せつないふたりに50のお題



1. ため息

私はあれのため息ばかりを聞いている、そんな気がする。

書類はまだかと尋ねればため息。
会議に出席するようにと釘を刺せばため息。
あまりの顔色の悪さに食事はきちんと摂っているのかと確かめれば、ため息。
顔を合わせたときにため息を聞かなかったためしがない。

これ見よがしに。
いかにもうんざりしたといった風情で。
意地悪く流し目をくれて。
なぜこんな風に、口を開けば険悪な空気にしかならぬのか。
私とて好きでそなたにため息をつかせているわけではない。
それを言わねばならぬ私の身にもなってくれ。

本当は、ため息をつきたいのは私のほうなのだぞ。
冷たい瞳で見られて、ため息どころか泣きたいほどに情けない気持ちになるのは。

誰にも言えぬこの思い。
私の頭痛の種でしかない意地の悪いそなたが、それでも好きだ。


2. 内緒のキス

その日の定例会議も大過なく終わった。このところ概して宇宙は平和で、会議といってもそれぞれが担当する仕事についての経過報告と、首座からの伝達事項とで済んでしまう。
こう平和だとこの会議の必要性に関して疑問を抱く向きもないではない。だが守護聖全員が宇宙全体の様子を大まかにでも知っておくためは重要な場であり、一見無駄に思えてもこの会議は必要なのだということをジュリアスは常々言ってきた。

宇宙が平和であることは喜ばしい。だが永久にその状態が続くわけではない。平和であるときこそ気を引き締めておくべきなのだし、見守るべき星は文字通り星の数だけあってそれらすべてが常に何の問題もなくいられるはずがない。何か変事の兆候があればすぐに動けるよう、備えだけはしておくべきだ。

それは理の当然の言葉であり、誰も表立っては反論できない。この日の会議もそういった言葉でしめくくられた。
「皆、わかってくれるな」
ぐるりと見渡されて、ふいと顔をそむけたのはクラヴィス。
「何だ。言いたいことでもあるのか」
「……別に」
頑なにジュリアスから顔をそむけたまま、ため息を吐き出すようにクラヴィスは答えた。その様子はどう見ても何か含むところがあるようだったが、ジュリアスは追及しなかった。「別に何もない」といったん口にしたクラヴィスが前言を翻すとは思えない。そして首座自身が強いて尋ねない以上、彼に問いただせる者はいない。クラヴィスはひとまずそのままにジュリアスは、
「他には何か?」
と他の全員に向かって尋ねたが、特にありませんとの答えが返るばかりだった。
「そうか。ではこれにて定例会議を終わる。皆、執務に戻るように」

会議の終了を告げられて、立ち上がった守護聖たちは仲の良い者同士言葉を交わしながら会議室を出て行く。立ち上がらなかったのは、クラヴィスと、リュミエール。そして立ち上がりはしたものの、その場から動かなかったのはオスカー。
水の守護聖は気遣わしげに闇の守護聖の様子を伺い、オスカーはどうしますかと尋ねるかのように首座を見た。
「クラヴィスは何か私に言いたいことでもあるのだろう。話を済ませたら私も執務室に戻るゆえ、そなたたちは先に出ているがよい」
ジュリアスに言われてもなお不安げな表情を隠さず、リュミエールは「クラヴィス様…」と声をかけた。
「首座殿の言葉に従え。なに、すぐに済む…。心配は無用」
仲の悪い筆頭守護聖たちだけを残して出て行っていいものかどうか、判断がつきかねるという顔でリュミエールとオスカーは目を見交わした。手元の書類をまとめながら伺い見た二人の様子にジュリアスは苦笑する。
「我々は子どもではない。そなたたちにそこまで心配してもらわずとも、大丈夫だ。他の者には聞かせたくない話なのであろう、クラヴィス?」
そうだ、と低い声で応えがあり、「聞いての通りだ。出ていてもらおう」とジュリアスに促され、筆頭二人にそこまで言われて居すわる理由もなく、オスカーとリュミエールは軽く頭を下げて退室していった。

