アムネジア


6. 男としての経験値を上げよう大作戦

こうして本人にも何が起こっているのかよくわからないうちに二人組に拉致されたクラヴィスは、外界の飲み屋に来ていた。遊び人二人組の目論見は、女性と仲良くなってあわよくばベッドイン、である。ただし自分たちのお楽しみがメインなのではなく(そういう意味合いがないとは言わないけど)、クラヴィスの初体験推進というのが主たる目的だ。そんな密談をオスカーとオリヴィエがしていたのを聞きつけて、クラヴィスの身を案じたリュミエールもくっついて来ている。

席に落ち着いた途端オリヴィエは本日の主題であるところの、男としての経験値の件を切り出した。
「あんた、女の子と寝たことがあるかどうか覚えてないんだって?」
「寝る…とは?」
「わかんないのって記憶ソーシツのせい?」
首をかしげているクラヴィスにニッと笑いかけると、オリヴィエは言った。
「セックス、だよ」
オリヴィエ様ってばはっきり言いすぎじゃない? と思わないでもないが、性行為を指す単語を口にしたり耳にしたりすることは、クラヴィス的には何ら問題ないらしい。ルヴァへの質問が回りまわってオリヴィエの耳に届いたのか、なるほど守護聖仲間とは家族同然なのだなと好意的に解釈したクラヴィスは、うなずいた。
「ああ、本当に何も思い出せなくてな…」
「じゃあこれからするのが初体験って可能性も無きにしも非ず、ってことだよね」
「…あまり大きな声で言わないでくれ…人に聞かれたくない」
その単語を口にすることは平気でも、自分に経験があったかどうかを気にしているだけあって、経験がない(かもしれない)と周囲に知れ渡るのは気に入らないようだ。
「オリヴィエ、クラヴィス様を困らせるようなことはやめてくださいませんか」
「私はね、あんたのことは好きだよ、リュミエール。だけどクラヴィスの保護者様にはちょっと黙っててほしいんだ。せっかくお楽しみに来てるんだから、つまんないことゴチャゴチャ言うの、ストップ」
リュミエールの眉がくもった。

オリヴィエは「そんな深刻に考えることナイの。男としての経験値を上げる手伝いだよ☆」などと言っていましたが、今のクラヴィス様に酒場通いは早すぎるのでは? 男としての経験値よりもまず、人としての経験値を上げることのほうが重要なのではないかという気がするのですが。

オスカーとオリヴィエが密談しているところに踏み込んだときのオリヴィエの「経験値」発言と、クラヴィスの無垢な笑顔とがリュミエールの脳裏を過ぎった。あの笑みはこれまでの記憶、すなわち人としての経験値がリセットされたがゆえのもの、今のクラヴィス様が部分的には幼子に等しい状態にあることを象徴しているのではないでしょうか、などと思ってリュミエールは心配そうな顔のままクラヴィスを見ている。
「んもー、あんたもそんな顔してないで、飲みなよ! けっこうイイお酒そろってるよ、ココ」
「そうだぜ。人生楽しまなきゃ損だからな」
「人生を、楽しむ…? …ここでこうしているのも、その一環か?」
オリヴィエがクラヴィスのために注文してくれたカクテルをちびちびと舐めておいしいと思いながら、クラヴィスは言った。
「酒はうまいと思うが、わざわざこうした場に来なければ飲めぬものなのか」
オスカーは声を落とし気味にして言った。
「酒は家でも飲めますが、出会いは外にしかありませんからね」
「…であい…?」
「女の子だよ☆」
オリイヴィエ、ウィンク。
「女性との付き合いのことか…。私は…どう話をしたらよいかもわからぬのだが…」
「大丈夫ですよクラヴィス様。俺たちがいれば必ず女性を口説き落とせますから」
「そうそう、しゃべる方は私たちに任せてほしいな。あんたはテキトーに相づち打ってるだけでいいよ。ってか、あんただったら黙っててもオッケー。女の子は神秘的な男に弱いモンなの」
自信に満ちた二人はとても頼れる存在に思えた。そんな彼らをまぶしそうに見て、
「お前たちがそう言うのならばそうなのだろうが…私にはよくわからぬことだらけだ。よろしく頼む」
なんて頭を下げられて、オスカーもそれ以前の苦手意識もどこへやら、「へえー、この方は意外に根は素直でいらっしゃるんだな」なんて思ってたり。
そんなことを話している彼らだったが、何と言ってもタイプの違う美形が四人もそろっている。芸能人も真っ青なきらきらオーラ大放出でその一角だけ異様に目立っている。当然女性からの熱視線を受けまくり。場慣れしているオスカーとオリヴィエが脈ありっぽいとみた女性グループ数人を連れてきて、一気に合コン状態に突入だ。
「場所を変えないか」
とオスカーが言って、一同シティホテルのバーへと足を向けたのだった。



