アムネジア


1. リセット

本当に、ある日突然。闇の守護聖は記憶喪失になった。
明確にこれが原因だと特定できるようなことは何もなく、朝目覚めたらそれまでの一切を忘れきっていたのである。起き上がったクラヴィスは自分がどこにいるのかわからず、はて私は誰だろうと考えてみてそれもわからないことに驚き、呆然と自室を出てうろうろしているところを側仕えに見つかった。
「どうなさいました、クラヴィス様?」
と声をかけられて、
「クラヴィス? それが…私の名なのか? 『様』などと呼ばれるのは…もしかして私は財産家か身分の高い人間なのだろうか…?」
なんてことを言い出したものだから、真っ青になった側仕えが執事を呼び、執事が医療センターに連絡し、医者がわらわらと闇の館を訪れたのだった。
当然ながらその医者たちにあれこれと調べられ、ここでは満足な検査もできないと結局は医療センターまで連れて行かれて詳細な検査を受けさせられた。しかし脳を含めて体のどこにも異常は発見されず、これは記憶が蘇るのを待つしかないだろうということになった。

この結果は首座へと報告され、とりあえず闇の守護聖を出仕させるようにとの首座の指示に従ってクラヴィスは馬車で宮殿へと送り届けられた。闇の守護聖の一大事とあれば即駆けつけてべったりなのがリュミエールである。宮殿で守護聖を集めて善後策が話し合われている最中も、
「クラヴィス様、何もかもお忘れでさぞかし不安に思っていらっしゃることでしょう。でもこの私がついておりますから大丈夫ですよ」
と優しい笑顔で力づけている。
「私の名は…クラヴィス、というらしいな」
「ええその通りです、クラヴィス様。わからないことがあれば何なりと私にお尋ねくださいね。私、いつもおそばにおりますから」
「わかった。…お前、名は?」
「私はリュミエールです」
クラヴィスの処遇について話し合われる中、ひそやかに会話を続ける二人の間にずいと割って入ったのは光の守護聖だった。
「先程から何を二人で話しこんでいる。リュミエール、勝手なことをクラヴィスに言うでない。これは単なる個人の問題ではないのだ。守護聖の身に変事が起こったのだから、クラヴィスに関してはすべて首座の私を通してもらう」
「そうはおっしゃいますがジュリアス様、今のクラヴィス様には常におそばにいてお世話をしてさしあげる人間が必要かと思います」
「その点は私も同意する。だから私がつくことにしよう」
首座の言葉に守護聖一同唖然。だってジュリアス様、超忙しいじゃん。
オスカーはそんな首座の勇み足を止めようとした。
「ジュリアス様、あなたは非常にご多忙な方でいらっしゃる。クラヴィス様に付き添っている時間の余裕などないじゃありませんか!」
リュミエールもすかさず同意した。
「オスカーの言うとおりです。ここは私にお任せを……」
オスカーに同意するのも癪だけど、クラヴィスを自分の手元にとどめておくためには利用すべき発言である。
「まあまあ皆さん、そういうことももちろん大事ですけどー、まずは自己紹介から始めませんかー? なにしろクラヴィスは何も覚えていないんですから。それに、ご本人がどうしたいかをお聞きする方がいいとも思いますしねー」
それまでクラヴィスは眉をひそめて周囲の成り行きに耳を傾けていた。確かに自分は記憶喪失で、ひとりでは右も左もわからない状態だ。だからといって周囲に好き勝手にされたいわけではない。自分のことなのに、自分抜きで話が勝手に進むのは納得が行かない。そこにこのルヴァの発言である。それを聞いてクラヴィスはほっとした表情になった。
「お前はなかなかものの道理というものがわかった人間だな。名は?」
どうやらルヴァ様が気に入った模様。
「私はルヴァ、ですよー」
「そうか。ところでこれは何だ、ルヴァ」
言うなり、クラヴィスはルヴァのターバンの端を引いた。
「ああ〜クラヴィスっ、それはやめてください。もしも解けると大変なことになりますので」
「どう大変だと言うのだ」
一向にターバンから手を離す気配なし。記憶をリセットされて何もかも忘れたクラヴィス様は、たいそう好奇心旺盛でいらっしゃるようだ。必死でターバンが解けないよう押さえながら、ルヴァは説明した。
「皆さんご存知のことなんですけどー、私の故郷の星では、これを外すのは将来を誓った相手の前だけなんですー」
「ということはつまり、今この場でこれが外れると、お前はここにいる全員と将来を誓わねばならぬ…ということになるのか?」
「故郷を離れた身である今の私には関係のない慣習かもしれませんけど、私の心情的にはそういうことなんですよー!」
ほとんど悲鳴。
「…フッ…それは確かに大変だ…」
クラヴィスはようやく手を離したのだった。



