パンの類も置いている。ジュリアスはこういう店はまったくの初めてで、どうしたらいいのかわからず戸惑っていた。
注文するカウンターの正面の壁にメニューがずらりと並んでいるが、いろいろと細かい違いがあるようでどれがどういうものなのか、ジュリアスにはよくわからない。黙ってメニューをにらんでいると、脇からクラヴィスが注文した。
「ブレンドをミドルサイズで。そしてエスプレッソ。それからこれと、これを」とショーケースの中のクロックムッシュなどを指して適当に注文を終えてしまった。
「…クラヴィス」
「何か不都合だったか? 他のものが飲みたい、とか?」
「いや……それで良い。そなたは慣れているのだな」
「あまりお前に知られたくはなかったが…まあ、な」
小声で話しながら支払いを済ませて、トレイに飲み物の入ったカップなどを載せて、クラヴィスは歩いていく。ジュリアスは後ろをついて歩きながら、果たして自分は飲み物をこぼさずにトレイを運べるだろうか、と思案した。あまり自信がない。
「そこに座るか」
店の中ではなく、歩道に並んだテーブルを指すクラヴィスに「どこに座ってもかまわぬのか?」と確かめて、手近なテーブルについた。
トレイを下ろしてクラヴィスも座り、カップをジュリアスの前に置く。目と目が合った。
「ありがとう」と微笑むジュリアスに「いや」と答えて、ブレンドコーヒーの入ったカップを手に取った。ジュリアスはまだ手を付けようとしない。そしてゆっくりと話し出した。
「そなたがこうして連れ出してくれたことの意味が少しわかったような気がする」
目で問うと、優しい笑みが返ってきた。
「いつかはわからぬが、いずれ聖地を離れる日が来る。そのときにそなたがこうして側にいてくれるとは限らぬからな。一人で町も歩けぬ、コーヒーを飲むこともできぬでは、困る」
通りを行き交う人々に視線を投げ、ジュリアスはエスプレッソのカップを口に運んだ。



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■BLUE ROSE■