now i lay me down to sleep


7. 抗えぬ声に導かれ


帰ってこい。
そなたさえ戻れば何も要らぬ。
クラヴィス!

それはあの声だった。クラヴィスの意識を目覚めさせた、ジュリアスの心の叫びだった。

そう認識したと同時に意識体のクラヴィスは抗う間もなくすうっと自分の体に引き込まれた。戻ろうとしたわけではなかったが、ジュリアスの呼ぶ声に知らぬ間に引き戻されていた。
そして感じたのは、途方もない重み。
自分の体が重くて仕方がない。恐ろしいほどの重力で寝台に押しつけられているような気がする。指先一つさえもまともに動かせない。そもそも呼吸をするというのはこれほどに大変なことだったか。目を開いて、肉眼でジュリアスを見たいと思ってもまぶたを上げる、ただそれだけのこともままならない。だが重石を載せられたように重く感じられるまぶたをどうにか押し上げると、ジュリアスの座っている方へと目を向ける。彼はうつむき気味で右手を目のあたりに押しあてていた。唇が微かに震えているのがわかる。名を呼ぼうとしたが、声もなかなか出てこない。が、声を出す前に、ジュリアスははっと顔を覆っていた手を放してクラヴィスを見た。
ジュリアスの目に映じたのは、闇を溶かしこんだような黒曜の瞳。この2週間というもの閉ざされていた瞳が自分を見ていた。ひたとその瞳に見つめられ、唇の動きから名を呼ばれたと知って、青い瞳が潤む。それでも気丈な言葉が口をついて出た。
「どれだけ眠れば気が済むのだ、起きないつもりかと思ったぞ」
クラヴィスはようやくのことで声を絞り出した。
「お前の……嘆きの声がうるさくてな…起こされた…」
「…誰が!」
耳まで赤くなったジュリアスに、クラヴィスの口元が微かにほころんだ。
私は事実を言ったまでだ。本当にそうなのだからそうとしか答えようがないではないか。
…フッ…そのように赤くなるなど、常に冷静なはずの首座殿らしくもない。

微かにだが、クラヴィスは笑っている。目が優しい。これほどに優しいクラヴィスの目を見たことがあっただろうか。やはり私は夢でも見ているのではないだろうか…。夢なら醒めないでくれ。醒めるくらいならいっそこのまま私を死なせてくれ。
クラヴィスが戻ったのだとまだ信じきることができず、さらには浅い眠りの間に幾度となく見た夢を思い出して逆に不安が募った。クラヴィスが目を覚ましたと喜んだのも束の間、それは夢だったと知る、そんなむなしい目覚めを何度も繰り返した。自分はまたあの夢を見ているのではないか。意外なまでに優しいまなざしが、いっそうその不安をあおる。このようなクラヴィスを、私は知らない……。
「私は…夢を見ているのではあるまいな」
思わず知らず口からこぼれ出た言葉に、クラヴィスが「夢ではない」と答えた。その言葉すらも夢の中のものに聞こえる。
「ずいぶんと疑り深い男だ…」
疑わしげに見られてため息をつく様はいつものクラヴィスのようでもあり。
そう言えば、私はクラヴィスに何を話した?
覚えがなかった。必死だったのと、クラヴィスが目を開いたのを見たときの歓喜とで、その前のことが思い出せない。
ジュリアスは笑っているクラヴィスを挑むように見ると、一瞬ためらった後、尋ねた。
「…私の言葉で戻ってきたのか」
「ああ」
クラヴィスの返答にまた顔が火照った。目を開いてくれたことは嬉しい。だが自分は何を言っただろうか。クラヴィスを呼び戻そうと何かとんでもないことを言いはしなかったか。クラヴィスの笑った顔を見ていると、何か口走ったのではないかと気になって仕方がない。
実際にはジュリアスは自分の気持ちを吐露するようなことはひとことも口にしなかったのではあったが、如何せんせっぱ詰まっていて何を言ったか本人に覚えがない。何をしゃべったか思い出そうと考え込んでいると、クラヴィスに呼ばれた。
「ジュリアス…」
「ん? 何だ?」
「耳を貸せ」
しゃべる力もあまりない、と言われて、ジュリアスは立ち上がると寝台に手を付いてクラヴィスの口元に耳を近づけた。
「…好きだ」

