10. みんな、聞いて
日の曜日も夕方近くになった頃、闇の館の主は光の守護聖を伴って帰ってきた。
「急なことですまぬが今宵は首座殿と晩餐だ。支度を頼む」
かしこまりましたと下がろうとする執事は呼び止められた。
「館の者全員に申し渡すことがある。食事の前にホールにでも集めておいてくれ」
「全員でございますか」
「ああ」
執事は、珍しいことが起こるものだと思いながら頭を下げてその場を辞した。光の守護聖と晩餐だとか、皆にお言葉があるだとか、常日頃の主からは到底思いもよらないようなことばかり。疑問はあれど主の命令なので言われたことを手配しつつも、異変の気配を感じ取って何やら落ち着かない心地がする執事氏である。
まさか……クラヴィス様が退任なさる、などということは……。あの方は守護聖になられてからかれこれ二十年、いつ交代があってもおかしくないほどの在位年数と聞き及ぶし、首座を招いての晩餐となると……むむむぅ。
なんて、いろいろと気を回してしまうのである。本当は、退任の知らせよりもぶっ飛び度では数段上という発表がなされるのであるが、そこまではさすがの執事も考えが及ばない。
で。ホールに闇の館で働く面々が集められ、闇の守護聖からの言葉を待っていた。主は本日の客であるところの首座を伴って現れた。
「皆に心得ておいてもらいたいことができたので、このように集まってもらった。実は今日、私は伴侶を得た」
こういう話の流れで伴侶と言えば、普通は「妻」を指すはずだ。結婚を前提に付き合っている女性がいるなんて匂わせもしなかったのにいきなり妻帯者になったとの主の宣言に、一同息を呑んだ。クラヴィス様に奥方様ができたということは、つまりはこの館の女あるじとなられる方がいらっしゃるということで、使用人たちには一大事件である。それはともかくとして、近年浮いた噂のひとつもないどころかほとんど世捨て人か仙人か、みたいな生活をしているように見えていた主にも人間らしいところがあったんだという感慨というか安堵というか、とりあえず祝福ムード。それにしてもクラヴィス様の隣にはそれらしい女性の姿はないけれど、はて？ と戸惑い気味の拍手がぱらぱらと起こりかけたりしているところへ、
「これがその伴侶だ」
と、隣にいるジュリアスを紹介したものだから場の空気が凍りつく。躾の良い使用人たちの間にもさすがにさざ波のように動揺が走った。もっともこの場で一番狼狽していたのは、伴侶だと紹介された当の本人だったのだが。
「クラヴィスッ」
小声で抗議しようとした声は、館の主に制された。
「館の者たちにまで隠し通すことはできまい。外に洩れるのがいやならば、なおのこと協力してもらわねばならぬからな。最初にきちんと言っておくべきだ」
そう言われて伴侶さん、黙り込む。筋の通ったことを言われてしまうと、自分の方にもそれに対抗できるだけの正論がなければ言い返せない、理論派まじめ人間の悲しさである。ところでこの一見筋の通った理由だが、実のところクラヴィスの真意は別のところにあった。ぶっちゃけて言えば、要するにクラヴィスは言いたくてたまらないのだ。自慢の伴侶を見せびらかしたいのだ。今のところ大々的には言えないけど、自分の館でならオッケー！！ 「ねえ聞いてよ、これがボクの奥さんなんだよ！！（いやまだどっちがツマかオットか、二人の間での役割分担をはっきりさせてはいないけど、クラヴィス的にはジュリアスが「奥さん」） 見て見て美人でしょ！！」と。無表情の陰では嬉しさいっぱい自慢たらたらなのである。だけど今まで培ってきたイメージというものもあるので、もっともらしい表情を取り繕って重々しく述べるのであった。
「見ての通り同性間の婚姻ではあるが、女王陛下からも許可をいただいて正式に伴侶となった。よって、お前たちにもジュリアスに私の伴侶として仕えてもらいたい。世間に知れて騒ぎになるのはこれが好まぬので、このことは館の外の者には内密に頼む」
