「待ちたまえ、成歩堂!」
廊下は走るものではない!と普段の御剣なら咎めるだろうが、今の御剣はそれどころではなく、己こそが靴音も高く廊下を駆け抜けていた。擦れ違う者が皆ぎょっとして御剣を窺っていたが、それらを意識する余裕もない。
廊下のだいぶ先を歩いているとはいえ、御剣の声が聞こえた筈の蒼い背中は、けれど立ち止まりも振り返りもせず。ピクリと揺れたかと思うと、小走りへとスピードをあげてEVホールへ向かっていった。
真実への道を指し示す指が下降のボタンを押すと、10階で点灯していたランプが11階、12階へと上がってくるのが遠目から見え。
「成歩堂!」
御剣はもう一度叫び、殆ど全力疾走で残りの距離を詰めた。
EVの扉が開いて中へ入った成歩堂が俯いたまま『閉』のボタンを押し、次いで1階のボタンを押そうとしたのに、僅かながら先んじて。閉まりかけた扉へ滑り込んだ御剣は、B1の表示へ手を叩き付けた。
「み、御剣! お前、ココ、エレベーターだぞ! 乗って大丈夫なのか?!」
大きな音に驚いて顔を上げた成歩堂は、EV内に御剣の姿を見出して一層戦いた。今も尚、EVを苦手とする御剣が乗り込んでくるとは予想していなかったのだ。
「言われなくても、承知している! 平気な訳がないだろう!!」
既に顔色を無くしながらも、御剣は噛み付くように荒く返し。さっとEV内を一瞥すると、扉へと成歩堂を押し付け、自らの身体で隠すような体勢で―――成歩堂の唇を奪った。
「〜〜っ!?」
大きく波打った肢体を全身を使って抑え、ドン、と胸を叩いてきた手をきつく握り締め、くぐもった抗議の声を深く差し込んだ舌で封じる。
焦燥と周章で熱くなっていても、防犯カメラの死角を見出した冷静で明晰な部分は微かな振動をも察知し、さっと身体を離した。
そして幸いにも直通でB1に到着した事。開いた扉の向こう、駐車場に人気がない事を確認すると、唐突なキスで唖然としている成歩堂の手を引いて真っ赤なスポーツカーへと押し込めた。
車が首都高速の入り口に差し掛かった辺りで成歩堂は我に返ったが、制限速度を僅かに超えてかっ飛ぶ車から飛び降りる訳にもいかない。御剣は最初のPAに車を入れ、他の車から離れた場所へ止めた。
「成歩堂」
できるだけ穏やかに話し掛けたのだが、膝の上で拳を作った手は、力の入れすぎで皮膚が見る見る内に白くなっていった。
「傷がついてしまう。やめたまえ」
両手を包んで引き寄せ、一本一本指を解す。爪の跡がくっきり皮膚に残っていたが、食い破る前で止められたようだ。手の平を広げさせると、御剣はその真ん中に唇を落とした。
「私の話を、聞いてくれるか?」
もう一方にもキスし、成歩堂を見上げる。強張っていた面に、さっと朱が走った。
「言い訳なんて、しなくていいんだ。・・分かってるから」
反応してしまった顔を隠そうと俯き、成歩堂はなるべく落ち着いた声で話した。だが、御剣は奥に潜んだ哀しみを聞き取った。
「いや、分かっていない。・・本当に私が見合いすると思ったのか? 君が、いるのに」
「っ!」
反射的に御剣を振り仰いだ漆黒の黒曜石はうっすら潤んでいて、それが答えを雄弁に物語っていた。
成歩堂を招いたものの、所用で少し席を空けていた御剣が執務室へ戻ってくると。愛しい者はソファに座っていたのだが、どこか様子がおかしかった。
「成歩堂? 待たせて悪かった」
声をかけても、笑みではなく強張った表情をぎこちなく向ける。挙げ句、『悪いけど、今日は失礼するよ』とだけ言い残し、御剣が止める間もなく出て行ってしまったのだ。
当然成歩堂の振る舞いが理解できない御剣は、事情を知っているに違いない人物―――成歩堂と執務室にいた、御剣が戻ってくるまで成歩堂の応対を頼んでいた狩魔冥に問い質した。冥の簡潔で的確な説明を二言三言聞けば、成歩堂の行動の起因は明らかで、御剣はすぐさま後を追った。
こうして成歩堂を捕まえる事には成功したものの、これからが正念場だと緊張せざるを得ない。対応を少しでも誤ったら、最悪の結末になりかねない。
「あの話は、持ちかけられた当日に断っている。君が気にするような事は、何もないのだ」
上司や関係者から見合い話を持ち込まれるのは初めてではなく、しかし御剣は悉く即答していた。今回も同様に対処したのだが、相手方がしつこかったのは誤算であり―――騒動の原因になってしまった。
外堀から埋めようと考えた相手側は、御剣に影響力のある者に根回しをして、話を断るのは得策ではないとプレッシャーを盛大にかけ始めた。御剣に岡惚れした御令嬢のお強請りに溺愛している父親が逆らえなかったらしいが、御剣はブランド品ではない。