7. とても大切なこと

クラヴィスは女性グループのうちの一人と、ホテルの部屋にいた。女心のツボを心得ていて盛り上げ方のうまい遊び人二人に何となく一同乗せられて、部屋を取ることになったのである。と言うよりも二人の目的は最初からそこにあった、すべてはクラヴィスのために二人がお膳立てした、などということを当の本人は知らない。
カップルごとに部屋に分かれる前に、オスカーに「これからどうするのだ?」とこっそり尋ねて、「大人の男と女がホテルの一室ですることなんて、決まってますよ。甘い言葉をささやいてやってベッドイン、簡単なことです」と言われた。オリヴィエにも「がんばってね〜」なんて背中をどやしつけられた。リュミエールは二人とは対照的に、クラヴィスを心配そうに見ていたが、結局は何も言わなかった。みんなで盛り上がってここまで話が進んでいるのに水を差すようなことを言うのは、さすがにはばかられたからだ。オリヴィエから「保護者様は黙ってて」と釘を刺されてもいる。
しかしオリヴィエやオスカーの思惑がどうあれ、実際問題としてクラヴィスは困っていた。
オリヴィエはがんばれと言うが…。何をどうがんばればよいのだ…? 簡単だと言ってのけるオスカーよ、お前が私の部屋に来て、その場でいろいろと教えてくれたらとても助かるのだが。
という言葉が出かかったが、そういう助力を頼むのは多分一般的なことではなかろうという判断が働いて、すんでのところで呑み込んだ。

で。女性と二人っきり。どう頭をひねってみても、やはりこの場にふさわしい話題というものを思いつかない。何しろ他のメンバーといたときには女性の相手はオスカーやオリヴィエにまかせっきり。自分は「酒とはなかなかうまいものだ…」なんて思いながらあれこれカクテルを注文してみては飲んでいただけだったからだ。新生クラヴィス、今夜は女よりも酒に興味が向いている。
大人数でいたときは一人黙って飲んでいるだけでも何も問題はなかった。今クラヴィスと共にいる女も、楽しそうに皆としゃべっていた。ところが部屋に入って二人きりになった途端に無口になってしまった。沈黙が重くのしかかる。気まずい雰囲気を何とかしたいのに、自分の方から気の利いた話題なんか逆立ちしたって出せない。黙っている女に対してクラヴィスもまただんまりを通すしかない。何しろすべてがリセットされて今日で二日目、クラヴィスの人生経験はゼロに等しいのだ。女の喜ぶ会話なんて見当がつかないので仕方なくソファに座ってテレビをつけて、何となくその画面を眺めながら時折り探るように相手を見て、恐る恐る言ってみた。
「…大人なのだからな…ふと出会ってこういうことがあっても不思議はない…」
「ええ」
ここまでくれば、あとはヤるだけ、なんだけど。何を言ったりしたりしたら女性がその気になってくれるのか、全然覚えていない。っていうか、女性と付き合ったことがあるのかどうかすら記憶にございません状態のクラヴィス、歩いて数歩のところにあるベッドまでどうやって到達したものか、皆目見当がつかないのだ。いきなり押し倒す? いやいや、それではムードのカケラもない。こういうことはムードが大切らしいのはオスカーの言葉から悟っていた。

オスカーは甘い言葉、などと言っていたが…あの自信の塊のような男が断言するのだから、甘い言葉とやらを言わなければならないだろうことはわかる。だが、いったいどういうのが「甘い言葉」なのだ…?
ケーキだのアイスクリームだの饅頭だのと言っても女性はその気にはならぬだろうな。
ところで饅頭とはどんなものであったか――。

甘い、からの連想で頭の中にふいに浮かんだ言葉だったが、饅頭の正体がわからずクラヴィスは首を傾げた。小さなケーキやアイスクリームはこれまでの短い人生経験でも食事のデザートとしてすでに口にしているが、饅頭とは? だが細かいことにこだわっている場合ではない。とりあえず何か甘いものなのだろうと適当に流すことにした。現在困っているのは、そういうことではないのだ。ルヴァのターバンの件では「将来を誓う」がわからなかったが、今回は「甘い言葉」が具体的にどういうものであるのか、わかっていないクラヴィスである。それより何より、今ここで隣にいる女性と性行為に及びたいのかもよくわからない。確かに自分にその経験があるかどうか気にはなったし、ルヴァにそんなことを尋ねてみたりもした。が、それは即やりたいというような、そんな気持ちではなかった。純粋にどうだったのかと疑問に思っただけだったのが、何が起こっているのかよく飲み込めないでいるうちにこういう状況に引きずり込まれていたのだ。