予想のはるか上を行く主の話に仰天はしたもののそこは老練な執事氏、「仰せのままに」とそつなく返答し、一同もそれに倣い黙って頭を下げた。
「それから、私の部屋の隣にこれのための部屋を用意するように」
「はい早速に」
と執事は答えたのだが、光の守護聖から声が上がった。
「待ってくれクラヴィス、私は光の館を留守にしてしまうわけにはいかぬ」
下がってよいという言葉がないまま二人の会話に突入したため、執事以下館の者一同下がるに下がれず、痴話げんかの様相を呈し始めた主ふーふを見守ることとなった。
「だが私は離れて暮らすなど真っ平だ。双方の館で順番に暮らせばよいではないか。お前の館にも私の居場所を用意しておいてもらいたい。…別に、お前の部屋にいてもよいのならばそうさせてもらうが」
ということは、自分も館の面々を集めて「クラヴィスと結婚したから、一緒に暮らせるように部屋を用意してくれ」って言わなきゃいけないってこと？
元は丈夫な質だけど、昨日からの心労もあって、そんな状況を想像しただけでジュリアスは「うわあああああああ恥ずかしすぎる！！ 穴があったら入りたい！！ って言うか、恥ずかしさで死ねるかも」と気が遠くなってふらついたのをクラヴィスに支えられた。まことにもって残念なことに痴話げんか、不発。
「大丈夫か……？」
心配そうに瞳に見入るクラヴィスに「大事ない」と答えはしたものの、これは思っていたよりもおおごとになったと思わざるを得なかった。結婚したのは冗談でも芝居でもなく、いくら周囲にその事実を隠そうとしても身近に仕えてくれる者達には打ち明けなくてはやっていけない。そして結婚した以上は生活に変化が起こるのは必至という現実がようやくにして少し見えてきて、思わず顔もくもる。
「そのような顔をしないでくれ。私まで悲しくなる…」
これらの会話はささやき声でなされ、誰にも聞こえはしなかったが、何かこう、ラブラブ〜なムードが漂っていてその場にいた使用人一同、目のやり場に困ってたりなんかして。日頃感情なんかないみたいな顔をしている主の、意外なまでの優しげなそぶりに当てられっぱなし。
そんな中一番に立ち直ったのは老練な執事、さすがだ。もう主から皆に言うべきことは言い終わったのだろうと判断した彼は、パンパンと手を叩くと「では皆、自分の仕事に戻りなさい」と解散させておいて、おもむろに主のほうに向き直った。
「クラヴィス様、お食事になさいますか？」
「うむ」
「私は……あまり食欲がないのだが」
「せっかく用意させたものだ、少しでも食べてやってくれ」
昨日から胸が詰まったようになっていてろくにものを食べていなかったジュリアス、健康管理には人一倍気を使っているだけあって、食欲の有無はともかく何か食べねば体に障ると考え直した。
「ではいただくことにしようか」
「それでこそ首座殿だ」
おだてられてるんだかバカにされてるんだか。相変わらず、クラヴィスの言動はどう受け取っていいものかよくわからない。普通はゆっくりと時間をかけて愛をはぐくんでから結婚に至るのだろうに、一足飛びにこういうことになって、心の準備も何もできていない。
差し出された手に、戸惑いながらそっと手を載せるときゅっと握られた。どきんと心臓が跳ね上がって振り払いたいような衝動に囚われかけたが、ここは館の中なのだし、先程皆には伴侶であると言ってしまったのだから、見られて困ることもない。そう思い直した。でも、やっぱりハズカシイ。重なり合った手から目が離せない。クラヴィスの手は色白で指が長くてしなやかで、遠目に見ているばかりだったジュリアスはもっと華奢なのだと思っていた。しみじみと間近に見て、触れてみて、その手が意外にしっかりとして大きいのだということに初めて気づく。
クラヴィスはもう、帰りたいと泣いていたあのか細く頼りない子どもではないのだ……。
