5. 最後の願いを叶える方法
狼狽のあまりクラヴィスが飛び出した先は、天井も病棟の屋根も突き抜けて、いきなり空。
ジュリアスの瞳のような青。
さらに舞い上がる。気づけば聖地を俯瞰できる位置にいた。そこまで離れて少し落ち着いて、周囲を見渡す余裕ができた。眼下に広がる風景に思わず感嘆のため息が出た。それほどまでに、聖地というところはただ美しかった。光と白亜の宮殿と緑なす木々と。きらめく湖と丘と。
光の中で見る聖地は、ここから逃れたいとそればかりを願ってきた私の目から見ても美しい。
人が夢に思い描く楽園とはこういうものであるのかもしれぬと思える。
ジュリアスがここを愛し、この地を含めた宇宙全体を守りたいと思う気持ちが少しはわかる気がする。
私もあれのように素直にこの地を愛することができれば、少しは私たちの関係も変わっていただろうか。
あり得ぬな、と苦笑が洩れた。
ジュリアスのようなまっすぐな人間を愛しいと思ってしまったことが間違っていたのだ。
私はこの地では異邦人だという意識から抜け出せずにいた。なじんだようでいて、いつも違和感につきまとわれていた。
この美しさが見えぬわけではなかった。確かに聖地は美しいところだと認めよう。だが私にはそぐわない、それだけのことだ。
そうした気持ちでいて聖地が愛せたはずがない。そんな私をあれが受け入れるわけがない。
自分の置かれた境遇を疑うことを知らぬジュリアスに抱いたのは、憧憬と……羨望と嫉妬。
私が自分の思いや悩みにばかりとらわれて息がつまりそうなのにひきかえ、ジュリアスは常に前を見て進んでいく。なぜジュリアスはあれほど一心に尽くすことができる? 何の見返りを求めることもせず、ただひたすらに。
あれの姿に憧れ、強さをうらやみ、妬みさえした。目が離せなかった。
そしていつの間にか愛していた。
妬ましかったのは何ゆえであったろうか。宇宙に愛されていると私の目に映った光の申し子が妬ましかったのか。それともジュリアスの愛する聖地が、宇宙が、民人が妬ましかったのか。異邦人である私は愛されない、それが悲しかったのか。
出会いのときから嫌われている私が、あれに好かれるはずがないことが悲しかったのか。
そうだ…私はあれに嫌われているのだ。
今しがた見たと思ったものも何かの間違いに違いない。
…だが…もしもジュリアスの瞳に見たものが、私の見間違いではなかったとしたら…?
肉体から抜け出て、いったんは願ったとおり何も考えない存在であれたのに、なぜ今さらこのように思い悩むことになったのだ。もう無となることはできないのか…。
再びクラヴィスとしての意識を持ってしまった彼は、それ以前の状態に戻る方法がわからないことに愕然とした。そのままどうするというあてもなく、ジュリアスの表情を思い出しながらぼんやりと聖地を眺め回して漂っていたとき。
「何をしている?」
何かに声をかけられた。今のような状態の自分に声をかけるものがいたことに驚いてそちらを見た。クラヴィスと同じように宙に浮いたそれは、少年とも少女ともつかない、透き通った人の形をしている。
「お前は?」
「そういうお前と同質のものだ。……いや少し違うな。私は帰る肉体を持たぬ意識体。だがお前はあそこに体がある。早く戻れ」
相手は医療センターの病棟を指さした。
「……お前などの指図を受けるいわれはない」