さて、と立ち上がりながらジュリアスはクラヴィスのほうへと向き直った。
「何だというのだ」
こちらもまた席を立って何ごとかを口にしたクラヴィスだったが、あまりにもひそやかに返された答えはジュリアスの耳に届かなかった。
「はっきり言え」
近づくといきなり抱き寄せられ、あごを掴まれ、唇を奪われた。つい今しがたまで会議をしていた部屋で。
心配したオスカーとリュミエールはきっと扉のすぐ外で待っているに違いない、その思いが甘いキスに流されることを許さない。が、逃れようともがいてもクラヴィスの腕を振り解くことはできなかった。
「暴れるな」
繰り返されるキスの合間に、なだめるような声。
ようやくクラヴィスが放した時にはジュリアスの息は上がり頬が上気して、涙目になっていた。
「……このような場所で、いきなり何を」
うらめしそうに言うのを薄い笑みで受け流す。
「すまぬ、我慢がきかなかった。…美しい恋人に触れたくなるのは仕方あるまい?」
言いながら、手を伸ばして乱れた金髪を軽く整えてやり、頬にもう一度軽くくちづけを贈った。
「私の用は済んだ。先に出る。あまりうろたえた様を見せて、オスカーに悟られるな。誰に知られたところで私はかまわぬが、お前は気にするだろう?」

今しがたの情熱的なキスが嘘のように涼しい顔で出てゆく憎らしい恋人を見送りながら、ジュリアスは椅子にへたり込んだ。
クラヴィスと情を交わすようになってまだ日は浅い。恋人としての彼がどういう男なのか、よくわかっていないところがある。宮殿の中でキスを仕掛けられたのは初めてだった。そんなことをする男だと思ってもいなかった。

会議の最中に何を考えているのだ、クラヴィスは。
言いたいことでもあるのかと思えば、まったく意地の悪い……。

最後に頬に触れていった唇の優しい感触がよみがえって、まだ火照っているそこにそっと手を触れた。


3. 夜伽

一緒に寝てほしい。
最初にそう頼まれたのは、外界から戻ったあれが風邪をひいて寝込んだときのことだった。

熱を出して臥せっていると聞いて、見舞いに行ったのだ。熱が高いと聞いてひどく心配で執務が手につかず、様子を見に行くことにした。
聖地で病に倒れる者はあまりない。たかが風邪、外界ではありふれた軽い病だと思っても、心配が先に立つ。発熱しているというが、大丈夫なのだろうか。本当に心配の要らない病状なのか。まさか熱でおかしくなる、などということは……。
心配し始めるときりがなかった。悪いほうへ悪いほうへと考える。

闇の館に着くと、すぐに寝室に通された。カーテンが引かれて薄暗くひっそりとした部屋の中では大きな声を出すのもはばかられる気がして、ごく低い声で名前を呼んでみた。
クラヴィスは目を覚ましていて、ちゃんと私のことがわかって「ジュリアス」と言ってくれたので安堵したと同時に小言が口をついて出た。
「そのような病に侵されるなど、日頃の鍛錬が足りぬからだ。不摂生が招いたことであろう。これに懲りてもう少しまともな生活をすることだな。きちんと睡眠と食事を摂り、健康的に過ごすことを心がけるように」
そういった言葉ばかりがあふれて止まらない。本当は、言いたかったのは、もっと別の言葉だったのに。
するとクラヴィスが言ったのだ。
「一緒に寝てほしい」と。
それまでとどまることなく私の口から流れ出ていた小言はぴたりと止まった。

なぜそんなことを言い出したのか、まったくわけがわからなかった。
なぜと尋ねたら、寂しいからだと言った。
熱に上気した頬で。潤んだ瞳で。
同い年の男にそんなことを言われて、私はどんな顔をしたのだろう。
さぞや混乱した顔をしたことだろう。
「日頃から鍛錬を怠らぬ首座殿ならば、病に侵されることもあるまい」
熱があっても皮肉な言葉はいつもと変わらぬ。日頃ならば腹の立つクラヴィスの言い様も、このときは安堵へとつながった。
皮肉を言えるだけの元気はあるのだ、と。