オスカーやオリヴィエは場数を踏んでいそうだが…いくら何でもこの場にいてもらって手取り足取り教えてもらうわけにも行かぬしな…。

仕方がないので黙ってテレビを眺め続けていたら、
「あの」
遠慮がちに女に声をかけられた。
「何だ?」
と返す。
「私、すごくラッキーかも。今日、誕生日なんです。そんな日にあなたみたいな素敵な人と初体験って……」
頬を染めて言いかけて、女は「あ」という形に口を開いて、あわてて手でふさいだ。
「お前は…初めてなのか…?」
自分もそうな(のかもしれない)んだけど。
「ごめんなさいごめんなさい、初めてだなんて言うつもりなかったんです……20にもなって、あ、今日で21なんですけど。大人なのに男性経験がないなんて、そんなのおかしいって友達にけしかけられて、今日こそ絶対に処女なんか捨ててやるって思ってたの、だから気にしないでください」
気にしないでって言われても、どう考えてもそれはまずい。まじめに生きてきた女性がそんな理由でこういう行為に及ぶなんてのは、絶対に良くないのではないかと思う……多分。何もかもが初めてという自分の判断にあまり自信は持てないが、何だかそんな気がする。
「酒場で出会った初対面の相手とそういう経験をするというのは勧められぬな」
「え?」
ホテルの部屋まで来てこの人は何を言っているのだろうか、と女は不思議なものを見る目つきになった。
「お前の友人達が何を言ったかは知らぬが、もっと友人を選ぶべきではないのか。その友人とやらの言うことを鵜呑みにして軽はずみなことをして、後になって悔やんでも遅いのだぞ」
「でも……」
「本当にお前のことを好きで、大切に思ってくれる誰かを見つける、それが大事なことなのではないか…」
本当に好きで、大切に思ってくれる誰か。
自分の言ったその言葉が、自分の心にも響いた。
そんなことを女に向かって言っている自分だって、言ってみれば友人にけしかけられたようなものだったわけだが、今はっきりとわかった。少なくとも、自分はこの女性とそうなりたいとは思っていない。

昨日もルヴァに諭されたのではなかったか。あのときは何となく、そうなのかもしれぬと思った程度だったが、こういう状況に陥ってしみじみ感じた。
早く童貞や処女を捨てたいからという理由でセックスをするべきではない。
セックスの相手は誰でもいいわけではないのだ。特に、心に残る最初の(かもしれない)それとなれば。
酒場で適当に見繕った相手ととりあえずやるなどというのは、その相手に対して失礼に当たるし、自分を大切にしていないということでもある。
そうだ、そうなのだ。ぎりぎりのところで気がついて良かった。



8. 親密度アップ

外界での夜、オスカーとオリヴィエは女との出会いを目いっぱい楽しんでいた。人生楽しまなきゃ、というのがこの二人だ。つるんでよく遊んでいる二人は、そういう夜の過ごし方にまったく疑問を抱いていない。しかしリュミエールは女性との付き合い方に関して、彼らとはいささか意見が異なる。結局彼は同室の女性に丁重に断りを言って部屋を出て、ストーカーよろしくクラヴィスの部屋の前を行ったり来たりしていた。しばらくするとクラヴィスも部屋から出てきて、そこでうろうろしていたリュミエールと鉢合わせて、お互いに驚いた顔になった。
「どうなさったのですか、クラヴィス様」
「このようなやり方は私の好みではないと思ったのでな。部屋は女に明け渡した。私は帰ろうと思う。…お前こそ、どうしたのだ。女と一緒だったのではないのか」
リュミエールは自嘲気味に少し笑った。
「実は私も……初対面の女性と気軽に一夜を共にするというのは好みませんので、謝罪して部屋を出てまいりました。記憶を失っておられるあなたのことが心配でもありましたし」
謝罪して部屋を出たという部分は事実だが、クラヴィスに言っていないこともある。本当はクラヴィスのことが心配なあまり女と二人でいても気もそぞろで、この男にその気はないんだわと悟った女に「ばかにしないで!」と半ば追い出されるようにして出てきたのだった。そんな裏事情があろうとは夢にも思わないクラヴィス、うれしそうに微笑んだ。
「そうであったのか。そこまで心配してくれる友があって、私は幸せ者だ。ありがとう、リュミエール」
クラヴィスの微笑と感謝の言葉にリュミエールはまたも大感激。ご一緒した女性には申し訳ないことをしてしまいましたが、あなたが追い出してくださって良かった、ここでクラヴィス様をお待ちしていて本当に良かった、と心の中で拳振り上げガッツポーズだ。しかしそんな心中のガッツポーズはおくびにも見せず言うのだった。
「オスカーやオリヴィエは一晩ここで過ごすつもりのようですが、そういうことでしたら私たちは帰ることにいたしましょうか。残してきた女性に支払いをさせるのは気の毒ですから、フロントで部屋代の精算だけは済ませて、あとはオスカーとオリヴィエへの伝言を頼んでおけばよいかと思います」
「どういう仕組みになっているかわからぬから、お前に任せる」
「では、参りましょう」

