二十年目の春


13. 今宵は…?

クラヴィスは、ジュリアスの頬から耳、その後ろにまで唇で優しく触れながら、
「…それで結局、今宵はどうするのだ」
と再度尋ねた。昨夜の寝室での体験をまざまざと思い出させるキスは、ジュリアスから思考力を奪う。抱きしめる腕から逃れようともがいても放してもらえない。本気で嫌がっているわけではないことを見抜かれていて、抵抗の度合いを確かめながら反応を楽しむようにあちこちを唇と吐息にくすぐられる。クラヴィスの行為に気を散らされながら迷い、ためらった後、ジュリアスは言った。
「……私の……館に」
言いながら、ようやく伴侶殿の腕を逃れてまた机にしがみつこうとしたジュリアスを、クラヴィスは押しとどめた。
「よかろう。しかしそういうことならば、共に帰ってもらわねば困る」
「だが私は仕事が」
「少し待つから、今日はもう切り上るがいい。疲れているはずだ。顔色も良くない。放っておけばお前はいつまででもそうやっていて机を離れないつもりだろう…?」
「そのようなことはない。いつだってきちんと館には帰る」
心外そうにジュリアスが抗議した。
「お前は帰るのが遅すぎるのだ。これまではそれで文句を言う人間もいなかったろうが、私は大切な伴侶を仕事に取られて黙ってはいないぞ」
と、いささか強引に唇を奪う。
「宮殿でそのようなことは……」
息を乱しながら言いかけるジュリアスをクラヴィスがさえぎった。
「だから帰ろうと言っている」
寛げる場所でお前と二人きりになりたいと囁く声が、ジュリアスの抵抗を封じた。もともとクラヴィスに触れられることが嫌なわけではない。甘い声、優しい腕を欲するのは自分も同じだ。たやすくそれに流されそうになる弱い自分を不甲斐なく思って、いつもの習慣である仕事に逃げているだけのことだ。
「お前の館の者たちはまだ私とのことを知らされていない。そうだな?」
目をのぞきこまれて、静かに問われた。
頷くと、クラヴィスは微笑した。
「主であるお前の口からきちんと言ってもらわねば、私がいきなり押しかけても不審がられるだけであろうが」
まったくもってクラヴィスの言うことは正しい。執事が筆頭守護聖であるクラヴィスを無下に扱うこともなかろうが、「ジュリアスと結婚したんで、これからヨロシク〜」なんて言ったって、館の誰も信じないに違いない。自分自身まだ夢を見ているような気分なのだ。
「きちんと言うとは……どう切り出したものか」
「簡単なことだ。昨夜私が話したように、館全体に周知徹底してもらえばよいだけのこと」
だからー、それが超ハズカシイんだってば!!
今朝だって、クラヴィスの館で、クラヴィスのベッドで朝を迎えて朝食を共にし馬車に乗り込んで出かけるまでの間、何をどうしていたのか覚えがないほどだ。側仕えや執事や給仕の者や、あと誰と顔を合わせたろうか。とにかくもう、闇雲に恥ずかしい。うれしいけど、幸せだけど、恥ずかしい。面識のない者たち相手なのでまだ耐えられたような気がする。あれが自分の館であったなら。考えただけで気が遠くなる。
「…それが無理だというのなら、せめてお前の口から執事にだけは事実を話すことだ。そのくらいはできるだろう?」
子ども相手に言うように言われていることにもジュリアスは気づいていなかった。言われたことにいったん頷いてから、首を傾げた。
「執事に何と言えばよいだろうか……」
「クラヴィスと結婚したから、これからは頻繁にクラヴィスがこの館を訪れることになるということがまず一点。そしてもう一点はこのことが館の外に洩れぬよう細心の注意を払ってほしい、ということか。これはお前自身の希望なのだから忘れるな。執事に話を通しておけば、あとは任せて問題なかろう」
やっぱりどうしても「結婚した」って言わなきゃいけないらしい。それが要の部分だから仕方がないとは言え、まだその事実に慣れないジュリアスは視線をさまよわせた。

