入試の何倍も難しいと言われるのが、転部だ。まず枠が少ないし、わざわざレベルの低い者を取る訳がないから、転部試験はかなり難解なものになる。
大学三年の春。法学部法律学科に、一人の、畑違いの芸能学部出身の転部者が登録された。
どんな酔狂者だと話題にあがったのが、成歩堂だった。ツンツン頭と奇妙な眉をした成歩堂は転部の理由を聞かれ、ニパッと暢気に笑うと『弁護士になりたいんだよねー。調べたら、法学部に入るのがいいって書いてあったから』と微妙に理由になっていない答えを返した。
ヘンな奴、と誰もが思ったものの。にこにこヘラヘラ笑って、喜怒哀楽が豊かで、どこか危なっかしくて、とりあえず元気だけは山程ありそうな成歩堂は、すぐに皆と打ち解け。クラスのムードメーカー的な役割を担うまでになった。
体育座りの、尖った障害物。
ソレを見た、霧人の感想だった。
図書館の片隅、本棚と本棚の間、通路の真ん中。丸まって床に座っていたから、避ければ通れない事もない。だが、だらりと垂れた手が持っている本に用のあった霧人は、眼鏡のブリッジを押し上げ、控え目ながら明瞭な発音で障害物―――成歩堂へ話し掛けた。
「通路は、寝る場所ではありませんよ」
「・・す、すみません! ちゃんと聞いてます!・・・はれ?」
霧人の咎めを教授とでも勘違いしたのか、成歩堂はわたわたと飛び上がって謝罪し、それから霧人を見付けてぽかんと間抜けに口を開けた。近くで見ると、成歩堂はいよいよ同年代と思えない程幼く、愚かそうで、でも瞳が黒々とした光沢を放っていた。
「その本は、借りるのですか? 貸し出し中の表示には、なっていなかったので。貴方が借りないのなら、譲ってほしいのですが」
事態が把握できていない成歩堂に頓着せず、霧人は先を続けた。ぱちぱちと音が聞こえそうな位勢いよく瞬いて霧人の指差す先と霧人の顔を交互に見遣り、ぱぁっとインクを垂らしたように真っ赤になる。
「ご、ごめん。もう終わったから、どうぞ!」
相変わらずチョコマカとした動きで本を取り上げ、意外な事にそこだけ繊細で丁寧な手付きになって埃を払い、霧人に手渡す。図書室の通路で本を拡げて居眠りするのは頂けないが、本に対する敬意は持ち合わせているようで、霧人の双眸がほんの僅かだけ和らぐ。
「巌徒教授の課題ですね」
「うん。すっごく時間がかかっちゃって、見付かったら安心して眠くなっちゃったみたい」
巌徒教授の課題は、結論自体は比較的簡易なのだが、そこへ至るまでの工程が複雑で一筋縄ではいかないのだ。時間がかかる割には評価は非常に厳しくて敬遠されているが、必修だから避けられなかったりする。
どことなく悪い顔色から殆ど徹夜で課題に取り組んでいたと推察できるが、それにしても短い時間で答えに辿り着いたと思う。やはり転部試験を突破する位だからそれなりに優秀なのか、茫洋としていても一所懸命なのか、もしくはその両方らしい。
霧人は、残りの本も体裁を整えて書架に返していく成歩堂を、冴え冴えとした硝子越しに観察していたが、頭二つ分高い場所へかなり厚い専門書を戻そうとしてふらついた時は、そつなく後ろから手を伸ばして代わりに本を差し込んだ。
「踏み台は、こういう時に活用するべきでしょう。万が一本に傷をつけたら、どうするのです」
人より本を尊重しているとしか聞こえない霧人の台詞だったが、成歩堂はムッとしたりはしなかった。間近にある霧人の顔を、ビックリしたように真ん丸な黒瞳で見詰め。
それから、霧人には何がそんなに嬉しかったのかは皆目見当がつかないが、とにかく酷く嬉しそうに笑った。
「そうだね! ありがとうv」
周りまで明るくするような、笑顔だった。この場面でこの表情と台詞が出てくるのは、余程素直なのか皮肉にも気付かないのか。
「当然の事をしたまでです、成歩堂」
久方振りの興味を小さく感じながら、名を呼べば。
「えーと、あの・・・ごめん! 名前覚えるのも、苦手で」
と今度はたちまち恥ずかしそうなすまなそうな顔になって、ダラダラと汗を流している。ピクリ、と霧人の蟀谷が引き攣った。
それが、初めて言葉を交わした日。
周囲には大層不思議がられたが、成歩堂と霧人は仲良くなっていった。
といっても、霧人が特別成歩堂に優しくした訳ではない。他の者と同様に辛辣な物言いをし、誤りを包み隠さず指摘し、お為ごかしなど決して言わなかった。けれど成歩堂は他の者と違って、霧人を敬遠せずニコニコと笑ったまま延々と近寄ってきたから、自然と一緒にいる時間が増えていったのだ。
直す気は毛頭ないが、己の性格を掌握している霧人は、一度だけ気にならないのか聞いた事があった。それに対して成歩堂は、アッケラカンと『似たタイプの知り合いがいたから』慣れているとまた笑っていた。
そして、不思議そうに尋ね返してきた。
「そいつも牙流も、冷たいとかって言われるんだけど、何で誤解されるのかな? 二人共、すごく優しいのにな」
―――もし、成歩堂言う所の知人が本当に霧人と性格が似通っているのなら。答えは、一つだ。
しかし霧人は、敢えてその件には触れない。
「知り合いの思惑は、私には窺い知れませんが。私の方は誤解ではありませんよ」
「・・・?」
忽ちハテナマークを顔中に貼り付けた成歩堂に、うっすら微笑み。
静かに顔を寄せて、謎解きをした。
「私は、好意を抱いている者だけに優しくする主義なんです」
「!?」
瞬時の驚きから、嬉しそうに照れくさそうに笑う成歩堂を純粋に可愛いと思った霧人は。
『好意』の質が、緩やかに次の段階へ移行するのを感じていた。