2. リセットされたクラヴィスは素直、かもしれない

さて、その後ルヴァの提案に従ってまずはクラヴィスへの自己紹介がなされた。それからこの宇宙の仕組み、守護聖とは何か、などといった基礎知識がクラヴィスに伝授された。クラヴィスは、言葉は普通にしゃべれるし読み書き計算といったことも問題ない。ただし自分に関わることすべてを忘れ去っていて、女王や守護聖なんかのことも当然ながら覚えていなかったのだ。
さすがに何もかもを短時間に詰め込むのは無理だろうからとざっと概要を話したところで切り上げて、最初の悶着の元となった「誰がクラヴィスに付き添うべきか」という問題を討議することになった。光の守護聖がなぜか徹底的に水の守護聖と張り合う姿勢を見せるので、この件についてはルヴァが進行役を務めていた。
「それでクラヴィス、あなたはどうしたいんですか」
「…そうだな、今日はいろいろとありすぎて疲れたので、とにかく今は休みたい」
「そうでしょうけど、今後のこともありますしね。なるべく早くあなたの記憶が戻るように私たちも協力したいって思ってるんですよー」
「ですからルヴァ様、私がクラヴィス様に付き添うと申し上げているではありませんか。いつもそうしておりますしね」
と言うリュミエールに対し、
「いや、ここは最も古くからクラヴィスを知っている私が適任であろう」
ジュリアスも一歩も譲らない。結局最初の悶着が蒸し返されるだけのようだ。

