「それから、咳き込んだ時はリビングの戸棚にあるピンクの瓶にドロップが入っているから―――」
「はいはい、もう分かった。分かったから! どんな小さな事でも異変があったら、必ず連絡するって!! 本気で間に合わなくなるぞ?」
直斗はホトホト呆れかえった表情で、神乃木を促した。促す方法が、長い脚での蹴り付けだったのは多目に見て欲しい。
気持ちは、想像できなくもない。一番身近で見てきた直斗だから、神乃木の過保護っぷりは慣れっこだし、過保護さが危ないゾーンに両足を突っ込んでいても、かなり好意的に流せる。
しかし、その直斗をもってしてもうんざりした気持ちを抑えられない。
先日神乃木に舞い込んだ仕事は、神乃木が大恩ある人からの依頼だったので断る事は考えなかったのだが。どう頑張っても、最低一日は出張しなければ片付かない事が判明した。
成歩堂と。
できれば学校にだって付いていきたいと真剣に画策する位、離れたくないし離れない成歩堂と。
丸々一日、会えないのだ。
その事が判明した瞬間、神乃木はさぁっと青ざめ、慌てふためき、ちょっぴり涙目になったりしていて。常に人を食ったような落ち着き方をしている神乃木らしからぬ反応に、直斗は思い切り吹き出してしまった。
『俺の可愛い龍一の危機に、何を暢気な!』と拳固を喰らった後(神乃木を笑った事自体はどうでもいいらしい)、直斗は拒否権なしに成歩堂の世話係に任命された。
まぁいくら成歩堂がしっかりしているといっても一人で家に置いておくのは心配なので、あっさり頷いたのだが。それは、直斗の予想以上に困難なミッションだったのである。
留守中の食事をきっちり用意した所から始めた神乃木は、次に直斗への指示をA5用紙数十枚のレポートに纏め。
成歩堂が怪我した時、熱を出した時、気持ち悪くなった時、頭が痛くなった時、寝付きが悪い時、寝覚めが良くない時etc.etc・・え?龍一くん取扱マニュアルですか?と突っ込みたくなる程に、事細かな対処法まで準備してのけた。
多分睡眠時間を削って、たった一日の不在といえど成歩堂が不自由な思いをしないよう万全を尽くす神乃木の愛情は、無尽蔵。こっそり拍手を贈った。
けれども。
飽きたらず、分厚い書類片手に講義し出したものだから、感動は早々に消え失せてしまう。
出張前の成歩堂との食事と風呂を疎かにしていいのか?との指摘に神乃木が引っかからなければ、延々レクチャーされた事だろう。(成歩堂が寝付いた後、日付が変わるまで解放されなかったし)
翌日もギリギリ所か列車を一本遅らせる算段を練り始めた神乃木を、殆ど追い出すようにして出発させた直斗は、成歩堂と目が合うと苦笑を漏らした。
「朝っぱらから疲れちゃったな、龍一」
「あはは、すみません。パパったらすごく心配性なので」
あと何年かで中学生になる成歩堂は、口調こそ舌足らずが抜けきれないものの、年齢にしては大人びた話し方をする。大人に囲まれて育った所為もあるだろうし、成歩堂自身早く大人になりたいという意識を持っているようだ。
料理だって簡単なものなら作れるし、一晩位ならば問題なく留守番もできるに違いない。それでも、成歩堂は直斗の世話を受け入れる。
―――少しでも、神乃木を安心させたいから。
心配性なのは親子揃ってだな、ともう一度笑いつつ直斗はすっぱり神乃木の事を思考から閉め出した。
何といっても、明日まで成歩堂と二人きり。
こんなシチュは初めてで、次があるかも分からない貴重なチャンスだ。神乃木の分も、成歩堂とイチャイチャしようvとの決意は固い。
注意事項の筆頭に『龍一との不必要な接触は厳禁!!!』とでかいフォントでタイプされていた事も、直斗の記憶から消去されていた。