「生は短い。あの肉体には損傷はない。望んでも生きられぬ者もいるというのに、自ら捨てることはないだろう?」
「私は生きることに倦んだ。もうあれは要らぬ」
「使えるものを使わぬとは。『もったいない』という言葉を知らんのか?」
「自分は体を持たぬくせに、妙な知識はあるのだな。私の体のどこでも、使えるところがあれば必要としている者が使えばよい。私には不要のものだ」
「何とも強情なことだ。それにしてもお前、変わっているな。死した体から抜け出た意識はそのまま溶けて、生命の流れに組み込まれて別のものとして再生を果たすのだが……そしてまた、普通ならば人は自らの意志で生きた肉体から抜け出すことはできぬものだが……」
「そのようなことは私には関係ない。ようやく出ることができたのだ、戻りたくなどない」
「あの肉体はまだ充分使える。それでも捨て去るのか? 本当に心残りはないのか?」
そうやって意識体としての存在を保っているのは、肉体がまだ死を迎えていないことに加えて何か心残りがあるからに違いない、そうも言った。消えたいと願いながら消えることができないのは、よほどの執着があるのだろう、と。
言われて迷った。手に入らぬものを求め続ける苦しさに逃げ出したのだった。だが先程の病室で見た情景を思い出すと、肉体を捨てて逃げる前に確かめなければならぬとも思えてきたのだ。
逡巡を見て取って、相手はそれ見たことかという顔をした。
「迷うくらいならば、早く戻ったが良い。戻りたいと念じながら飛び込むだけでよいのだ。お前自身の体だからたやすく受け入れられるはずだ。今ならばまだ充分に間に合う。が、あまり長い間離れていると戻りにくくなる。肉体を持たぬ意識はな、生への意欲が失われるのだ。今のお前を形作る源であるその執着もやがては薄れる。離れていればいるほど個としての意識を保つのが困難になり、いずれは溶けてしまうぞ」
「生きる意欲など元よりない。このまま消え果てようとかまわぬ、望むところだ。要らぬ世話焼きをするお前こそ、どうなのだ。こうしているうちに溶けてしまうのではないか?」
「私はお前とは少々異なるものだからな。もともとこういう存在なのだ、私は。私のことなど気にかけている暇があるのならさっさと戻れ。あまり意地を張りすぎるのもどうかと思うぞ。……まあ、お前の生だ。したいようにするがいいさ。私にできる忠告は済ませたからな。
そうそう、お節介ついでにもう一つ忠告しておく。あまり高みに上ると意識が拡散しやすくなる。迷っているのならばもう少し地上に近い場所まで降りることだ、手遅れにならぬうちに」
クラヴィスと話していたものは、それだけ言うとふっとかき消えた。
今まで見ていたのは幻かと疑いたくなるほどに鮮やかに、もう一つの意識体はどこへともなく消えてしまった。だが確かに話をしたし、その内容も覚えている。
あの者は何と言っていたか。「高みに上れば拡散しやすくなる」……ということは、真に消えたいと思うのならば上昇すればよいということなのだな。
私は名を呼ばれて目覚め、こうして私として存在している。私を呼ぶ声に気づかなければおそらくはあのまま溶けてなくなり、続いて肉体も生命活動を停止したことだろう。
だが、それがどうだというのだ? それをこそ、望んでいたのではないか。
もう放っておいてほしかった。何も知らぬまま消えてしまいたかった。だが……。
気になるのはあのジュリアスの仕草。瞳。
確かめる、か?