自分がクラヴィスに付き添うと言い張るジュリアスを、皆ふしぎそうに見ていた。リュミエールの主張通り、闇と水の守護聖は常に一緒に行動していた。ジュリアス自身はいつだって炎の守護聖と二人連れだ。その彼が、なぜこうまで記憶喪失のクラヴィスにこだわるのか。
「んー、私はジュリアスかリュミちゃんか、本人に選ばせるのがイイんじゃないかなーって思うけどなァ。それとも他にクラヴィスの世話係したい人、いる?」
とオリヴィエに見渡されて、誰もが首を振った。クラヴィス、それを眺めて悲しそうな顔になる。
「私はそれほど皆に敬遠されているのか…嫌われ者なのだな。知らなかった…」(落ち込み)
「ああ〜っクラヴィス、そうではないんですよー。そんな顔しないでください。ただ、あなたは日頃リュミエールと仲良くしていましたし、ジュリアスが幼なじみっていうのも本当ですし、他のみんなは遠慮してるだけなんですよ〜」
何があっても超然としていたクラヴィスの思わぬ落ち込みように、周囲の皆もルヴァの言葉への同意を示すべく何度も首を縦に振って見せた。
「そういうことなのか…?」
ルヴァの説明に納得したのか、一斉に激しく首を縦に振りたてる皆の様子が面白かったのか、クラヴィスは笑顔になった。記憶喪失前の彼だったらそんな笑みを浮かべることなんか金輪際ないと断言できるような、すばらしく魅力的な笑顔に誰もが一瞬見とれて、そしてリュミエールはクラヴィスの手を取った。
「何と無垢な笑顔なのでしょう! あなたのこの笑顔を守るためならば私は何でもいたしますとも!」
クラヴィス様のこんな笑顔を目にすることができるとは! と、ものすごく感動しているのだ。
「リュミエール、と言ったか。お前はいい奴だな…」
クラヴィスにそんなにストレートにほめられたことなんかない水の守護聖、感激のあまり泣き出さんばかりである。 「クラヴィス様…」と言ったきり、目を潤ませている。
「だがルヴァ、私はそこのジュリアスかこのリュミエールか、どちらかを選ばねばならぬのか」
「あー、そうですねー。身の回りのあれこれは守護聖じゃなくてもかまいませんけどー、ある程度慣れてくるまでは、話相手と言いますか、いろんなことを教えてもらうのに誰か守護聖についててもらうのがいいんじゃないかなって思いますねー」
「私は…ルヴァ、お前に頼みたいのだが…それではいけないか」
どうやらルヴァ様の第一印象が非常に良かったために、熱意も露わに自分の争奪戦を繰り広げている輩よりは彼を選びたいということのようだが。クラヴィスは、熾烈さを増す一方の光と水の守護聖の論争に、もしかしたらちょっぴり恐れをなしていたのかもしれない。その気持ちはわからないでもないが、いきなり名指しされた地の守護聖の方は冷や汗をかいている。
「えっ? 私ですかー? それはまあ、私は一向にかまいませんけど、ジュリアスやリュミエールが何と言うでしょうか」
ルヴァ様、ちょっとびくつきつつ今しがた名前を口にした二人を眺めやった。
この二人のうちのどちらかがクラヴィスから指名されたとすれば争いは激化の一途をたどったかもしれないが、自分達以外の者の名を出されて、ジュリアスとリュミエールはどちらからともなくため息を洩らした。
「クラヴィスがそうしたいと言うのならば、今日のところはそれでもよかろう」
「私も……そうですね、ルヴァ様でしたらお任せしてもよろしいかと思います」
「何ッ!? 私にはクラヴィスのことは任せられぬとでも言うつもりか!」
「そう聞こえたのでしたら申し訳ありません」(しれっ)
「あああ〜二人とも〜、ケンカはやめましょうね。クラヴィスも驚いていますよー」
「…事情は呑み込めないのだが…自分のために仲違いをする姿を見るのは、胸の痛むものだな…」
心底悲しそうにクラヴィスが呟くのを見て、ジュリアスもリュミエールもそれ以上言い合うことはなかった。
「すまぬな、クラヴィス。リュミエールも私も、そなたの身を案ずるがゆえだ。ルヴァは守護聖でも一番の物知りだから、疑問があればルヴァに尋ねるというのは悪い考えではない。そなたの意思がそういうことならば、私としては異存はない」
「私も……クラヴィス様のお考えならば尊重いたしましょう。少々寂しくはありますが」
「皆、本当に案じてくれているのだな。私は幸せ者だ。嬉しく思う」
と言いながら、ジュリアスやリュミエールと次々に握手を交わし、ついでに他の守護聖たち全員とも固い握手を交わして、最後にルヴァの前に立ちしっかりと両手を握り締めて、
「そういうことなので、お前にいろいろ教わりたいと思う」
とクラヴィスは言った。
「何もわからぬゆえ面倒をかけることになるが、よろしく頼む」
「ええ、ええ、皆さん納得の上ということでしたら喜んでお引き受けしますよ〜」
「…ところでルヴァ、私と二人きりのときならばそのターバンは外して見せてくれるのか?」
いきなり何を言い出すのか。
「えええええ〜〜〜〜っ!? それはっ! 無理ですクラヴィス!」
またターバンを引っ張られるのではないかと警戒して頭を押さえながら、ルヴァは叫んだ。
「なぜ?」
「さっき説明したじゃありませんかー。私はあなたと将来を誓うつもりはありませんから!」
「だが私は見てみたいのだ。大勢と、というのは大変かもしれぬが、一人ならば良いのではないか」
「そういう問題じゃないんですよー」
ルヴァ、半泣き。
好奇心旺盛なクラヴィスは、ターバンで隠されているルヴァの頭がどうしても見たいと主張する。自分の感情に素直だ。先程、ターバンが外れるとルヴァはその場にいる全員と将来を誓わなくてはならなくなると聞かされて、それは何だか大変そうだと手を離しはしたものの、クラヴィスは実は「将来を誓う」という言い回しの意味するところがあまりよくわかっていなかったのだった。記憶喪失とはやっかいなものである。



3. 男のこだわり

こうした騒ぎの後、「将来を誓う」の意味を懇切丁寧に教えられたクラヴィスは「そういうことであったのか…言葉とは難しいものだ」とため息をつきながらも、どうやら今度こそ本当に理解できたようだった。その日終業後、クラヴィスは地の館へと伴われた。クラヴィスが一人で闇の館に帰ったところでどうせ他人の家のようにしか感じられないのだし、疑問があったときにそれに答えてくれる人間がそばにいてくれるほうがありがたい。そこで今夜は地の守護聖の館に泊めてもらうことになったのだ。
もっともその前にルヴァが「あなたがターバンに興味をお持ちなのはよーくわかりましたけど、ご説明したようなわけで絶対に外しませんからね。と言うよりも外せないんですよ。おわかりいただけましたかー?」と念押しし、「ああ、私もお前と結婚する気はない」というクラヴィスの言葉を聞いて、ルヴァが自分の身に危険はないと確信した上でのことだったが。