この二人の相手をしていた女たちこそいい面の皮である。せっかく大人な夜を楽しみにきたというのに、そして思いがけず、俳優やモデルも太刀打ちできないような極上の相手ゲットオオオオオオ!!! と盛り上がったはずだったのに。何が悲しくておっしゃれ〜なシティホテルのダブルの部屋に一人で泊まらなくてはならないのか。でも彼女たちには悪いが、名もない脇役なので枕カバーの端でもかじりながら寝てもらうことにして。
部屋を追い出された守護聖と自主的に飛び出してきた守護聖は二人で仲良く聖地に戻った。リュミエールが自分のことを心配しているというのが口先だけのことではないと知って、クラヴィスは大いに感激していた。守護聖全員との親密度がいったんニュートラル状態にリセットされていたクラヴィスだが、この一件でリュミエールに対するそれが一気に大幅アップした。帰ってきた聖地はまだ宵の口、リュミエールはクラヴィスを自邸に連れ帰り、ルヴァ言うところの「素直ないい子のクラヴィス」とゆっくりと言葉を交わして、「本当にルヴァ様のおっしゃる通りです。クラヴィス様、なんとお可愛らしい……」とばかりにますますクラヴィスへの傾倒を深めたのだった。


翌日になってリュミエールと共に出仕したクラヴィスは、また光の執務室へと出向いた。昨日ジュリアスから借りて読みふけっていたファイルがたいそう興味深く面白いものだったので、今日もまた読んでいろいろと学びたいと思ったからである。ジュリアスにその旨を告げると、ジュリアスはとても嬉しそうに「そなたの熱心さには感心する。やる気を出してくれて、本当に喜ばしいことだ」と言って新たなファイルを手渡してくれた。
そうして執務に関する新たな知識を蓄えつつ、ジュリアスのチェックを受けながらさほど難しくない案件の処理を始めてみた。OJTである。自分の抱えている仕事が中断することを厭うことなくジュリアスは丁寧に教えてくれて、首座とは何と頼りになる存在なのかとクラヴィスは感謝しきりである。こうしてジュリアスとの親密度もアップ。

その日のランチはジュリアスだけではなく他の守護聖たちも交えて楽しく過ごした。隣に座ったオリヴィエに「あんた先に帰っちゃったけど、昨日はどうだったのさ?」と耳打ちされて、何もなかったと正直に答えた。
「あそこまでお膳立てしたのに、なんで!?」
と驚くオリヴィエに、
「初めてかもしれぬというのに、行きずりの相手と、という気にはなれなかった」
とこれまた正直に答えた。
「そっか。あんたってマジメな奴だったんだねェ。ゴーインに誘って、悪かったかな」
「いや、出かけるのは楽しかったし、酒もうまかった。また誘ってくれ」
「わかったよ。じゃ、今度は本格的に飲みに行く?」
「それもよいな」
小声で話していたのだが、ジュリアスと話していたはずのオスカーが「飲み」という言葉を耳ざとく聞きつけて、
「何だよ、飲みに行くってことなら俺も誘ってくれ」
と口をはさんできて、
「じゃあ同じメンバーで今度は女っけ抜きの飲み会しよっか☆ メンズトークってのも楽しいんじゃない?」
ということになって、昨夜からのこともありオリヴィエやオスカーとの親密度大幅アップである。にこにこしてそんな彼らを見守るルヴァと、やきもきして見ているリュミエールとがいて。
首座はとりあえず無表情を保っている。今夜はクラヴィスが自分の館で過ごすという約束を既に取り付けてあるので、一応の余裕を見せているのだった。



