2. 静かに過ぎ行く日々のしあわせ
ルヴァが見舞ったときに、クラヴィスの目覚めを知らされた医師たちがかけつけて、病室は一時は騒然となった。何しろ目覚めたと聞いたクラヴィスがまた眠っているのだ。
ジュリアスが確信を持って「此度はただ眠っているだけだ」と声をかけたが、たとえ首座の声であっても医師たちの騒ぎを止めることはできなかった。ばたばたとあわてて医療機器をチェックし、普通に眠っているのだと確認するまでのひと騒ぎの最中再び眠っていたクラヴィスが目を覚ましたおかげで、ようやく医師たちも「闇の守護聖は目覚めたのだ」と納得することができて安堵したのだった。ただし不機嫌な闇の守護聖から「うるさい…」と言われるというありがたくないおまけつきで。この上「検査させてください」なんて言ったら、確実に呪い殺されそうだ。
闇の守護聖の険悪な様子に震え上がった医師たちは、「しばらく私が見ているゆえ、そなたたちは下がってよい」とジュリアスに促され、「ジュリアスもああ言っていることですし、どうぞ〜」とのルヴァの声にも励まされ、早々に退室していった。ジュリアスたちが医師とやりとりをしているうちに、クラヴィスはまたうとうとと眠りに落ちていた。守護聖たちだけを残して皆出て行ったところで、ルヴァがジュリアスに尋ねた。
「あなたはここに残るのですかー?」
「そうしようかと思う。そなたは執務に戻るのであろう? 悪いが私の執務室にある書類はこちらへ回してくれるよう、事務官に伝えてもらえないだろうか」
「お安いご用ですよ。それよりも、あなたも眠ったらいかがです? お疲れなんでしょう?」
ジュリアスは苦笑した。
「先ほどはついまどろんでしまったが、これ以上そのようなまねはできぬ」
「ですよねー。あなたならそうおっしゃると思っていました。あまり根をつめないようにとだけ、お願いしておきますよ。あなたが倒れてしまったらそれこそ大変ですからね」
それでは、と会釈して、ルヴァも部屋を出て行ったのだった。
その後2時間ほど眠ってようやく目覚めたクラヴィスは、部屋にジュリアスがいるのを見て顔をほころばせた。
「ジュリアス」
書類から目を上げてクラヴィスを見たジュリアスの表情も柔らかいものになった。
「目が覚めたか」
「……のどが渇いた」
サイドテーブルにあった吸い飲みに冷たい水を満たして、クラヴィスの口元まで運んでやると、おいしそうにふた口ほど飲んで、「もうよい」と言う。さらには「口移しで飲ませてくれたほうが良かったのに」などと言い出すので、ジュリアスはどういう顔をしたらよいかわからずに、吸い飲みを持ったまま固まってしまった。
「何の冗談だ……」
おそるおそる顔をのぞきこんでも、クラヴィスは微笑するばかり。からかわれたのだと解釈して、それについてはそれ以上言及せず、気になっていたことを尋ねてみることにした。
「なぜあれほど長い間、体から抜け出ていた?」
「何もかもが億劫になってな。静かに寝ていたいと思ったらああなった」
「それだけか?」
この怠惰男が、と腹が立ち、周囲や自分のあの心配は何であったのかと情けなくもあり。黙っていると、クラヴィスは面白そうに「怒ったのか?」と言う。
「別に」
「本当に理由が知りたいのならば、言わぬでもないのだが……」
「気になる言い方をするな。確か、先ほど眠る前は話してくれると言っていたではないか」
「待ってくれ。まだ本調子ではない。長い話はおそらく無理ではないかと思う」
言うそばから声はかすれ、顔色も良くないのは一目瞭然だった。
「……すまぬ。どうも私は急ぎすぎるようだ。そなたの体調が良くなったら、そのときに話してくれればよい」
「ところでお前、私が消えていたとなぜわかった?」
「なぜと言われても……。ただ、そなたがいないと感じたまでのこと」
「そうか」