「着きましたよ〜」と言われて馬車から降り立ったクラヴィスは、目の前にそびえ立つ広壮な館に驚きを露わにした。
「これは…大きな家だな。お前の家族はさぞかし大人数なのであろうな」
「え? 私は独り身です。家族と言えるような人はここにはいませんよー。家の中のことをしてくれる人たちは大勢いますけどね」
「こんな大きな家に住みながら、妻も家族もない…?」
クラヴィスは納得が行かない体である。
「だって守護聖の館はみんなこんなものですから。あなたの館だって規模では似たり寄ったりだって、今朝気がつきませんでしたかー?」
「何も思い出せず困っていて、それどころではなかった」
「ああそれはそうかもしれませんねー。無理もないことです。あ、それと、奥さんがいるかどうかって話ですけど、私だけじゃなくて守護聖は全員独身ですよ〜」
「なぜだ。まだ少年と言って差し支えない年齢の者たちは当然かと思うが、お前や私の年くらいになれば、妻帯していても不思議はないのでは?」
「守護聖である間に結婚をする者は少ないんですよー。もしかしたら、ほとんど例がないかもしれません」
「それはまたどうして? 禁じられてでもいるのか」
「いえいえ〜、女王陛下の結婚は認められてませんけど、守護聖の結婚を禁止する規定はありません」
「だとしたら、なぜ」
いやにこだわるクラヴィスである。
「私からもひとつお聞きしたいのですが、あなたこそなぜそれほど結婚ということにこだわるのですか」
「…なぜ?」
クラヴィスは首をかしげた。
「さて…なぜであろうか。私にもよくわからぬ…しいて言えば…そうだな、自分の性体験が気になる、といったところか」
「はあ〜?」
「いい年をした男が全くの未経験だとしたら…恥ずかしいことなのではないかと思ってな」
ルヴァは、少し顔を赤らめながらぼそぼそと小さな声で話すクラヴィスを思わずじーっと見てしまった。クラヴィス、見つめられてさらに顔を赤くした。

赤くなってるクラヴィスだなんて。私はもしかしてすごく珍しいものを見てるんじゃないでしょうか。
しかも言ってることがまたかわいいって言うか、そんなこと気にする人だったんですね、あなたは。

思わず微笑すると、ルヴァは言った。
「あのですねークラヴィス、経験がないから恥ずかしいとか、それは間違った考えだと思いますよー。そういうことは愛情が第一ですから。まずは愛する人がいるかどうか、愛に裏付けられた行為であるかどうか、それが肝心な点です」
「…なるほどお前の言う通りかもしれぬ。ではルヴァ、私には愛する女性がいたのか?」
「ええーっ!? 私、そんなことは知りませんよー」
クラヴィスは不満げな表情になった。
「ジュリアスがお前のことを一番の物知りと言っていたが、あれは嘘か」
「あ、いえ、そんなことはありません。ジュリアスは嘘つきなんかじゃありませんよー。私も一応は物知りの部類に入ると思います。ただ、あなたの個人的な付き合いのお相手に関しては知らないと申し上げているんです。そういうことは物知りかどうかとは関係がないんですよー」
「そうなのか…。やはり私にはいろいろとわからぬことが多いようだ。私がおかしなことを言ったら、今のように説明してもらえるととても助かる」
「そんなふうに素直に人の話に耳を傾けるっていうのは、とってもいいことですねー」
ルヴァはにこにこしている。

その晩ルヴァの館で二人がどんな話をしたか、その点は省略。ひとつ言えるのは、ルヴァがクラヴィスをいたく気に入った、ということだ。記憶喪失になったクラヴィスは、一言で言えばかわいかった。それまでだってルヴァはクラヴィスのことを嫌いなわけじゃなかったけれど、と言うよりもむしろいろいろと気にかかる存在ではあったけれど、かわいくない性格なのは皆様ご承知の通り。ところが今のクラヴィスは、知らないことを教えてもらって純粋に嬉しそうな様子で、熱心に話に耳を傾ける姿はいじらしいとさえ思えた。熱心な生徒というものは、教師役を務める者にとっては喜びである。熱心な上に理解力が高く、教えるそばから吸収していく様を体感するのは実に楽しい。記憶喪失の相手がどこまで理解できているのか探りながらの会話が、意外なほどルヴァにとっても楽しいものとなったのだ。