熱に潤んだ瞳が私をじっと見つめている。降参だ。このような目で見られて、放っておけるものか。
「今宵だけだ」
「…それは…つれないな」
サークレットや執務服の装飾品の類ははずして、クラヴィスの隣に滑り込んだ。あっという間に抱き込まれて狼狽が走った。といって熱のある病人相手にあまり無茶もできぬ。体を硬くしてそのまま抱かれていたら、頭上でフッと笑われた。
「何がおかしい」
「…おとなしいな…もっと暴れるかと思っていた…」
優しく髪を撫でる手。
息が止まりそうだ。
「……病人相手に無体もできまい」
「無体、か。お前が私にどのような無体を働くというのだ?」
くくっとおかしそうにクラヴィスが笑う。
人が心配して訪ねてきたというのに……。
「腕を取ってねじ伏せるとか当身を食らわすとか……」
ついにクラヴィスは声を上げて笑い出した。
「つまり、私が無体をするのを阻止するというわけか。…熱があって幸いだった」
髪を撫でる手は止まらない。ゆっくりと、優しく、髪を背を撫で続けている。
ふわりと額に何かが触れた、気がした。
「少し眠る…このまま、ここにいてくれ…」
しっかりと抱き込まれていて、動けるはずがなかろう。
そのままクラヴィスは眠ってしまった。熱のせいか少し呼吸が速いようだ、そう思いながら、私も寝入った。


あれ以来ときどきねだられる。共に寝てくれ、と。
あのときは病に倒れたと聞いて動転していたのだ。
まったく、あのようなことを許すのではなかった。

もうすっかり病など癒えているというのに。
悔しいことに、私はいまだにクラヴィスの言葉に逆らえない。


【夜伽】〔看護・通夜などのために〕夜通し、そばにいて話し相手になること。(by 新明解国語辞典)


4. little

光の守護聖は誰もがそうと認める長身の男だ
いつも冷静で厳しく、笑みひとつ見せることなくひたすら真面目に職務を果たす

そんな彼のことを
かわいい、幼い、小さい
そう評したらきっと誰もが目をむくに違いない
だが私の中のお前はいつまでもあのときのまま
そなたなど認めないと叫んだ子どもだ

そのときには知らなかったお前の思い
置き去りにされて寂しくて、叫ばずにいられなかった言葉
私が母から引き離されたように、お前もまた慕う相手を奪われたのだ
そう知ったときに、お前の気持ちが痛くてせつなくて愛しくて
慰めたくて
慰めてもらいたくて
それなのに意地を張り合って
なかなか歩み寄れないままに長い時が過ぎた

かわいい、愛しい私のジュリアス
どうしようもなくそう言いたくて
だが言えなくて
ひとりの時間にそっと呼んでみる
My sweet little boy

あのとき、大人の私がお前を抱きしめてやれたらよかったのに


5. 「ごめんね」

ちょっとしたいたずらだったんだ。ジュリアスのペンを隠したのは。
しばらくしたら、こっそり返しておくつもりだったんだ…。

ジュリアスがとても大事にしているペンは、万年筆っていうんだって。闇の守護聖様からいただいたんだって言ってた。ぼくのことじゃなくて、ぼくの前の。ぼくも一度だけ会ったことがある。大きな、優しそうなひとだった。ジュリアスはあのひとのことが大好きで、そしてぼくのことは……好きじゃないんだ。
それだからいじわるをしようなんて思ったわけじゃない。ちょっとだけ、困らせるだけ。そう思ったんだけど。

ジュリアスは泣きそうな顔をして探し回ってた。
ううん、ジュリアスは泣いてなんかいなかった。いつもと同じ顔してた。
でもわかっちゃったんだ。ジュリアスは今とっても泣きたい気持ちなんだって。
ごめん、ジュリアス。大事にしてるの知ってたけど、泣くほどだって思わなかった。
隠したの、ぼくなんだ。なのに、「私の万年筆を見なかったか」ってきかれて「知らない」って。
ぼくはうそをついた。
ジュリアスにうそをついた。
ごめん。本当にごめん。
だってあんなに真剣なジュリアスを見たら、「いたずらだよ」なんて言えなかったんだ……。

ぼくはこっそりペンを持って地の守護聖様のところへいった。ほかにどうしたらいいか、わからなかったから。
泣きながら話した。いたずらでジュリアスのペンを隠したんだって。
すぐに返すつもりで、そんなに悪いことだと思わなかったんだって。
でもジュリアスがいっしょうけんめい探してるの見たら、いたずらで隠したんだって本当のこと言えなくなったんだって。

地の守護聖様はちょっとびっくりしたみたいな顔でぼくのことを見て、それから膝の上に抱き上げてくれた。
「悪いことをしたと思っているの? それがわかっているのなら、私にはもう何も言うことはない。ここに来てくれて、よかった。このペンは私が預かろう。おりを見てジュリアスに返しておくから大丈夫、心配しなくてもいい。ただね、ひとつ約束できるかな? ジュリアスと仲良く笑って話せるときがきたら、ちゃんと自分で謝ること」
ぼくは泣きながら、うんってうなずいた。何度も何度も。
なかよくなれる日がくるのかどうかわからないけど、ちゃんと謝ろうって思った。
でも今は心の中だけで。
大事なものを隠して、悲しい思いをさせてごめんね。