頭の固い現実主義者と思っていたが、案外そうでもないのだな、と意外そうに言われて、ジュリアスは自分こそ心外だという顔になった。
「サクリア自体、合理的な説明のつかぬものではないか。それを扱う身である守護聖がふしぎな現象を受け入れられずしてどうする」
「なるほどな」
しばらく話していて疲れたのか、クラヴィスは口をつぐみ、また目を閉じてしまった。
意識のなかった間に幾度も検査をして、肉体的には何ら問題のないことがわかっている。目覚めた今のクラヴィスは安定している。本心ではずっとそば近くにいて様子を見ていたかったが、看護士でもない自分がずっととどまる必要はなかろうと「ではまた明日、立ち寄る」と言い残して、ジュリアスは病室を後にしたのだった。名残惜しそうに見送るクラヴィスの瞳をくすぐったく感じながら。
クラヴィスは、医師から念のためということでその後しばらくの検査入院を勧められた。私の体に格別に悪いところはないとクラヴィスは言ったのだが、結局は医師の熱意に押し切られた形となった。この世界に二人といない尊い闇の守護聖の身に異変があったのだから、周囲にしてみればもう一度徹底的に検査をして異常がないことを確かめた上でなければ退院は許可できなかったのである。
そしてまたクラヴィスもジュリアスも、実際何が起こっていたかを正直に医師に申告するつもりはなかった。魂がどうのなどと言ったところで、ああそうですか、それでしたら問題はありませんねと無事に退院許可が下りる可能性よりは、筆頭守護聖が二人しておかしなことを言い出したと別の検査漬けになる可能性のほうが高い。
暇かと思われた入院生活だったが、検査に次ぐ検査、その合間にリハビリと存外忙しい。さらに入院中の無聊を慰めようと守護聖2、3人ずつが連れだっては顔を見せにやってきて、その応対にも時間を割かねばならない。普段のクラヴィスの生活と違いすぎる入院生活に彼はかなり辟易しており、リュミエールやルヴァにはそうこぼしていた。いつまでもこのようなところにはいられぬと言い出すかと二人は懸念していたのだが、クラヴィスはおとなしく医師の言葉に従っていた。
どこも悪いところはない。だが筋力が落ちているという自覚はあったからだ。少し長く体を起こしていると背中が鈍く痛みだしたり、ただ歩いているだけなのにかくんと膝の力が抜けたり、これは医師のいうリハビリとやらをきちんとせねばと思わざるを得なかったのだ。それに、ひとつだけうれしいこともある。多忙な首座自ら執務の合間に筆頭守護聖の署名が必要な書類を抱えて毎日病室を訪れては、宇宙の現況などについて少し話をしていく。
目覚めたときに自分のほうからは好きだと打ち明けたが、結局ジュリアスには伝わらなかったようで、それ以来進展は何もない。当然ながら甘い言葉を交わすわけでもない。ただ仕事の話をするだけだが、それでもジュリアスの訪問は楽しみだった。
急ぐことはない。二人の距離が少しずつ近づくのを待てばよいのだ。
待つことには慣れている。それに此度は実現の可能性のない夢を待っているのではない。
ならばあと少し待つくらいはたやすいこと……。
数日かけて山ほどの検査を済ませ、どこにも異常がないと医師団からのお墨付きをもらって、クラヴィスはうんざりしたように「だから初めからそう言っている」と言いながら退院した。ただ、退院後も自邸での療養は続けていた。
筋力の衰えは明らかで、数日のリハビリでは完全には回復していない。さして不自由はないものの長い時間体を起こしていたり、長い距離を歩くのはまだ無理だった。普通の生活をすること自体がリハビリになるので、軽い散歩程度から体を動かすことを勧めてみてくださいと医師から館の執事に申し送りがあった。