好き。………………………何が?
クラヴィスの言うことは相変わらずわからぬ。

たった今自分を好きだと告白したばかりの思い人の顔を間近からまじまじと見て、ジュリアスはますます眉を寄せて考え込んだ。クラヴィスの言葉に困惑していて、ほんの少し顔を寄せれば口づけもできる距離だということにも気づかない。互いの距離の近さに気がつけばさらに赤くなってうろたえたことだろうが、考えるのに忙しいジュリアスにはそんなことに気づく余裕はなかったのだ。自分は嫌われていると思い込んでいるため相手のほうから好きだと言われるなど予想もしなかったことで、クラヴィスが何を言ったのかは彼の理解の外にあった。意味が通じていないらしいジュリアスを見て、クラヴィスは含み笑った。
「何を笑っている。それよりそなた、もう少しはっきりものを言え。何が好きなのか、さっぱりわからぬ」
主語や目的語をきちんと言え、と真面目に諭す首座を見て、クラヴィスはもう一度笑った。
まったく…色気のない男だな。そのように無防備に近づいて、私の体が動けばただでは済まぬところだ。
…が、残念だが続きはもう少し体力が戻ったら。どうにも眠い。
「眠っても良いか? 疲れた」
「好きにするがよい、だめだと言ったところでどうせ寝るのであろう」
言いながらジュリアスはその場を離れようとした。皆にそなたの意識が戻ったことを知らせてくる、と。
「お前がいてくれないとまた起きられなくなる…」
だからここにいてくれ、と半ば脅迫されて、ジュリアスは再度腰を下ろした。不意に不安がこみ上げる。
「また何日も眠り続けるつもりではなかろうな」
膨れ上がる不安に、探るようにクラヴィスを見る青い瞳。その心配そうな青を見ていると幸福感が押し寄せた。いつも堅い表情、険しい顔ばかりを自分に向けていたジュリアスが、あれは幻であったのかと思うほどに素直に感情を見せるのが嬉しくもあり不思議でもあった。
「案ずるな、もうあのようなことにはならぬ」
お前の心を知ったから。……そのせいでお前の表情が以前とは違って見えるのだろうか。
「なぜそう言いきれる? 原因もまだ解明されておらぬというのに」
「私にはわかっている」
そして私が『もうああいうことにならぬ』と言うのだから、確かだ。
そう言って安心させてやりたいが、そんな説明とも呼べないような言葉だけではジュリアスは納得しないだろう。彼の納得が行くまで説明しようとすれば長くなる。それをするだけの体力も気力も今はない。声が続かないのがもどかしかった。
「どういうことだ」
「ああ…だから、少し寝かせてくれと言ったろう。次に目覚めたときには…きっと話すから…」
囁くように何とかそれだけを言い終えると、どう告げようかと思案しながら目を閉じる。
空に溶けて消えようとしていた私をお前が呼び戻したのだ、責任を取ってもらおうではないか。

体が重い。まぶたも重い。そして本当にもう声が出なかった。



8. ぬくもりを感じながら


ずっと、嫌われていると思っていた。

最初に会ったときジュリアスに言われた言葉にもかかわらず、子どもの頃から彼のことは好きだった。聖地に来る以前、クラヴィスの周囲には暖かく優しい人たちがいたが、外の人間には悪意をぶつけてくる者たちもいて、そういうことには耐性ができていた。誰もが自分を認めてくれるわけではない、自分の存在を快く受け入れるわけではない。それは自明のことで、決して長くはない人生ですでにそのことを知り抜いていた幼いクラヴィスにとって、またそういう体験が一つ増えた、そんな程度のできごとにすぎなかったはずだ。相手がジュリアスでさえなければ。
息を呑むほど美しい存在に言われた、そのことが堪えた。一目見ただけで忘れられない鮮烈な印象を心に刻み込んだ少年に嫌われた。自分などジュリアスにとっては道端の石ころほどの価値もないのだと思えて、それが悲しかった。
好きで、憧れて、羨んで、妬んで、それでもやはり好きなものは好きだった。
好きすぎてまともに目を合わせることすらできず、話をしようとしても言葉にならず、自然ジュリアスとの仲は疎遠となった。
そして子どもの「好き」はいつの頃からか形を変えた。

あんな風に全てを投げ出したい気持ちにさせた元凶は、己の深いところに閉じこめた欲。
ジュリアスがほしい、心はもちろんのこと、その体まで。その欲望がクラヴィスを追いつめた。
愛を乞うのか。私を嫌うジュリアスに?
私の愛などあれが受け入れるわけがない。
全てが得られないのなら、何も要らない。

