優秀だが変わり者でも有名な学者が、変死した。
容疑者は、第一発見者でもある同じ分野の学者。
以前からスタンスの違いでそりが合わない事は、学界の間では知れ渡っていたし。何より、彼等の研究は要約すると『物質溶解』に関するものだったのだ。
研究内容が嫌疑の原因になったのは―――被害者が、原形を留めない程『溶かされた』状態で発見されたから。死因も死亡時刻も杳として不明で、被害者をそんな状態にする事ができるのはもう一人の学者、という事で身柄を拘束された。
学者は無罪を主張し、どんな伝手かはそれこそ不明だが弁護の依頼を成歩堂にし。
依頼人が無罪だと分かってしまった成歩堂は『綾里に匹敵する不可思議現象だなぁ・・』とだらだら冷や汗を流しながらも、引き受けざるを得なかった。
そして、兎にも角にも調査は現場から、と訪れた先で担当検事になった御剣と出会す。
「速やかに立ち去りたまえ」
と、仕事モードの御剣はクールに素っ気なく居丈高に追っ払おうとしたが。その程度で引く成歩堂ではない。粘りに粘って、ちょっぴりお色気なんてものも混ぜて許可を求め。御剣の邪魔をしないと誓った上で、何とか現場へ入れてもらえた。
カツカツと靴音を高く鳴らして進む御剣の後を小走りについていきながら、つい成歩堂はツンデレな恋人にくすりと笑う。
嫌味だの文句だの規則だのを、口煩く言っていても。お供の糸鋸刑事を周辺の聞き込み捜査に赴かせたのは、少しの間でも仕事絡みでも、成歩堂と二人きりでいたいという御剣の本心から出た指示。
事故から二週間が経過している為、既に警備の警官も引き上げられ、ここには正真正銘二人しかいなかったりする。
「何がおかしいのだ?」
「いやいや、何でもありません」
思っていた程音量は小さくなかったらしく、ギロリと振り返られ、成歩堂は慌てて表情を引き締めた。
「あ、ここから秘密基地に降りるんだ?」
気を逸らそうと、資料で見た地下へ通じる扉を指差す。事前の知識がなければ、それが扉だと気付くには時間がかかったかもしれない。
「秘密基地、ではない」
律儀に訂正して扉を開け、先に階段を下りる。
現場は郊外の一軒家で。荒れ果ててはいたが広い庭がついており、しかも平屋造りだった。
一人暮らしだという家は、殺風景で生活感が殆どなかったのだけれど。『地下』に設えられた空間は、『上』とはまるきり趣が異なっていた。
近代的な実験室は、海外TVに出てきそうで。用途の分からない機器と薬品と実験道具がずらっと壁際に並び、何かのデータを打ち出した書類がそこここに散乱している。
「なぁ・・学者って、そんなに儲かるのか?」
成歩堂が呆然と『秘密基地』を見渡しながら質問する。成歩堂と違って既に何度か訪れている御剣は早速捜査を始めていたが、きちんと答えてやった。
「商業ベースにのる技術か、特許をとれたらな」
エコロジーが声高に叫ばれている昨今、クリーンでローコストな分解技術はどの業界でも注目されており、出資も受けやすい。被害者の研究は最先端をいき、潤沢な資金を得ていたのはこの部屋が物語っている。
「へぇ〜こういう機械は高いって、この間TVでやってたな」
数百万から数千万と推測できる機器類は、御剣に触るなと釘を刺されなくとも壊すのが恐くて近付きたくない。畑違いの領分に足を踏み入れた、と成歩堂は依頼者を救えるのか少々不安に駆られたが、ぼけっとしている暇がない事を思い出し調査に着手した。
実験室の中でも特に圧巻なのは、中央に位置する、ガラス張りの小部屋。モニターやら計測機器が天井近くに備え付けてあり、この部屋で何らかの実験を行っていたと鑑識の報告にあった。
鑑識が注目したのは部屋の床、ガラスに添ってアクリル板で樋のようなものが設置されており、その中に液体が湛えられていた点。当初はその液体が学者にかかり溶解の原因になったのではないかと考えられたが、塩酸や硫酸とは全く成分が違い、人体に影響を及ぼすものではなかった。
「よいしょ、っと」
小部屋へ通じるドアの下にも溝は作られていたので、蹴躓かないよう足をあげて成歩堂は中へ入った。
内部は、機器類を除けば奇妙な水路と、隅にかなり大きな水槽が一つきり。それから、床には人の形をしていない被害者の白いライン。スプラッタは苦手な成歩堂だが、現場写真に写っているのはバラバラな人の残骸というより未消化の肉の塊で、薄目になれば眺められた。
「ん?」
写真と現場を見比べて全体図の把握に努めていた成歩堂が、不意に疑問符を発した。
「御剣ー。この水槽、何で水を入れたんだ?」
ガラス越しでもスピーカーフォンのスイッチはonになっていた為、御剣は身体の向きを変えた。成歩堂の指す場所を見遣れば、御剣の記憶では確かにずっと空になっていた水槽に、今は並々と水が湛えられている。
「いや・・私は何も聞いていない。無闇に触るな」
御剣が一歩、小部屋の方へ足を踏み出し。
「何度も言わなくたって、分かるっての!」
成歩堂が水槽に向けていた指を御剣へと突き付けた、その時。
ぶわ、と水が盛り上がった。
「成歩堂っ! そこから離れたまえ!」
その光景を目撃したのは、御剣だけで。警告し、駆け出したが、手遅れだった。
「うわぁっっ!?」
盛大な悲鳴を上げて、成歩堂は、津波のごとく成歩堂より高く膨れ上がった飛沫に呑み込まれ。その後すぐ、唯一の出入り口であるガラス戸が激しい音と共に自動で閉まった。
鍵がかかっている筈はないのに、御剣が押しても開く気配はない。
「何だ、あれは・・?」
扉の内側を確認した御剣は、視界に映ったものが信じられず目を凝らした。扉と、扉に接するガラスへべったりと貼り付いて支えの形となって扉を開けさせないようにしている何かが『在る』。
半透明の、絶えずクネクネと波打っているソレは、部屋の中央に伸びており―――。いや、部屋の中央で成歩堂を包み込んでいる方が本体で、そこから伸びた末端が扉を押さえているのだろう。
「み、御剣っ! 何だよ、コレ!?」
スピーカーから、パニックに陥った成歩堂の叫びが響く。
「私にも分からん! 剥がせないのか!?」
御剣も常らしくなく、焦燥も露わに怒鳴った。勿論、扉を開けようと満身の力を込めながら。しかし普段から鍛えている御剣の腕力をもってしても、扉はビクともしなかった。
成歩堂は必死でヌメヌメヌルヌルと纏わりつくゲル状のものを掴んで押し退けようとしたが、グニャリ、と手の中で鳥肌が立つような感触で変形するだけで一向に離れてくれない。