執務に出てこられないクラヴィスのために、ジュリアスは相変わらず筆頭守護聖の署名が必要な書類を携えて、執務をほぼ定時に切り上げては毎日夕刻に見舞っていた。筋力が落ちている以外は特に悪いところもないので、クラヴィスは寝台で体を起こして書類に目を通したり署名をしたりする。退院してからもそうしたことが続くうちに、時には執務に関係のない雑談をかわしたり、少し散歩に付き合えと二人で庭をゆっくりと歩いたりと、何となくうち解けた雰囲気になってきたことをジュリアスは心からうれしく思っていた。
たとえわずかであれ、初めて望んでいたような時間を過ごせることの喜びは、クラヴィス不在の間の心労を補って余りある。宇宙の状況は相変わらず良くない。そんな中にあってかつてない穏やかな幸福をかみしめることの罪悪感と、このままずっとこのようであれたら良いのにという思い、いやそれは求めすぎというものだと自分を戒めることを繰り返して日は過ぎていった。
退院して2週後の金の曜日。クラヴィスが「今宵は夕餉を共にして行かぬか」とジュリアスに切り出した。来週からは出仕するというクラヴィスの言葉に、もうこれでここに立ち寄ることもないと一抹の寂しさを感じていたジュリアスだったが、束の間の幸福の最後を彩るには願ってもない申し出だと承諾した。
3. 許されぬこと
食事はクラヴィスの私室に運んでもらった。闇の館のシェフはあらかじめジュリアスの好みを知らされていて、口に合うものを用意したようだった。料理もワインも申し分なく、食事をしながら話に興じる、ただそれだけのことに、ジュリアスは泣きたくなるほどの幸福を感じた。
完璧な夜。だが、これで最後。そう自分に言い聞かせて、ジュリアスはことさらにゆっくりと料理を味わった。それでも終わりはやってくる。小さなタルトにアイスクリームが添えられたデザートを食べながら、思った。
宇宙の置かれた状況は厳しい。この先忙しくなるばかりだろう。
私ばかりでなく、クラヴィスさえも忙しく働かざるを得なくなる。
このように二人で晩餐を楽しむなど、この先二度とない。
今宵を逃したら尋ねる機会を逸するに違いない。
カトラリーをそろえて置き、ナプキンで口をぬぐうとジュリアスはクラヴィスを見た。
「クラヴィス」
「ん? 何だ、改まって」
「そなたが2週間も消えていた理由をまだ聞いていなかった。そろそろ話してくれてもよかろう?」
「ああ、そのことか。どうでも聞きたいか」
「そなたが話すと言ったのだぞ」
ジュリアスが、話すと言った自分の言葉を忘れたはずはないとは思っていた。だが彼のほうから言い出さないのを幸いと先送りにしてきたのだ。当初話そうと思い、そう口にした言葉に嘘はなかったが、二人で穏やかに過ごす時間が考え方に変化をもたらした。
今のまま自然につきあいを深めていくことができるのならそれが一番よい。機が熟さぬうちに核心に触れる話をすることになるのは、へたをすればせっかく築きつつある新しい関係を壊しかねない…。
けれどもひとたび口にした上は、何らかの答えを与えない限りジュリアスが引くことはないだろう。
「そうであったな…」
「何だ、他人事のように」
「少し疲れた。寝台に戻ってもよいか」
「それはかまわぬが、次は『眠くなったから寝る』などと言い出すのではあるまいな」
「案ずるな。それはない」
その点だけは信用できぬとぶつぶつ言うジュリアスをなだめながら、奥の寝室に移り、寝台に入って枕をクッション代わりに背にして落ち着くと、寝台の脇に立ったジュリアスを見上げた。
さて…これが吉と出るか凶と出るか。
「お前が冷たかったからだ」
いきなり言われた言葉に、ジュリアス、沈黙。まさかとは思っていたがやはり自分が悪かったのかと少し青ざめて、ややあって重い口を開く。
「そなたが意識をなくす前の日の言い争い、か?」