6. スイート・ライ  -甘い嘘-

愛している。
放さない。決して、離れない。

それは甘い嘘。
二人ともそうと知りながら繰り返す愛の言葉。
別れを恐れる気持ちが言わせる、嘘。

守護聖には永遠を誓い合うことなどできない。
サクリアが尽きれば聖地を出なければならない。
そんな己が言うべきではない、守ることのできない約束。
そんなことは最初からわかっている。けれども言わずにはいられない。
少なくとも自分たちの意思で離れるつもりなどないという誓い。

念じ続ければもしかしたら奇跡が起こって、二人が生涯離れることなく生きることができるかもしれない。
嘘、と言うよりはむしろ、願望。
互いの手を取ったときから別れが見えていた二人の、せつない願い。
奇跡よ起これと祈る言葉。


7. 鼓動

クラヴィスは外が好きだ。
宮殿の中にいるのを嫌って、よく執務室を抜け出してはどこかへ行ってしまう。
それに気がつくたび私はあれを探しに行かねばならない。まったく、困ったものだ。

とは言え、行き先は知れている。
たいがいは宮殿の中庭。さもなければ庭園だ。
いつも芝生の上で寝転がっている。
執務服に草や土埃がつくのも気にしていないふうなのを見ていると、頭が痛くなる。
あれの服は色が濃いから、ほこりがつけば目立つ。それを払ってやるのはたいがい私の役目だ。
まったく。クラヴィスはなぜあんな風にどこででも横になれるのだ?



+ + +



その日もクラヴィスを探しに行ったジュリアスは、庭園の木陰で無防備に眠る彼を発見した。横にしゃがんでクラヴィスを揺さぶる。最初の頃は苛立ちもしたが、最近では慣れたのか諦めに近い境地になってしまった。自分のほうが何十歳も年上のような気がする、そう思いながらジュリアスは声をかけた。
「起きぬか」
ころりとクラヴィスは寝返りを打ってジュリアスの反対側を向いてしまい、そのまま眠っている。
「クラヴィス!」
少し声を高くして呼ぶと、横を向いていた体が仰向けになってもう一度うっすらと目を開いた。が、木洩れ日が瞳にあたってまぶしそうな顔をして、きゅっとまた目を閉じてしまった。
「昼の休憩は終わりだ。起きぬか」
右腕を目の上にかざして光を避けていたクラヴィスは「ねむい…」とつぶやいてそのまままた眠ろうとしているので、さすがに業を煮やしてジュリアスは腕を引いた。
「いい加減にせぬか。立て」
「…ジュリアスも、こうしてごらんよ」
今度は意外にはっきりと、クラヴィスが言った。目は覚めているようだと安堵の息を洩らしてから、クラヴィスの言った言葉の意味に思い当たる。こんな場所で横になるなどとんでもない、と目を怒らせて「執務室に戻らねば」とクラヴィスをせきたてようとしても、一向に相手は立ち上がろうとしない。
「いつまでそうしているつもりだ」
「もうちょっとだけ…」
「地べたに寝転がって、何が楽しい?」
「……星が生きてるのがわかる」
「え?」
思わぬことを言われて、ジュリアスは目を丸くした。
「体をひっつけてるとね、地面から力を感じるんだよ。深いところにある力が脈打ってる感じがする。草や木の根が伸びる音とか水を吸い上げる音とか、土の中の生き物が動いてるのとか、いろいろ聞こえる。ジュリアスは感じない?」
そういう風に自然を感じたことのないジュリアスには、とても不思議な話だった。
「ぼくのとなりで横になってごらんよ。きっとジュリアスにも聞こえる」
そう言われて、恐る恐る横になってクラヴィスのほうに体を向ける。目と目が合った。頬に芝が当たって少し痛い。
「痛くはないか?」
「ちょっとちくちくするけど、大丈夫。そーっと寝てたらわかる」