あんな素直でかわいいクラヴィスなら、ジュリアスともうまくやっていけるんじゃないでしょうか。
クラヴィスの記憶喪失というのは、実は二人が仲直りできるチャンスなのかもしれませんねー。
長年いがみ合ってきた二人ですけど、これで仲良くなれたら私としては御の字ですねー。ぜひ、災い転じて福となす、という具合にうまく運んでほしいものです。
リュミエールにはちょっと気の毒ですが、明日はジュリアスに付き添いを頼んでみるのがいいかもしれませんね。



4. リセットされたクラヴィスは前向き、かもしれない

記憶喪失になって二日目、クラヴィスは今日はジュリアスの執務室にいた。
朝、ルヴァと一緒に出仕する馬車の中で言われたのだ。

「昨日の夜はゆっくりお話できてとってもよかったなーって私は思ってるんですけど、あなたとしてはどうですか。何か得るところはありましたか、クラヴィス」
「ああ、とてもためになる話をたくさん聞かせてもらって感謝している」
「そうですかー。それは良かったです、うんうん。それでですね、ひとつ提案があるんですよー。同じ人間からばかり話を聞くよりも、いろんな相手と言葉を交わすほうが刺激になって、何か思い出すきっかけになるかもしれません」
「確かに、な」
「ですから、今日はジュリアスのところに行ってみませんか? 何と言ってもあの人はあなたの幼なじみです。あなた方は6歳の頃からずっと一緒だったということですしねー。あの人ならば他の誰も知らないような古いことも知っていると思いますし、良い話し相手になってくれるんじゃないでしょうかー」
「そうだな…お前がそう言うのなら、そうしてみるとするか」
ルヴァのことは当初から信頼できる人柄だと気に入っていた上に、館に泊めてもらったりいろいろ教えてもらったりとたくさんの親切を受けている。そうした事情から親密度は現時点で一番高い。そのルヴァの提案だからとクラヴィスは受け入れることにしたのだった。ジュリアスと言えば昨日リュミエールとやりあっていた、あのちょっと怖い金髪の男か、などと思いながら。

前日「自分がクラヴィスに付き添う」と強硬に主張していたジュリアスは、クラヴィスの世話を二つ返事で引き受けた。
ジュリアスはまず試しにと手元の書類箱からとある惑星の定期報告書を選り出すと、クラヴィスに渡し「これに目を通してみてくれ」と言った。自分に関わる一切を忘れてはいるが字は読める。そういう部分には問題ないので渡された書類を読むことはできるのだ。しかしそれを理解できるかどうかはまた別の話である。結局のところクラヴィスにはこれをどう判断し、どういう指示を下したものかわからない状態で、読み終わってしまうと手持ち無沙汰そうにジュリアスを眺めていた。首座はいつも忙しい。クラヴィスがこんな状態なので、余分な仕事が増えてよけいに忙しい。わき目も振らずに仕事に取り組んでいる姿は神々しく美しくクラヴィスの目に映り、昨日はちょっと怖いと思ったが実は物静かな男なのだなと認識を改めた。だが如何せん美しすぎて生きている人間という気がしない。ちょっと世間話でも、とこちらから気軽に声をかけられるようなムードではなかった。

話し相手になってくれるだろうとルヴァは言っていたが、これではな…。
こんなことならルヴァの執務室にいるほうがまだしも良いだろうか、それともあの優しい青年、リュミエールと話でもしに行くべきか…。

