now i lay me down to sleep


3. 不文律

まる二日たっても目を覚まさないクラヴィスは、聖地の医療センターに移送されることになった。この施設が設置されている主要な目的は医学研究だが、一般的に病はないとされている聖地であっても負傷者が出る可能性はあるし、他にもどんな不測の事態が起こるかはわからない。よって病院としての機能を併せ持ち、臨床医や看護士が常駐しているのである。

センターに移された翌日もその翌日も、闇の守護聖の状態に変化はなかった。一週間が経ち十日過ぎ、それでも目覚めは訪れない。その間も医師たちがいろいろと詳しく検査をしたが、原因特定には至らなかった。
薬物を飲んだ形跡はない。何らかの病気の兆候も認められない。深く眠っている、それ以外には異常は認められなかったのだ。
脳波を測定したところ、活発な精神活動の存在が認められないことが判明した。ゆるやかに大きな波形を描くだけの脳波パターンは、意識水準が最も深い睡眠状態よりもさらに低いことを示していた。普通の呼びかけはおろか、大きな物音にも反応を示さない。おそらく夢も見ずに眠っているだろうと医師は言った。

検査から知ることができるのはそこまでで、クラヴィスはいわば魂が抜け出てしまった状態にあることは、ジュリアスだけが知っている。ジュリアスはそれを人に告げるべきか否か迷いながら、結局は誰にも明かすことができずにいた。
「魂」の存在は実証されてはいない。したがって、それが存在するか否かを測定したり判定できる機器などあるはずがない。クラヴィスの異状はひとりジュリアスという人間だけに感知されたことであり、他の人間に話しても理解されない可能性が高い。話して、理解が得られたとしても、どうしたら消えてしまった魂を肉体に戻せるのか。ジュリアスにもわからないことを、他の人間が知っているとは思えなかった。女王ならばあるいは、呼び戻す術を知っているかもしれない。しかし衰退しつつある宇宙を支える負担が日々増している女王に奏上することもはばかられた。

できれば陛下をわずらわせることなく事態を収拾したい。
まだ時はある。陛下のお力にすがるのは最後の手段だ……。

静かに眠り続けるクラヴィス。その眠りのままに放置されれば命を落とす生身の体も、栄養剤の点滴で生かされている。そしていつまでそれが続けられるかは、宇宙の状態にかかっている。毎日見舞いに寄るジュリアスは、その姿を見ながら唇を噛んだ。
女王の力でクラヴィスを呼び戻せるかどうか、本当のところはわからない。クラヴィスの処遇の最終的な決断の前には、どの道女王への報告が必要となる。呼び戻せるものなら、そのときでも遅くはないはずだ。自然回復を長く待つことで、それができる時期を逸する危険はある。しかし結局は女王にもできないことなのかもしれない、だとしたらそれを早い段階で知りたくはないという気持ちも働いていた。一縷の望みを捨てたくなかった。まだ打つ手がなくなったわけではない、そう思うことでジュリアスは平静を保とうとしていた。

手遅れにならぬうちに戻ってきてくれ。
そなたを失ったら私はどうしたらいいかわからない。
「そのような筆頭守護聖は要らぬ」
なぜあそこまで言わねばならなかったのか。
クラヴィスを要らぬと思ったことなど、ただの一度もない。
ただあれがあまりにやる気のない風情だったから。
嫌そうな態度が目に余ったから。
クラヴィスは言葉に出してはほとんど何も言わない。
けれども、いつになく突っかかってくるような、そんな様子だったから。
売り言葉に買い言葉というのはあれを言うのか。
あのようなこと、言うつもりはなかったのに……。

最後にクラヴィスと言葉を交わしたのはあの諍い。そして後味の悪い言い争いの直後に異変は起きた。
クラヴィスという人間の核となる意識が体から抜け出てしまっていることをジュリアスは知っている。脳波の測定結果もそれが正しいと示唆している。医師たちがどう手を尽くして検査しても原因となるような疾患も見当たらない。まさかとは思いつつも自分の言葉が関与しているかもしれない可能性に、ジュリアスはぎくりとした。