大きな手のぬくもりは気持ちが良かった。手と手が触れ合って体温を感じられるだけで嬉しい。
手ばかり見ていたジュリアスが顔を上げると、クラヴィスがふわりと笑った。見たことのないような優しい笑みに、何だか涙が出そうになった。
「行こうか」
そうだなと答えたかったが、なぜだか声が出なかった。
11. 闇の館の夜
クラヴィスの好みに合わせたあっさりした料理主体の晩餐は、食欲のないジュリアスの口にも合って思ったより食が進み、その後はクラヴィスの私室に誘われた。
「今日はおとなしいのだな」
くすっと笑われ、日頃ならカチンと来るようなことを言われても、反論する気も起こらない。確かに今日の私は普段とは違うようだ、そういう自覚はあった。思うことがありすぎて、いちいちクラヴィスの言葉に反応している余裕がない。それに、そう言うクラヴィスのほうも普段とは違うではないか。だからこちらもいつもとは違ってくるのだ。心の中でだけあれこれと言い訳しながら、実際はほとんど何も言えない。
自分の館ではないせいで落ち着かないのか。これからどうなるのか、何をどうしたらいいのか、全然わからないから不安なのかもしれない。何しろわからないことだらけだ。
クラヴィスの館で、クラヴィスの私室で、何をしたらよいのだ？
今宵は私はどこで休むことになるのだろうか。確かクラヴィスが、部屋を用意するように言ってくれていたと思ったが。
明日は月の曜日で執務があることだし、一人で考えたいこともあるから、部屋の用意が整っているのならばそちらに移りたいものだ……。
クラヴィスと結婚したことは理解していたが、その事実になかなか慣れることができない。食事も済んだから後はゆっくり湯でも浴びて、早く落ち着きたい、とかいったことを考え、「湯を使わせてもらいたいのだが」とクラヴィスに尋ねたら、「私の寝室に付属している風呂を使え」と言われた。
「私の部屋を用意してくれるのではなかったのか？」
「無論それはさせているが、今宵は私とここで過ごすがいい」
えええええええええ？←思いっきり、不満
「…不満か？」
「なぜここで過ごせと言うのだ。それぞれの部屋があるのに」
「私たちは結婚しただろう？」
ジュリアス、かすかに頬を染めた。
「……うむ」
「だから寝所を共にするのは普通のことなのだが、な」
「そのくらい知っている。男と女ならば当然そうもしようが、私たちは別段そういったことは……二人とも男なのだし……寝所を共にする必要などないではないか……」
ますますジュリアスの頬が赤くなった。男女間に何があるか、さすがに基本的な知識は持っているらしい。
「案ずるな。ここは私の館だ。すべて私に任せておけばよい。……とにかく、湯を使ってきたらどうだ？」
案ずるな、とは？ どういうことだ？ よくわからぬな。
どうも今日のジュリアスは、よくわからない場合「とりあえず流されてみる」という選択肢を取ってしまう。これが宇宙の一大事であれば、わからなければ可能な限り徹底的に調べてから判断しただろうが、たかだか個人の結婚にすぎない（←というのがジュリアスの認識）。自分にはよくわからなくても誰かがわかっているらしくて、そのわかっている誰かが勧めてくれるのだったらまあいいや、なんて、仕事の場での光の守護聖様からは考えられないような思考回路でもって問題を処理した。今回もそうだった。
早くさっぱりしたい。クラヴィスも勧めてくれるから、とにかく湯が先だ。
わからないことはその後に尋ねればよい。
こうしてクラヴィスは首尾よく花嫁と勝手に決めている相手を先に風呂に入れてしまうことに成功、ほくそ笑んだ。ジュリアスが何も知らないらしいのを幸い、あまり詳しいことは説明せず、有無を言わさずいただくつもりなのである。