などと、名匠の手になる彫刻のように整った横顔をぼんやり眺めながら思っていたところ、ジュリアスはつと顔を上げてクラヴィスを見た。晴れ渡った秋の空のような深い青の瞳に見つめられて、何となく胸がときめくのはどうしたことか。彫像のごとき美貌の男は、手持ち無沙汰そうなクラヴィスを見て口を開いた。
「読み終わったのか。それならば声をかけてくれればよいのに」
「忙しそうなので邪魔をするのも悪いと思ってな」
「いや、気を遣ってくれずともよい。……それで、報告書を読んでみてどう思った?」
「読んではみたのだが…これをどうしたらよいのか、わからぬ」
「やはりそうか。では退屈しているのではないか」
「ああ、いささか」
「今の状態ではいつもと同じ仕事をせよと言うわけにもいかぬしな。まだ何も思い出さぬのだろう?」
「残念ながら」
「そうだな、それでは……」
ジュリアスは立ち上がってキャビネットから書類を綴じたファイルを一冊取り出した。
「これはさまざまな事象や事故に関しての調査報告書の抜粋だ。主に経験の浅い年少の者が学ぶために、わかりやすく系統立ててまとめてある。一応の決着を見た案件ばかりで、これを読めばどういう対応をしてどういう結果となったかがわかるようになっている。今のそなたには良い教科書となるだろう。もともとそなたは能力のある人間だ。目を通しているうちに対応の仕方がわかってくるのではないかと思う。たとえ記憶がすぐに戻らずとも、慣れればそういった書類の処理もできるようになろう」
と、先に読んでみろと渡していた書類を指した。分厚いファイルを手渡されながら、クラヴィスは嬉しそうな顔をしている。何しろそれを読めば、役立たずで厄介者の自分が役に立てるようになるかもしれないのだ。精一杯がんばろうと思って、ファイルを受け取りながらその決意を告げた。
「突然に記憶を失って、迷惑をかけている私だ。何とか少しでも皆の役に立てるようになりたいと思う。これを読んでわからぬことがあったらお前に尋ねたいと思うのだが…かまわないだろうか」
一生懸命仕事をしている首座の邪魔になるのではないかという懸念をその言葉にこめて尋ねるクラヴィスの真摯な瞳は、ジュリアスを感動させた。思わぬクラヴィスの謙虚さ、前向きさ、ひたむきさに驚きを覚えつつジュリアスは口元をほころばせた。
「もちろんだとも。そなたの手助けをするために私はここにいるのだからな」
ジュリアスのほんの少しの表情の変化にクラヴィスはなぜかまた胸をときめかせて、先程から自分はどうしたのだろうかと不思議に思いながら衝動のままにファイルを机に置くと、首座の手を取った。
がしっ。
「ありがとうジュリアス。天涯孤独の身であると聞かされて寂しく思っていたが、ルヴァといいリュミエールといいお前といい、私にはこんなに良い仲間がたくさんいてくれて、本当に嬉しい。ルヴァが『守護聖はみな肉親と離れている分、仲間が家族のようなものだ』と言っていたが…あの言葉に嘘はなかったのだな。これからもいろいろと教えてほしい」
ジュリアスがクラヴィスの話し相手になってくれているかどうかはともかく、二人の仲を改善できるチャンスを利用すべしというルヴァの計画はみごと成功を収めつつあるようだ。