まさか。
いつもいつも私の言うことなど聞きもしない。
何を言っても意に介さない風で勝手ばかりするクラヴィスが私の一言でそのような……。
そんなわけはない、クラヴィスにとって私は風景の一部のようなものにしかすぎない。
私にはあれに対するそれだけの影響力はないはずだ、歯牙にもかけられていないのだからな。
せいぜいがうるさく飛び回る羽虫程度にしか思われていないに違いない。
……だがもしも……そうだったとしたら……。
私の言葉のせいだとしたら……私があれを死なせることになるかもしれないのか……?


ジュリアスの秘めた思いは誰にも気づかれてはいなかった。守護聖の首座たるジュリアスは自分の感情を隠すのが巧い。よって、かれの真の気持ちは当の相手であるクラヴィスにさえ知られてはいなかった。女王陛下に忠誠を捧げ民のために奉仕すべき自分が、共に職務にいそしむべき仲間であり、しかも同性のクラヴィスを慕っているなどということは、決して誰にも知られてはならぬことだった。

人の心を持ったままでは下せないような決断の数々は、ジュリアスを孤高の極みへと押し上げた。無私はジュリアスの美質であったが、それも度が過ぎれば毒となる。他者に対して害をなすのではなく、ジュリアスを苦しめる。
自分には人としての幸福は許されない。人であってはならない……。
そう思いつめるほどに、彼は私人としての自分を捨てていた。一人の人間と和やかに語り合いたい、その程度のほんの小さな願いは罪ではない。それを罪だと感じてしまうまでの潔癖さ。そうした心のうちを誰にも明かさなかったジュリアスには、それは罪ではないと教える者はいなかったのだ。

隠し通さなくてはならない性質のものであるとジュリアスが思い定めていることから、クラヴィスへの想いは彼の過酷な日常にあってその過酷さを増す要因となっていた。だが、たとえ矛盾して見えようともそれはジュリアスを癒してくれるものでもあった。
クラヴィスと言葉を交わすことは心地よさとは無縁だ。冷たい、どこを見ているのかわからない瞳を向けられ、あるいはあからさまに顔を背けられ、ろくに返事もしない彼を相手に虚しく言葉を連ねる。そんな一方的な逢瀬が、それでもジュリアスにとっては僅かな慰めであり、ささやかな喜びだった。クラヴィスの姿を間近で目にする。声を聞く。ただそれだけが。

その私がクラヴィスを……殺す……。



聖地での一日は外界では何倍もの時間になる。聖地での数日は、外界では場合によっては数ヶ月あるいはもっと長い時間ともなり得る。長い間特定のサクリアが供給されない状態が続けば、宇宙の均衡は失われ崩壊の危機を招くことになる。クラヴィスが眠り始めた日から時間の流れを外界と合わせているが、それでも闇のサクリア供給途絶に耐えられる限界というものがある。その限界を超えてクラヴィスの肉体のみを生かしておくわけにはいかない。
宇宙には闇の守護聖が必要だった。意識の戻らぬクラヴィスは、このままの状態が続けばいずれは死を賜る運命にあった。守護聖の任に堪え得ぬ器は速やかに交代させるべし。それは暗黙の了解事項だった。

時が来たら、それはせねばならぬことだ。
何をためらう。今までどれほどの命を救いきれずに失ったことか。
私の判断の下に死ぬ人間がここで一人増えたところでどうだというのだ。
たとえそれがクラヴィスであっても……。
人でなしの私には似合いの仕事だ。

クラヴィスは眠ったまま目覚めない。王立研究院では星々の状態を常にモニターし、記録を取って解析している。闇のサクリア不足による危機の兆しが見えたら、守護聖の交代を強行するしかない。強制的な交代、つまり死を以てその守護聖からサクリアを引き上げ、次代へと移すということになる。首座としてジュリアスがその断を下さねばならない。だが自らを納得させようとどうあがいても、死なせたくない、生きていてほしい、その思いを止めることはできなかった。