本当はシャワーなんか浴びさせないで、そのまんま賞味したいところだったのだが（エロおやじか）、初めてのジュリアスにそれはいくらなんでも酷だろうと思い、湯を使いたいという花嫁の意思を尊重することにしたのである。それに、ここで無理強いしようとしても風呂に入ってないってことを気にして核心部分には触らせてさえもらえないかもしれない。
実はジュリアス、剣が使えるだけではなく体術にも長けている。力ずくでなんて暴挙に出ようとした場合、クラヴィスのほうが伸される可能性だってゼロではない。そりゃクラヴィスだってジュリアスに対抗できる程度には護身術を身につけてはいるけれど。新婚初夜のベッドで、文字通りの格闘になるのはちょっと、いや全然違うだろう！と思う。
正式に結婚したのだからな（←クラヴィスは正式だろうが日陰だろうがそんなのどっちでもよかったけど、ジュリアスを懐柔する上で最重要）。
焦らずとも、いろいろなことに慣れさせる時間はたっぷりある（にやり）。
風呂に一緒に入りたいなんてちょっぴり思ってみたりもしたけれど、きっとジュリアスに「何のつもりだ」となじられ、たたき出されるに違いないからとりあえず今夜は我慢我慢、と待つことしばし、愛する人はバスローブをまとい、髪を拭き拭き出てきた。
「気持ちがよかった。先に湯殿を使ってしまったが、そなたも入ってくるか？」
えーと、風呂なんかどーでもいいっていうか、ものすごく気持ちは逸ってるんですが。でも潔癖そうなジュリアスに「フケツ！」って嫌われないためにも、自分も風呂に入っておくべきだと妥当な判断を下したクラヴィス、「ではそうする」と風呂場へと消えて行ったのだった。
残されたジュリアスは手持ち無沙汰ではあったが、ゆっくりと髪を乾かしたり、ワゴンに用意されていたミネラルウォーターでのどを潤したりしているうちに、クラヴィスも出てきた。
「水など飲んでいるのか。他にもいろいろと飲み物は用意してあるだろうに」
「湯上りには水が良い」
光の守護聖ジュリアス、どこまでも健康的なお方である。
「せっかくの夜だ、二人で酒を飲むのも悪くはないと思うが？」
「それはそうだが……食事のときにも飲んでいる。明日は仕事だからな。あまり飲みすぎても差支えがあろう」
「まだそう遅い時間でもなし、軽く飲むくらいはよいだろう？」
アルコールで高ぶった気持ちもほぐれるだろうかと思い、ジュリアスは飲むことを承諾した。グラスにウィスキーと氷。
「そなたはそのままで飲むのか？ 私は水で割って飲む」
「…ではそのように」
クラヴィスは水割りにしてジュリアスに差し出し、自分の分を新たに注いで、軽くグラスを掲げて見せた。
「乾杯」
「何に？」
「二人の夜に」
クラヴィスの言い様に何だか背中がむずがゆいような気がしたジュリアスだったが、小さく乾杯とつぶやいて、グラスに口をつけた。
ひとくち口に含み、それを飲み下すまでのわずかな間に、突然クラヴィスの顔が目の前に来ていて驚く。ごくり、口の中の酒を飲み込んでから、
「な、何だというのだ！？」
驚きで固まっているジュリアスの手からグラスを取り上げると、手近な卓に置いておき、頤を捉える。ジュリアス、何が起こるのかわからずに目をぱちくり。
唇を触れ合わせたところでようやく何が起こっているかを理解して、体を固くした。
「んッ……」
ジュリアスはクラヴィスの胸に手を突っ張って離れようともがくが、そんなことを許すようなクラヴィスではない。右手で腰を抱き寄せジュリアスが離れられないようにしておいて、そのまま貪る。
ひとしきり口内を蹂躙して、ようやくクラヴィスが唇を離すと、ジュリアスは呼吸が苦しかったためか涙目になっていた。「どうした？」と尋ねながら、ジュリアスの唇に目が行く。クラヴィスを誘うかの如く赤く色づいていて、そそられる。どうしてもまた触れたくなって軽くついばむと、ジュリアスは首を振って逃れようとした。
「……なぜ、逃げる？」
「このようなこと、おかしいではないか！！」