しばらくそうやって二人で横になっていた。
静かに大地を、空気を感じながら。
生き物の気配を感じながら。
隣にいるひとの体温を感じながら。


8. 探しもの

いつも私は後ろを振り返ってはそなたの姿を確かめていた。
うっかりしていると私ばかりが先を行き、クラヴィスはどこか途中ではぐれていたりするからだ。手のかかるクラヴィス。 少し離れてついてくるそなたのことを待ち、時に手を引いて私と同じように進ませようとしてきた。

振り返る。
クラヴィスが私を見る。
小首をかしげて、口元に淡い笑みを浮かべて。

その様子は私を苛立たせた。
守護聖らしく、誇り高く、もっと堂々としていればいいのに。
そんな、私の顔色を伺うような笑い方はやめて、もっと楽しそうに笑ってくれればいいのに。

だがそなたの笑みはいつだって淡く、ともすれば泣き顔と見紛うような頼りないものでしかなかった。
私が見たいのはそんな顔ではない。
しかし私がそんなことを言ったらきっとクラヴィスは本当に泣き出してしまうに違いないから。
叱られているのだと思って、おびえて。
だから言わない。
ただ、「ほら、クラヴィス」と手を差し出す。

するとおずおずとクラヴィスは私の手を握り、私の歩みに合わせて歩く。
ふたり並んで歩く。
だが……私の望むようなそなたの笑みを見ることはできない。



「……アス……ジュリアス……」
ああ、クラヴィスが呼んでいる。またどこかで寄り道でもしていたのか……。
目を開くとそこには黒髪の美しい男がいて、私の顔をのぞきこんでいた。今しがた見ていた夢の中のクラヴィスと目の前の男がぶれて、そして重なった。
「そなたを、探していた」
「何だ? 私はいつでもお前のそばにいるではないか。夢でも見ていたか」
「ああ、昔の夢を」
「ふん、どうせ子どもの頃の私は手がかかったなどと言い出すのだろう」
そう言ってクラヴィスは笑った。あたたかい、私を安心させるような、胸が痛くなるほどに優しい顔で。
私が見たかったクラヴィスの笑みを、いま見つけた。


9. いとしいひと

いとしい
長く自分自身に対してさえもごまかしてきた気持ち
認めてしまえば何と単純なことか

ああ、そういうことだったのだ、と。
すべてがあるべきところに納まったような安堵と
言いようのない悲哀とを覚えた。
いとしいことが悲しいなどと、なぜ思うのだろうか
だが確かにこの気持ちには悲しみが混ざっている

いとしい
咲き誇る花のように心の中に在る想い
それは誰にも明かさぬ
当の相手である、あれにさえも
柔らかな花弁と優しい色合いのこの花を愛でるのは私ひとり

ひっそりと、この胸の中で咲き続けて、枯れてしまえ
誰に知られることもなく咲いた花は
人知れず盛りを過ぎて、枯れてしまうがいい
枯れた花すらも抱きしめて私は生きることにしよう
いとしいひとの面影とともに


10. 壊れた時計

俗に、体内時計、と言う

ジュリアスのそれは正確無比だ
毎朝決まった時間に目覚める
その後の行動も性格を反映して何もかもが規則正しく行われる
あれの動くのを見ていれば時計代わりになるのではないかと思うほどだ

対して私の時計は壊れているらしい
いつでもどこででも眠ることができる
ジュリアスに時に驚かれ、呆れられるほど速やかに眠りに落ちる

ただ眠り自体は浅いことが多く少しの物音でも目覚める
深く眠るというよりは、まどろむに過ぎぬ
眠れば必ず夢を見、目覚めても夢と現実との境目が曖昧であったりする
夢であるのか、遠い過去のできごとか、起こり得る未来のヴィジョンなのか
どこにいるのか、何をしていたのか、夢と現が交錯してよくわからなくなることがある

ジュリアスは即座にそんな私の状態を見抜く
「何を見ていた? 私はここだ」
てのひらが軽く私の頬に触れる
短い言葉と人のぬくもりとで私を現実へと引き戻す
お前がいるこここそが私の現実なのだと思い出させる

そして壊れた私の時計は、時もわきまえずにお前を確かめるよう私に命じ
何も考えずにそれに従うと手痛いしっぺ返しを食らうことになる
「ここをどこだと思っている」
恋人に低い声でぴしりとはねつけられて初めて周囲が見える
そうだった、今は昼間
執務の時間
ここは宮殿

いつでもどこででもお前がほしい
そんな私の時計は壊れているに違いない



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■BLUE ROSE■