日常生活も、家族を含めた人との関係も、進学も、司法試験も。
人生設計は、霧人の思い描いた通り齟齬もなく、粛々と消化されていた。
しかし、たった一度だけ、霧人の思惑が外れた事がある。
霧人ではなく、成歩堂が選ばれた日。
霧人にとってあの出来事だけが、唯一の計算違いだった。
それと同じで。
弁護士バッチを奪い。
名声を奪い。
堅実な生活を奪い。
身体も奪い、雁字搦めに拘束しているのに。
たった一つだけ、成歩堂から奪えないものがある。
きっとそれは。
真実という名の――心。
「ああ、また貴方は。何度、髪を乾かしなさいと言ったら分かるのです?」
綺麗に掃除された床へ幾つもの水滴を零しながら現れた成歩堂に、霧人はきつく眉を吊り上げた。
端整な貌の睥睨はかなりの迫力だったが、
「牙琉センセのドリルみたいに長くないんだから、放っておいてもすぐ乾くよ」
へらり、と全然堪えていない笑顔で成歩堂は受け流す。猫を思わせる動作でベッドに乗り上げてきた成歩堂の髪から滴る雫に濡らされては敵わないと、読んでいた本に栞を挟んでベッドボードへ置いた。
本は難を逃れたが。シーツや上掛けにはポツポツと丸い跡ができていく。
「傍迷惑です」
きっぱりと言い捨てて、肩に掛かっているタオルを取り上げ繊細な手付きで髪を拭い始める霧人。霧人に促されるまま、成歩堂はちょうど霧人の膝の上辺りへ仰向けの状態で横たわった。
自分でやるのは面倒臭いが、他人にやってもらう分には構わないらしい物ぐさの典型は、わざと、神経質な霧人が我慢しかねて世話をみるのを当て込んでいる節がある。
今も、器用な手先に髪を梳かれて、喉を鳴らさんばかりの悦に入った表情を見せている。
その、無防備に晒された白い喉。
成歩堂は人体の急所を晒す事も、触られる事にも、無頓着だ。もしここで霧人が気管を押さえたとしても、目すら開けないだろう。
強く指を押し込めば、一秒で命を奪う事も可能なのに。
霧人はそんな事をしない、と信頼している訳ではない。
どちらかというと、『やりたいなら、どうぞ?』だ。
おそらく、親友の仮面を脱ぎ捨てる瞬間を、誘っている。残り僅かな持ち物を、餌にして。
しかしそんな罠には、掛からない。隙など、見せない。
「――できましたよ」
粗方水分を拭い取った黒髪は、早くも少し跳ね始めているが意外に柔らかい感触を伝え、目的は完了しているのに霧人の指は髪を梳き続ける。
成歩堂も、好きなようにさせて霧人の膝から降りようとしない。もう片方の指が、身体のラインを辿り始めても。屈み込んだ霧人が、唇を啄んでも。唇にのった気持ちよさそうな笑みは、なくならない。
油断を誘っているのか。
甘んじて受け入れているのか。
それともただ――嫌ではないのか。
最近は、その境界線が曖昧で混沌としている。
それと同様に、時折。
『親友』ごっこの、『ごっこ』がぼやける事がある。
望ましくない徴候だとは、思う。
けれど、更に望ましくない事に。
不快、ではないのだ。
たった一つのものを、もし得られるとして。
代償に、それ以外の全てを捨てなくてはならないとしたら。
霧人は、どちらを選ぶのか。
成歩堂と『親友』付き合いをする前なら、何の迷いもなく、現状維持を選択する。
しかし今は――揺らめく気持ちを、霧人は自覚している。
一体、どちらを選びたいのだろう?