いやそれも……もう過ぎたこと。今さらどうなるというのだ。
それに、ジュリアスに見たと思ったものが私の見間違いであれば、目も当てられぬことになる。
あたら器から抜け出て自由になれる機会を捨てて、あの檻の中に戻るというのか。
いま一度、あれに焦がれながら言葉を交わすことすらままならぬ日々を過ごすのか。
ばかな。それよりは、このままあの空に溶けて消えよう。
あれの愛する聖地を眺めながら青い空に溶けるのは、なかなか良い趣向だ……。
もともと生きることへの執着は薄い。そしてあの意識体の言葉通り、意識体として形を成す元となった執着も薄れ始めているのかもしれなかった。そのことに危機感を持つでもなく、ふわふわと浮遊する感覚と、これまでに感じたことのない解放感に身を任せながらクラヴィスは聖地の空を漂っていた。
6. 絶望と希望の狭間
ジュリアスは病室でクラヴィスの傍らに座して顔を眺めながら、ときおり無意識のうちに目を閉じては彼の意識を探していた。それはこの十日あまりの間にすっかり習慣となっていた。執務室でも自室でも、昼となく夜となくクラヴィスを探し続け、もうだめなのかと半ば諦めの気持ちが兆してきていた。
体が生きていることに励まされて今日まで来たが、これほど探しても見つからないのは、もうクラヴィスがどこにも「いない」からなのかもしれぬ。
そう思うと足元から冷たい絶望が這い登ってくるようで、体が震えそうになる。クラヴィスがただ眠っているのではない事実を自分だけが知っていることが重かった。一人で考えていても思考は堂々巡りを繰り返し、次第に悪いほうへと向かっていく。拳を握り、歯を食いしばって耐えてきたが、いつか自分はその緊張に耐え切れなくなって泣くか、叫ぶかし始めるのではないか。せめてルヴァにだけは現状を伝えて、何か策がないか調べてもらうよう依頼しておくべきか。そんなことを考えながらいつもの習慣で意識を広げたとき、意外な近さにいるクラヴィスに気がついた。
クラヴィスがいる、ここに。
どきんと心臓が跳ね上がった。急に近くにクラヴィスの意識を感じ取って一瞬自分の正気を疑ったが、そこにいるのは確かにクラヴィスに違いなかった。昔からいつもそうやって居場所を確認してきた相手ゆえ、それは確信できた。だが相変わらず体から離れたところにいる彼を、どうやって戻したらよいのかがわからない。
見えぬ相手に問いかけてみたが、クラヴィスは声をかけた途端にその場からいなくなった。あわててもう一度彼の意識を追う。まだ聖地の中、そう遠くはないところにいることはすぐにわかった。今度は消えてしまったわけではない。本当に「いない」よりはよほど良かった。が、どうしたら体に戻る気になるのか。普通の眠りならば揺さぶって起こすこともできようが、肉体から遠いところにいるクラヴィスをどう呼び戻したらいいのか、ジュリアスはその術を知らない。
また呼びかけてみるか……?
戻ってこい、と? 私のところへ戻ってきてくれと?
力なく首を振る。
私などが呼んだところで戻るはずもない。現に今も逃げてしまったではないか。
あれは聖地を、職務を嫌っていた。真面目に仕事をせよと叱咤する私のことも。
昔からそうだった。
幼い頃など、おびえた目で私を見ていた。
今ではクラヴィスは私を見ることさえしない。
目がこちらを向いているときですらあの瞳に私は映っていない。
自分に向けられる冷ややかな視線を思い出す。
紫水晶の瞳は私を見ているようで、その実いつも私からそらされていた。
私など見ていない。私などに関心はないのだと、顔を合わせるたびに思い知らされた。
私はあれに嫌われている。出会ったときから。その原因を作ったのは他ならぬこの私だ。
聖地に連れてこられたばかりの、何も知らないあれを怒鳴りつけた。
そなたなど認めないと真っ向から否定した。
そうか。……私はあの会議の席で……また言ったのか。「要らぬ」と。それも、他の者たちの目の前で。
こんな私など、嫌われて当たり前だ……。
私ではだめだ。
では誰が呼べば戻るのか。
そもそも、あれが関心を持つ対象などあったか。
その問いは切ない思い出を呼び覚ました。ジュリアスは、かつてはクラヴィスが金髪の少女に思いを寄せていたことを知っていた。二人でいるところを見かけたこともあった。