9. 懐かしさの源

この日、執務が終わるとクラヴィスはジュリアスに同行して光の館を訪れた。馬車を降りるとなぜかルヴァやリュミエールの館へ行ったときとは違う、どこか懐かしい雰囲気を感じた。館自体が自分を歓迎してくれているような、誰かの優しい腕にふわりと包み込まれるような、そんな気がしてそう口にすると、ジュリアスは微笑んだ。
「そなたは子どもの頃から何度もここを訪れている。それゆえではないか。今宵の食事は好みのものを用意させた。楽しみにしていてくれ」
親切かつ丁寧に仕事を教えてくれるジュリアスとの親密度はかなりアップしていたが、執務室でのジュリアスはひたすらお堅い首座様でものすごーく真面目で、いい奴だが多少肩のこる相手かもしれぬと思っていた。それが微笑ひとつで一気に柔らかな表情に変わって、クラヴィスは目を瞬いた。他の誰と話していても感じたことのない、不思議な感覚が湧き上がってくる。胸の奥が熱くなるのはなぜなのだろう。気がつけば手を伸ばしてジュリアスの頬に触れていた。驚いたように見開かれた青い瞳を見つめながらクラヴィスは言った。
「お前、きれいなのだな」
「は? 今何と?」
「きれいだと言った」
「それは痛み入る。だが残念ながら、男へのほめ言葉にはならぬな」
「…いや、ほめようなどというつもりではなく…単に思ったことを言ったまで」
これまたずいぶんと素直な感想である。ジュリアスは顔がほてるのを感じた。
まったく……そなたにはいつも意表を突かれる。
まっすぐな視線に見つめられて気恥ずかしくなって、それ以上言葉を交わすのは避けることにして、
「行くぞ」
と言いながら、ジュリアスはさっさと歩き出す。
「そのように急かずともよいのに…」
ぶつぶつ言いながらもついてくるクラヴィスを振り返り、ジュリアスはまた微笑んだ。
「おかしなものだ。記憶を失っても、言うことは変わらぬ」

食事は、招待主の言葉どおり口に合っておいしかった。今の自分がまだよく知らない、自分の嗜好にぴたりと合った料理が次々と出されることに驚いていると、館の料理人がクラヴィスの好みを心得ているからだとジュリアスは言った。
その後は「しばらく私の部屋で話でもするか」と私室に招き入れられて、ジュリアスの語る昔の話に耳を傾けた。子どもの頃の写真も見せてもらったが、特に何も思い出せなかった。幼いながら意志の強そうなジュリアスと比べて、自分だと言われた黒髪の子どものほうは頼りない表情で写っているものが多い。話を聞けば、どうやら幼い頃の自分はジュリアスにずいぶんと世話になっていたらしい。それほどに親しい間柄だったのなら尋ねてみても良いだろうかとクラヴィスはかねてからの疑問を口にした。
「私は…セックスをしたことがあるのだろうか」
唐突な言葉に、ジュリアスは目をむいた。
「そ、そなた……急に何を言い出すのだ」
「いや、気になっていてな。いい年をした男が未経験だとしたら…何と言うか、許せぬと思ったのだが。そういうことは心が伴わねば価値がないと気がついて、行きずりの女と抱き合うのはやめた」
と、前夜の経験を打ち明けた。素直であけっぴろげな性格のクラヴィスに面食らいながら、ジュリアスは話の先を促した。
「それは正しい行いであったと言えような。その女性のためにも良いことをしたではないか。それで?」
「妻がないことはこれまでに聞いた話からわかったが、心を通わせた女はあったのだろうか…もしもあったとして、その相手とセックスをしたのだろうか。ルヴァはそういう個人的なことは知らぬと言った。しかし幼なじみだというお前ならば或いはと思って尋ねてみたのだが……もしかして、何か知らぬか?」
期待に満ちた瞳で尋ねられて、ジュリアスは絶句した。