首座としてのジュリアスならば、こんな不安そうな瞳を人に向けたりはしない。おそらく自分自身というものについて、よくわかっていないのだな。ジュリアスは。

そんな彼をたまらなく愛しいと思った。
ジュリアスのことは知っているつもりだった。実際手に入れてみれば、思い描いていたままのジュリアスがそこにいた。ただし想像をはるかに超えて真っ白な彼が。だから仕事の話をしているときとはこれほどにも違う。
「自己」ということに関して言えば、ジュリアスはほとんど白紙の状態だ。これは首座としての彼を知る者にしてみれば、首を傾げたくなるようなジュリアス評かもしれない。確固とした己を持ち、信じる道をひたすらに進む男。しかし首座という鎧を取り去ってしまえば、そこには恐ろしいほどに無垢な魂しかない。

あの日ジュリアスの元を訪れた自分の自暴自棄とも言える行動に感謝したい。離れ離れになる前にこの手につかむことができた幸運に、今さらながら体が震える。
守護聖でなくなったとき、こんなに無防備で不安な目をして、ジュリアスがどうやって一人で生きていくのか。一人で外界に放り出したり、私だけがこの地を去ることなどできるものか。

宇宙のため、民のためという大義は、ジュリアスにただ一つの道を示し続けた。ジュリアスが見ていた道はまっすぐで、汚れ一つなかった。その道をひたすらに進んできた。
だが己のこととなると、標を見失った者のように何をすべきかわからなくなる。
お前こそが道を照らす光だというのに。

思いがけず好きだと言ってもらえて、すぐにもお前がほしくなった。だからお前の知らぬ別の道へと強引に引き込んだ。仕事中毒のお前が夢想だにしなかった道を示した。
お前は光。だが新たに開けた道をどう進めばよいかわからぬと震えている。
だから私が標となる。そして全身全霊をかけてお前を守る。
お前の光で道を照らしてくれ。
手を取り合って行こう。
二人でなら、この道を進むことがきっとできる。


14. 最近、何かヘン

そうこうするうち一週間、十日と日は過ぎて、他の守護聖たちが異変に気づき始めた。って言うか、気づかない方がおかしい。何しろ。

クラヴィスが毎朝きっちりと出仕してくる。←あり得ない
ジュリアスが仕事を切り上げる時間が早くなった。←もっとあり得ない
平穏無事な毎日にふりかけるスパイスのようだった筆頭守護聖ふたりの口論が、めっきり減った。←天変地異の前触れか!?
云々かんぬん。

さまざまな異変の根本が何であるかは依然として秘密のままだったが、どこかが以前と違うと周囲が感じることが増えた。
そしてとある土の曜日の午後。地の館はリュミエールの訪問を受けていた。
「ルヴァ様、最近クラヴィス様はおかしいのです……」
思いつめた表情のリュミエールに切り出されたルヴァは、一瞬ぎくりとしながらもいつに変わらぬのほほ〜んとした笑顔で答えた。
「おかしいって、何がですかー?」
「クラヴィス様のお館にお伺いしてもいらっしゃらなかったり、悪いが帰ってくれと断られたり」
「クラヴィスだって外出することくらいあるでしょうし、都合の悪い時だってあるでしょう」
「それはそうなのですが……これまでも、そういうことがなかったわけではないのですが」
「だったら気にすることはないんじゃないですかー?」
「ですが、何となく館全体の雰囲気が違うのですよ」
部外者に秘密を洩らしてはならじと闇の館全体が警戒態勢になっているものと思われる。思い当たる節ありすぎのルヴァは、冷や汗をかきながらみごとに平静を装った。
「気のせいなんじゃありませんか?」
「……いえ、絶対に何かあるに違いありません」
確信めいて、リュミエールはつぶやいた。
このところの異変。それは主として筆頭守護聖たちの動向と関係している。彼の脳裏には、意味ありげな視線を交わしていた筆頭守護聖たちの姿がまざまざと浮かんでいた。
表面的には楚々とした美女という風情のリュミエールだが、芯の強い性格だ。頑固だし、特にクラヴィスのこととなるとなりふりかまわないという部分がある。そう思ってルヴァはため息をこらえながら、
「あはは〜、それはあなたの考えすぎだと思いますよ〜」
と笑いに紛れて言ってみたが、全然説得できてないって気がしていた。
二人の結婚のこと、いっそのこと早く公表しちゃってほしいものです。陛下が期待なさっているような盛大な披露宴は無理でも、せめて守護聖だけには内々に知らせるとか、対策できませんかねー。重大なことの立会人を頼まれたことはとても光栄に思ってますけど、こんな、冷や汗をかくような立場に置かれて、私も困っちゃうんですよね……。