私が見たこともないような笑顔を彼女に向けていた……。
けれどもあの少女は至高の存在となった。
あの頃からだ、クラヴィスが以前にもまして暗く沈み込むようになったのは。
私はクラヴィスと私的な話などほとんどしたことはなかったが、あれは……守護聖を辞めたがっていた。
聖地を出たがっていた。子どもの頃からずっと。
私たちはこれまでの生のほとんどをここで過ごしている。
それは守護聖に与えられた使命のためであり、私にとっては理の当然だったが、あれにはそうではなかった。
クラヴィスはこの地に留め置かれることを嫌っていた。
二十年と一口に言うが、それは決して少ない時間ではない。長くこの地にあって、クラヴィスはもはや耐えられなくなったか。
だから自ら体を捨てたのか。
とすれば、この状況はそなたにとっては喜ぶべきことなのかもしれぬ。
呼び戻そうとする私が間違っているのかもしれぬ。
だが。
だがそれでも、私はそなたに戻ってほしい。死ぬにはまだ早い。
ここにいてくれるだけでよい。
私を見なくてもよい。だから…。
守護聖仲間の誰が呼びかけてもそれに反応する可能性は低いが、クラヴィスを知る者に順に呼びかけてもらうくらいしか思いつかぬ。
やはり陛下にクラヴィスを呼び戻していただくよう進言するか……。
私たちが呼ぶよりは可能性があるかもしれぬ。
美しい聖地の光の中をふわふわと漂うのは心地よかった。重い体を捨て、重かった心もいつしか軽くなった。このまま空の青に溶けたらさぞ気持ちよかろう、そう思えた。
けれどもすっかり軽くなった心の中で、まだひとつだけ引っかかるものがある。
…ジュリアス。
それを思うが早いか先ほど逃げ出してきたばかりの本人の目の前に飛んでいた。
そこには眉を寄せて考え込むジュリアスがいた。不意に近くに現れたクラヴィスの気配に顔を上げると、口の中でクラヴィス、と小さく名を呼ぶ。そして意を決したように口を開いた。
「いるのだろう? 逃げずに聞いてほしい」
クラヴィスは、自分の姿を見ることはできないはずなのに、まっすぐに自分のほうを向いて話しかけてくるジュリアスに魅入られたように動けず、青い瞳から目を離すこともできない。
ジュリアスは一呼吸置いて、相手を確かめる。まだそこにいる気配に少し安堵して先を続けた。何をどう話したらいいのか考えもまとまっていなかったが、とにかく話しかけた。逃げぬようつかんでおくこともできない相手なのがもどかしい。途中で行かないでくれと願いながら言葉を継ぐ。
「そなたが眠り続けているので皆心配している。大切な仲間だ。戻ってほしいと願っている。皆の祈りの声がそなたには聞こえないか。
…そなたが…私を嫌っていることは知っている。私の言葉など聞きたくもなかろう。だが聞いてくれ。
そなたには信じられぬことかもしれぬが、この私もそなたを案ずる者の一人だ。このままに置けばどうなるか、そなたは知っていよう? 闇のサクリアの不足が宇宙に悪影響を及ぼす前に命を召し上げられることになる。そうなったからどうだと言うのだとそなたは笑うかもしれぬ。むしろそうなりたいと思っているのかもしれぬ。
けれども、断を下すのは我々の側なのだ。その決断は誰にとっても辛い。ここに生きている肉体を目の前にして、我々にその道を採らせるのか。陛下にそのような辛い決断を強いるつもりか。私にそなたを殺させるつもりか。この…私に…」
声は震えて途切れた。説得に失敗すればクラヴィスを失うことになる。首座として冷静に振る舞うことなどもうできない。
皆が、陛下が、というのはどれも真実そう思ってのことだったが、何よりもジュリアス自身が、クラヴィスに戻ってきてほしい、生きていてほしいと切望している、クラヴィスを失うことが耐えられないのだ、と。堪えに堪えてきたものは、堰を切ってあふれそうだった。口を閉ざすことでかろうじて踏みとどまっている。その心の真実を明かすことができるものならば、すでにそうしていただろう。できないからこそ皆の名に託して訴えかけるしかなかった。嫌われている自分が戻れと言うのはかえって逆効果ではないかとの恐れから、戻ってくれ、その一言がどうしても言えなかった。