そなた、死にたいのか?
怠慢もここに極まる。何も目覚めるのまで億劫がらずともよいではないか。
……戻ってきてくれ。私には……そなたが必要だ。

優しい言葉も微笑みもいらぬ。
私を嫌っていてもかまわぬ。
ただそなたが生きてここにいてくれればそれでよい。
だから頼む。戻ってくれ。

そなたが私の言葉など聞くはずもないが
万が一の可能性にかけて呼んでいる私の声に答えてくれ。
もしも私のせいでこうなったのだとしたら、此度も私の願いを聞いてくれ……。
早く戻ってこい、クラヴィス。
私にそなたを殺させるな。



4. あり得べからざること


戻ってこい、クラヴィス。

誰かの呼ぶ声がした。


+ + +


呼び声の切ない響きが深い眠りを破った。
その意識はゆるゆると目覚めて、自分を覚醒させたものを確認する。

……私の名か? ……そうだ、私はクラヴィスだ。
あの声は……ジュリアス? まさかそのような。
あれがあのように悲痛な声で私を呼ぶわけがない。
私と顔を合わせずに済むことを喜びこそすれ、不在を嘆いてあのように呼ぶはずがない。
私のことをひどく嫌っているあれが。

大気中に薄く広がり拡散していたクラヴィスの意識は、名を呼ばれてクラヴィスとして再びひとまとまりとなり、気づけば白い部屋の隅、天井に近いあたりから下を眺めていた。その部屋には様々な医療機器が置かれ、白い寝台があり、そこに眠っているのは自分。
傍らにはジュリアス。執務服のままの首座は寝台のそばに引き寄せた椅子に座り、クラヴィスの顔を見ているようだった。

そういうことか、と納得する。どうやら私は肉体を捨てたらしい。何一つとして思い通りになったためしはなかったが……最後の願いだけは叶うようだ。
ふ、と意識体のクラヴィスは片頬に皮肉な笑みを刻んだ。
何とも造作のないことだ。これほどたやすいのなら、もっと早くにするのだった……。
それとも他の望みをすべて捨てたから叶ったものであろうか。
まあ、これで終わりにできるならばもはや理由などどうでもよいことだが。

改めて、自分が寝かされている部屋を観察する。白と銀色の無機質な丸い壁掛け時計は、12時過ぎを指している。窓のない部屋は、外の光の様子がわからない。
昼か、夜か。いくら何でも首座が夜の夜中に付き添うことはなかろう。とすれば、昼の休憩時間、か……。
白い部屋に二人きり、医師も看護士も他の守護聖もいない。ジュリアス一人が眠る自分を見ている。椅子に座っていることから、少しだけ顔を見に立ち寄ったというよりはそこに腰を落ち着けてクラヴィスを看ているらしく思われた。嬉しいような痛いような悲しいような、何とも形容しがたい感情がクラヴィスの心を震わせた。
真面目で不器用で……どうしようもない大ばか者だ、お前は。
嫌っている相手でも倒れればそうして病室に詰めているとは……お忙しい首座殿が、ご苦労なことだ……。
そうやって自分の心を殺し身をすり減らし続けて生きるのか。
かわいそうなジュリアス。
そんなお前だから目が離せなかった。
なろうことなら私はお前を助ける者になりたかった、あの赤い髪の男のように。
誰はばかることなく側にあってお前を助ける者に……。