「何が」
そう改めて言われると、何がおかしいのか、いけないのか、ジュリアスにはよくわからなくなった。だけど。
「私たちは男同士だ」
「だからと言ってくちづけをしてはならぬということはない。結婚したくらいだ、このくらいは当たり前だろう」
ジュリアス、頬を紅潮させていたのが、伴侶殿の言葉にさーーーーーっと青ざめた。
これが当たり前ってことは。男同士のカップルでも、もしかして男女間でするようなことも結婚したら当たり前？ どうやってそんなことが可能なのかはわからないが、「する」のか？
「お前が知らぬというのなら私が教えてやる。何も案ずることはない」
抱きしめられて、耳元でささやかれて、抵抗する力も何もかもが体から抜け落ちていく。どうやらクラヴィスは知っているらしい、ならば任せてしまえばよいと朦朧とする意識で思う。
「私にこうされるのは、嫌か？」
嫌ではなかったので、首を横に振る。
「では、これは？」
言いながら耳元にくちづけられ、首筋に沿ってそれが降りてくる。
体に震えが走ったが、嫌ではなかったのでまた首を振った。するとクラヴィスがくくくく、とのど元で笑った。その声というか、振動でまたぞくぞくしてまた震える。
「ジュリアス、それではいいのか嫌なのかわからぬぞ」
首を振るばかりのジュリアスに、甘くささやく。
どうしてこんな声をしているのだろう。すべての力を奪うような。声を出そうとしても、のどがこわばって何も話せない。
「愛している……お前は？」
女王陛下と立会人の前で生涯愛すると誓いを立てたのだ、その答えは無論。
「私も」
愛している。……のだろうと思う、多分。
愛がどういうことなのか、本当はまだよくわからない。
「愛」は「好き」とどのくらい違うのだろう？ けれど共に暮らすうちにきっとわかるはず。
そう信じられる夜だった。
12. 一夜明けて
二人が結婚式を挙げた翌日である月の曜日、朝の定例会議でジュリアスは普段と変わらない様子で議事を進めていた。正式に結婚したのではあったが、彼自身の意向によりその事実は伏せられたままだ。そんな状況で「ハネムーンに行ってきまーす♪」なんて大っぴらに宣言して仕事を休めるはずもない。
この二日はジュリアスにとって実に過酷な二日だった。個人的事情のせいで夜も眠れないほどに悩んだのはおそらく初めてだ。危機にある星の運命を憂えて心を痛めたことは多々あり、そういう事態を外から眺める立場であることが歯がゆく、いっそ自分の身に降りかかる災厄であってくれたほうが楽なのではないかとさえ思っていた。だがジュリアスは知らなかったのだ。自分自身に起こるできごとに対処するのは、高みから悲劇の予兆を見てそれを回避しようと奔走するのとはまた違うのだということを。自身が渦中にあると冷静な判断などできなくなり精神的な消耗も激しく、しまいには何を考えているのだか、何をどうしたらいいのだかわからなくなる。
一昨日は一昨日で、クラヴィスに手ひどいからかわれ方をされて傷ついた心を抱えてろくに眠れなかった。それに続く昨日、午後になってから女王の説明によりからかわれたというのが誤解だったと判明した。それは良かったが同時にそれどころじゃない大変な方向へと事態は転がり始めた。いろいろと思いがけないことや慣れないことだらけで心身ともに疲弊しきっており、しかも成り行き上仕方のないこととはいえ夜もあまり眠らせてもらえなかった。既に睡眠不足だった身にこれは堪えた。実のところ体は切実に休息を要求している。が、そこはジュリアスのこと、どんなによれよれになってたって私的な理由で休むなんてことは考えもせず、朝からいつも通りに仕事をこなしているのである。この二日間、大変は大変だったけど、今朝の目覚めはとても幸せだったから。その幸せ気分があれば眠くたって疲れてたって、今日一日くらいは乗り切れるに違いない。
