『あの男』に対する感情は。さながらコールタールで塗り固められた、深い空洞。
凝固した闇の塊を掘り崩しても、現れるのは果てなき漆黒。濃縮された憎悪がみっしりと詰まっている。
その暗がりに男を誘導し、生きたまま少しずつ泥濘の中へ沈めていく計画だった。
纏わりつく絶望という名の半固体に埋もれ、一呼吸の間隔が段々と開いていくのを、何も見えない何も聞こえない誰もいない場所で、遠く曖昧に感じればいい、と。
扉を開けると、センサーが作動して玄関とそれに続く廊下を煌々と照らした。
リーガルのウィングチップを脱ごうと身を屈めた霧人は、玄関に見窄らしいとしか評価できないサンダルを見付け、柳眉を潜めた。
「まだ居たのですか・・」
零れた溜息が霧人の心情を物語っており、廊下を行く足取りは常より幾分早かった。
カチャリ。
リビングへ入ると照明が隅々まで鮮明に浮き上がらせたが、睥睨した先に野良猫みたいな『あの男』―――成歩堂はいない。
けれどいくらズボラでも、裸足で外へ行ったり霧人の靴を無断借用する事はない筈。
歩を進めれば、成歩堂がソファでのうのうと寝こけていた。ソファの背もたれが死角を作り出し、ちょうどリビングの入り口からは見えなかったようだ。
「起きなさい、成歩堂。自堕落が過ぎますよ」
肩を叩かれた成歩堂は、ピク、と瞼を痙攣させ、それからむずがるように俯せになって微睡みに戻ろうとした。
「成歩堂」
「・・ん・・・」
もう一度呼ぶと、心地よい眠りを妨げたものを探すようにゆるゆる瞼が持ち上がり。
「ああ、牙琉センセか。―――お帰り」
照明が眩しいのかすぐ眇められた双眸は霧人を見付け、目覚めたばかりだからとは言い切れない気怠げな挨拶を投げ掛ける。
「貴方には、熟々呆れますね。一日中、惰眠を貪っていたのですか?」
さっと確認した限り、朝霧人が出ていった時と何ら変わらぬ光景がそこにはあり、成歩堂が彷徨いた痕跡は伺えない。
「えー、風呂に入ったしご飯も食べたし、洗濯もしたよ」
「主が不在だというのに、厚かましいにも程があります」
はぁ、といかにも呆れきった息を吐いたが。言葉と態度に比べて、そう不快を覚えていた訳ではなかった。どうしてか潔癖症で排他的な霧人も、成歩堂だけはテリトリーにいるのを見過ごせる。
存在感が薄い所為か。流され体質で己を主張しないから、煩わしさが少ないのか。
今の所霧人のマンションに招き入れるのは、成歩堂だけ。しかしその事実を霧人が教える訳がなく、咎める視線を送り続ける。
「僕も帰りたかったんだけどね。身体が言う事を聞いてくれなくて、気がついたらこんな時間だったよ」
よっこいせ、と怠惰極まりない掛け声で半身を起こした成歩堂は、確かに二割増しで気怠そうだった。
「大袈裟な。不規則な生活をしているから、たったあれしきで音を上げるんです」
明け方近くまで成歩堂を責め苛んでいた霧人は、しかしすっぱり切り捨てる。何せ、同等の睡眠時間の癖にきっちり業務をこなしてきたのだから。
「オンもオフも鬼畜なセンセは、言う事が奮ってるねぇ・・」
規則正しい生活と、霧人の化け物じみた体力とに因果関係はないとささやかに皮肉った成歩堂だったが、これは完全に失言で。
キラリ、と眼鏡のレンズが酷薄に光った。
「いい機会です。少し私が鍛えてあげましょう」
「いやいや、ポーカープレイヤーに筋肉は必要ないし・・」
霧人の鬼畜スイッチを押してしまった事に気付き、慌てて回避を試みるも手遅れ。いつの間にかまたソファに横たわっており、両手はネクタイで拘束されていた。
「心身共に研ぎ澄ましてこそ、良い勝負ができるのです」
「身も心もすり減るから! ボロボロだから! センセ、勘弁して・・っ」
茫洋とした成歩堂も、この時ばかりは危機を感じて後退る。が、すぐ後ろはソファの肘掛け。両手は霧人の胸板を押す位にしか使えないし、印象に反して霧人は脆弱ではなかったりする。
成歩堂の抵抗などないかのように身を寄せ、深く唇を重ねた。
「ん・・っ」
成歩堂は全身を強張らせ口唇もきつく引き結んでいるものの、霧人からしてみれば浅はかに過ぎる。
「・・ッ、ぁ!」
どこもかしこもだらしがなくて、欠片も防御し得ない服装なのだ。潜り込ませた指で胸の蕾を強めに摘むと、呆気なく花弁は解けて霧人の肉片を口腔の奥へと許してしまう。
成歩堂の身体を知り尽くしている霧人が接吻だけで余分な力を失わせるまで、数分とかからなかった。
「まだ夕食をとっていませんからね。そう酷くするつもりは、ありませんよ」
ちゃぷ、と淫猥な水音をたてて一呼吸分だけ離した顔を戻し、成歩堂の下唇を甘噛みしながら宥める。
息も残り少ない気力も奪われた成歩堂は、細めた瞳で睨め上げた。
「ドSの言う事は、信じられないって」
昨日だって少しだけと言っておいて完徹だったし、などとぶつぶつ恨み言を吐き出しているが。
成歩堂の服を剥ぎ取り、己も脱いでいく霧人に抗いはしない。
耳朶を摩る指に眉を潜めても、払いのけない。
故に霧人は際限なく成歩堂に触れ続け。飽く事なく、成歩堂を支配した。
霧人だけの閉鎖空間であった所へ成歩堂を入れ。
他人との馴れ合いを嫌悪していたのに、成歩堂の肌は吐き気を催さない。
小さく浮かぶ感情は、おそらく『安寧』。
霧人の計算に齟齬はなく。
成歩堂は最早抜け出せない所まで苦界に身を堕としている。後は末期の水をとって振り返る事なく、霧人が本来いるべき栄光の世界へ戻るだけだった。
それなのに。
辛うじて顔だけ出して命を繋いでいる成歩堂の唇へ。
我に返れば、口付け。
舌を滑り込ませると同時に、息を送っている。
ほんの少し力を込めれば容易く折れそうな首に腕を廻し、結果的に埋没の速度を遅らせている。
引き上げようとは、思わない。
決して。
だが―――静寂な底なし沼に脚を浸し。膝の上に成歩堂の頭を乗せ。
落ちもしない救われもしない全てが霞がかった状態で、ニット帽の下に隠れている、見た目よりずっと柔らかい髪を梳いていたい。
そんな囁きが、霧人の内側から聞こえる。