オドナル

Back beat




 王泥喜は、成歩堂が好きだった。
 男だし、年上だし、無職に近いし、それなのに子持ちだし、面倒くさがりだし、すぐ人をからかうし、ぼんやりだし、偏食だし、放任主義だし・・・とマイナス要素は幾つ列挙しても止まらないけれど。
 自分でも趣味を疑うし、錯覚だと思い込もうとしたけれど。
 何故か、気付いたら、恋に堕ちていた。
 今の若者にしてみればかなり遅い初恋で、甘酸っぱい想いを噛み締める以前に激しく動揺した。自覚した時の王泥喜は、成歩堂のお株を奪う位のビリジアンとなり。狭いアパートの部屋で、檻の中の熊よろしくグルグルグルグル目が回って転けるまで彷徨き続けたのである。
 知恵熱を出しつつ一晩かけて何とか己の気持ちに折り合いをつけ、『あんな人でも・・・好きだーっ!』と開き直る所まで進んだのは、若さか性格か。兎にも角にも前向きになり、告白はさておき―――現段階では即刻袖にされるのは分かりきっている―――一人の男として意識してもらう事から始めよう、なんて殊勝ながら難関な作戦を立てた。
 しかし、王泥喜の計画はすぐ頓挫した。
「・・・ううう、わざとじゃないだろうな」
 ツノをぷるぷるさせ。つるりと殻を剥いた卵のような額を真っ赤にし。現役時代の成歩堂以上に、汗をだらだら流す。
 穴が開く程見たいけれど、ずっと見ていたらドキドキがモヤモヤに、それからムラムラへ変わってしまいそうな予感がする。そんな光景が目の前にあって、王泥喜は事務所へ一歩足を踏み入れた格好のまま硬直していた。
 ぐうたら、という表現が当てはまる形でソファへ寝転がっているのはいつもの事として。暑かったのか寝相が悪かったのか、パーカーの前身頃が大きく開いて肩から腕が剥き出しになり。しかも中のタンクトップが捲れ、緩やかに上下する腹部が肋骨の辺りまで見えているのだ。
 そのようなアレ込みで成歩堂を好いており、しかも性春真っ盛りな年齢ときたら。ほんのチラリでも鼓動は16ビートに跳ね上がってしまう。
 最初の衝撃から10数秒後。吸い寄せられるように一歩、また一歩と近付いていく王泥喜。無意識に足音を潜めるのは癖でもあるが。この瞬間に下心なんてないと口にしたら、腕輪がきっちり締まった筈。
「成歩堂さん・・そんな格好じゃ風邪引きますよ」
 普通―――いや、普通より抑えた音量で呼び掛ける。返ってきたのは、微かな寝息。もう一歩、二歩、成歩堂のすぐ側まで王泥喜の足は進んでいった。
 想像よりも青白くて、艶めかしい肌。呼吸の度、肌の上を行きつ戻りつする布に的外れな羨望を抱く。感触は、柔らかいのだろうか。滑らかなのだろうか。乾いているのだろうか。指で、手の平で、唇で確かめてみたい。
 ゴクリ、と無意識に喉が鳴る。いつの間にか延びた指が、晒け出された首筋から鎖骨のラインを数p上でなぞる。
 少し位なら・・・。
 囁く声がある。本当の意味で触れられる時は、何年先か。けれど今なら、成歩堂には知られずにすむ。
 こちらの気持ちなど知らず、ぼたぼたと色気を垂れ流す成歩堂。素っ気ない態度ばかりなのに、時折、過剰なスキンシップを仕掛け、王泥喜の心臓へ多大な負担をかけてくる。ふとした瞬間、漂ってくるグレープの香り。おかげで、ヘンに意識してグレープジュースは飲めなくなった。
 野良猫みたいに気紛れで、容易には近付かせてくれない想い人。野良猫を撫でられるチャンスなんて、奇跡みたいなもの。
「―――成歩堂さん、起きて下さい! 時間ですよっ」
 しかし、王泥喜はギュッと拳を握り。声を張り上げて成歩堂を呼んだ。
「・・・むー・・・あと8時間・・」
「それじゃ寝すぎですっ! みぬきちゃんも帰ってきちゃいますって」
 身動いだ成歩堂がいかにも眠たげに返答し、再度寝そうになるのを今度は大音声で止める。成歩堂もこれには諦めざるを得なかったのか大きな欠伸をしながら起き上がり、王泥喜はそっと息を吐いて背筋を伸ばした。
「じゃあ、掃除から始めますね! あ、後で教えてほしい事があるんで宜しくお願いしますっ」
 己に気合いを入れるべくわざわざ宣言し、元気よく動き出す。




「・・・頑張るねぇ・・」
 未だうっすら赤い顔のまま、忙しく働き始めたの後ろ姿へ、小さな呟きが掛けられる。
 それが、仕事への姿勢に対してか。
 はたまた、理性で踏み止まった事に対してなのかは。
 狡い大人の、胸の内。