朝一番にジュリアスと顔を合わせたオスカーは、
お疲れなのだろうか。少しお顔の色がよくないようだな。
と思い、午前中の定例会議の席でオリヴィエは、
顔色イマイチだけど、なんだかジュリアスってば今朝は一段ときれいじゃん。
などと観察し。
そして全員がいぶかしがっていたのが、クラヴィスが出席していることだった。月の曜日の朝は、ほぼ100パーセントの確率でクラヴィスは大幅遅刻、欠席することも少なくない。それなのに今朝に限ってきっちり最初から顔を見せている。これは何やらクラヴィスに含むところがあるからに違いない、週明けからいきなり筆頭守護聖の嫌味と皮肉と怒声の応酬かと思って警戒していた面々を拍子抜けさせるほどスムーズに会議は終わった。
終わると同時にスイと立ち上がり、クラヴィスが部屋を出ようとした。それをリュミエールが追う。そのとき水の守護聖はクラヴィスがジュリアスにちらりと目を走らせたのを見た。
つられてリュミエールもジュリアスを見た。首座は、クラヴィスと視線を合わせ目元を和ませている。リュミエールも見ていることに気づいて一瞬で表情を引き締めてしまった。が、ただそれだけの視線のやり取りから、リュミエールは筆頭守護聖二人の間に何かがあると感じた。何であるのかはわからない。とりあえずのところ口外するつもりもなかったが、と言うよりも言葉にできるようなできごとがあったわけではなかったが、垣間見てしまった何かが強く印象に残った。
新女王陛下の御力のおかげでこのところ宇宙は平和を享受している。その日も大きなトラブルの報告はなく執務時間は平穏に過ぎて行き、夕刻になって光の執務室にクラヴィスが姿を見せた。いつも執務机を間にはさんで対面していたのが、椅子に座っているジュリアスの脇に当然のような顔で立つ。思わず見上げると、
「顔色が悪い」
と頬に手を当てられて、ジュリアスは当惑したような目を向けた。口にこそしないものの、ここは執務室なのにと思っているのがありありと見えて、クラヴィスの微笑を誘った。それは首座としてのジュリアスならば決して見せない顔だった。そして執務室にいながら自分がクラヴィスに対して無防備にそういう顔をさらしていることに気づいてもいない。
「私はもう帰るが…お前はどうする」
「昨日から帰っておらぬからな。館に戻る」
「私のところへは？」
「……行かねばならぬのか？」
心許なさそうに小さな声で尋ねるジュリアスに、クラヴィスは微笑を消さぬまま言った。
「そんな、義務のような言い方をされると少々傷つくのだが…。何のために結婚したと思っている。言ったろう、私は離れて暮らすなど真っ平だ。お前が来ないと言うのなら、私が行く」
そう言われてジュリアスはあわてた。光の館に来る、ということは昨夜クラヴィスがしたように伴侶として館の者たちに引き合わせなくてはならないということで、部屋の支度をせよなどと言わねばならぬのか、そうやって部屋を分けたところで結局はクラヴィスと同じ寝台で寝ることになるのかもしれぬ、そしてその後は……。
なんて、頭の中でめまぐるしくシミュレーション。
「ジュリアス」
呼ばれてはっとした。
「何だ？」
自分の頭はどうかしてしまったのではないか――。
クラヴィスとの結婚やそれに付随する諸々に関することとなると途端にジュリアスの頭脳は明晰さを失って、何一つとしてまともに判断できない。何に関しても決断するのが難しくて、決めるまでに異様に時間がかかる。
「いつまで考えているつもりだ。返答は？」
「返答……？」
どうしたものかと決めかねておうむ返しに言いながら、ふと朝の会議が終わったときのことを思い出した。
リュミエールが見ていた。
アクアマリンの瞳が。
理解できないものを見る表情で。
答えがないため、クラヴィスが再度尋ねた。
「今宵私の元に来るのか、それとも私がお前の元へ行くのか」
「今朝リュミエールに見られていた」