本当はジュリアスの望むようにしてやりたかった。どうしたら喜ぶかはわかっている。できないことではなかった。
守護聖として熱心に働けばジュリアスも自分を頼り、微笑みかけてくれるかもしれない。
ジュリアスの笑顔はどれほどきれいだろうか。それを夢想したりもした。
けれども彼は決して手の届かない相手。成就する見込みのない恋。
受け入れられる可能性がないのなら、ジュリアスの信頼も微笑みも毒にしかならない。それ以上を求めるクラヴィスには。だからことさらに彼の嫌う振る舞いをしてもともと遠かった距離をさらに広げ、目も耳も塞ぎ、彼から逃げ続けた。

離れなければ。ジュリアスに頼られ、微笑みかけられる者であってはならない。
そうなれば自分の位置に甘えてお前にそれ以上を要求するようになるかもしれない。
私は自制を失っていつかお前を傷つける…。

遠くへ逃げたくて、けれども聖地は守護聖を手放すことはなく、それ以上にクラヴィス自身が完全にジュリアスから目をそらすことなどできはしなかった。
そしてその彼から「要らぬ」と言われたことが引き金になった。クラヴィス自身を否定されたわけではなかった。役目を果たさぬ筆頭守護聖は要らないと、ジュリアスはそう言ったのだった。が、クラヴィスが自分の体を放棄するにはそれで充分だった。
私はジュリアスに必要とされてはいないのだ…。
愛する相手に要らぬと言われるのは何より辛い。
お前など全くの無価値であると宣告されたようなものだ。
ジュリアスにそうまで言わせたのは自分だったが、言われて堪える言葉でもあった。
けれども意識体として浮遊していたときにジュリアスを見て、彼もまた自分と同じであったのだと知った。

臆病な私たちはどちらも最初の一歩を踏み出すことができずにすれ違いを続けてきたのだ。
今まで無駄にしてきた長い時を考えれば何と愚かなことをと思わずにはいられない。が、知らないまますれ違い続けるよりは知ることができて良かったのだと思おう。
お前はおそらく何も言わぬつもりだろう。何食わぬ顔をしてこれまで通りでいようとする気だろう。
まったく…これまで見事に私をだまし通してくれたものだ。しかしその手はもう通用しない。もっとお前に近づきたい。知りたい。愛したい。
真面目で融通の利かぬどうしようもない頑固者を相手に、それは急には無理なことかもしれない。そうたやすくこの手に落ちてくるとも思えぬ。けれども、これから距離を縮めることはできるだろう? 二人の心が求めるものが同じならば。
お前に告げたい言葉がある。お前から聞きたい言葉がある。
覚悟しておけ、もう遠慮はしない。お前の全てがほしい。
……だがどうしようもなく眠い。少しだけ、お前のそばで眠らせてくれ。すぐに戻るから。


+ + +


ずっと、嫌われていると思っていた。
けれども思っていたほどには嫌われていなかったのだろうか。
私の言葉を聞いて戻ったのかと尋ねたらそうだと答えた…。

戻ってきた、それだけで嬉しかった。目を覚ましてさえくれれば何も要らないと思っていた。ところが意外なほどに優しかったクラヴィス。彼の笑顔はこれまでに幾度も見た人を揶揄するようなものとは違って、あたたかかった。言葉も、瞳の色も。自分を真っ直ぐに見つめてきたクラヴィスの瞳を思い出し、それから不意に耳元に囁かれた言葉を思い出した。

好きだ。

クラヴィスは、あのとき確かそう言ったのではなかったか。
何をわけの分からぬことをと思ったが、あれはもしや? ……ばかばかしい。そのようなはずがなかろう、ずっと仲が悪かったのだ。
友として話せるようになるかもしれないなどと…笑顔を見せてくれたからといって妙な期待はせぬことだ。
とにかく、目を覚ましてから訊けばよい。クラヴィスも「話す」と言っていたのだし。

ほっと息をつく。何だか一気に肩の力が抜けて、やけに眠くなった。思えばこの2週間というもの、ろくに眠っていなかった。

口元に笑みを残したまま、クラヴィスは眠ってしまったようだった。
自分ばかり寝て。
心の中で恨み言を言ってみる。が、ジュリアスの頬にも優しい笑みがあった。帰ってきてくれた、それがただ嬉しかった。
ジュリアスは、立ち上がるとクラヴィスの上にかがみ込んだ。二人以外誰もいない部屋。少し大胆になった彼は、それでもためらいがちに白い額に唇を寄せてそっと口づける。
此度は早く目を覚ましてくれ。そなたの話を聞きたい。尋ねたいこともある。
それに…もうあのような思いは二度としたくない。

クラヴィスは眠りに引き込まれながら、額にやわらかく優しい温度を感じた。





■BLUE ROSE■