ルヴァとリュミエールがそんな会話を交わしていた日の晩。オスカーはオリヴィエ相手にグチともつかぬことを言いつつ、二人で酒を飲んでいた。
「最近ジュリアス様がな」
オスカーはため息をついた。
「どーしたのさ、ミョーな顔して」
「俺のことをかまってくださらない」
「なに言ってんの。お子様じゃあるまいし、いーオトナの言うこと、それが!?」
きゃははっとオリヴィエに笑われて、オスカーは憮然とした顔になった。
「自分でもそう思うんだけどな。何かこう、以前と比べて俺との間に壁が一枚増えた、みたいな気がする」
「あいつってもともと個人的なつき合いってのをほとんどしないタイプでしょ。あんま気に病まないほうがいーよ」
「そうは言うが、俺はお前と違って個人的なおつき合いってのがあったんだよ」
「それはごしゅーしょーさま。あんたの言うとおりだとすると、何か心境の変化でもあったんじゃない? 最近のジュリアスは妙にキレイだし」
「呆れた奴だ。お前はそういうところにしか目が行かないのか。あの方は前から変わらず美しい」
「だから、前よりももっとずーっとキレイになったって言ってんの」
グラスをあおり、オスカーはぶつぶつ言った。
「……それは俺も思わんでもないが」
最近のジュリアスときたら、まさに輝くようなのだ。もともとのぴかぴかオーラ五割増し、とにかくまぶしい。
「でしょでしょーっ!? 何があったと思う? ふつーさあ、人が急にキレイになるってのは、恋、とかかなーなんて思うんだけど」
むっつりと、オスカーはオリヴィエを見た。
「あの方が、恋?」
「そりゃーあんたにしたら心外かもしれないけどさ。ジュリアスだって人間なんだから、恋くらいするでしょ」
「なんで俺が心外に思わなきゃいけないんだ」
「あんたの崇拝ぶりときたら、ふつーじゃないからね」
にっとオリヴィエは笑った。
「あんた、ジュリアスのことほとんど偶像扱いしてない?」
「そんなわけあるか。俺は、人間として尊敬できる方だと思っているからお側にいることを選んだ。偶像なんて……」
「ほーら声が小さくなった」
オスカーは新たに注いだ酒をすすりながら言った。
「仮に俺がお前の言うようにジュリアス様を見てるとして、だからどうだと言うんだ」
「あんたって恋の狩人とか言ってるけど、まだホンモノの恋してないんじゃない? だから、って言うのもミョーだけど、ジュリアスに擬似的に恋愛感情めいたもの持ってんじゃないの」
「ばかなことを言うな。俺は男にはそういう意味での興味はない。たとえ相手がジュリアス様でもない。いや、ジュリアス様だからこそ、ない! あの方はそういう対象じゃないんだ」
いやに熱心に否定するオスカーである。
ほらやっぱり、偶像ってゆーか、神聖視ってゆーか、別格扱いじゃん。まるでジュリアスが人じゃないみたいな言い方してるって気がついてないのかな、こいつってば。
「それはわかってるよ。だから擬似的に、って言ってんじゃん。とにかくね、あんたのソンケーするジュリアス様は恋をしたんだよ、多分。あんたもホンキで好きな女ができたら、ジュリアスがかまってくれないなんて私に向かってクダ巻かなくても良くなるんじゃないのー?」
キレイと言えばもう一人。クラヴィスも最近めーっちゃ色っぽいんだよねー。何かにつけ前面に出てくるのが首座のジュリアスだから、あいつはあんまり目立たないんだけど。よーく見ると、なんてゆーか幸せオーラ出てるカンジ? ってことはさー、まさかって気持ちのほうが大きいけど、タイミング的にもこの二人に何かあったって考えるのが順当なトコじゃん。オスカーにそんなこと言ったら怒り狂うかもしれないからナイショだけど、ね。


15. バツイチって何

とある晩の寝物語にジュリアスが言い出したのは、こんな言葉だった。
「『バツイチ』とは何か、知っているか」
「…ああ」
世間のことなんか自分には関係ありませんって顔で生きているクラヴィスだが、市井のことにはわりと詳しい。少なくとも、ジュリアスよりは。それにしてもジュリアスはどこでそんな単語を仕入れてきたものやら。