ジュリアスは心ここにあらずといった様子で、クラヴィスの質問への答えになっていない言葉を返した。
「…何の話だ」
「朝の定例会議の後だ。会議室を出ようとしたとき、私を見たろう」
「ああ」
「そのときに顔を見られていた。何か気づかれたのではないか」
「別にあの後何も言っていなかったが…。いつもと変わらぬ様子だったぞ」
「もしも…」
「この事が知られたら、か」
言いながら、腰をかがめて唇に軽くキス。このような場所でとあわてるジュリアスを抱きすくめて、もう一度。人目のないところでこのくらいのことは当たり前だ、くちづけ一つでうろたえるなと耳に吹き込む。
こういうことは最初が肝心だ。下手にジュリアスに主導権を握らせてしまうと、執務室で私に触るな抱きしめるなキスするなと言い出すに違いない。何もかもに戸惑っている今がチャンス、愛情表現に関しては自分流に染める気でいるクラヴィスなのである。
「リュミエールに知られたとして、それが何だというのだ。気づかれたからといって困ることではあるまい？ どちらにしても、いずれは知れることと思っておいたほうが良い…」
それはそうかもしれない。いつまでも隠しておくことなど、無理な話なのかもしれない。
「だが」
「女王陛下の許可も頂いて、正式に結婚したのだぞ。そこまで隠さねばならぬことか」
人に知られて困ることではない、それはわかっているけど、ハズカシイから。
そんな心の内が透けて見えて、かわいいと思う。
昨日から、これまで見たことのないジュリアスをたくさん見た。どの表情も仕草もクラヴィスの心をつかんで離さない。これ以上好きになれないくらいに好きだったはずなのに、たった一日で式を挙げる前の何倍も好きになった。この勢いで好きになり続けたら、「ジュリアスが好きだ」という自分の気持ちで宇宙があふれてしまうのではないかと心配になるくらいだ。堅物でかわいくないことばかりを言う男だが、どうしようもなくかわいい。今この場でほしいほどに。
うつむくジュリアスのあごに手をやり、顔を上げさせる。
昨夜を境に自分だけに見せるようになった顔。
不安を宿した瞳、ジュリアスらしくないジュリアス――否。
「これこそがお前自身か…」
それは期せずしてクラヴィスが吐露した偽らざる気持ちであり、そんなジュリアスをどれほど愛しく思っていることかという感慨でもあったのだが、逆にその言葉はジュリアスの不安をあおり、落ち着きを奪った。
なぜクラヴィスはそんなことを言うのか。やはり今の自分はいつもと違うのか。だとすればいったい何が違うのか。
「私は……どこかおかしいか？」
ルヴァやオリヴィエにも同じことを訊いた。それはほんの一昨日のことだったのだ、と遥かな昔であるかのようにジュリアスは思った。あの時とはなんと状況が違ってしまったことか。
二人は口々に、時には肩の力を抜いてみろと言った。
クラヴィスは？ 何と答える？
青い瞳に映った答えは、微笑だった。以前によく見た冷笑でも面白がるような顔でもなく、深い慈しみを感じさせる笑みに、ジュリアスは一瞬目を見開き、ついと顔をそむけた。
何だか胸がつまる……。
クラヴィスの顔を見ることができずに頑なに顔をそむけたままでいたら、腕を取られ立たされ抱きしめられ、背中をゆっくりと撫でられた。
「どこもおかしくなどない。お前はお前のままでいればよい。人がその人らしくあることは、何もおかしなことではないのだぞ」
囁く声に、ぴりぴりとした緊張が消えていくのを感じた。クラヴィスのあたたかさが全身にしみわたる。
ルヴァやオリヴィエの言ったことが、あの時はひどく難しく思えた。けれども、この腕の中ならたやすいことなのかもしれない。
自分らしくというのがどういうことなのか、まだわからない。
だが、あの時にはわからなかった答えがひとつ見つかった。
肩の力を抜いて安らげる場所、それはきっとクラヴィスの腕の中だ。