人権無視も甚だしいと、御剣は周囲から煩く突かれても全く取り合わなかった。
「でも、困った状況になってるんだろ?」
成歩堂だって、御剣が出世の為に見合いをするとは考えていない。逆に、成歩堂の為に見合いを断って、御剣の将来に悪影響が及ぶのを怖れている。
一部始終を教えてくれた冥も、柳眉を顰めて御剣の愚行を咎めていた。
『レイジもバカな意地を張ってるわよね。政略結婚なんて、私達の世界じゃ普通の事なのに』
『狩魔検事も、かい?』
冥までが意に添わぬ結婚をしなくてはならないのかと、基本フェミニストな成歩堂は思わず心配したのだが。
冥はどこか嬉しそうに、そして誇らしげに鞭を打ち鳴らした。
『あら、私は違うわよ。狩魔という後ろ盾があるから、どんなバカを選んでも影響はないわ』
という事は、裏を返せば狩魔の弟子ではあっても狩魔の一族ではない御剣は、外野に左右される立場なのだ。御剣の足枷になるのは本意でないと、真剣に考慮する必要性を胸の痛みと共に感じて居たたまれず退室したのである。
「出世できなくなったら、どうするんだよ」
「私の実力を見縊っているのかね?」
「そうじゃないけど・・・」
成歩堂は深呼吸すると、反らし続けていた視線を御剣にあてた。決意を抱いて。
「今なら、戻れるんじゃないか? 親友は無理でも、友人に」
想いが通じ。幾度か口付けを交わした二人だったが、それ以上は進んでいなかった。深みに嵌る前なら、そして深みに嵌る気がないのであれば、この際リセットした方がいいのかもしれないと思う。少なくとも、御剣にとっては。
「何を愚かな事を・・・」
即時に否定したが、御剣は躊躇いを見透かされていた事に動揺した。尤も、御剣が二の足を踏んでいた理由は成歩堂の想像とはかなり違う。成歩堂とキスする度、いや、話したり考えたりするだけでも、毎回御剣の欲望は堰を切ってしまいそうになっていたのだから。
それでもぎりぎりの所でセイフティがかかったのは、成歩堂が大切すぎて。
成歩堂が心底欲しいけれど、穢してよいのか、成歩堂に負担を強いる資格があるのか、果ては欲望のままに壊してしまったらどうしようかというジレンマが御剣の四肢を縛った。
だが、それこそが成歩堂を不安にさせ、御剣の想いを疑う要因になっていたようだ。おそらく御剣と成歩堂両方の気持ちを読み取っていたのだろう冥の言葉が、思い起こされる。
『レイジがいらないというのなら、私があのバカを貰おうかしら』
真正面からの挑戦は、一歩を踏み出せない御剣への手加減なしの激励。冥が、成歩堂へ好意以上のものを抱いている事は御剣も知っていたから、感謝の念は尽きない。
「成歩堂の気持ちは、委細承知した」
事務的な口調を取り繕うと、成歩堂が小さく息を呑む。またしても悪い方に誤解したようだが、今だけはわざとそのままにしておく。瞳の中の傷付いた色に、意地悪い程の悦びを覚えつつ。
「君も、仕事の途中なのだろう? 事務所まで、送ろう」
「ああ、頼むよ・・」
素直に頷く声にも、いつもの張りはない。のろのろと前へ向き直ろうとした成歩堂の顎を捕らえ、御剣はEVで仕掛けたものよりもっと激しくディープな接吻を与えた。
「〜っ!?」
驚愕して成歩堂が仰け反りかけるのを後頭部に差し入れた手でガッチリと拘束し、抵抗が完全に失われるまで執拗に貪り続けた。
考えれば、御剣の欲求を曝け出したディープキスをするのも、今日が初めて。これでは、御剣が本気かどうか成歩堂が不審に陥るのも致し方ない。
もう少しで、この愛しい存在を失いかねなかったのだ。
足元に突然空間ができたような恐怖と、確かに傍らにいる事の充足感が交互に御剣を揺るがす。それは地震に酷似していて、EVと同じ位地震を苦手としている御剣は、揺らぎをなくす為に言葉を繋げた。
「夕方に迎えに行くから、それまでに仕事を終わらせたまえ」
「え・・・?」
「今夜は、私の家に泊まってもらう」
「・・・・・・」
段々と御剣の示唆する所を理解し始めた成歩堂の唇を、獣が味見をするような仕草で舐めあげる。
「君がもう逃げ出せないように、二度と愚かな事を言わないよう、手段を講じる」
今度こそ、逃げ道を塞ぐ。御剣の腕の中という檻に、閉じ込めてしまうのだ。
「異議は全て却下する」
居丈高に締め括るも。御剣の整った口唇は、この上なく優しく掌に寄せられたので。
最後まで、成歩堂は『待った』を告げられなかった。