「バツイチだなどと、誰がそのようなことを言った?」
「結婚することになった日のことだったのだが、陛下が……バツイチになっても別に気にすることはない、などということを仰って、その意味が良くわからなかった」
それ以上にあの時は、ジュリアスには全体の流れがわかっていなかった。いったい何がどうなって結婚の話をしているのか。そんなパニック状態の中で知らない単語の一つや二つ些細なことと聞き流していたが、そういえば耳慣れない言葉を聞いた、と今ふと思い出したのだ。
知らないことがあるのは気に入らぬ。
パニック状態を脱して正気に戻ったジュリアスがそう考えるのは当然と言えよう。
「それはな、離婚の経験が一回ある、という意味だ。つまり陛下は『結婚した相手のことがいやになって離婚したとしても大したことではない』ということを仰りたかったのではないか」
説明しながらクラヴィスは、アンジェリークの言うことはまったくその通りだと思った。
結婚をしても、相手がいやになったら別れることもできる。一生を共にしたいと思う相手であっても、長い年月の間には気持ちが変わることもあるだろう。情熱が醒めたあとに家族的な愛情が持てず、共に生活をするのが苦痛になる可能性だってある。しかしもしそうなったとしてもそれは自然の流れであり、仕方のないことだ。それよりも、好き合っているのに外的な要因で引き離されることのほうが問題だ。だから結婚という形式にこだわった。ジュリアスに対する気持ちが変わることなどあり得ないと思っているからなおさら、生涯を共にできる保証が欲しかった。
などと考えていたら、ジュリアスの質問はさらに続いた。
「そう言えばいまだによくわからぬことがある」
「何だ?」
「そなたはなぜいきなり結婚などと言い出した?」
「ああ、それは…」
まさに今そのことを思い起こしていたクラヴィスは、思案する表情になった。

それは、さっさとツバつけて誰にも取られないようにしたい、端的に言えば、抱きたい、ってことなんだけど。
好きだとは言ってもらえた。けれどもそこから一歩進んで恋人になってキスから始めて、なんて段階を踏んでジュリアスに肉体関係を迫るまでには、それがたとえうまく行ったとしても気が遠くなるほどの時間がかかりそうだったから。
そんな悠長なことをしている間に、万が一、どちらかのサクリアが衰えたら万事休す。
通常20代後半、30歳以前に交代のときを迎える守護聖がほとんどであるという現実を鑑みれば、ジュリアスとの永遠の別離までさほど時間は残されていないと考えるのが妥当なところだ。その可能性はかなり高い。そうなる前に既成事実を作っちゃえ。結婚できるんだったら結婚でも何でもして、生涯添い遂げられるように女王陛下に直談判したっていい。今の女王陛下なら「夫婦を引き離すなんて、そんなのかわいそうじゃない。二人で一緒に外界に旅立てるように、みんなで応援しましょうよー♪」とノリノリになってくれること、ほぼ請け合いと言えた。
世間のルールに重きを置かないクラヴィスが結婚という形式にこだわったのは、そのほうが床入りに関してジュリアスの同意を得やすいからということも無論あったが、その先を考えてのことだった。一生離れたくない。何が何でも添い遂げたい。そのために一番有効なのが、女王陛下の認めた結婚という最終兵器だった。
だがこれらすべてを有り体に打ち明けてしまうのはあまりにも無謀だ。
言い方次第では、せっかく心を開くようになってくれたジュリアスからあらぬ誤解を受けて、「つまりは私の体が目当てだったということなのか」なんてなじられる危険もある。ジュリアスに教えてもかまわない部分は、と考えてから、おもむろに口を開いた。

「どうでもお前と添い遂げたかったから、正式に結婚したかった」
「だからと言ってあれほど性急にことを進めずともよかったのに」
「…そうだな。そのせいで、一度は陛下の御前でお前に手ひどく振られる事態にもなって、さすがにあの時は急ぎすぎたと反省した」
「あんな、暴走車のような男だとは知らなかったぞ」
「フッ…暴走車、か。そんな男は嫌いになって離婚するか?」
「いや、そのような理由で離縁するくらいならば、最初から結婚に同意はせぬ」
「ならば当分はバツイチになる危険はない、と?」
「当たり前ではないか……あっ…何を…」

はい、この後ラブラブな新婚さんに何が起こったかは、ご想像にお任せ。




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■BLUE ROSE■