それほどに気になるのならば、事実を教えるにやぶさかでない。しっかり経験済みだと教えて、よけいな心配など払拭してやりたかった。ジュリアスは、クラヴィスにその経験があることをおそらく誰よりもよく知っている。経験がある、だけではなくその道に長けていることも承知している。何を隠そう自分がその当の相手だ。
二人の仲を改善しようとがんばるルヴァや盲目的にクラヴィスを崇拝するリュミエールには申し訳ないことながら、ずっと以前から周囲の知らないところで二人はものすごく仲良くしていたのである。しかし女性との関係に夢を持っているらしい今のクラヴィスに、それを教えていいものかどうか。悩んだ末、ジュリアスは言った。
「くちづけならば、ある」
話の糸口を得て、クラヴィスの目がきらきらと輝いた。
「そうか。誰とだ?」
あると断言するからには詳細も知っているに違いない。私はどんな女とどんな恋をしたのか。なぜその女とは結婚に至らないのか。どうやら教えてもらえそうだ、幼なじみがいてくれて助かった…。
未知の過去の一ページが開かれる期待に胸をふくらませているクラヴィスが聞いたのは。
「……私、だ」
という言葉だった。その返答に、クラヴィスは「え?」と言ったまま固まった。しばしの間を置いて彼はためらいがちに口にした。
「それは一体…お前、男に見えるが実は女…だとか…?」

誰が女性だ! そもそもそういう関係に引きずり込んだのはそなたの方であろうが!
記憶喪失なのだから忘れていても仕方がないとは思うが、そちらが強引に――というほど強引でもなかったか――口説き落としたくせに。私は男相手にどうこうなど考えたこともなかったというのに……。
それにしても、男とくちづけをしたと知ってそこまで驚くとは、クラヴィスはもともとはノーマルな性嗜好なのだろうか。だとすれば何をどう間違えて私とああいう仲になったものか、理解に苦しむ。

などと思いながらもジュリアス、あわてず騒がず淡々と説明した。恋人の性体験の有無やら何やらを尋ねられて答えなくてはならないことに、とても居心地が悪い思いだ。しかし相手は記憶喪失なのだから仕方がないと割り切って平静な顔を崩さないのは、さすが首座と言うべきか。
「私は女性ではない、そなたと同じく男だ」
「ならばなぜ、お前と?」
「幼なじみだと言ったろう。子どもの頃にな。まあ言わば出来心というか、好奇心でというか。子どもであればそういうこともする。同じ年頃の友が他になかったので、何となくそうなった」
「では私とお前は子どもの頃にくちづけを交わしたことがある、そういうことだな」
くどいくらいに念押しされて、ジュリアスはうなずいた。子どもの頃だけじゃなく、ごく最近だって濃ゆーーーいのをしていたけれど、それは今言っていいかどうかいまいち判断がつかないので、それには言及しなかった。そしたら。
「言いにくいことだが…幼なじみのよしみでぜひ頼みたいことがある。今一度試してみたいのだが、かまわぬだろうか…?」
もともと恋人なんだし、キスするのに何の不都合もない。だがしかし、男であるジュリアスとキスをしたと聞いて驚いていたクラヴィスがなぜそんなことを言うのか、わからない。
「……くちづけを、か? どういうつもりだ」
「何となく…何か思い出せそうな気がする…」
記憶が戻る手助けになるのならばとジュリアスは承諾した。



10. 愛はすべてを凌駕する

試しにキスしてみることを承諾したのはいいけれど、それ前提で改めて向かい合い見つめ合うと、何と言うか、ものすごく――照れる。
恥ずかしさの極みって気がする。
何だろうこの気持ち。
キスどころじゃない濃密な時間をさんざん共有した仲だというのに目が泳ぐ。

けれどもクラヴィスの方は、記憶を蘇らせるきっかけになるかもしれないという点に主眼を置いているせいか、そういう気恥ずかしさとは無縁のようだ。思わずそらしかけたジュリアスの目をのぞきこんで、真顔で言った。
「…教えてくれ。どんな風にくちづけをしたのだ?」
うわっ、顔が近い。
と、どきどきしつつも、懸命に古い記憶を呼び覚ましながらジュリアスは答えた。
「子どもの頃のことだからな。軽く唇を触れ合わせただけであったように思う」
「こう、か…?」
頬をそっと両手ではさまれて、ちゅ、と軽いキス。