5. 作戦始動

クラヴィスがジュリアスから渡されたファイルを嬉々として読み始めた頃。
ルヴァは自分の執務室にリュミエールを招んで、一緒にお茶を飲んでいた。クラヴィスがいるかと思っていそいそとやってきたリュミエールは、部屋を見回してみて目当ての人物がいないことにあからさまにがっかりした顔をした。
「……クラヴィス様はどちらへ?」
「ここにはいませんよ。本当に、あなたはクラヴィスのことが好きなのですね、リュミエール。何だかちょっと寂しくなるくらいですよ〜」
リュミエールの反応は予想されたことではあった。けれども、ルヴァにしてみれば自分だって水の守護聖とはけっこう仲がいいのにと、ついそんな言葉が口をついて出るほどに見るからにしょんぼりしてしまったのである。
「記憶をなくされたあの方がお一人でどうしていらっしゃるかと心配で……」
「気持ちはわかります。でも記憶喪失の人を一人で放り出したりはしませんよ。クラヴィス自身はあまり落ち込んだりはしていないようですし、あなたも元気を出してくださいね〜。今日だってクラヴィスのことは信頼できる人に任せていることですし、心配いりません。立ち話もなんですから、まあどうぞおかけください」
とリュミエールを座らせてお茶を勧めながら、この朝クラヴィスをジュリアスのところに連れて行ったことやその理由などを話して、リュミエールから一応の了解を得ることに成功した。ルヴァ個人がリュミエールにこうまで気を使う義理はない。だが、もともと茶飲み友達でもある心優しいリュミエールを無駄に悲しませるのは本意ではないのだ。昨日のジュリアスとのやり取りを考えても、何のフォローもしないでいるのは争いの種をまくことになる可能性大、放置はできなかった。円滑な人間関係のためには根回しも必要なのである。
「これは、チャンスだと思うんですよー」
「チャンス、ですか」
「あの人たちの不仲は筋金入りですけど、昨日じっくりと話をしてみてですね、クラヴィスがとっても素直ないい子だなって思いまして……いい子っていうのも変ですけど。でも今のクラヴィスは何だかそう呼びたくなるような、そんな雰囲気なんです。あ、すみません、そういう話ではなくて。あのクラヴィスならば、ジュリアスともうまく行くんじゃないかと思いましてね。
あなたはもともとクラヴィスと仲が良いのですから、あの人がいろんな相手と親交を深めていくのだって余裕を持って眺めていられますよね〜。クラヴィスが大切だと思うなら、あの人が新たに良い人間関係を築くことに反対したりはしませんよね」
にこにこと、人の好い笑顔でこう言われてしまってはリュミエールも反論できない。お茶を飲みながら「ええ、ルヴァ様」とうなずくばかりだった。
「あの人が、自分に性体験があるのかどうかなんてことを気にする人だなんて初めて知りましたけど、何だかそれを言ったときのクラヴィスがとてもかわいくてですねー」
なんていう話まで聞かされて、自分がそれをその場で直接に聞くことができなかったとは、とリュミエールは心中穏やかではない。ルヴァのところを辞した後、オリヴィエの執務室に寄って愚痴混じり、ため息交じりにその話をしたところ、オリヴィエは大乗り気になった。何にかって? クラヴィスの初体験推進だ。
オリヴィエは、記憶喪失以前の彼が女を知らないと思っているわけではない。だが何かあったにせよそれをすっかり忘れている今は未経験な少年同然であると知って、リュミエールが自分の執務室に戻って行った後、遊び仲間のオスカーのところへ駆け込んだ。こんな話聞いたんだけど、と炎の守護聖に耳打ちして、二人はクラヴィスを連れ出す計画を立て始めたのだった。クラヴィスがそれを大きなお世話と思うか、渡りに船と喜ぶかは未知数だが、「オモシロそうなことを逃すテはないよね☆」というのがオリヴィエの信条なのである。

周囲(と言うか、その一部)がこうしてクラヴィスの初体験推進へ向けてひそかに動いていた頃。
クラヴィスは疑問点をジュリアスに尋ねたりしながら分厚いファイルを二冊ばかり読破して着々と知識を身につけていた。昼は二人で特別食堂に行ってランチを食べながら子どもの頃の話を聞いて、なかなか有意義な時間を過ごすこともできた。何もかもが目新しく物珍しく、知的好奇心を刺激するものが周囲に満ち溢れている。記憶を失った代わりに充実した楽しい一日を過ごせて、クラヴィスは非常に満足していた。夕方になってジュリアスから、
「執務時間内は雑談にばかりかまけるわけにも行かなかったゆえ、今宵は私の館に泊まって話でも、というのはどうだ?」
と誘われた。昨夜はルヴァの館に泊めてもらって、いろいろと興味深い話を聞いたのを思い出し、ジュリアスの話をじっくりと聞くのも悪くないと承諾の返事をしようとしたところ、終業の鐘が鳴った。と同時にオスカーとオリヴィエが光の執務室に現れて、「今夜は私たちがクラヴィス係になるよ☆」とジュリアスに宣言して連れ去ってしまったのである。今夜は光の館に招いて昔のアルバムを見ながら話でもしようと思っていたジュリアス、オリヴィエにまくし立てられてうっかり頷いてしまって、クラヴィスを拉致されてからホゾをかんだ。仕事上のことなら簡単に引き下がったりうっかり何かを許可したりはしないのだが、個人的なこととなると案外とろいところのある首座なのであった。

だがルヴァも言っていたが、いろいろな相手と接することも今のクラヴィスには必要かもしれぬからな。今日は執務時間内はずっと私と共にいたことでもあるし、まだ親しく話していないであろう者たちとの時間も有用だろう。館に招くのはまた次の機会でもかまわぬか……。



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■BLUE ROSE■