「あの日のことはきっかけであったに過ぎぬ。…長くなろうし、立ったままでいられては話がしにくい。ここに座れ」
指し示されたのはクラヴィスの寝台だった。座るのを躊躇するジュリアスに、重ねて言った。
「椅子を引っ張ってくるのも面倒ではないか」
ジュリアスは遠慮がちにクラヴィスの横、寝台の端あたりで腰を下ろした。目線が同じになったところで、クラヴィスは青い瞳に見入った。
「私は昔からお前を憎からず思っていた。それなのにお前に嫌われているのは辛かった」
あの日、長い間に積もり積もったさまざまな感情は過飽和状態に達していた。
「だから、せめてその気持ちから解放されて眠りたいと思った」
待ってくれ、クラヴィスの言葉にジュリアスは混乱した。
クラヴィスが目覚めた日にも確か思ってもみなかったことを言われたのだった。
あの時は心労と睡眠不足でかなり参っていた。自分が何を言ったかほとんど覚えていないし、クラヴィスに言われたことの意味もよくわからなかった。
そして今もまた、妙なことを言い出す。
嫌われているのが辛かった? 「憎からず」とはどういうことだ。
嫌っていたのはそなたのほうではないか。そなたが私を嫌っているから、ろくに話もできぬままいたずらに長い年月を過ごしてきたのではないか……。
あまりにも思いがけないことを聞かされて、ジュリアスは首座の顔など忘れて自分の考えに浸りこんでしまった。あれほどに感情を表さなかったジュリアスの表情が、いっそ気持ちよいほどにくるくると変わって見える。
「お前が私に気があるなどとは知らなかったからな……」
人に聞かせるというよりは独り言のように零れ落ちた言葉にジュリアスが反応した。
「何のことだ」
「…フッ…どう見ても、あれは私を好いているとしか思えなかった」
ジュリアスが自分の髪をなでつけていたときの様子を思い出して、クラヴィスは含み笑った。何をさして言っているのかわからないままにジュリアスは顔を赤くする。
「それは…そなたのことは昔からずっと常に気にかけてはいたが…好きだとかそういうことではなく単に気にかかる存在であったと言うか…」
言いさして、目をそらして口ごもるジュリアスの表情は、首座としての彼しか知らぬ者が見たら驚くに違いない。自信のなさそうな、頼りない雰囲気は、普段の彼には決して見られぬものだった。
「それを普通は、恋をしている、というのだ」
「……恋?」
自分でもわからなかった気持ちに名を与えられて、それはすとんと胸の中に納まった。断定的に言われた言葉に反発を覚えることもなく、反論する気も起きなかった。
ではやはりこれは恋か。
恋は異性とするものと相場が決まっているが、そればかりとは限らない。それを知らないほどの世間知らずではなかった。だが。
恋。私には許されないもの。
そもそも、このようにクラヴィスと過ごすこと自体が私の分を超えたことだ……。
物思いに沈むジュリアスに、クラヴィスはたたみかけた。
「私はお前に触れたい。お前は?」
ハッと顔をあげたジュリアスは、ひどく当惑した顔を見せた。
「そのようなこと、考えてみたこともなかった……」
「たとえ恋をしても同性は対象にならぬか」
「そういうこととは関係なく、考えてみたことがなかったのだと言っている」
「ではお前は私をどう思っている」
「それが……わからぬから困っていた。そなたは私を嫌っていると思っていたし、何をどう話したらよいかもわからなかったから……」
いつも歯切れの良いジュリアスが口ごもる様が愛おしく、今すぐにでも抱きしめて口づけたいと思う。しかしそれはジュリアスをさらに驚かせるばかりだろう。
「私はお前が好きだ」
ジュリアスの頬が見る間に赤くなった。口を開きかけ、閉じて、数回それを繰り返して、必死の努力で言葉を絞り出す。
「それは……私とてそなたが好き、なのだろうとは思うが……」
恋はできない。