クラヴィスの端正な顔が近づいてくるのだと思うとどぎまぎして見ていられない。頬に手が当てられた時点でぎゅっと目を瞑ってしまった。そうして期待と少しの不安の中で最初に息が触れ合って、それから唇が重ねられる、その瞬間までをゆっくりとコマ送りで体験しているような奇妙な時間感覚で捉えていた。
これがもう何と言うか、まるでうぶな少年と少女の初めてのキスのようで、どきどき、どころの騒ぎではない。どっきんどっきんばっくんばっくん心臓やばい壊れそう。この際どっちが少年でどっちが少女かは関係ない。要点は、ときめきと共に体験する、心洗われるような初々しいキスだということだ。初めてのときを再現しようという試みが成功しているわけだが、それがなんとも言えずくすぐったい。初心に帰るとはこのことか。思えばジュリアスにとって、クラヴィスとの初めてのキスは正真正銘のファーストキスだった。
一瞬だけ、触れるか触れないかという程度に軽く合わせてすぐに離れていった唇を名残惜しく思いながら、ジュリアスは考え考え言った。
「そうだな、最初は……こんな感じだったかもしれぬ」
だって最近のオトナ〜なキスばかりが思い起こされて、そんな大昔のおままごとみたいなキスのことなんか、今の今まで思い出しもしなかったのだ。そうしたら、すかさず突っ込まれた。
「最初は、とはつまり、一度だけではないということか?」
昔のことを思い出すほうに気を取られていて口を滑らせたと思いながら、言った言葉は引っ込められないためジュリアスうなずく。
「では…もう一度くらい回数が増えても差し支えないな…?」
ちゅっ。
最初よりもちょっぴり長く、少し強く合わさった唇の感触に、またも心臓がどっきんばっくんし始めた。回数の増え方は「もう一度」では済まなくて、次は断りなしに角度を変えてもう一度。続けて二度三度。なおも追加で何回か。いつの間にか、どこからどこまでを一回と数えたらいいかもわからないようなキスに移行し、だんだん数えられなくなってきた。熱を帯び始めたキスに、このままではまずいことになりそうな気がしてジュリアスが逃れようとした。けれどもしっかりと腰を抱かれ、うなじの辺りを押さえられて、ついに本格的なキスに突入してしまった。

なぜこうなる。クラヴィスは何もかも忘れきっているはずなのに。
いつもとまるっきり同じではないか!

などということを考えていられたのはほんの一瞬のこと、すぐにそんな余裕はなくなって、ジュリアスのほうもクラヴィスの首に腕を回して、力いっぱい情熱的にキスを返していた。恋人が記憶喪失になってからの苦しかった思いを伝えようとするかのごとく唇を確かめ、舌を絡めての声なき会話、もうこれは恋人同士でしかあり得ないってくらいの、濃厚な大人のキスに時も忘れて二人して没頭して推定10分後。クラヴィスがようやくジュリアスを解放して、ぽつりと言った。
「ひとつ訊きたい…」
今の今まで恋人とのキスに浸りきっていたジュリアス、まだ夢の中を漂っているような表情で見返した。
瞳は潤み、白い頬には桜色が差し、唇は濡れて光って誘うよう。美しさはとびきりだがまるで大理石に刻んだ像のようだと思っていた相手の思わぬ艶やかさに、かつてないときめきを感じながらクラヴィスは尋ねた。
「よく…わからぬのだが…とても慣れているように思う…。お前とは本当に子どものときだけ、か…?」
そうだった、恋人は記憶喪失なのだったと思い出して、にわかに現実に立ち戻り、ジュリアスは落胆を覚えた。キスがいつも通りに情熱的かつ扇情的だったから、その最中は失念していたのだ。

見つめるばかりで答えない相手を、クラヴィスは今度は少し遠慮がちに抱き寄せて、そうっと抱きしめてみた。拒まれるかと思ったが意外にもするりと腕の中に納まってくれて、しかもすごくいい匂いがするということに今更のように気がついた。なぜかとても懐かしい。自分が本来いるべき場所に戻ってきたのだという不可解な感情がこみ上げて、どういうわけだか体が勝手に反応する。ホテルの一室で女性と二人きりだったときにはぜーんぜん兆しも見せなかった部分が。これは男として間違っていると思っても現実にそうなっている。
「こうすると、とても居心地良く感じて…それだけではなくて、その…少々…困ったことに」
困惑気味に小さな声で言い訳しながらだんだんと目をそらし目を伏せ、ついには横を向いてしまった。ほんのり染まった頬がかわいい。何がその「困ったこと」なのかは、密着しているジュリアスには一目瞭然だった。っていうか、長衣に隠されて見ただけじゃわかんないっていうのが本当のところだけど、あまりにも明確に感じ取れた。しかも自分も同じ状態になっている。
今のキスに煽られてすっかり火がついてしまったジュリアスも、自分の熱を持て余していた。このまま放っておかれたら今夜は眠れなくなりそうだ。クラヴィスが恋人同士として過ごした記憶を取り戻さない限り、自分を抱こうなどとは思わないだろう。だが互いがその気になっている今ならば。
「困ることはない。とりあえず、性行為をしたことがあるかどうか――実地で確かめてみてはどうだ?」
自分を抱きしめているクラヴィスの耳元にささやきかけて、今度はジュリアスの方から唇を寄せる。二人はキスを交わしながら奥の寝室へと急ぎ、まとわりつく衣類を脱ぎ捨ててベッドへともつれ込んだ。