ジュリアスは姿勢を崩すことなく静かにそこに座っている。人目があろうがなかろうがジュリアスはいつでもジュリアスなのだなと見慣れた、端然としたその姿をしばし眺めているうち、自分の傍らに座る彼がどんな様子でいるのか知りたくなった。もっとジュリアスをよく見たい、その意志が形になるかならないかのうちにすっと近づいていた。ジュリアスの背を少し離れて斜め上から見る形になり、流れ落ちる黄金の滝のような髪にしばし見とれて、そして無性に彼の顔が見たくなった。
あの瞳を見たい。
思った途端に移動していた。クラヴィスはジュリアスの正面にいた。実体のない彼は、寝台と重なる部分が中に溶け込むように消えて、座っているジュリアスの目の高さに自分の目も位置していた。ジュリアスの視線は意識体の自分を通り抜けてクラヴィスの寝顔を見つめている。眉を寄せた厳しい表情はよく見るものだ。だが青い瞳は、クラヴィスが彼のうちにこれまで見たことのない感情を露わにしていた。クラヴィスはそれが何であるか測りかね、瞳に見入る。
ジュリアスは自分の好悪の情を仕事に持ち込むような人間ではない。たとえクラヴィスのことを嫌っていたとしても、首座という立場上、闇の守護聖の状態を憂慮しているということは充分に考えられる。だがジュリアスの表情に見えるものは、より個人的な感情の色合いが濃い。
めずらしいものを見る……さすがに誰もおらねば自らの感情をあらわにすることもあるということか……。
憂慮というよりは焦慮、苦悩……渇望……渇望?
いったい何に対する渇望だというのか。ジュリアスが何かをほしがったり執着したりということがあったか。
宇宙を守り民に奉仕し、女王に仕えることだけが全てのようなこの男が。
己のことは常に後回しにして顧みず、自身の望みなどないようなジュリアスが。

つとジュリアスの手があげられ、眠るクラヴィスの顔に向かって伸びた。手が意識体の自分を突き抜けようとするのに驚いて、寝台の反対側まで退き、意味のない行動を取っていることに気づいて苦笑する。
あれの手が突き抜けるのがどうだというのだ。実体のない体は寝台とも重なり合っていたではないか。
自分のあわてぶりを少しおかしく思いながら、ジュリアスの手の動きを追っていた。
額のあたりでやや乱れている黒髪を整える。
愛しそうに髪に指を差し入れる。
髪の流れに沿ってゆっくりと梳き下ろす。
肩のあたりまできて名残惜しげに離れようとした白い指は黒髪を最後にそっと撫でて、ジュリアスの膝に戻った。柔らかなその手の動き。信じられぬものを見て、クラヴィスは何も考えられず、理解もできず、ただ純粋な疑問だけの存在となってそこにいた。
何だ、あれは?
見誤るはずがない。誰の目もない場所でジュリアスが見せた情愛のこもった仕草。
聖地に召される前、病に倒れて体の痛みを訴える自分を母が優しくさすってくれたときのような。
そしてその瞳に宿るものは、ある意味見慣れたものでもあったのだ。自分の瞳の中に。ジュリアスを求める自分の瞳と同質のものを認めて、クラヴィスは思考停止状態に陥っていた。本当は、最初にジュリアスの瞳を見たときからわかっていた。が、それはあり得ないことだと思ったからこそ何であるのかわからず、理解もできなかった。
まさかそのようなことが。
茫然とジュリアスの膝の上に置かれた手を見た。紛れもなく男性の手でありながら指の先まで美しい。その白い手を、そこに答えがあるかのように見つめ続ける。
と、クラヴィスの寝顔をじっと見ていたジュリアスが顔を上げた。頭をめぐらせると、意識体の自分が立っているあたりを目を眇めて凝視した。
「…クラヴィス? いるのか?」
低く問いかける声に雷に打たれたような衝撃を受け、クラヴィスの意識体はその場を離れた。

いることに気づかれた。

ジュリアスは自分の存在に気づいた。だが「視る」ことはできないようだった。こちらも生身ではないから返事のしようがない。いかにジュリアスが話しかけようとも会話は成り立たない。知らぬ振りで居続けることはできたはずだった。けれどもなぜだか居たたまれなかった。ジュリアスのことをずっと見ていたくもあり、見ているのが恐ろしいような気持ちもあり。

あの仕草、あの瞳。
まさか、お前も。

狼狽。あり得るはずがないという否定。
あまりにもジュリアスへの執着の強い自分が、都合良くねじ曲げて見たもの。
見たい映像を自ら作り出した、まやかし。
あれが私を好いているわけがない。
私は嫌われているのだ、あれと出会った最初の時から。




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■BLUE ROSE■