深夜になり日付が変わってもまだ二人はジュリアスのベッドにいた。火照る体を横たえて唇を触れ合わせながら、クラヴィスが言った。
「お前のおかげでセックスの経験があることはよくわかった。女との経験があったかどうかまでは思い出せぬが、それはもうよい」
「そなたは女性との恋愛経験にこだわっているように思えたが……?」
「それは今更問題ではない。女との経験などどうでもよくなった。お前を愛しているから」
「記憶が戻ったのか!?」
お姫様とのキスならぬ、王子様同士のナニで!?
「いや、他の記憶はほとんど何も。お前とどう過ごしてきたのかもまだはっきりとは思い出せぬ。だがお前を愛していることだけは確かだ」
言うと同時にまた熱烈なキス再開。息が苦しいほどのキスの合間に、切れ切れにジュリアスは訴えた。
「そなたに忘れられて、泣きたいほどに寂しかった……」
「心細い思いをさせてすまなかった。だがお前への愛は思い出したから、許してくれ。何もかも忘れ去った人間が最初に蘇らせた記憶としては悪くないとは思わぬか」
何よりも思い出してほしいことを思い出してくれて、ジュリアスにとってはこれ以上の喜びはない。
「私のことだけでも思い出してくれたのは、本当に嬉しい」
「ひとつが蘇ったのだから、他の記憶もすぐに取り戻せるのではないかと思う」
と嬉しそうに言うクラヴィスにキスを返しながら、ジュリアスは思った。

もうしばらく、このままでいてくれてもかまわぬと言ったら、そなたはどう思う?
いま私は改めてそなたに恋をしているような気がする。あと少しの間、この恋を楽しんでいたい――。

自分を見つめていたクラヴィスが、「私がこのままでいた方が良い、そう言ったか? それは…蘇っては困るような過去がある、ということか…?」と間髪を入れず尋ねてきたのにはいささか驚いたが、そういうことはこれまでも良くあったこと、勘のよい彼がまた表情から読み取ったのだろうと深くは追及しないことにした。
「それは少し違うな。私は今のそなたも記憶を失う前のそなたも好きだ。だからどちらでもかまわぬと思っただけのこと」
けれども今の状態はジュリアス個人としては許容できても、ひとつ問題がある。闇の守護聖、やたらと開放的な性格なのだ。
「だが、こういう関係であることを他の者たちには決して言うな。あまり親しいそぶりも見せるな」
「…なぜ?」
大好きなのに、と言ってすりすりと体を寄せてくるクラヴィスに新鮮な感動を覚えた。愛している、は何度も聞いた。けれども、大好き、というのは新しい。開放的な性格というよりは、ある意味無邪気な子どもと同じだと思わなければならないのだろうか(今しがたまでやってたことは全然無邪気な子どもじゃなかったという点はとりあえず棚に上げておく)。子どものように無心な笑みを見せたり、頬を染めてみたり大好きと言ってみたり、そんなクラヴィスがとても愛しくて、やはりもうしばらくこのままでいてほしいと今度は真剣に思った。
「まあいろいろと事情もあってな。私達がこういう関係であることは公にはできぬ」
「事情…とは?」
「最初に『私とくちづけをした』と告げたときに、そなたは驚いていたな。同性間で普通はしないものだという認識は持っているのであろう? つまりはそういうことだ。皆に知られた場合、奇異な目で見られるかもしれぬ。それだけならばまだ良いが、そのせいで気まずい雰囲気になって執務に支障をきたす可能性もある。そうした事態になるのは困るのだ」
「仕事に悪影響があるかもしれぬということならば…仕方がない、気をつける。だが夜は…二人きりなのだからこうしていてもかまわぬだろう? お前のことが大好きだから、もっと触れたい」
既に長時間にわたってクラヴィスの性体験の有無を確かめすぎて、本当はもうこれ以上は付き合いきれない、体がついていかない。そのくらいにくたくたになっていた。だが他の何よりも先に自分のことを思い出してくれたと知った歓喜の後押しもあって、クラヴィスの「大好き」という言葉にまたも押し流されてしまうジュリアスなのだった。

ペンは剣よりも強しと言うけれど、愛はたぶん剣よりもペンよりも強い。むろん記憶喪失よりも。
そしてさすが闇の守護聖、記憶喪失のせいでかわいい性格になっても夜方面にはまったく影響はなく、恋人を満足させるのに何の不都合もないらしい。




■BLUE ROSE■